ポマンダー -恥ずかし魔女は、なぜ少年の腕を折ったか-
この森の奥、境の向こうに入ってはいけないよ。
そこには魔女が住んでいて、森は魔女の領域だ。
森の恵に手をつけに入った悪漢は翌日バラバラになって散らばっていたし。
身分違いの恋の末、踏み入ったふたりは影も形もなくなった。
魔女に挑んだ騎士団も。
欲に目が眩んだ豪商も。
乱暴の限りを尽くした兵団すらも。
みんなあっという間に返り討ち。
だから、境の向こうに入ってはいけないよ。
境の外なら、魔女はやってこないから。
昔々、とある村に醜い少年がおりました。
皮膚病にやられたジュクジュクの肌はアザや傷に埋もれ、骨折を放置した右腕は、歪に曲がっておりました。
醜い少年は、朦朧とした意識を必死に繋ぎ止め、力なく爪で地面を掻いていました。
早くここを出ないといけない。
じゃなきゃ、僕は殺されてしまう。
醜い少年の視界には、粗雑な柵が見えていました。
それは魔女の領域の境。
ほんの少し前、少年は森に運ばれ、境の内側に放り込まれたところでした。
少年は孤児でした。
方々を彷徨い、盗みを繰り返し生きてきました。
少し大きくなり、人に雇ってもらえるようになってからは、この村に居つき真面目に働いておりました。
孤児というだけで罵られ、いやがられ、賃金を渋られ、住む家もなく疎まれておりましたが、それでも意に沿わぬ悪事を働くよりはマシでした。
暴力が嫌いでした。
叩くのも叩かれるのも嫌でした。
それがないなら、少しくらいの不遇は我慢できました。
彼の母親は、それが理由で亡くなったからです。
けれど少年は腕を怪我し、皮膚病まで患って働けなくなり、また盗みを繰り返すようになりました。
そうしなければ生きていけなかったのですが、もちろん許されることではありません。
結果、捕まった少年は、ボロボロになるまで折檻され、森の境の中に投げ込まれたのです。
その年、村は不作で、皆が苛立っておりました。
飢えるほどではなくとも豊かとは言い難く、本来なら目溢しできるイタズラにも雷を落とすほどでした。
だから生きるために盗む病の子供を、許す寛容さも持てません。
気が済むまで殴ったり蹴ったりした後に、村人たちは少年を担ぎ、森に入りました。
ある意味、彼の罪は都合の良いものであったのです。
境の向こう側には常に果物が実っていました。
村の皆はそれを、魔女の力だと教えられてきました。
いつも皆が思っていました。
あれが手に入れば、どれほど良いだろうと。
季節を問わず実りがある森が手に入れば、冬も飢えないということです。
夏の果実を冬に収穫できたなら、きっと高値がつくでしょう。
けれど魔女の領域には踏み込むなと、先祖の、先祖の、そのまた先祖から、ずっとずっと語り継がれてきたのです。
しかし村人には誰一人として、魔女を見た者はおりません。
もしかしたら、魔女なんていないんじゃないか?
その疑いの気持ちが醜い少年に向けられた結果、彼は罪の対価として、境の中に投げ込まれたのでした。
万が一魔女が居たとしても、被害を被るのは醜い孤児だけ。
村人たちは、どこを痛めずともすむのです。
どれくらい経ったか……。
意識を失っていた少年は、体を弄られる感触で目を覚ましました。
うっすら瞳を開いてみると、真っ黒な塊が体の横を行ったり来たりしています。
驚いた少年は、けれどグッと唇を引き結びました。
黒いものは、少年の体に緑のドロドロしたものを塗りたくり、服の上に赤いインクで何かを書き込んでいるようでした。
全身が痛かったはずの少年でしたが、痛いことなんて忘れるほどに驚いていました。
森の奥、境の向こうは魔女の領域。
今、自分以外に誰かいるとしたら、それは魔女に他なりません。
魔女は随分と小柄でしたが、黒い外套が全身をすっぽり覆っていて、どんな姿か分かりませんでした。
はみ出しているのは、首元に揺れる透かし彫りが見事な半球の首飾りだけ。
似ている気がしました。
かつては少年も持っていて、空腹に耐えかね売ってしまった母の形見に。
けれどそんなことより、今は逃げる隙を見つけなくてはなりません。
殺されたくなかった少年は、眠ったふりを続けました。
けれど――。
作業を終えた魔女は、しゃがれ声で醜い少年に言ったのです。
「醜き子、よく聞きな。本来入っちゃならんこの地に踏み入ったお前は殺されて当然の身。
しかしここに来たのはお前の意思じゃないようだ」
少年の狸寝入りはとっくにバレていました。
森には沢山、大人の靴跡がありましたが、少年の小さな足跡は見当たりません。
魔女はそれを目さどく見つけていたのです。
「とはいえ、入っちゃならん場所に踏み込んだことには変わりはない。
今回は見逃してやるが、そのかわり他の連中には、お前自身で境に踏み込んではならんことを知らしめておやり」
そう言った魔女は、置いてあった杖を拾い、振り上げました。
ゴツゴツした大きな杖は、醜い少年の小枝のように折れ曲がった細腕を、あっけないほど簡単にグシャリと潰してしまいました。
壮絶な痛みに少年は叫び、そのうち意識を失いました。
闇に沈んでいきながら、少年は自分の人生を呪い、嘆き、恨み。
全てを手放す直前、啜り泣く女の子の謝罪を聞いたような気がしましたが――。
でもそれは、気のせいだったのかもしれません。
次に、硬いものが脚をグイグイと押す感触で意識を取り戻した時――。
なぜか少年を境の中に放り込んだ村人たちに囲まれていました。
恐怖のあまり飛び起きた少年に、村人らも驚き飛び退りました。
何が起こったのか分からず、少年は村人たちを、村人たちは少年を見たまま、しばらく固まっていました。
誰も何も言わず……何を言うべきかも分からずにいたのです。
先に我に返った少年は、村人たちに受けた酷い仕打ちを思い出し、身を守るものはないかと両手で体を探ってみました。
すると何かがポロリと落っこち、それはポロポロボロボロ続きます。
灰色のカピカピした土の塊のようなものを全身から振り落とした少年を見た村人は、また悲鳴を上げました。
「どうなってるんだ⁉︎」
言葉の意味が分からず。少年は自分の頬に触れてみました。
するとつるりとした軟い肌の感触。
全身を触り、見下ろし、確認してみたら、少年の肌は全て綺麗な肌色で、皮膚病はすっかり癒え、それどころかアザや怪我すら消え失せて、魔女に潰されたはずの腕に至っては、曲がってしまう前の状態に戻っていたのです!
「お、お前……どうやって帰ってきた⁉︎」
混乱した村人が叫びましたが、醜くなくなった少年は、それに答えることができません。
村人たちの周りには、見慣れた村の風景が広がっていますが、少年の記憶の最後は森の中。なぜ自分が村に戻っているのか分からなかったのです。
村人たちも驚いている様子だし、彼らが少年を連れ帰ってきたわけではないのでしょう。
そのうち恐怖に耐えかねた村人の一人が、少年に向かって石を投げました。
するとボロ切れのような服が光って石は跳ね返り、投げた当人に当たりました。
つられた別の村人が、鍬を振り上げました。
けれど鍬はやはり弾かれ、村人は吹き飛ばされて、腰や肩を強かに打ち付けました。
「魔女だ!」
村人はついに叫びました。
こんなことができるのは、きっと魔女しかいない。
村人たちは恐れをなして逃げ帰り、少年はポツンとその場に残されました。
それからというもの。
曲がっていた腕も、皮膚病も癒えてしまった少年は、また真面目に働き始めました。
村人たちは怖がって手を出してきませんし、魔女の仕返しが怖くて、イヤイヤでも仕事を与えてくれました。
働いて得たお金で少年は食い繋ぎ、少しずつ大きくなっていきました。
その合間、少しでもお金が余れば、果物やパンを買って森に向かいます。
魔女の領域を隔てた境の柵。
少年はそこに、果物やパンを置いて帰りました。
何日かしてまた来ると、果物やパンはなくなっていたり、獣に齧られていたりしました。
ある日は奮発して、瓶詰めのジャムを買い、置いていきました。
しかし数日後、ジャムは動物にも食べられず、そのまま残されていました。
もしかして、魔女はまだ気づいていないのかな?
そう思った少年は、おーいと呼びかけてみたりもしたのですが、返事はありません。
それでも彼は諦めず、森に通い続けました。
少年は確かめたかったのです。
潰された腕を撫で、ごめんねと啜り泣いていた声。
まるで幼い少女のようにあどけなかった声は、いったい誰のものだったのか。
なにより――。
なぜ病と怪我を治してくれたんだろう?
その答えが欲しかったのです。
村の言い伝えでは、魔女は恐ろしい存在とされていました。
でも少年にとってあの出来事は、恐ろしいという言葉では表現できないものでした。
なにより、魔女との出会いがなければ、少年の今はきっと無かったのです。
食べ物じゃダメなのかな。
いつもひもじかった少年にとって、最も価値あるものは食べ物でした。
でも禁忌の向こうには実りがたくさんあるのです。
魔女が欲しいものじゃないと、ダメなのかもしれないな。
だけど少年には、魔女の欲しいものなど見当もつきません。
少年は日々働きながら、やっぱり森に向かいました。
何度も森に行き帰ってくる少年を、村人たちは気味悪く思っていました。
けれど魔女を怒らせるわけにもいかず、したいようにやらせるしかありません。
少年は真面目に働きましたから、追い出す口実もなかったのです。
そうして何年もの時が過ぎ、少年が青年になった頃――。
村は戦争に巻き込まれました。
戦場から逃げてきた逃亡兵らに襲われた村は、一夜で炎に包まれてしまい、略奪から逃れようと多くの村人が逃げ出しましたが、青年は最後まで村に残っていました。
彼は、魔女がいる森を離れたくありませんでした。
ここを離れれば、魔女との約束が失われてしまう気がしたのです。
そうして逃げ場を失った青年は、最後に森へと踏み入りました。
知らない相手に殺されるくらいなら、魔女に殺されたい。
ボロ切れに包まれたあるものだけを握り、青年は走りました。
兵隊たちは、笑いながら追いかけ、何度も青年を傷つけました。
抵抗すらせず逃げ続けた青年は、やっとのことで禁忌に踏み込みましたが、そこでとうとう力尽きてしまいました。
足をもつらせ倒れた青年の右腕を、兵隊が踏みつけました。
青年がずっと何かを握りしめていたことに気づいていたのです。
だから踏みつけ固定した腕に斧を振り下ろし、腕ごと手の中のものを奪いました。
青年は痛みよりも、魔女が治してくれた腕をまた奪われてしまったことがショックでした。
けれど――。
青年が握っていたのは、赤黒いインクで汚れたボロ切れに包んだ、半球型の木片。
ただの木切れだったのです。
兵隊たちは怒りました。
必死に守るから、よほど高価なものなのだろうと期待していたのです。
その怒りの矛先は、当然のように青年に向かいました。
降り注ぐ暴力の中、朦朧とする意識を必死で繋ぎ止め、青年は叫びました。
「返してくれ! 大事なものなんだ!」
彼自身が彫ってきたものでした。
青年に金や銀は高価すぎたため、香木を削り出すのが精一杯。
何度も失敗し、つくり直し、磨いてきたそれは――。
記憶の中にあった古い飾り。半球型のお守りの、下半分を模したもの。
かつては彼も、それを持っていました。
古い古い時代から伝えられた、災いを祓うお守りだと、母に教えられていたのです。
魔女の首にかかっていたものも、きっと同じものだと思ったのです。
「それは魔女のものなんだ!」
怒りに斧を振りかぶる兵隊を最後に見た青年は、その向こう、闇に染まった森の中に、黒い外套に身を包んだ白く小さな少女を見た気がしたけれど、振り下ろされた斧の衝撃で、意識を失いました。
そうしてどうなったかというと。
かつて青年だった老人は「どうしてそれが理由なの?」と聞き返され、苦笑しました。
酒を交わす孫は、明日村を去り都会に向かうのですが、老人は一緒に行こうと再三言われ、断り続けておりました。
いつの間にこんな話をすることになったのかな? と、老人は首を傾げ、少し考え――。
「おそらく夢を見ていたんだろうさ。腕は斬られてなかったが、飾りはなくなっていた」
意識を取り戻した時。
踏み越えたはずの境は視線の先にあり、青年はまだ禁を侵していませんでした。
「おおかた、兵士に奪われ持ち去られてしまったんだろうが、命が残ったのは幸運だった」
青年を追いかけていた兵たちは、後日森端の崖下に転落し、死亡しているのが見つかりました。
事故として処理されたものの、きっと境を越えてしまったんだと村人たちは囁き合い、それっきり。
略奪の限りを尽くした兵隊は村を去り、大きな被害を被った村も数年後に復興を遂げ……勤勉に働いた青年は村に受け入れられて家庭を持ちました。
それから何十年と経って、村は随分と寂れ、住む人も少なくなり、老人ばかりが残るのみ。
「境の向こうには入っちゃならん。それを教えるもんがいないと、困るからな」
兵隊に何度も斬りつけられた傷は、今も老人の身体中に刻まれていましたが、右腕だけは綺麗に傷ひとつありません。
だから誰もいなくなるまで、老人はここに残ると決めていました。
命のある限り、最後まで。
それが彼が魔女と交わした、ただひとつの約束なのです。
ポマンダー
魔除けや疫病予防の為のお守り。かつては悪臭に病が潜むと考えられており、良い香りを纏うための装飾品でした。
現在はクリスマスの飾り、フルーツポマンダーに名残があります。