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パッキング

作者: 小林

 荷物を一つキャリーケースに詰めると、その荷物の重量だけ心も重くなった。モバイルバッテリーはモバイルバッテリーの重さ、コンタクトレンズはコンタクトレンズの重さ。三月の静岡って寒いのかな。ユニクロのフリースの重さ。チェックリストを作るべきだったと気づいた時にはキャリーケースの容量の五割は埋まっていた。思い浮かんだ物からランダムに詰めていったため、二日目のシャツとスカートの間にヘアアイロンが挟まっていたり、スキンケア用のポーチに酔い止め薬が無造作に入れられていたりする。鈍くなった頭でスマホをキャリーケースのポケットにしまい、それは手提げバッグに入れるべきだと三十秒後に気付いて取り出した。手に取ったスマホの指紋認証が意図せず反応して、光ったロック画面の時計で今が午前三時五十二分だと知る。時間を確認しないことで騙していた眠気を無理やりかき消すかのように、乱雑に投げ入れた靴下の重さ、ウェットティッシュの重さ、るるぶの重さ。鉄のように重い心がいかりとなって、気分は深い海の底まで沈んでいる。このパッキングは、永遠に終わらないんじゃないかとさえ思う。

 かろうじて残っている理性で、忘れたら取り返しのつかない物を考えた。財布、スマホ、チケット……ホテルのチケットがリビングの机に置かれたままだ。ホテルなんてインターネット予約でしか取ったことがないから、今回の紙のチケットのことを忘れかけていた。自分の部屋を出て、リビングに置いてあったそれを手に取った。左上に「バリアングループ」と印字されたチケットには、ヤシの木の傍でデッキチェアに座って飲み物を啜る女性の写真が印刷されていた。


 ホテルバリアンは東京を中心に千葉・神奈川・大阪と展開しているリゾート風ホテルだ。室内は観葉植物や天蓋付きのベッドなど、バリのリゾートを模したインテリアで揃えられ、天然木を使用した壁には部屋ごとに異なる南国の花の写真が飾られている。部屋に窓が無い点と、ベッドサイドテーブルに避妊具が置いてある点を除けば、本場のリゾートホテルと見間違うほどだ。

 ホテルバリアンには百円の会計ごとに一ポイント貯まるポイントカードがあり、ポイントを貯めると有料のアメニティグッズや系列店での割引クーポンなどと交換できる。今私の右手にある『伊豆リゾートホテル【アンダの森】ペア宿泊チケット』はそれを三千八百ポイント、つまりホテルを三十八万円分利用すると引き換えられるチケットだ。結婚して五年経つ夫が先週、「これ行かない?」と無表情で渡してきた。

 問題なのは、私はホテルバリアンを利用したことがなく、このチケットは夫が他の女と三十八万円分のセックスをして貯めたポイントで手に入れたもので、そのことに私は気付いていて、私が気付いていることに夫も気付いていて、私はそれでもなお伊豆旅行に行こうとしていることだ。

 私たちの夫婦はおそらく、もう修正が効かない程に壊れている。


 新聞配達のバイクの音でハッと顔を上げ、掛け時計を確認した。激しい焦りで正しく働かない頭と、手足が泥状に溶けたかと思うほど重い身体だけが、午前四時四十分のリビングに立っている。

 ——後から振り返れば、忘れたら取り返しのつかない物を鞄に入れた時点ですぐにベッドに入り、足りない物は現地で買えばいいと気付くべきだった。しかし同時に、それに気付かないから私は私であり、その日その家で旅行当日の朝にパッキングをしているわけだ、とも思う。

 ホテルのホームページに載っていた美味しそうな夕食を思い出し、連想ゲームの要領で思い浮かべた口内炎の薬を薬棚から拾いに行く。ついでに絆創膏、鼻炎薬、ロキソニン、綿棒、下痢止め、目薬、湿布を両手に抱え、キャリーケースの中にそのままバラバラと落とした。私と夫のいずれの持病が発症しても対応できると思った。キャリーケースの空きはまだ三割も残っている。自分の部屋を見渡し、何かないかと探す。そんなはずないのに、この広すぎるキャリーケースの空間を埋めきることがパッキングの終着点だと思い込んでいた。二日間のコーディネートには間違いなく似合わないキャスケット帽、もはや予備の予備の予備に当たる五つ目靴下を詰め、冬用の厚手のコートを絨毯みたいに丸めて押し込む。再びリビングに戻り、目に付いた冷蔵庫を開けた。食べるラー油の蓋を念の為強く閉め、ビニール袋に入れる。使わないから取っておいた納豆のからしや刺身の醤油を乱雑に掴んで入れる。ハム、マーガリン、発泡酒、玉ねぎ、ブルーベリージャム、チューブの豆板醤、昨日のカブのサラダの残り、冷凍餃子も一緒に袋に入れ、急いで自分の部屋に向かいキャリーケースにぶちまける。肩で呼吸をしている。視界の端に存在する時計を直視できずにいる。冷蔵庫の扉が開きっぱなしだと気付く。目が霞む。目の霞みを意識した途端に、全てを押しつぶす眠気が訪れる。必死に眠気を堪えて扉を閉じようとしたところ、昨日作ったばかりの、麦茶を湛えたピッチャーが目に入り、直接口をつけて喉に流し込む。麦茶の冷たさでわずかにこじ開けた脳の容量は、余計なことを考えてしまう。こういう、麦茶を常に切らさず冷蔵庫に用意するみたいなことだけを評価してくれれば、私への愛情は途切れなかったのに、とか。旅行の前日なのに誤って作った大量のカレーや、割れてそのままにしてあるシンクの隅のグラスや、洗濯物とゴミでぐちゃぐちゃのリビングを見ない振りしてくれれば、ホテルのポイントカードが貯まることはなかったのに、とか。どこで間違えたんだろう、とか。どうして変われないんだろう、とか。どうやったらやりなおせるんだろう、とか。麦茶は直ぐに変換されて頬を流れた。多分、水分が足りていなかっただけで、一つ目の荷物をキャリーケースに入れた時から私は泣いていた。

 それぞれの手に、持てるだけの物を持って、キャリーケースの元まで辿り着いた。ようやく眠れることにわずかな喜びを持って、右手の麦茶と左手のカレーを注ぎ込み、空になったピッチャーと鍋を無理矢理詰め込むと、キャリーケースは埃一つ入らないほどに満たされた。そのまま床に倒れ込み、あと少しで意識を手放せるというとき、後ろから夫の声が聞こえた。

「起きて。時間無いよ」

出発の時間が来た。


 右、左、右、左。駅のホームへ続く長い階段を不確かな足取りで降りていく。階段に引き摺られているキャリーケースは傷を増やしながら依然私に付きまとってくる。キャリーケースが出すガンッ、ガンッという音に振り向く人もいれば、無視をする人もいる。もはや、改札を通した切符が本当に静岡方面へ向かうためのものなのかも定かではない。右、左、右、左。交際を迫られたときの返事、住む家、プロポーズの返事、仕事、子供、病気、旅行。夫と出会ってから選んできた数々の選択肢が、半透明のフィルターを何百枚も重ねたように光を遮って、頭の中を暗くする。周りの音は水の中にいるみたいに小さく、呼吸は浅く、視界は極めて狭い。右、左、右、右。二回続けて出してしまった右足は階段をとらえず、支えを失った上体は地面と激しくぶつかった。手を離れたキャリーケースは落下の衝撃で留め具が外れ、中身をこぼしながら転げ落ちていく。今朝、最後に詰めた夫の両腕をぼとんぼとんと階段の踊り場に落としたあと、勢いを増したキャリーケースは、夫の右脚、夫の胴、と続けざまに中身を軽くして、駅のホームに着地すると同時に残っていた左脚と頭を投げ捨てた。夫を包んでいたサランラップを通過した快速列車の風が吹き飛ばし、キャリーケースはすっからかんの身体でホームに横たわっている。

 その姿を見た私は、自分の心から荷物がすっかり降ろされていることに気付いた。足を踏み外した時にぶつけた顎がひりひりと痛い。痛いが、それ以外の全てが美しく働いている。周りの音が一粒一粒よく聞こえる。目の前の物も遠くの景色もよく視える。今深く息を吸うことができているのは、海底から浮かんできた心にしがみつき、水面から顔を出しているからだ、と思った。

 ホームから、電車を待っていた女性の悲鳴が聞こえる。


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