現実と真実
白い箱を赤い光で照らせば、赤い箱に見える。真実を知らずに、現実を直視する者にとって、白い箱は赤い箱なのだ。
同様に、五感で認識している現実も、真実とは異なるだろう。五感では認識できない、非物理要素も存在すると考えるのが妥当である。だが真実を認識する術は無い。
真実を知る試みとして、人は様々な空想をしてきた。神仏や魔法、別次元といった物事である。一部のSFには実現しているものもあるが、物理法則の域を出ておらず、五感の範疇に過ぎない。
認識できない真実を認識してどうするというのか。恩恵はいくらでも考えられるが、最も重要なのは存在意義を知ることである。何故存在するのかを知らねば、進むべき道は見えないだろう。
人に認識できた真実も僅かに存在する。例えば「我思う、故に我在り」である。残念ながら「我思う、故に我在り」でわかるのは「我の存在」までである。
現実から目を逸らすなという言葉があるが、果たして現実を見ることは正しいのだろうか。それは真実から目を逸らすことになるかもしれない。誤った道を進み続けることになるかもしれないのだ。
人は破滅への道を進んでいるように見える。人が文明を発展させてきたのは、より多く確実に滅ぼせる力を生み出すためだったのかもしれない。過酷な現実から解放されるために。
真実を知らねば、破滅への道が誤りだとは言えないのだ。人の存在意義が、世界を破滅させることだとすれば正しいことなのだ。だから今後も道を変えることは無いだろう。