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Z計画実現す!

作者: 山口多聞

当作品は歴史上の出来事ををベースとしたフィクションです。実在した人物・団体などとは一切関係ありません。

「ようこそハイドリヒ提督。神戸市ならびに全市民は、提督以下ドイツ帝国東洋艦隊の来訪を心より歓迎いたします!」


「こちらこそ、神戸市並びに市民の皆様の歓迎に、乗員一同心より感謝いたします」


 ドイツ帝国海軍東洋艦隊司令長官ラインハルト・ハイドリヒ海軍中将は、桟橋にて出迎えた神戸市長に、多少訛りはあるものの、充分通用する日本語で返し、出迎えた多くの日本人を驚かせた。


 彼の背後の海上には、戦艦「ビスマルク」を旗艦とし「テルピッツ」重巡「アドミラル・グラーフ・シュペー」「アドミラル・シェーア」「リュッツォウ」空母「ブレーメン」を中心としたドイツ帝国東洋艦隊が停泊している。


 この同盟国の大艦隊の来航とその雄姿に、神戸市はお祭騒ぎになっていた。


 戦前行われた観艦式並みの熱狂が、港を越えて町全体に広がっていた。


 ハイドリヒは市長の案内のもと、歓迎レセプションが行われる市庁舎に向かうため、用意された公用車へと乗り込んだ。車のボンネットの左右には日の丸とドイツの国旗である黒白赤の三色がはためいている。


「また日本に来られるとは。それも、自分の艦隊を指揮して・・・」


 時に1945年5月9日。ハイドリヒは今日までの自分とドイツ海軍、そしてドイツと言う国家の辿った日々を思い返した。


 時を遡ること6年前の1939年9月、ドイツは歴史の転換点を迎えた。


 その頃、ドイツで政権を握っていたのはアドルフ・ヒトラー率いるナチス党であった。1933年に政権を合法的に奪うと、ヒトラーはあっと言う間に自らを絶対的な支配者とした一党独裁体制を敷いた。


 その結果、ドイツは前大戦の屈辱的なヴェルサイユ条約を破棄し、再軍備へと動き始めた。


 1935年にはヴェルサイユ条約で保有が禁止された空軍の存在を公にし、徴兵制を復活させ、陸海軍も大幅な軍拡へと舵を切った。


 そしてその武力を駆使しつつ、ヒトラーはドイツ周辺のドイツ系住民が住む地域や、オーストリアを次々に併合していった。


 こうした動きに周辺諸国は、内政面のゴタゴタや再度の戦争勃発を恐れて積極的な手を打ち出せず、ドイツがズデーテン地方を巡ってチェコスロヴァキアを恫喝した際には、あろうことか当事者のチェコ抜きでドイツへの併合を認めてしまうという、信義的にも法的にもあり得ない事態を引き起こした。


 もちろん、こうした動きはヒトラーを調子づかせるに十分なものであった。


 そして1939年に入ると、ドイツはポーランド回廊の通行権とダンツィヒの割譲を巡って隣国ポーランドに圧力を掛け始めた。


 ポーランドがこれを拒否すると、ヒトラーはいよいよ対ポーランド侵攻を本格的に検討し、その準備に入った。


 戦後の研究者の多くが、もしこのポーランド侵攻がなされていれば、成功した可能性は大としている。この時期のドイツ軍であっても、装備の更新が滞っていた旧式装備のポーランド軍に、圧倒的な戦力差があったからだ。


 ところが1939年8月初旬、イギリスならびにフランスの新聞紙上にドイツのポーランド侵攻計画がトップ記事として掲載されるという、ショッキングな出来事が起きた。それも、単に侵攻の兆候があるなどという生易しいものではなく、動員戦力や作戦プランの一部までもが載るという、ドイツ側からするとあり得ないレベルの情報漏洩であった。


 後に判明するが、これは国防軍情報部のカナリス提督と、彼に賛同した軍上層部や外交関係者による意図的なリークであった。


 どうして彼らがそんなことをしたのかと言えば、それは第一次大戦の轍を踏まない、すなわち第二次大戦を起こさないためであった。

 

 当時のポーランドは、英仏と同盟を結んでおり、そして英仏はポーランドにドイツが侵攻した場合、ポーランドに対して積極的な行動を起こすことを公言していた。


 ポーランド1国相手なら、ドイツ単独でも充分勝利できるし、秘密議定書を結んで同じく侵攻するソ連の手も借りれば確実に勝てる。


 しかし、英仏を相手にすることとなれば話は別だった。確かにドイツ軍は軍備の増強に邁進してきたが、一部を除けばとても英仏両国を凌駕しているものはなかった。特にカナリスの古巣の海軍は、ようやく増強に弾みをつけたばかりのところで、強力なロイヤル・ネイビー有する英国や、大西洋と地中海に有力な艦隊を有するフランスにとても対抗できるものではなかった。


 また外交的にも見ても、ソ連と共にポーランドに攻め立てれば、諸外国からドイツが共産主義者と組んだ卑怯者の烙印を押されかねず、この点も反共主義の軍人や外交官、さらには国内の資本家たちの危惧するところであった。


 こうなると、最初は強気であったさすがのヒトラーも、弱気になる。特に軍部からの反対が予想以上に大きくなったのは、無視できない問題であった。


 独裁体制を確立させたとはいえ、国防軍の武力が自分に向けられれば、政権はいとも簡単に崩壊してしまう。


 そして、最終的にヒトラーの心をへし折ったのは、英国とフランスが連名で、ドイツが万が一ポーランドへの軍事侵攻を図る兆候を見せれば、北海を封鎖するという声明を出したことであった。


 これは先の大戦で、ドイツを干上がらせ海上封鎖の悪夢を再びということであった。


 さらにドイツは、大海艦隊を保有していた前大戦よりも遥かに脆弱な海軍しか持ち合わせていなかった。


 最大の艦艇は主砲口径28cmの巡洋戦艦「シャルンホルスト」級が2隻だけであり、38cm主砲を有する「ビスマルク」級と空母「グラーフ・ツェッペリン」は建造中であった。


 前大戦で英国を苦しめたUボートも、総数そのものが60隻にも満たない状況であった。


 屈辱的なヴェルサイユ条約を破棄し、軍備増強に邁進してきたものの、海軍の整備は陸空軍よりも遥かに困難なことなのであった。


 これでは英仏海軍に正面から戦うことなど、出来るはずもない。


 結局ヒトラーは国内の圧力と英仏からの実力混じりの警告に折れ「我が国はポーランドとの領土交渉を武力に訴える意図はない!」と発表するしかなかった。


 こうして、ドイツとポーランドとの戦争は回避され、ある者は胸をなでおろし、ある者は祝杯を挙げた。


 その祝杯を挙げた者の中に、ドイツ海軍総司令官のレーダー元帥の姿があった。


 本来はヒトラーに忠誠を誓う彼が祝杯を挙げた理由、それは戦争が遠のいたことで、彼の海軍が進める大増強計画のZ計画が、中止にならずに済んだからであった。


 Z計画は現在建造中の「ビスマルク」級や空母「グラーフ・ツェッペリン」級を含む、戦艦8隻、巡洋戦艦5隻、その他多数の装甲艦や巡洋艦等を整備するものであった。


 特に戦艦は「ビスマルク」級以後はより大口径の40cm砲を搭載したH級であった。竣工すれば英国が建造中の「キング・ジョージ・5世」級を凌駕する性能を有していた。


 これだけの大艦隊を整備するのであるから、もちろんそれ相応の時間と資材と費用、さらに人員が必要となる。


 先にも述べたが海軍の増強、つまり軍艦の建造は、他の兵器とは比較にならないほどの、困難な大事業なのだ。


 だから、もし大戦が始まってしまえば、そんな資材と時間の浪費をするような艦艇の建造、特に時間も資材も莫大に必要な大型戦艦や空母などの建造は、真っ先に止められてしまうだろう。前大戦時と違い、特に軍備の整備は陸空軍偏重となり、海軍は小所帯になっている現在なら猶更だ。


 しかし、幸いなことに英仏との戦争は回避された。しかも都合のいいことに、今回ドイツが英仏に外交的に屈服する要因の一つとなったのは、両国の強力な艦隊に手も足も出ないという現実だった。


 逆を言えば、ドイツが英仏艦隊を圧倒とは言わないまでも、ある程度対抗できる艦隊を揃えさえすれば、問題とならなかった筈だ。この点を上手くヒトラーに吹きこめば、Z計画の整備速度をさらに早められるかもしれない。


 潜水艦隊トップのデーニッツ提督あたりは文句を言いそうだが、海軍の主流は未だに皇帝の海軍以来の水上艦隊派である。その力を迎合すれば、潜水艦隊も抑え込めるだろう。


 ポーランドとの開戦が回避され、喜んだ人間の中でも、彼は格別だったかもしれない。そして彼の予測は当たることになる。


 翌日、早速レーダーはヒトラーに官邸へと呼び出された。


「提督、英仏の圧力を弾き返し、なおかつ国民の士気高揚と我がドイツの底力を内外に見せつけるためにも、海軍の増強、特に強力な水上艦隊の整備は急務である。陸空軍、それに親衛隊は余が説き伏せよう。必要な予算と資材と人員も回そう。だから提督、君は1945年の春までに、少なくともイギリス人やフランス人の度肝を抜く艦隊を整備したまえ!」


「畏まりました総統。必ずや、かつての皇帝海軍(カイザーリヒ・マリーネ)や英国の王室海軍(ロイヤルネイビー)をも凌駕する艦隊を実現して見せます。ハイル・ヒトラー!」


 この時、レーダー提督が内心でガッツポーズをとったのは言うまでもない。


 こうして、陸軍のグデ―リアン将軍や空軍のゲーリング元帥、親衛隊長官ヒムラ―、さらに身内ではあるが同じ海軍である潜水艦隊司令のデーニッツ少将の顰蹙を買いつつも、海軍のZ計画の整備は急加速した。


 この時点(1939年9月時点)で建造中なのは「ビスマルク」級2隻に加え、それを凌駕する40cm主砲搭載のH級戦艦1隻(「フリードリヒ・デア・グロッセ)が起工されたばかりであったが、拡大予算でさらに1隻のH級の建造が決まり、10月には開始された。

 

 そして翌年以降も、Z計画に沿う形で戦艦や巡洋戦艦、巡洋艦や駆逐艦が続々と起工され、ドイツの造船業界は活況を呈することとなった。


 もちろん、それらの新鋭艦に乗り込む乗員の養成も急がれた。これまで少なかった海軍へ割り当てられる徴兵や志願兵の枠が拡張され、第一次大戦時の経験者まで引っ張り出して、その教育が急がれた。


 かつての大海艦隊の栄光再びということもあり、教官役の老兵たちの教育にも熱が入る。


 一方、海軍に色々と分捕られてしまった陸空軍はと言えば「数が揃えられないなら、質で勝負!総統の関心を少しでも買うのだ!」とばかりに、攻守ともに優れたV号戦車「パンター」に動く要塞とも言えるⅥ号戦車「ティーガー」とか、世界初の実用ジェット戦闘機He280,万能戦闘機Fw190、各種の誘導爆弾など、数を揃えるのは諦めて、その代り性能的に突き抜けた兵器の開発に邁進することとなる。


 こうした他国の同種兵器よりも一歩先を行く兵器群は、実際のところ戦争をするためには数を揃えることができないものも多かったが、内外にインパクトを与えるプロパガンダ材料としては最高の素材であり、周辺諸国を驚愕させるには充分であった。(ついでにゲッベルス率いる宣伝省も喜ばせた)


 こうして、1943年には兵力こそ周辺諸国に及ばないが、各種の超兵器(と内外で思われていた)を有するドイツは、戦争することもないままに、大いに恐れられることとなった。


 さて、そんな時代に生きるラインハルト・ハイドリヒは、海軍の主流から外れた士官で、1939年のポーランド危機を遠く日本のドイツ大使館で聞いていた。


 1904年生まれの彼は、海軍士官学校に入校して海軍士官としてのキャリアをスタートさせ、その後順調にエリートコースを歩んでいたが、1931年に女性問題(スキャンダル)を起こしてしまった。しかも、それがレーダー提督の縁者の女性だったから堪らない。


 この件でハイドリヒは軍法会議に掛けられたが、幸いなことに、海軍軍人としての勤務態度は悪くなかったことに加え、語学に堪能であるなど能力も高い彼を擁護する声も大きく、なんとか懲戒免職は免れ、軽い処分で済まされた。


 とは言え、海軍の高官と問題を起こした彼を本国に残しておくのもバツが悪いので、ほとぼりが醒めるまでということで、その後しばらく海外大使館付き武官を続けることとなった。


 1度は本国に戻り、艦艇勤務もしたが、それ以外はずっと海外大使館付きで、そして1938年の3月からは日本大使館での勤務をしていた。

 

 この時代の欧米人らしく、当初ハイドリヒは日本を含めてアジアに対しては、良い感情を抱いてはいなかった。日本海軍が日清、日露の戦争に勝利し、現在は世界第三位の海軍を有すると聞いても、所詮はイギリスのコピー海軍程度にしか考えていなかった。


 しかし、大使館付き武官として横須賀や呉、佐世保の海軍基地や艦艇を見学した後は、さすがにその認識を改めずにはいられなかった。


 確かに細かい部分では欧米に劣るものの、戦艦から潜水艦までの各種艦艇を揃え、また規律正しく練度の高い乗員たちの姿を見れば、欧米の単なるコピー海軍などとは言えない。


 特にハイドリヒを感動させたのだが、航空母艦の存在であった。


 ハイドリヒにとって幸運だったのは、彼が赴任したのが、ちょうど日本海軍の航空母艦と艦載機のレベルが、使えるところにまで達した時期であったことだ。


 航空母艦は新鋭の「蒼龍」「飛龍」が竣工し、艦載機もまださすがに零戦こそなかったが、近代的な96式艦戦に99艦爆や97艦攻が配備を開始しており、パイロットの練度も申し分ないものとなっていた。


 都合のいいことに、ハイドリヒは個人飛行ライセンスを持っており、航空機と艦艇をミックスした航空母艦の運用に、パイロットとしても並々ならぬ関心を覚えた。同乗して発着艦を体験し、さらに交流を深めたパイロットや整備兵を抱き込んで、自ら操縦桿を握って発着艦の操縦体験までしたくらいだ。


 また私生活においては、そうした仕事の合間に、この当時既に外国人向けの観光地として整備の始まっていた日光や箱根などに足を延ばし、家族サービスもしたりした。


 こうして約2年間、日本と日本海軍を満喫したハイドリヒであったが、ポーランド危機の半年後の1940年3月に帰国を命じられ、ドイツに戻った。


 ドイツに戻ったハイドリヒを待っていたのは、大佐の階級と空母「グラーフ・ツェッペリン」艦長の辞令、そして渋い顔をするレーダー提督であった。


「貴様に我が国最初の空母を託すのは癪だが、空母に関して貴様以上に知見を持ち合わせてる者はおらん。せいぜい、励むことだ」


 レーダー提督の嫌味はともかく、自分がドイツ初の空母を任されたことに、ハイドリヒはもちろん嬉しくない筈がなかった。


 そして彼と言う、与えられた仕事には、クソ真面目に最大限の能力を注ぎ込み発揮する自分にドイツ海軍が空母を任せたのは、歴史的に見て幸運なことであった。


 というのも、ドイツ海軍は確かに空母の整備を開始してはいたが、その運用に関しては明確な方針を打ち出せてはいなかった。とりあえず、英国とフランスが持っているから、対抗として建造した感が強かった。


 艦載機にしても「空を飛ぶものは、全部俺のもの」と言う発想のゲーリング空軍大臣に艦載機の開発や生産、パイロットの配置まで抑えられていた。


 これに対して、ハイドリヒはまず空母の運用戦術を明確化した。現状ドイツ海軍が保有する空母は「グラーフ・ツェッペリン」と建造中の「ペーター・シュトラッサー」だけで、それに加えて練習艦も兼ねる数隻の商船改造空母の計画があるだけだった。


 一方、対する英国は数としては倍以上の艦を有していたが、基本単艦で各艦隊に分散配置されていた。


 なおフランスも「ベアルン」を保有していたが、戦艦改造の低速空母なので、ハイドリヒも含めてドイツ海軍関係者は敵として数えていなかった。またソ連に至っては、ようやく軽空母の「レーニン」級の建造を開始したところで、それさえも同国の拙い造船技術のために遅れ気味であった。


 つまり、主敵はイギリスのみ。


 このためハイドリヒは、英海軍にに対抗して自軍の空母は、戦艦と艦隊を組む時は戦艦の護衛を、そして空母を機動的な遊撃戦力として使う場合は、空母と数隻の高速艦艇のみで小規模戦隊を構成し、通商破壊もしくは迂回戦術などでの奇襲を主とする方針を固めた。


 ハイドリヒとしては、日本時代に学んだ空母の集中運用に興味がないわけでもなかったが、自軍の空母が2隻だけで、また英国も分散運用している状況では、研究課題とするしかなかった。


 次に艦載機は、空軍に声を掛ける前になんと同盟関係にある日本海軍に、機体と教官役パイロットの提供を打診した。これは、公式には内々の打診、つまりお願い程度のものであったが、すぐに空軍の耳に入り、ゲーリングを激怒させた。


 しかし、ハイドリヒは素知らぬ顔で。


「空母の運用に関しては日本海軍の方が先行しており、専用の機種をいくつも開発しています。彼らから購入すれば、一からの開発や空軍機からの転用設計の手間が省けるというもの。それにパイロットも海軍で一から養成するのです。つまり、空軍の貴重な機材やパイロットを提供させないということなのですから、感謝されこそすれ、批判されるのは心外ですな」


 すなわち「空軍には迷惑掛けないから、文句言うな」というわけだ。


 とはいえ「空を飛ぶものは、全部俺のもの」なゲーリング、その程度では引き下がらない。


「仮にそうだとしてもだ、飛行機は全て俺・・・ではなく空軍の管轄であるべきだ。勝手にそのようなことされては困る!」


「ほほう、ということは空母の搭載機とパイロットを提供していただけるということですかな?」


「え、いや・・・それとこれとは話が別だ」


「総統は我が海軍に、Z計画の早期完成を厳命されています。すなわち、計画に入ってる空母とその搭載機も、一刻も早く戦える状態にしろと言われているのです。私はそのために、あらゆる手を尽くしているのですが、国家元帥はそれに異を唱えると?」


「うぐ!」


 総統の名前と総統命令を出されると、さすがのゲーリングも分が悪い。


「わかった。海軍が独自に空母航空団を作るというなら作るがいい。ただし、我が空軍は現在色々と切羽詰まっているのでな、協力はできんぞ!」


「結構です。それで充分ですよ」


 こうして、ハイドリヒは実質的に空軍からの黙認もとりつけ、まずは研究・練習機材扱いで日本から空母用航空機を取り寄せた。


 取り寄せた航空機(96式艦上戦闘機、99式艦上爆撃機、97式艦上攻撃機)は、ドイツ人パイロットたちからは「狭い」「工作に雑な部分が多い」「防御力皆無」と酷評される部分があったが「操縦し易い」「空母への発着艦が容易」という部分だけは、ドイツ製のどの機体(Me109、Fw190,Ju87等)よりも優れていた。


 これら日本製の機体(後に零式艦上戦闘機、二式艦上偵察機も追加)を参考に、He116艦上戦闘機やAr211艦上攻撃機が正式採用され、1943年中には配備を完了した。


 そして、海軍に予算をはじめとする様々なものを集中投下したおかげで、Z計画の主力艦艇の7割方が1944年春までに完成し、その威容をウィルヘルムス・ハーフェン沖に浮かべ、ヒトラー総統はじめ多くのドイツ国民の前に披露した。


 これで英仏に対して媚びる必要もなくなる。と、ヒトラーは絶頂であったが、その彼はほどなくこの世からの強制退場を強いられることとなった。


 さて、この海軍の水上艦艇増強は、プラスの面は確かにあった。1945年の春までにZ計画艦艇のうちで、戦艦と空母と言った主力艦艇は軒並み出そろい、その戦力は第一次大戦後の軍事予算削減や軍縮条約により戦力強化にもたつく英仏海軍を、少なくとも質だけ見れば圧倒できるものであった。


 もっとも、当初計画にあったO級巡洋戦艦やP級装甲艦などは新たに46cm砲を搭載するH41級に資材や予算を振り向けた関係上、同数の改「シャルンホルスト」級や改「プリンツ・オイゲン」級に振り替えられていた。この措置は設計費用や建造期間の短縮を狙い、質の一部を量(とにかく当初計画の艦艇数と一致させる)にシフトした結果であった。


 さすがに、ヒトラー肝いりとはいえ、当初の計画通りの艦を短期間で全て一から設計して揃えるのは無理があった。


 それでも膨大な資源と人員が必要な造船業の活発化は、以前にも増してドイツ国内の軍需産業を活況にし、多くの労働者に職を提供した。何せ労働者不足から、一部の産業では外国人労働者を雇い入れたくらいである。


 そして見た目で言えば勇壮な巨大艦艇の姿は、対外的な宣伝効果や国民に対する士気高揚にはこの上ないものであり、ポーランド危機で下落した支持率も復調傾向となった。


 しかし、こうした海軍への偏愛は人員や予算、資材を召し上げられた陸空軍や親衛隊と言った身内からさえも批判を受けるものであった。


 そんなおり、1944年8月に事件は起きた。キール軍港に視察に向かったヒトラーの乗る総統専用列車が突如として脱線爆発し、ヒトラーは死亡した。


 ヒトラーの死に伴い、政権は彼によって後継者に指名されていたゲーリング国家元帥へと引き継がれ・・・なかった。厳密には、一時的にはゲーリングは臨時代理総統に就任した状態にはあった。


 ところが、彼は代理総統就任後のラジオ放送で余計なことを口走ってしまった。その言葉を要約すると「この度の総統の死は、海軍が関わっているに違いない」と。


 ゲーリングとしては、ヒトラーの死に海軍が関わっているという確実な証拠を得ていたわけではなかったが、政権を掌握、さらに言えば警察力とマスコミを掌握さえすれば何とかなると考えた上での、フライングとも言うべき発言であった。


 しかしこの列車の脱線は、実を言うと暗殺でも何でもなく、線路の保線状態が走行直前に振った豪雨によって悪化していたことによる、言わば偶然による事故でしかなかった。脱線後に爆発したのは、警備車両に搭載されていた弾薬への誘爆であった。


 そしてゲーリングの誤算は、彼が考えている以上に海軍は人気があり、そして自身の人気がないことであった。


 犯人呼ばわりされた海軍が直ちに反論したのは予想の範囲内であったが、なんと政権ナンバー3のヘス副総統や親衛隊長官のヒムラ―や宣伝大臣のゲッベルス、さらに陸軍軍人からもゲーリング批判が巻き起こり、加えて国民の間からも反ゲーリング感情が噴出した。


 これはどういうことかと言うと、一つは第三帝国政府内での権力争いであった。特にヒムラ―はヒトラーの死が暗殺と断定されれば、親衛隊の責任を問われかねず、またゲッベルスは国家としてよい宣伝材料の海軍をいきなり罵倒されることは、これまでの宣伝戦略を否定されたようなものであった。


 また陸軍は確かに海軍憎しであったが、一方で「空をとぶ(ry」のゲーリングが政権を握れば、海軍が空軍に代わるだけだど危惧した。


 これに加えて国民の人気がなかったのは、カリスマ持ちで禁欲的なヒトラーに対して、第一次大戦の英雄とはいえモルヒネ中毒の後遺症で太り、なおかつ貴族趣味的なゲーリングに対しての印象が悪かったせいだ。


 そしてヒトラーの死が単なる鉄道事故と判明すると「ゲーリングは自身の権力と海軍批判のために偉大な総統の死を利用した!」と批判を受けることとなった。


 結局これが致命打となり、ゲーリングは臨時代理総統を辞任した。


 こうなると、次に来るのはヘスかヒムラ―かゲッベルスか・・・となったが、ヒトラーのカリスマ性に頼っていたヘスとゲッベルスはヒトラーが死ぬと、一気に政治への熱情を喪い、総統への就任を固辞した。さらにヒムラ―は秘密警察の長官であったこと、そして彼自身進めようとした親衛隊の武装化が海軍に予算を吸い取られた結果進まず、有力な武装集団を配下に持てなかったことが、影響力の拡大を阻んだ。


 そもそもヒトラーと言うカリスマを欠いた時点で、彼に忠実なナチス党は半ば機能不全に陥り、政権担当力を喪ってしまった。もちろん、内部での権力抗争が激しくなった点も、国民の顰蹙を買った。


 こうなると、武力を持つ軍部への期待が膨らむのは当然で、結局ベッグ陸軍大将を臨時首相とする暫定政権に移行した。


 そしてその後も色々とゴタゴタがあったものの、最終的にオランダに亡命していたホーエンツォレルン朝の皇族を担ぎ出して帝政を復活させた上で、立憲君主制とすることに落ち着いた。時に1944年10月のことであった。


 一方この間に、ドイツを取り巻く国際環境は再び悪化していた。原因は中東情勢である。


 中東はオスマン帝国崩壊後長くイギリス(一部フランス)の支配が続いていたが、パレスチナにおいては以前から始まっていたシオニズム運動や、ナチス政権下におけるユダヤ人迫害などでユダヤ人の流入が激増したことや、イランやイラクなどでは反英運動が激しくなるなどして、不安定な状況になりつつあった。


 この最中、ポーランド危機以降力を持て余し気味だったドイツ陸空軍や陸空軍向け兵器を扱う軍需企業は、中東各国に軍事顧問団の派遣や武器の輸出を行うなどしていた。もちろん、これに同地域を支配する英仏などが反発を強める。


 また折から石油資源の獲得を目論んで進出したアメリカや、中央アジア方面から影響力拡大を窺うソ連の思惑もからみ、複雑怪奇な状況を生みつつあった。


 この中東問題が爆発したのは、1945年2月のことであった。スエズ運河通行中のソ連船籍の貨物船が突如として爆発し、沈没。スエズ運河が一時的に通行不能となる。


 これに対して、英ソが爆発はエジプト独立を画策する過激派による犯行で、そしてそれを支援しているとしたドイツを厳しく糾弾した。


 もちろん、ドイツ側はこれに猛反発。事故に無関係と声明を発表したが、英ソは畳みかけるようにドイツによる中東各国への武器輸出の停止と、軍事顧問の総引揚を勧告し、従わなければ強固な措置に出ると仄めかした。


 ドイツ国内では、世論が一気に対英ソ開戦に傾いた。6年前のポーランド危機と違い、明らかにドイツ側の権益が侵されている(とドイツ国民は本気で信じていた)ことに加え、5年以上掛けて整備した強力な艦隊の存在が、拍車を掛けた。


 一方で、仏蘭波など戦争に巻き込まれかねない国々は続々と中立を宣言した。また米国は同盟関係にある英を、日本は同盟を締結しているドイツを支持した。


 そして1945年3月、北海において独英両国の駆逐艦戦隊による小競り合いがエスカレートし、双方の主力艦隊が真正面から激突するに至る。世にいう第二次ユトラント沖海戦である。


 この海戦の結果は衝撃的で、英国本国艦隊は最新の「ライオン」「キングジョージ5世」級を含む戦艦ならびに巡洋戦艦8隻と空母「イラストリアス」を撃沈され、大してドイツ艦隊は大破艦こそ出たが、沈没は重巡1隻のみという完勝であった。


 原因は色々言われるが、ドイツ側が46cm砲搭載戦艦をはじめとして英国側に砲口径で圧倒しているという、第一次大戦とは真逆の状況にあったことであった。


 この第二次ユトラント沖海戦と前後し、軍事同盟に基づき日本とイタリアが対英宣戦布告した。


 一方ソ連もドイツに宣戦布告し、さらにアメリカは宣戦布告こそしなかったが、英国への武器供与を開始するなど、なし崩し的に戦火は拡大した。ただし、フランスやオランダなどの中立は維持されたために、世界大戦への発展はなかった。


 戦争勃発後ドイツは英国に対しては短期決戦を目指した。具体的には潜水艦(数は少ないが最新の21型)による英本土周辺航路の抑え込み、A20型弾道ロケットによる英本土の港湾や飛行場攻撃。そして、大規模な水上艦隊による英遠洋航路の攻撃であった。


 英国経済を支えるのは、本国と遠く植民地を繋ぐ航路だ。それを破壊すれば英国経済に打撃を与えられるし、さらにここ最近は中東のみならず印度でも反英運動は起きている。それらを煽って、英国を講和のテーブルに置ければなおよろし。


 ユトラント沖海戦で主力艦の多くが傷ついた独海軍であったが、戦間期建造艦やZ計画初期の艦艇は比較的後方にいたおかげで軽微な損害に留まっていた。


 これらの艦艇で東洋艦隊が急遽編成され、南大西洋ならびにインド洋方面へと出撃することが決定した。


 この東洋艦隊の指揮官となったのが、中将となっていたハイドリヒであった。


 1945年4月、ウィルヘルムス・ハーフェンならびにキールから出港した東洋艦隊は、主力艦隊残存艦の護衛を受けつつ北海を通過し、デンマーク海峡経由の北回り航路で大西洋に進出し、一気に南下を行った。


 これを止めるべき英本国艦隊は壊滅状態にあり、空母艦載機による攻撃は独空母搭載戦闘機に阻まれ失敗した。またジブラルタル駐留のH部隊は伊太利亜海軍の抑えのために動かせず、結局独東洋艦隊の南下阻止は失敗した。


 独東洋艦隊は途中英連邦やソ連船籍の船舶を見つけると拿捕、または撃沈しつつ進んだ。補給は商船に擬装し各地に散らばった補給船から受けた。


 当初の予定ではインド洋での通商破壊を行った後は、本国へ帰還する手筈であった。


 しかし、同盟国日本の連合艦隊が英東洋艦隊を短期間のうちに全滅させ、シンガポールを占領。さらに香港も中国軍の手に落ち、実質的に脅威がなくなったことから、そのままスンダ海峡経由で南シナ海、東シナ海と北上し、日本への親善航海を行う計画に改められた。


 そして本国を出港して約1カ月、独東洋艦隊は全艦揃って日本の神戸港へと入った。


 ハイドリヒ以下の独東洋艦隊の乗員たちは、神戸市を挙げての歓待を受けた。


 だが、ハイドリヒはそうした艦隊を笑顔で受けつつ、内心では次のことを考えていた。


(片道は無事に到着できた。だが、ここからが真の戦いだ。果たして次はインド洋か、はたまたオーストラリアか・・・)


 彼らに本国から次なる出撃命令が下されたのは、1週間後のことであった。


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― 新着の感想 ―
[一言] SDに入らず、そしてRSHA長官になる事がなかったこの世界のハイドリヒですが、そうすると優秀な部下であったヴァルター・シェレンベルクと出会う事もなかったわけですね。 それはちょっと勿体無いか…
[良い点] 海軍軍人のままのラインハルト・ハイドリヒが空母の専門家になるのが面白かったです。 彼は親衛隊高官として陰謀に関わるイメージが私には強いので、海軍軍人になると比較的爽やかなイメージになるの…
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