料理のチカラ
時間は刻一刻と過ぎていた。
だが、一向にビストロンの作るムニエルは満足なものにならなかった。
「俺は美味いと思うんだけどなぁ……」
試食をした光司が呟く。
確かに、彼の目の前に置かれた舌平目のムニエルは、普通のものよりも美味しく感じた。 だが、瑞樹は首を縦に振らない。
「ったく、光司の舌っていい加減なのよねぇ」
バカにするような目で咲子が言う。
とはいえ、彼女に出されたムニエルはどんどん無くなっていく。
「調理の手順にも、味付けにも問題はなし。あるのはただ一点、ビストロンが機械って事だけか……」
悠也が冷静に言った。
それを聞いたビストロンと瑞樹が、黙ってしまう。
「あんたは何でそうデリカシーが無いの」
咲子が悠也の頭を小突く。
「痛ぇな! いちいち殴るなよ」
頭をさすりながら悠也が文句を言う。
「でも、最初の頃より、変な味はしなくなってきたと思うけどな」
光司は舌平目を口に運びながら言った。
「うん……身を牛乳に浸して、臭みを取ったの。それで大分、金気は消えたと思うんだけど……」
「じゃあ、何が問題なの?」
咲子が聞いた。
「指先が……魚の身を傷つけてしまうんだ。特に舌平目の身は痛みやすい……。普通に裁いていただけでは、人間が作るよりも早く鮮度が落ちてしまう」
ビストロンが深刻な面もちで言う。それを見て、瑞樹も同じように俯く。
「それじゃ、鮮度がある内に焼いちゃえば?」
「それだと牛乳に浸している時間が取れないから、魚の生臭さが目立っちゃうんだよ。確かそうだよな?」
悠也の言葉に、瑞樹は黙って頷いた。
それを見た光司が驚き、改めて悠也に感心する。
「流石に瑞樹の弟だな」
誉められて喜ぶかと思ったが、悠也は顔を顰めた。
「そりゃ毎日まいにち同じもん食わされてりゃな」
咲子の拳が、また悠也を小突く。
「何だよ、今度は!」
「っとに、可愛げが無いんだから」
「どっちがだ、乱暴女!」
「何ですってぇ!」
バタバタと喧嘩し始めるのを横目に、瑞樹が溜息をつく。
「こんなんじゃ、あの女の人には勝てない……どうすればいいんだろう……」
テーブルに手を突いて、瑞樹は項垂れた。
「瑞樹……すまない…………」
ビストロンは言った。
瑞樹はテーブルを見つめながら、打開策を考えていた。
*
時間は午前三時。
瑞樹はゆっくりと寝室を出た。
そっとテレビのあるリビングを覗くと、ビストロンは座ったままの姿勢で壁に保たれていた。
「寝てる……よね……」
瑞樹にとっては不思議なことだが、ビストロンは睡眠をとるのだ。
光司が言うには、コンピューター内のプログラムを整理するための時間なのだという。デフラグ……といったか。
瑞樹は音を発てないように扉を閉めた。
厨房の電気を半分だけ点けて、瑞樹はエプロンを着ける。
手に持ったノートをまな板の隣に置いて、冷蔵庫から野菜を取り出す。
魚の鮮度が落ちても、ソースで味を助ければ……。
それが瑞樹の考えだった。
ビストロンには言えなかった。きっと心配してしまうからだ。だから早々と寝室に向かい、レシピを考え、ビストロンが眠った後に試す。
そんな生活を続けていたのだ。
香草で匂いを消してみよう……。
バターの量を増やしてみたら……。
フルーツが使えるかもしれない…。
挑戦は、また明け方まで続いた。
そろそろ、ビストロンが起きてくる頃だ。
瑞樹は少し仮眠を取ろうと、寝室に向かった。
*
終業を告げる鐘の音が聞こえると、瑞樹は急いで帰り支度を済ませた。
咲子と光司が手伝ってくれるのは、もう少し後になってからだ。
それぞれ、一度自宅に戻ってから来ることになる。
今日のメニューは、スーパーの店長に伝えてある。それに必要な材料は、昼間の内にビストロンが受け取っているはずで、下ごしらえも始めているだろう。
瑞樹は下駄箱の前で、靴を取り出す。そして上履きを拾い上げる為にしゃがみ込む。
「……ソースでもダメなら、どうしたら……」
ゆっくりと立ち上がり、校舎を出る。
その時だ。
「瑞樹……さん?」
校門を出たところで、瑞樹は呼び止められた。
瑞樹が振り向くと、門柱に寄りかかった女の姿があった。
「あ、あなたは……」
瑞樹は驚いて一歩後ずさる。
目の前で微笑みを浮かべるのは、例の……米軍の女だった。
「調子の方はどう?」
相変わらずの笑顔だった。瑞樹は答えなかった。
「怖がらなくても良いわよ。瑞樹さん」
「え、ええと……こ、怖がっている訳じゃ……」
そう言ってから、瑞樹は目を逸らした。
この間と同じ、得体の知れない感情が沸き上がるのを感じる。
「警戒しないで……って言っても無駄ね。この間、少し意地悪しちゃったものね」
クスクスと、口元を手で隠しながら女は笑った。
その屈託のない笑顔は、どこか少女の様で、瑞樹の中にある警戒心が、少し解けていく。
「少しだけ付き合ってくれないかしら? この近くで美味しいお店見つけたの」
思わず着いてきてしまったけど……。
向かい合わせに座ってから、やっと緊張して、瑞樹は辺りを見回す。
連れてこられた店は繁華街の隅にある甘味所だった。
漠然ともっとお洒落な喫茶店あたりかと思っていたので、少し意外だった。
女はお茶を持ってきた店員に二人分の蜜豆を頼むと、改めて笑顔を向ける。
「今更かもしれないけど、自己紹介しとくわね」
そう言って女はポケットから名詞を取りだした。
「私はエグジステンス・マテリアル・アーツの工学部開発主任、美朱セレン。よろしくね」
「え、エグ……マテ……?」
「そっち見た方が早いわ」
受け取った名詞には三文字でEMAと書かれていた。
「……あなた、アメリカの軍隊の人じゃ……」
「家の会社が軍に技術提供してるの。ま、簡単に言えば米軍はウチのスポンサーって訳」
言っている途中で、注文の品が運ばれて来た。女……セレンは一度、そちらに視線を向ける。
「ここの蜜豆、凄く美味しいのよ」
セレンは早速、黒豆と寒天に蜜を絡めている。
瑞樹はまだ少し、緊張し、手が出せないで居た。
そんな事はお構いなしに、蜜豆を幸せそうに食べるセレン。瑞樹は益々戸惑うばかりだ。
「遠慮しないでいいわよ」
「え、ええと……それより用件は……」
瑞樹は聞いてからしまったと思った。
彼女が自分に用事があるとすれば、それはビストロンの事に決まっている。ところが、セレンは相変わらず幸せそうに蜜豆を食べていた。
「遠慮しないで食べなさいよ。大丈夫。それ食べたからって、いきなりビストロン返せ何て言わないわ」
一番心配していた事を言われ、瑞樹はドキリとする。
それにしても……。
本当にこの間会った人物と同じなのだろうか?
前に見た笑顔は、どこか裏のありそうな……はっきり言えば嘘っぽい印象があった。
だが、今日の彼女の笑顔は、どこか子供のようで、それでいて自然だった。
「本当は、あなたに興味があったのよ。ビストロンが選んだのは、どんなシェフなのかってね」
「わ、私は、そんな……」
「ビストロンが足りないもの……。それをあなたが持っているとすれば、私達の研究にも大いに役立つわ」
セレンは急に、この間の大人の眼差しになって言った。
「研究……?」
「本当は極秘なんだけど、あなたには教えといてあげる。ビストロンが生まれた理由をね……」
セレンはいつのまにか殻になった器を避けながら、真っ直ぐに瑞樹を見つめた。
「ビストロンが生まれた理由……?」
「私達EMAの開発スタッフは米軍からの依頼で、全く新しい兵器を開発するために集められたの」
瑞樹は、いつか光司が言った言葉の中に、対ゲリラ戦用の兵器としてヒューマシン……つまりロボットが生まれたと、たしかそう言っていた。
「自分で動き、考え、一つ一つ確実に任務を遂行する。そんな人工知能を持った人型機械。それが私達の作り出したヒューマシン」
「それじゃ、やっぱりビストロンはあなたが……?」
瑞樹の疑問に、セレンは首を横に振った。
「あれを作ったのは、また別の男なの。兵器として作られたヒューマシンを、もっと別な目的で使えないか。そうして、彼が目を付けたのが料理だった……」
「なんで、料理なんですか……?」
兵器の次が料理。発想としては随分とかけ離れていると思う。
「ヒューマシンを作る基本コンセプトが、より人間らしく。その為には人間と同じように……見る、聞く、触れる……必要なのは感覚だった。いわゆる五感って奴ね」
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、そして味覚……。これが五感だ。
「四つの感覚は、兵器としても絶対に必要だった。敵を発見し、位置を知り、危険を察し……」
「でも、それじゃあ味は……?」
逆に言えば四つの感覚があれば兵器としては事足りてしまう。
「言ったでしょ? 私達の作ったコンセプトはより人間らしく。軍の要望はともかく、私達が本当に作りたかったのは全ての感覚を備えたヒューマシンだった。だからあの男がビストロンに味覚を与えようとしたのも、自然な流れよ」
セレンはそこまで言ってから、最初に出された茶を一口飲んだ。
「そして完成したビストロンは、私達の望む完璧なヒューマシンになった。ところがね。これが米軍にとっても大きな魅力になったの」
「それ……どういう意味ですか?」
「実際、私達の作ったヒューマシンは内乱の続く地域での運用しかなかった。世界規模の戦争なんて、そうそう起こるものじゃないもの」
確かに、日本に暮らしている限り、戦争とは無縁だ。
幾ら国会が騒ごうと、現実に日々を生きていれば、戦争の気配は感じられない。
「だけど……戦争が起こらないとは言えないわ。そして、これからの戦争は目に見えない部分で進行することになる……」
セレンは真剣な眼差しで言った。
「これから先の時代、侵略し侵略されるもの……それは文化よ」
「文化……はぁ……」
またしてもピンと来ない。
瑞樹はただ溜息をつくばかりだ。
「勿論、食だって文化の一つ。例えば……そうね。世界には牛肉を食べない人達がいるってのは知ってる?」
「ええ。宗教で食べるのを禁止してるから、絶対に食べないって……」
「そうね。ヒンドゥー教なんかだと、牛は神様だから食べちゃだめだし、逆に豚は悪魔の使いだから食べないって宗教もあるわ。でも、それが覆されたら、どうなるかしら?」
「つまり、その人達が牛を食べるようになったら……ですか?」
瑞樹は少し悩んだ。どんどん話の先が読めなくなってくる。
「牛を食べないって規律が一つ無くなった。その瞬間、同じ規律を守ることで形成されていたコミュニティが崩壊する事になる」
話だけ聞くと、随分突拍子の無い事の様に思った。
「逆に、みんなが同じものを食べてたら、安心するものじゃない? あなた、虫とか食べられる?」
「む、虫……ですか?」
瑞樹は戸惑う。イナゴの佃煮や、蜂の子などは珍味として有名だが、瑞樹は食べたことがなかった。
「一瞬、えぇ? となるけど世界にはそれを普通に食べてる人達だっているのよ。その人達にしてみれば、それは普通だし、食べない私達を見たら、不思議がるでしょうね」
「なんとなく、セレンさんの言いたい事が解ってきましたけど……それが、どうして戦争何かに……」
「簡単よ。牛を食べない人に牛を食べさせる。虫を食べる人にそれよりもっと美味しい物を食べさせる。そうして私達先進国の食文化を植え付けていって、いずれ世界の文化体系を統一する。それが米軍のトップが考えだしたシナリオよ」
セレンはお茶を飲み干して、湯飲みを置いた。
その目の前で、瑞樹はポカンと口を開ける。
セレンはフッと笑いを浮かべ、肩を竦めた。
「そんな馬鹿な話って思ったでしょう? でもね、この日本だって、ここ百年で食文化が様変わりしてるのは事実よ」
「それは……そうです。けど……」
瑞樹は改めて目の前の女を見る。
セレンはお茶のおかわりを貰っていた。
この人達はそんな事の為にビストロンを利用しようとしているの……?
瑞樹は俯いて自分の膝を見つめる。
また得体の知れない感情が、胸の奥でうずいた。
「私、やっぱりビストロンを渡す気にはなれません」
文化の侵略などと、難しい事は解らなかった。
けれど、瑞樹にとってビストロンは大切な存在なのだ。
「それならビストロンじゃなくたって……」
「あれを作ったのは私達じゃない。そしてビストロンを作ったあの男……相馬誠一も行方をくらませた。今、味覚を持ったヒューマシンはビストロンだけなのよ」
セレンはまた、真剣な眼差しで言った。
「とにかく、ビストロンを取り返すのが私の仕事。軍の資金援助が無くなると、ウチも困るのよ」
「そんな事……知りません」
瑞樹は苛立ちを必死で堪えた。
だが、声のトーンが上がっているのは自分でも解る。
「私……店の準備がありますから」
瑞樹はテーブルに手を突いて立ち上がった。椅子がガタガタと大きく鳴った。
「あら、食べないなら貰っちゃうわよ」
セレンは瑞樹より、残された蜜豆に興味があるようだった。また顔つきは少女の様だった。
「それじゃ」
瑞樹が店を出ようすると、後ろからセレンが呼びかけた。
「ビストロンの料理……楽しみにしてるわよ」
瑞樹は振り返らずに店を出た。
そしてそのまま、早足で店まで帰った。
*
「ただいま」
瑞樹が帰ると、既に準備をした咲子と光司が来ていた。
「遅かったじゃない。どうしたのよ?」
「うん、ちょっとね。すぐ準備するね」
瑞樹はニッコリと微笑んだ。頬が固くなっているのが自分でも解る
「何かあったのか?」
厨房で待機していたビストロンが言った。
「ううん。何にもないよ」
目を閉じたままそう言って瑞樹はエプロンを着けた。
時間は流れ、また夜になる。
咲子達を見送り、後片付けを終え、ムニエルの仕込みをする。
その時だった。
瑞樹は瞼が重くなるのを感じた。
頭もぼんやりとしてくる。
「はぁ……なんだろう……」
瑞樹は手を額にあてた。汗が滲む。
「どうした、瑞樹?」
ビストロンが覗き込んでくる。
「うん……平気。なんでもない」
瑞樹は笑顔を作って言う。
料理を……作らなきゃ……。
思った時、膝がガクリと落ちた。
自分でも気が付かないほどあっけなく、瑞樹の身体は床に沈んでいた。
「瑞樹!」
ビストロンの声に、瑞樹は返すことが出来なかった。
「悠也! 悠也!」
ビストロンが大声で叫んだ。
「なんだよ、どうした?」
二階から駆け下りてくる悠也の足音。それさえも、段々と聞き取れなくなっていく。
そして……瑞樹はそのまま眠りについた。
*
「気が付いたか?」
目覚めた時には、自分の寝室に居た。
身体は汗でしっとりと濡れている。
起きあがろうとしても、力が入らない。
「無理をするな」
ベッドの横には、心配そうに佇むビストロンがいた。
「ビス……トロン……」
口から零れる息も熱い。
あぁ、私……倒れたんだ……。
やっと自分で状況を理解して、瑞樹は改めてベッドに横になった。
虚ろにしか開かない瞳が滲んで、更に視界が塞がれる。
「ごめんね、ビストロン……料理の練習しなきゃいけないのに……」
このままじゃ、あの女の人……セレンさんを満足させることが出来ない……。
瑞樹は身体を起き上がらせようと、もう一度、力を入れる。
「まだダメだ。寝た方がいい」
ビストロンは少し強い口調で言った。
瑞樹は迫力に押され、観念してベッドに身を預ける。
布団に受け止められて、身体は少し楽になった気がした。
「……すまない。瑞樹」
「どうしたの? 突然……?」
瑞樹は言った。
「君がこんなに疲弊している事に、私は全く気が付かなかった。こんなに……側にいたと言うのに……」
ビストロンはそう言って、握った拳を見つめた。
「私の手が鋼鉄でなければ、瑞樹にこんな心配をかける事も無かったんだ。私が……機械で無ければ……」
「そんな事無いよ。私が勝手にやった事だもん」
瑞樹は力無く微笑む。
「だが、瑞樹が私のために悩んでいた事はずっと知っていた。私さえいなければ……」
「そんな事無い!」
瑞樹は思わず声を上げ、ビストロンは驚いて顔を上げる。
「ごめん……」
瑞樹は気まずくなって目を逸らす。
苛立っているのは事実だ。
まだ昼間の事を気にしているのかも知れない。
「……ねぇ、ビストロン」
「何だ?」
「ビストロンのお父さんって……どんな人なの?」
「父……か?」
ビストロンは少し驚いた様子で顔を上げた。
「そういえば、父の話はした事が無かったな」
ビストロンは少し考えてから、静かに語りだした。
「父は、正確には私をこの姿へと生まれ変わらせた人物だ。名は相馬誠一」
その名前は、さっきセレンも口にしていた。
完全なヒューマシンを作ろうとした男の名だ。
「彼は私に改造を施した後、私を逃がすために工場を出た。追っ手もあったが、なんとか二人で切り抜けた。そして、私を一軒のレストランへと連れていった」
ビストロンは立ち上がり、窓の外を見つめた。
「丁度、今くらいの時間だった。店の灯りは消えていたが、父と知り合いだったらしい。すぐに店を開けてくれた。そして私達に簡単だが、料理をふるまってくれた。そう、私が初めてこの店に来た時の様に」
瑞樹も思い出していた。そんなに遠い思い出ではない筈なのに、少しだけ懐かしかった。
「その時に父は言った。お前にはやる事があると」
「それは、一体……?」
瑞樹が聞きたいのはそこだった。
もしも、相馬という男が、セレンが言ったように文化を侵略する為に作ったとしたら……。
「父は料理には力があると言った。この世界全てが、その力で一つになると」
瑞樹は動きを止めた。
それは……やっぱり……。
だが、そうなるともう一つ疑問が浮かぶ。
ならば相馬は逃げる必要など無かったのではないか。
軍と考えが一致しているなら、自分は逃げる必要など、無かったのではないか。
瑞樹が黙っているのを見て、ビストロンが覗き込んだ。
その時だった。
「うわ、チチチ……」
廊下から、悠也の声がした。
そして、扉の向こうからノックをするでもなく、声を上げて呼びかける。
「ビストロン、開けてくれ」
ビストロンは扉を開いた。
その瞬間、鍋を両手で抱えた悠也が、部屋に飛び込んできて、慌てて机の前に向かった。
「ふぅ……熱かったぁ」
手にふーふーと息を吹きかけながら、悠也は言った。
瑞樹は、大分落ち着いてきた身体をゆっくりと起こした。
「どうしたの? 一体?」
勉強机の上に乗せられた鍋からは、真っ白い湯気が立ち上っていた。
「あ、あのよ……飯、作ってみたんだけど……」
悠也はチラリと鍋を見た。
瑞樹も視線を向けた。
「……何を作ったの?」
「ええと……お粥……」
何故か悠也は目を会わせようとしなかった。
瑞樹はビストロンに目をやった。
「確かに、粥の様だ……鍋底が焦げ付いている様だが」
「うるさいなぁ! 仕方ないだろ、初めて作ったんだから!」
悠也は顔を真っ赤にしながら声を上げた。
「ま、別に無理して食えとは言わないけどよ……ほら、腹減ってたらって思ってさ……」
少し照れくさそうにして悠也は言った。
瑞樹は溜息を零した。
「悠也……お鍋だけ持ってきたって食べられないよ。器とスプーンも頂戴」
「お、おぅ!」
悠也は慌てて下に降り、言われた通りに食器を持ってくる。
器に盛られた粥には、確かに黒くなった所もあった。焚いてある米から作ったせいだろうか、水気もやたら多い。
瑞樹は一口、粥を食べてみた。
申し訳程度に塩味がついていた。
緊張した様子で、悠也が覗き込む。
「………ん……ううっ……」
「どうした、瑞樹?」
「そ、そんなに不味かったのか?」
「違うよ……」
瑞樹は涙を堪えながら言った。
次の言葉が出せなかった。
悠也が自分で言った通り、味はお世辞にも良いとは言えなかった。
だけど……。
「悠也……ありがとう……」
食べた瞬間、悠也がどれだけ心配してくれたか、それが解ったから……。
そして……。
「ねぇ、ビストロン……」
涙を拭きながら、瑞樹は顔をあげた。
「私、やっと解った……」
もう一口、悠也の料理を食べて、瑞樹は言った。
「もぅ……なんでこんな簡単な事を忘れてたんだろう……」
泣きながら微笑んでいる瑞樹を見て、悠也とビストロンは何も言うことが出来ないでいた。
*
遂に……約束の日が来た。
店の前の看板には、舌平目のムニエルと書かれる。
「ああっ! どうすんのよ、もう!」
咲子がカリカリしながら、そこいら中を歩き回る。
「お前が焦ってどうするんだよ」
光司が言うが、そちらも表情に余裕は無い。彼もまた、これから始まる出来事に気を揉んでいるのだ。そして、それは悠也も同じだった。
悠也は姉の身体を心配していた。咲子達には、この間の出来事は話していない。心配をさせないようにと、姉に堅く口止めされているからだ。
「本当に……大丈夫かよ?」
夕べも、その前も、瑞樹は十分に休んでいる。だがその分、料理の方は……。
瑞樹は随分と落ち着いて、いつものように料理の下ごしらえをしている。
悠也は逆に落ち着きすぎているのが気になっていた。まさか諦めてしまったのか……。
「フフ。みんな、大丈夫よ」
瑞樹は三人に呼びかけた。
そして、瑞樹の後ろで、ビストロンも力強く頷いた。
「何か作戦があるの?」
咲子が聞いたが、瑞樹は首を横に振る。
「作戦なんて無い。だけど……」
瑞樹は目を閉じて、掌を胸に押し当てる。
「大丈夫。私はビストロンを信じてる。ね?」
「信じてるって……言ったって……」
先程、試食したムニエルは、今までと何も変わった所は無かった。確かに、行程や味のバランスなど、それぞれは洗練されていた。
だが、それであの女が満足するとは思えなかった。
いや、そもそもあの女が素直に満足したと告げるだろうか。
今更ながら、分の悪い勝負だと実感する。
それを受けてしまった咲子は、後悔で胸が押しつぶされそうだった。
「私を……信じると言ったてくれたな」
ビストロンは瑞樹の元に近づくと、その掌を、そっと肩に乗せた。
「私に考えがある。瑞樹……聞いてくれるか?」
今夜も客足は好調だった。
客が多いのは良いことだった。
それだけ、料理の手順を確認できるし、味の調整も出来る。
だが、忙しい店内での作業に追われて、咲子も光司も厨房を覗く暇もなかった。
今日は特に人が多い。悠也もウェイターの手伝いに駆り出され、まるで厨房の様子が掴めない。
ただ二人が出来ることは、満足そうに帰る客の表情が嘘でないと信じることだけだ。
そして……時間は九時を過ぎ……。
運命の瞬間がやって来る。
「約束通り、ご馳走になりに来たわ」
セレンはこの間と同じ、コートとサングラスを身につけた姿で、大人の女の色気を漂わせながら入ってきた。
「いらっしゃいませ」
少しの牽制も交えて咲子が淡々とした態度で言った。
セレンはそれを無視して、テーブルに向かう。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
今度は瑞樹自らセレンを出迎えた。
「フフ。今日は、楽しみにしてきたわよ」
コートを渡しながら、セレンは言った。
「ええ。きっとご期待にそえると思います」
優しく微笑むその表情は、何時もと全く変わらなかった。
セレンは席に着くと、そっとサングラスを外して、胸のポケットに入れる。
やがて……。真っ白い皿に乗って、料理が運ばれてくる。
「舌平目のムニエルです。ソースはシンプルにバターの風味で。多少の臭み消しに微塵切りにしたフェンネルを散らしています」
瑞樹が出した料理を見て、セレンは少し意外そうな顔をした。
「もっと味のしっかりしたソースで来るかと思ったわ」
「ええ。私も最初はそう思ったんですけど。でも、魚そのものの美味しさを味わって貰いたいですから」
「小細工無しって訳ね」
セレンは不敵な笑みを浮かべた。
そして、ナイフとフォークを手に取った。
一口、ナイフで切られた白身の魚が、口に運ばれる。
ただそれだけ、ほんの一瞬の筈が、とてもゆっくりに感じられる。
それを見守る咲子も光司も悠也も、黙って見守る。
セレンは何も言わずに、フォークとナイフを、再び動かした。
「なんなのよ、じらしてる訳?」
小声で咲子が言った。
その隣で、悠也が首を振った。
「多分……違う」
その表情は、とても自信に満ちていて、思わず光司は言葉を失っていた。
*
「ごちそうさま。とっても美味しかったわ」
空になった皿を前に、セレンは言った。
そして、少女のような微笑みを浮かべる。
「ありがとうございます」
瑞樹が頭を下げる。
瑞樹が顔を上げるのを待ってから、セレンは次の言葉を切り出す。
「あの魚を裁いたの、ビストロンじゃ無いわね?」
瞳から優しい笑みが消えた。
それを遠くから見守っていた咲子が声を上げる。
「ちょっと! 何、因縁つけてんのよ! 全部食べたんだから、満足したんでしょ?」
「確かに、とても美味しかったわ。だけど、私はビストロンの料理が食べたかったのよ。彼女の料理じゃ無くてね」
セレンは瑞樹を見つめた。
瑞樹は目を閉じて、そして笑顔を絶やさずに答えた。
「確かに、私が手を貸しましたけど。でも包丁を握ったのはビストロンです」
瑞樹は背中を向けて言った。
「こちらにどうぞ。今、厨房をお見せします」
厨房の中では、ビストロンが待機している。
「ビストロン、材料はまだある?」
「ああ。丁度一人分。まだ残っている」
ビストロンは冷蔵庫から舌平目を取りだした。
丸くて大きな頭を持つ奇妙な姿をした魚だ。
「うわ、こんなのだったんだ……」
咲子が少し顔を引きつらせる。
「でも、これでも魚の女王って言われてるんだよ」
瑞樹が言った。
「女王には見えないな……」
光司も一緒になって顔を引きつらせた。
「さぁ、瑞樹。始めよう」
「うん」
瑞樹は頷くと、流しに向かって手を濡らした。
そして、瑞樹は右手を、そっと魚の上に乗せた。
「何をする気なの?」
セレンが言った。言葉とは裏腹に、これから瑞樹達がやろうとしている事は、まず間違いないだろうと確信もしていた。
「いくぞ、瑞樹」
「何時でもいいよ、ビストロン」
二人はお互いに頷きを交わし会う。
そして……ビストロンが肩口から包丁を抜き取った。
魚の身に、スッと包丁が入る。
ビストロンは全く魚に手を触れていない。
触れているのは包丁の刃だけなのだ。
魚の身を押さえているのは瑞樹の右手。
全く動かず、ただ最低限の触れ幅で、魚の身が動くのを防いでいた。
アッという間に、舌平目は切り身になった。
後はビストロンが手際よく調理していく。
「よっぽど練習したんでしょう?」
少し興奮した様子で、咲子が言った。
だが瑞樹は首を横に振る。
「ううん。これやろうって言ったのは、さっきビストロンが。私は、もっと違うこと考えてたから」
「それって……一体……?」
セレンが聞いた。
瑞樹は真っ直ぐな瞳で、セレンを見つめた。
「どんな料理だって、本当に真心を込めれば、きっとお客さんは満足してくれる……そう思ったから、何も考えずに自分の料理を作ろうって。私はビストロンに言ったんです」
「ああ。それが本当に大切な事だと、私も教えられた」
出来上がった料理を手に、ビストロンが言った。
「……ロボットのくせに、真心か……全く……呆れるわね」
セレンは溜息と共に言った。
「あなた、万が一があったら、自分の手が切れてるわよ? それは考えなかったの?」
「ええ。それは全然」
瑞樹は冗談を言っている訳では無かった。
それは次の言葉が全てを表していた。
「ビストロンの事、信じてますから」
「私、まさかここまでやるなんて思わなかったわ。私の負けよ」
セレンはそう言って微笑んだ。
「それでは……私はここにいて良いんだな?」
ビストロンの言葉に、セレンは黙って頷いた。
「やったぁ! あたし達の勝ちよ!」
咲子が跳ねるように近づき、瑞樹にぎゆっと抱きついた。
「あたし達って……俺達なにもしてねーだろ」
光司がいつもの様に呆れ顔で言った。とはいえ、まるで自分の事のように安心しきった顔で大きく息を吐いた。
「もぅ、本当にハラハラしたんだから! 負けたらどうしようって!」
言いながら、咲子は抱きしめる手に力を込めた。
「もぉ、苦しいよ」
逃れるように咲子の手を解いて、瑞樹は小さく息を落とす。
そして、ようやく喜びの感情が湧きあがるのを感じた。
嬉しい理由を心の中で反芻して、また安堵する。
勝ったからじゃない。負けなかったからじゃない。
良い料理が届けられたから……そう思えたから。
厨房に笑い声が響きわたる。
その賑やかな喧噪の中、セレンがさり気なくビストロンに近づいた。
そして……。
「良かったわね。ビストロン。素敵な仲間に逢えて」
その言葉に、ビストロンは力強く頷いた。