ビストロンの手
「ありがとうございました」
瑞樹は帰っていく客の背中に向かって頭を下げた。
入れ替わりに次の客が入ってくる。
「いらっしゃいませ。本日のメニューはハンバーグステーキですが、よろしいですか?」
ここ数週間、レストラン・リプルリングは何人もの客が訪れていた。
平日の夕食時はもちろん、休日の昼間にも客が入るようになった。
「三番テーブル、オーダー入ったわよ」
相変わらずピンクのフリルドレスで、咲子が厨房に入ってくる。
「了解した」
フライパンを巧みに操りながら、ビストロンが振り返った。
「光司。ぼさっとしてないで、今入ってきたお客さんに水だして」
「いちいち仕切るな。今やるわ!」
光司がふくれっ面でコップを乗せたトレイを運ぶ。ちなみに、遂に観念したのか、咲子が用意したウェイタールックに身を包んでいる。
「い、いらっしゃいませ……」
観念したとはいえ、まだ慣れていないらしく、表情は硬いままだった。
それでも精一杯の笑顔で来客を出迎える。
厨房に戻った瑞樹は、早速調理に取りかかる。牛挽肉に、予め炒めて冷ましておいた玉葱を混ぜて、力強くこねていく。ある程度混ざったところに卵と調味料を加えて更にこねていく。
粘りが出てきた所で、掌の上で形を整え、楕円状にする。
パンパンパンパン。
軽快な音が掌から聞こえてくる。それに合わせてハンバーグのタネは、綺麗な草鞋型になっていく。
ここで空気が抜けていないと焼いた時に身が崩れてしまう。
いつものごとく、手早く、慎重にだ。
「ビストロン!」
「ああ」
ビストロンが振り返りフライパンを差し出した。
その上に、ハンバーグのタネを乗せると、ジューという音が響き渡った。
「グリルは私に任せろ」
「うん」
瑞樹は付け合わせとソースを作り始める。
二人の連携もだいぶ様になってきた。いや、元々、二人の息はピッタリなのだ。それが更に洗練されている。
先に切っておいた馬鈴薯を油に入れる。
この間、瑞樹は隣のコンロでソースを作る。
とは言っても、作り置きのドミグラスソースは火をかけるだけだ。
焦げないように掻き回すと、厚めにスライスしたマッシュルームが顔を出す。
牛の骨と野菜から採ったブイヨンをベースにした、自家製のソースである。
馬鈴薯を低温の油から取り出す。まだ色は付いていない。馬鈴薯特有の白さが残っている。
これを今度は温度を上げた油に入れて、表面をカラリと揚げるのである。
「オーナー」
「オッケイ」
揚げたてのフライドポテトを皿に乗せ、ビストロンの前に差し出す。
こんがりと焼けたハンバーグが素早く盛られ、今度は瑞樹がソースをかける。
最後に、プチトマトの赤が皿を彩った。
「はいはい、持って行くわよ」
咲子がトレイに乗せて、ライス、スープと共に運んでいった。
「さ、次よ。ビストロン」
「ああ!」
*
時間も九時を過ぎ、店内には瑞樹達だけになった。
「ふぅ……疲れたぁ……」
咲子が片づいたばかりのテーブルに突っ伏した。
「全く……こないだまでガラガラだったのにな」
光司が苦笑しながら言った。
「噂になってるらしいしね。ロボットがいる美味しい洋食屋さんって」
「ああそれ、俺も聞いた事ある。こないだ駅前でオバサン二人が話してたぜ」
「それがね。その噂を広めてる一番の張本人が、この間スーパーで会った、あの厚化粧のオバサンな
んだってよ」
恐るべし主婦の情報網。
同時に、きちんとその情報を知っている目の前の女にも頭が下がる。
「いつも遅くまでごめんね」
瑞樹がドリンクを差しだしながら言った。
「いいっていいって」
咲子はそう言って笑った。が、疲れているのは目に見て解る。そしてもう一つ……。
「みんなの分、すぐに用意するからね」
瑞樹がそう言った途端、咲子のお腹が鳴った。
「そう言えばさぁ……」
待ちきれなくなったのか、咲子が厨房を覗き込む。
「うん?」
先程のように付け合わせのポテトを作りながら瑞樹は振り向いた。
「今日はビストロン、焼いてばっかりじゃない?」
コンロの前に立つビストロンを見ながら、咲子が言った。
「うん……その前に玉葱の微塵切りとか、馬鈴薯の皮むきとかやって貰ったけど……」
そう言えば、お店を開けてからは殆どコンロの前にいる。
「ねぇ、ビストロン」
咲子の呼びかけに、ビストロンは答えなかった。
「ビストロン?」
また電池が切れたのかと思い、瑞樹が心配そうに近づく。
やっと気が付いたらしく、少し遅れてビストロンが振り返った。
「ど、どうした?」
「どうしたなんて……こっちが聞きたいよ」
「何でもない。それより、もう焼き上がるが……咲子はミディアムで良いのだろう?」
「うん」
ハンバーグを皿に盛りつけるビストロンを見た咲子は、瑞樹にそっと耳打ちした。
「何かあったの?」
「解らないけど……」
二人とも、ビストロンが何か悩んでいる様だと察していた。
「うん……美味しい!」
口の中に広がった肉汁が、スパイスの香味と合わさって絶妙のハーモニーを奏でる。
「ウフフ……焼き方がいいのよ。ね? ビストロン?」
瑞樹は照れくさくなって厨房で洗い物をしているビストロンに目をやった。
ビストロンは振り返ると、口元に笑みを浮かべる。
「タネが良かったんだろう」
「ったく……何時も何時も、謙虚だよな」
悠也が呆れ顔で言った。
「そういや悠也は、あんまり姉貴の料理を誉めないよな」
思い出したように光司が言う。
「別に毎日食ってりゃ感動も無いぜ?」
「まぁ~なんて贅沢な……」
咲子が顔を顰めながら言った。同時にフォークは悠也の皿のフライドポテトを狙う。
「あ、何してんだよ!」
「何よ、毎日食べてるんでしょう?」
「それとこれとは話が別だ! 返せ!」
悠也が腕を伸ばし、咲子のポテトを取る。
「もぅ! 悠也。行儀悪いわよ!」
「お前も大人げ無いんだよ」
瑞樹と光司が揃って声を上げた。
「ホント、お互い苦労するね。光司くん」
「って別に俺は咲子の保護者じゃねぇし」
「こいつに保護される理由がないわよ」
まるで打ち合わせをしていたのかと思うほど二人のテンポが良いので、瑞樹は可笑しくなって笑った。
それぞれ食事も終わり、片づけをしている頃……。
チリリと、小さく鈴の音が鳴った。
そう言えば、まだ看板をしまってなかったっけ……。
瑞樹はそう思いながら、入ってきたお客を出迎える。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、ロングコートを身に纏った背の高いスマートな女性だった。
髪の色が赤い。鮮やかな赤毛は短く纏められている。ただし顔は良く解らない。というのも厚いサングラスをかけているせいだ。
「本日のメニューはハンバーグステーキになりますが、よろしいでしょうか?」
「ええ。それを頂くわ」
赤く塗られた口元が囁いた。
「それでは、こちらにどうぞ。あ、コートはこちらに」
瑞樹は女性を席に案内する。すかさず咲子がコートを受け取り、壁のハンガーに引っかける。
「ただいまご用意いたしますので、少々お待ちを……」
「あのシェフに作って戴けるかしら?」
席に座るなり、女性はサングラスをかけたまま、厨房の奥のビストロンを見つめた。
「え、ええと……」
瑞樹の一瞬の迷いを察したように、女性は口元を緩めた。
「出来ない理由でもあるのかしら?」
「そ、そんな事は……」
瑞樹はビストロンを見た。
大丈夫……だよね。
ビストロンには自分の料理を食べて貰っている。
彼は自分の料理を再現できる筈だ。
「少々、お待ち下さい」
瑞樹は一礼してから厨房に向かった。
「私に……作れと言ったのか?」
ビストロンはテーブルに着いている女を見つめた。
「出来る……よね……?」
心配そうに瑞樹が聞いた。
一瞬の沈黙の後、ビストロンはいつもの笑みを……優しい表情を浮かべた。
「やってみよう」
ビストロンは頷くと、挽肉をこね始めた。
暫くして、焼き上がったハンバーグが食卓に運ばれる。
女は相変わらずサングラスをかけたまま、焼き上がったハンバーグを見つめる。
「さすが、焼き色は完璧ね」
女が厨房のビストロンを見つめる。
やっと、女がナイフとフォークを手に取った。
厨房から見守る瑞樹達。何故か胸騒ぎがして、瑞樹の手に汗が滲む。
一口、女が料理を口に運んだ。
そして…………。
女がフォークを置いた。
厨房を見る瞳が鋭く突き刺さる。
「シェフを呼んで頂戴」
女が言った。
瑞樹は慌てて駆けていく。
「あ、あの……何か……」
「シェフを呼んで、と言ったのよ」
不敵な笑みを浮かべたまま、女は言った。
その異様な迫力に、瑞樹は思わず言葉を失った。
そこに、厨房から現れたビストロンが歩いてくる。
「……私がシェフだ」
瑞樹を庇うようにして、ビストロンが前に立った。
女とビストロンの視線が交差する。
「あなた……ヒューマシンね」
ここで初めて、女はサングラスを外した。
遠くから見守る光司が、思わず目を凝らす。
そして目の前にいた瑞樹も、その美しさに息を飲んだ。
「ちょっと待てよ……何であいつ、ヒューマシンなんて知ってるのよ!」
思わず咲子が声を上げた。
その途端、女はチラリと咲子を見る。だが、それ以上何も言わず、視線を皿の上に向けた。
「料理用にカスタムされたヒューマシンがどの程度かと思ったけれど、やはりこんなものかしらね」
言いながら、女は立ち上がった。
そのままコートをかけてあるハンガーに向かう。
「ま、待って下さい……!」
瑞樹が声を上げた。
「お気に召さなかったのなら謝ります! 私が作り直しますから、待って下さい」
瑞樹の言葉に、女は動きを止めた。
「ごめんなさい」
振り返った女は瑞樹の姿など気にもとめず、ただ真っ直ぐにビストロンを見つめる。
「私が興味あるのは、そっちのヒューマシンなの」
その視線を迎えるビストロンの表情は、険しいままだった。
「不満そうね」
「いや……」
ビストロンは目を逸らす。
「フフ……潔いわね。そういうのは好きよ」
そう言って女は笑う。ビストロンは目を伏せたまま、ぎゅっと拳を握った。
ビストロン……悔しいんだ……。
瑞樹はその背中を見て思った。
そして……。
何もできない自分に、とても悔しく思う。
「……結局。あの男の考えも無駄に終わったようね」
ビストロンは顔を上げた。
「……やはり、そういう事か……」
「解ったら、着いてきて貰えるわね?」
女はそう言って右手を出した。
ビストロンは動かないまま、その指先を見つめる。
「待って……! 一体、どういうつもりですか!」
今度は瑞樹がビストロンの前に立った。
「どういうつもり……ね」
不敵な笑みを浮かべたまま、女は舐めるように視線を動かす。
得体の知れない感情が、微かだが瑞樹の中に沸き上がる。
「簡単に説明するとね、私はこの子……ヒューマシンCTP―01の持ち主の一人なの」
「えっ?」
ビストロンの……持ち主?
「ってことは……」
光司が声を上げる。
「あんた、米軍の……」
「一応……軍と関わってるけど。ま、深く詮索しない方が身の為よ」
「秘密部隊の隊長さんってわけ?」
咲子が瑞樹の後ろに立ち、少し呆れた表情をする。
「どうでも良いけど、何で米軍がこんな所でお食事してるのよ?」
「連れ戻しに来たのよ。軍の秘密兵器をね」
「秘密……兵器?」
ビストロンが……?
瑞樹は思わずビストロンの顔を見る。
「ビストロンが……兵器……?」
ビストロンは目を逸らした。
何も語らず……それは女の言葉を肯定しているように見える。
「嘘……よね?」
確かに、ヒューマシンは兵器だと言っていた。
だけど……。
瑞樹はビストロンの優しい顔を知っている。
いつも気遣ってくれる、優しい所を知っている。
「どちらにしても、あなた達には関係のないことだわ。さぁ、ビストロン。一緒に帰るわよ」
もう一度、女は右手を差し出す。ビストロンは一歩、足を踏み出す。
「ビストロン……」
瑞樹の前を通り過ぎるビストロン。そして女の前で足を止める。
「私は……」
低い声で、ビストロンは言う。
「私は……まだここを離れるわけには行かない」
瑞樹は顔を上げた。
「父は、いずれ私の力が必要になると言った。そして、その為に足りないものを……私は瑞樹の料理の中に見つけたのだ。それをまだ……私は学んでいない」
ビストロンの眼差しは……作り物の筈なのに、熱く輝いて見えた。
それを見た女は、ふぅと溜息をついて言う。
「確かに……あの男はあなたに期待していたでしょうけど。だけど所詮、あなたは機械……人間にはなれないのよ」
女は一転して厳しい表情をしてビストロンを見つめる。
「そんな事ない!」
瑞樹は思わず叫んでいた。
自分でもすぐには気が付かなかったが、瞳に涙が滲んでいた。
「ビストロンは機械だけど……でも……私達と同じよ!」
「瑞樹……」
「私だって、ビストロンに教わりたい事がいっぱいある……だから……!」
「だから……連れていかないで……」
女は少し呆れたように肩を竦めた。
「そういう訳にもいかないのよ。私も仕事なの。解って貰えないかしら?」
「いい加減にしなさいよ!」
咲子が我慢しきれずに声を上げる。
そして、そのまま女の前まで詰め寄った。
「ビストロンが行きたくないって言ってるのよ! あんたが無理矢理連れていく権利なんか無いわ!」
「おい、落ち着けよ……」
光司が咲子の肩を掴んで止めようとする。
二人のやり取りに何の興味もないのか、女は黙ってビストロンを見つめる。
その時だった。
「おいオバサン」
一瞬、女の表情が強ばった。
全員が声の方を見ると、今まで黙って成り行きを見守っていた悠也が歩いてくる。
「何かしら坊や?」
落ち着いた素振りで女は言った。だが、その微笑みはどこかぎこちない。
「ビストロンが機械で、人間には適わないって言うなら、もう一度試して見ようぜ」
「試す……?」
「ああ。もう一度ビストロンが料理を作る。それで、あんたの舌を満足させられたら……」
「…………フフフ。面白い子」
女は笑った。
「解ったわ。一週間待ちましょう。その間に私を満足させる事が出来たら、ビストロン。あなたの言うとおりにするわ」
「それじゃあ……」
「勘違いしないで。ただ一週間待つと言っただけよ。それとメニューはこちらで指定させて貰うわ。そうね……」
女は少しの間をあける。それを見た咲子がイライラと眉を動かす。
「もぅ、何だって作ってやるわよ!」
「じゃあ、ムニエルを頼もうかしら。魚の種類は任せるわ」
瑞樹はビストロンの表情を伺う。ただ何も言わず、女を見つめる視線は何を意図しているのか。今に限って、ビストロンの表情が読みとれなかった。
「止めるなら今の内よ。ビストロン?」
「……いや。いいだろう」
ビストロンは言った。
「どんな料理だって、望むところよ!」
咲子は相変わらず敵意剥き出しで言う。そしてやはり、女はそれに気にも留めず薄笑いを浮かべる。
「でも。私は負けるわけに行かないの。そしてあなた達に勝たせる気もない」
女は皿に残った料理を見つめた。
「……瑞樹さんといったかしら……あなたもあれを食べれば解るわ」
すっかり冷え切ってしまった、ビストロンの料理。
瑞樹は近づいて、フォークを立ててみる。
一口……。それを口に含んで暫くした後、瑞樹はそのまま動かなかった。
「一週間後……楽しみにしているわ」
コートを羽織って、女は店を出ていった。
暫く沈黙が続く。
やがて、それに耐えかねたように、咲子が声を上げる。
「一体なんなのよ! あの女!」
胸に溜まった苛立ちを吐き出すように咲子は声を上げる。
「人を馬鹿にするみたいに無駄にニコニコしちゃってさ! ちょっと美人な分だけ、性格が悪いのね」
「咲姉ちゃん、ひがみ入ってるぞ」
悠也が呆れて言う。
「それにしても悠也……お前、よくあんな事言えたな」
光司が感心して頭を撫でた。
「ま、姉が頼りないと、これくらいはな」
少し嬉しそうに悠也は言った。
「ったく……何を偉そうに」
咲子は悠也の頭を掴むと、両方の拳をグリグリとこめかみに押し当てる。
「イテテテテ……何すんだよ!」
「あんたは可愛げが無いのよ」
「うわっ、止めろって! イテテテっ!」
ジタバタと暴れる悠也だが、咲子は止めようとしなかった。
そんな騒ぎの中、瑞樹とビストロンは何も言わないまま、冷めた料理の前で立ち尽くしていた。
「瑞樹……?」
咲子が二人の様子に気が付いた。やっと痛みから逃れた悠也は、こめかみを押さえながら姉の方を見る。
「この味……」
瑞樹は複雑な表情のまま呟く。そして、ビストロンも深刻な面もちのまま、ただ頷く。
「鉄の……味?」
瑞樹は口の中にほんの少し残る異物感を思い出しながら言う。
鉄を舐めた様な……口の中を切った時の様な……。
「ええっ?」
不思議そうに咲子も一口、ハンバーグを食べてみた。
普通の味だ。が、やがて口の中に感じるのは、微妙な味の変化だった。
「これが……私の欠陥だ」
ビストロンは静かに言い、そして握っていた掌を見つめた。
「原因は、ビストロンの手……」
瑞樹は呟いた。
「私の手は金属で出来ている。動かす度に擦れる指の関節から、金気が出てしまう……」
そしてそれは、元の料理が完璧であればあるほど、違和感として残ってしまうのだ。
「じゃあ、魚をさばくなんて……」
「ムニエルに使うのは白身魚だ。淡泊な白身の魚をさばくのに、私の手では……」
「それを……あの女は知ってて……」
光司の言葉に、瑞樹は俯いた。
負けるわけには行かない。勝たせる気もない。
その言葉が胸によみがえる。
「ビストロン! あんたなんでそんな勝負受けたのよ!」
咲子が言った。
それを聞いて悠也が睨む。
「咲姉ちゃんだってノリノリだったじゃんかよ」
「元はと言えばあんたが言い出したんでしょうが!」
咲子の怒りの矛先が悠也に向いた。
二人を宥めようと光司が間に入る。
「今は……そんな事を言ってる場合じゃないだろ」
いつになく真剣な光司に、咲子と悠也は言葉を失う。
そして三人が瑞樹とビストロン、二人を見つめた。
*
咲子達が帰った後、厨房には瑞樹とビストロンが残った。
二人とも心配していたが、何とかするからと、瑞樹は笑っていった。
きっとそれが強がりだと、二人も解っていたのだろうが……。
今はゆっくりと考える時だと判断したのだろう。二人はそれぞれの家に帰っていった。
何時までも起きている悠也を無理矢理、寝室に向かわせた後、丸いテーブルを挟んで向かい合わせに座る。
「瑞樹……すまなかったな」
先に沈黙を破ったのは、ビストロンだった。
瑞樹はその言葉に首を横に振る。
「ビストロンが謝る必要なんて無いよ」
「こうして気苦労を強いてしまっているのは事実だ。それは……謝らせて欲しい」
真剣な表情は、いつもの生真面目な彼のものだった。
「だが……礼も言いたい。私を庇ってくれた事……本当に嬉しかった」
そう言ったビストロンの表情はとてもおだやかで、本当に優しいものだった。
それを見る瑞樹の頬が、微かに熱くなる。
「私……巧く言えないけど……ビストロンが、あの女の人の所に行っちゃいけない気がするの」
もしかしたら、嫉妬しているのかも知れないと、瑞樹は自分で思った。
「私が軍に徴集されれば、おそらく戦闘用へと作り替えられるのだろう」
ビストロンは肩に手をやった。
ケースの中には、研がれた刃が収まっているのを、瑞樹は良く知っている。
「この刃物で、人を傷つける事になるかもしれない」
ヒューマシンとして……兵器として本来の姿を持っていたとすれば、そこに収まっていたのはナイフだったのかも知れない。
その時、ビストロンは優しい笑みを持っているのだろうか。
瑞樹には想像することも出来なかった。
「大丈夫だよ。二人で頑張れば、きっと…………」
「…………」
ビストロンは答えなかった。
瑞樹は立ち上がり、そっとビストロンの手を握る。
指先に走る、冷たい鉄の感触。
瑞樹は自分の温もりが伝わればいいと、力強く握りしめる。
ビストロンは、瑞樹が握る手と反対の手を、そっと見つめた。
「私は……どこかの工場で、多くの仲間と共に生まれた」
ビストロンは静かに語り出す。
仲間達は皆、武器を持っていたこと。そしてそれを持った仲間達は、傷つけあうために戦場へと送られていった事。
最初は自分にも武器が着いていた事。生まれた時から、いずれ来る出撃を待っていた事。
「私は怖かった。いつか自分の手が人を殺め、生命を破壊するのではないかと……」
見つめていた掌が、瑞樹の手に重なる。
やはり手は冷たかった。
だけど……。
瑞樹は思い出す。
そう、これは父の手だ。
いつもは大きくて暖かい掌を、まるで氷のように冷やす冬の厨房。
真まで冷えた掌に触れたとき、確かにこんな感じがした。
(おとうさんの指、冷たい……)
幼い頃。水仕事で冷えた父の手を握りしめ、言った言葉。
その指から生まれるものは、寒さから逃れるようにやってくる人達を迎える暖かい料理達……。
「昔ね……お父さんが言ってた。動物や野菜をね、この手は生まれ変わらせる事が出来るんだって」
瑞樹はビストロンの手を撫でる。あの時、父にしたのと同じように。
「ビストロンだってシェフなんだもん。この手は、誰かを幸せにするためにあるんだよ」
「幸せ……か」
その言葉の意味を噛みしめるように、ビストロンの手に力がこもる。
「……さっき、咲子が聞いたな。なぜ、こんな無茶な勝負を受けたのかと……私も巧く言えないが……。ここに居たいと、強くそう思った……」
ビストロンは顔を上げ、瑞樹の瞳を見つめた。
「それは、やはりここが……ここに居ることが幸せ……何だと、今は思う」
「ビストロン……」
瑞樹も手を握り返した。
……何だ。そんな簡単な理由だったんだ。
さっきビストロンを庇えたのも、ただ側に居て欲しかったから……。