二人の出会いは雪降る夜に
はるか昔にどこかの賞に投稿した作品を少しだけ修正したものです。
ロボット×料理。材料は奇抜ですが、中に出てくる料理は普通ですよ。
それではご賞味あれ。
唇から零れる吐息が冷たい空気を白く染める。
空を見上げても、まだ夕方前だというのに太陽は見えない。
手袋をしてくれば良かった……。
両手にマーケットの袋を抱えた少女は、そんな事を思いながらを家路を急いでいた。
今夜は雪が降るかも知れないと、朝の天気予報で言っていたっけ……。
北風が通り抜けた。いよいよ寒さが激しさを増してくる。
早く帰って、準備しなきゃ。
野菜の沢山入ったビニールを持ち直してから、改めて少女は歩きはじめた。
向かう先は……レストラン・リプルリング……。
その店は人通りの少ない住宅地の一角に建っていた。
駅前の繁華街からは、距離としてはさほど離れていないのだが、店の周囲を行き交う人影は極端に少なかった。
天候のせいもあるのだろう。夕焼けを飛び越して暗くなっていく空を見る。
そんな中、レストラン・リプルリングだけは、白く塗られた外壁がとても眩しく見えた。
本当は……昔ならもっと眩しく見えたのかもしれない。
少女の顔が曇る。だが、すぐに笑顔を取り戻し、小さなベルの付いた扉を開けた。
「遅いぞ、姉ちゃん」
店のテーブルに腰をかけた、小柄な男の子が声をかけた。
「こら、悠也! テーブルの上に座らないの!」
少女は別のテーブルに荷物を降ろしてから、弟の元に近づく。
少年はテーブルから飛び降りると、降ろしたビニール袋に近づいた。
「何だよ、お菓子くらい買ってきてくれよ」
「何言ってるの。もうすぐご飯なんだから我慢しなさい」
少女は皺になったテーブルクロスを直しながら言った。
店の前に看板を立て掛ける。
黒板の周りに森の妖精と動物の彫刻が彫られた可愛らしいデザインの物だ。
真ん中の黒板に、白いチョークで今夜のメニューを書き込む。
ここからが、彼女のもう一つの日常。
春賀瑞樹はこの店の料理人なのだ。
書き込まれた文字は、チキンと野菜のクリームシチュー。
メニューは一つしかない。それが毎日入れ替わる。
あまり多くのメニューがあっても材料の仕込み等にかけられる時間が少ないためだ。
これが昼間、学校に通っている瑞樹が一人でできる精一杯だった。
決して大きな店では無いが、たった二人でテーブルを囲んでいるとやけに広く感じる。
席の開いたテーブルが周りにあれば、それは尚更だ。
「うぇ……姉ちゃん、これニンジン多すぎだよ……」
悠也はスプーンでニンジンを弾きながら言った。あまり好きでは無いのだ。
「ちゃんと他のも入ってるでしょ」
「そりゃ入ってるけど、あ、姉ちゃんの鶏肉貰い!」
悠也は姉の皿に手を伸ばして鶏肉をさらう。
「行儀悪いでしょ!」
瑞樹はムッとしたが、それ以上は何も言わなかった。
今日は……いや、今日も客は来なかった。
誰もいない店内は灯りがついているにもかかわらず、とても暗く見えた。
悠也は二階の自室でゲームでもしているのだろう。
瑞樹は溜息を零しながら、圧力鍋に残ったシチューを見つめる。
それ程の客が来ることを見越していたわけでは無かったので、極端な量が残っているわけではない。
「明日、これでドリアでも作ろう」
瑞樹は鍋に蓋をした。
看板をしまおう。
扉を開けようとした、その時だった。
鈴が鳴り、今開けようとした扉が、反対側から開かれる。
「いらっしゃいませ!」
瑞樹は反射的に答えた。
開かれた扉から、冷たい空気が吹き込んで来る。
扉の向こうに立っていたのは……大きな影だった。
瑞樹は思わず息を飲んだ。
目の前にいる存在……。
それは全身から金属の光沢を放っていた。
肘から機械の複雑な配線が覗いている。
顔は……口と鼻筋は限りなく人間と同じ形を模していたが、目だけは角張ったガラスのような物で覆われていた。
機械の人間……?
瑞樹はただ瞳を瞬かせることしかできないでいた。
また冷たい風が吹き付け、瑞樹は我に返る。
彼……と呼んで良いものか瑞樹は悩んだ。 ふと見ると、その鋼鉄の体が濡れていることに気が付いた。
彼の背中越しに、舞い落ちる雪の粒が見える。
「ちょっと待ってて下さい……」
瑞樹は急いで店の奥に行き、綺麗なタオルを持ってきた。
機械の彼に触れると、指先が途端に冷たくなった。
幅の広い肩に、厚く降り積もっている雪を払ってから、タオルで拭く。
その間、機械の彼は真っ直ぐ前を見て立っていた。
が、やがて顔を向け、ゆっくりと口を開いた。
「ここは……」
急に話しかけられて、瑞樹の心臓が高鳴った。
喋った……。
瑞樹は微かに動いている彼の唇を見て呆然とする。
「ここはレストランだろう?」
声色は男性の物らしい。低くしっかりした声だ。
「何か、作ってほしい……」
え……?
瑞樹は体を拭く手を止めて、機械の彼を見つめた。
そ、そうよね……お客さん……だもんね……。
瑞樹は急いで厨房に行くと、鍋を火にかけた。
その間、動こうとしない機械の彼を、瑞樹は席に案内して座らせる。
四人掛けのテーブルであるにも関わらず、大柄な彼に比べると少しだけ小さく見えた。
そこに真っ直ぐ背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見つめて座っている機械の彼は、酷く滑稽に見える。
紙ナプキンとスプーン、フォークをテーブルに並べていると、彼がこちらを見た気がした。
温まったシチューを皿に盛り、彼の元へと運んでいく。
目の前に出されたシチューをジッと見つめる機械の彼。そしてそれを見つめる瑞樹。
ほんの少しの間だったが、感じた時間は倍以上だった。
食べる……のかな、やっぱり。
客としてやって来たのだから、目的はそうなのだろう。最初にレストランかと聞いたのだから、間違いは無さそうだ。
機械の彼は暫くシチューを眺めた後、そっとスプーンを付けて口に運んだ。
そのまま、彼は再び黙ってしまった。
いや、何か小さい声で言っているようでもある。
「塩分……糖分……タンパク質……熱量……」
瑞樹はまたしても呆然と立ち尽くす。
「このシチューの事は理解した」
たった一口だけを食べて、機械の彼はスプーンを置いた。
「これと同じ材料は、まだ残っているだろうか?」
顔を上げた機械の彼は、瑞樹を見つめて言った。
機械の視線に迫力を感じた瑞樹は思わず頷いていた。
「すまないが、厨房を貸して貰いたい」
立ち上がった機械の彼は、店を見回した。
「あ、こ、こっちです」
瑞樹はただ状況に流されるままに厨房へと案内していた。
一体、何をする気だろう……。
厨房に立った機械の彼は、まな板の前に立つと、用意して貰った材料の確認を始めた。
「うむ。全く同じ物だ」
一人頷いた彼は、その指先を左の肩に持っていった。
肩に付けられていたカバーの中から、鋭い切っ先が現れる。
それが包丁だと気付くのに、瑞樹には少しの間が必要だった。
人参、玉葱、じゃがいも、そして鶏肉を素早く、それでいて均等な大きさに切り分ける。
機械の彼はまな板の側に置いてあった布巾で包丁を拭き、肩のカバーに納めるまでを、一部の隙も見せず、まさに一連の動作でやってみせた。
「凄い……」
瑞樹は驚きと感嘆の入り交じった表情で見つめていた。
自分も長い間包丁と付き合ってきたが、ここまで華麗に、完璧には使いこなせないだろう。
瑞樹には、まるで彼と彼の持つ包丁が一体であるように見えた。
「鍋は……これでいいだろう」
機械の彼が手に取った鍋は、片手用の長い持ち手がついた小さめの物だった。
そして、コンロに火を灯し、鍋を乗せると、すかさず用意されたバターに目をやる。
彼の袖口……服を着ているわけではないので正確には袖では無いのだが……から銀色の計量スプーンが飛び出した。
四角い乳白色の固まりから、適量のバターをすくい取ると、そのまま熱の通り始めた鍋底に滑らせる。
右手で鍋を回しながら、左手は袋の中からバターと同量の小麦粉を掻き出す。
右手の物がが鍋の持ち手から粉ふるいに持ち替えられる。
小麦粉をふるいにかけ、今度は左手に握られた木へらがバターを掻き回す。
瑞樹は、先程からの驚きが冷めないでいた。
小麦粉が鍋に入ったと同時に、今度は別の鍋で牛乳を暖める。
小麦粉とバターは鍋の中を滑らかに揺れていた。
温まった牛乳が加えられ、一気に熱が上がる。
そこでも素早く、それでいて丁寧なへら裁きで小麦粉と牛乳を完全になじませると、彼は火を止めた。
瑞樹が覗いてみると、出来上がったソースはまさに純白で、まるで輝いているようにも見えた。
一体、どうやったらこんなに上手にできるんだろう……。
瑞樹は改めて、今度は切った材料を炒めている機械の彼に目をやった。
黙々と材料を炒めている機械の彼。
その後ろ姿を見たとき、瑞樹はどこか懐かしい雰囲気を覚えていた。
まるで……お父さんみたい……。
小さい頃に見た、シェフとしての父。
今は記憶の中にしかない面影が、胸の中に蘇ってくる。
「後は……煮込むだけだ」
炒めた材料に、先程のホワイトソースを加えた彼は、ほうろう鍋を見つめていた。
そういえば……。
出したままだった看板をしまおうと、瑞樹は扉を開けた。
雪の粒はさっきよりも大きくなって……明日にはかなり積もるだろう。
看板の文字も、もう濡れて見えなくなっていた。
真っ暗な空を見上げながら、体につく雪を払う。
さ、もう入ろう。
看板を引き上げてから、扉の鍵に手をかける。
あ、まだ……。
振り返ると、厨房に立つ機械の彼は、先程と同じ姿勢で止まっていた。
見つめる視線の先には、グツグツと煮立つシチューがある。
この人……どこから来たんだろう。
時間も遅かった。
元々、店を閉めようかという時間に来たのだからそれも仕方がない。
そろそろ終電の時間も過ぎようという頃だ。
まさかこの機械の彼が、切符を買って電車に乗るのかな……。
あまりに滑稽な姿を想像して、少し可笑しくなった。
「まさか……ね」
とはいえ、厨房に立っている時点で滑稽と言えば滑稽なのだ。
彼の使った鍋やフライパンを片づけようと、厨房に戻る。
「すまないな、こんなに遅くまで……」
「あ、いえ……お構いなく……」
瑞樹はまだ少し緊張しながら、流し台に向かう。
「片づけなら、後で私が……」
「いいんですよ、何時もやってる事ですから」
瑞樹は笑いながら言った。
それを見た機械の彼は、改めて辺りを見回した。
「そういえば……この店のシェフはいないのか?」
「一応、私がやってるんですけど……」
フライパンの表面をスポンジで擦りながら瑞樹は答えた。
「なら、あのシチューも君が作ったのか」
「ええ」
機械の彼は、テーブルの上の皿を見て呟いた。
「あの……ごめんなさい」
洗剤を流す為に捻った蛇口から、冷たい水が流れ出た。
「何故、謝る?」
「だって……折角来てくれたのに、あんな物しか出せなくて……」
そうか……だから……。
瑞樹は、ここに来てやっと、機械の彼が厨房に立ったのかが解った。
きっと、料理の作り方を私に教えたかったんだ。
チラリと覗き込んだほうろう鍋の中には、外に降り積もる雪にも負けないほど、真っ白いシチューが見えた。
こんなに上手に料理を作れる人なんて、見たこと無いよ……。
今まで自分がしてきた事がどんな些細な事だったか。
今日だってお客さんは来なかったし……。
不思議な気分だった。
悲しいとか、悔しいとか、そんな感情は無かった。
ただ……今までずっと考えていた事が、そして考えないようにしていたことが、少しだけハッキリとした輪郭を帯びてきていただけだ。
「私、こうやって店をやってますけど、本当は辞めようかって、ずっと悩んでたんです」
指先に流れ落ちる冷水が、突き刺さるように痛かった。
「でも……なんかスッキリしました」
瑞樹は頬を緩めながら顔を上げた。
「私、もうお店を……」
その先の言葉を言おうとした時だった。
「できた……」
コンロの火を止めて、機械の彼が言った。
そして、スプーンを取り出すと、一口分だけすくい、自分の口元へと持っていった。
「……………」
やはり先程と同じように、ジッと動きを止めていた。
まるで何か考え事をしているかの様にも見える。
「……違う」
力が抜けたかのように、彼の腕が垂れ下がり、握られていたスプーンが床に転がり落ちる。
「全ての条件は合わせたはずだ……。鍋の違いを考慮して、煮込む時間も加減も調節した……」
機械の彼は厨房を出ると、テーブルの上に乗ったまま、すっかり冷たくなってしまったシチューを一口、また一口と口に運んだ。
「……塩分濃度も、糖分も、全て完全に一致するはずだ……」
瑞樹は呆然と、機械の彼を見つめていた。
その彼と、目があった。
彼もまた、真っ直ぐに見つめている。
「……やっと……見つけた」
機械の彼は、ゆっくりと自分の作ったシチューの元へと歩み寄った。
そして彼は瑞樹を見つめて言った。
「私の料理を……食べてみて欲しい」
ああ……やっぱり……。
瑞樹は、やはり彼の思惑が自分の予想通りなのだと確認した。
白い湯気が立ち上るシチュー。
レードルで掬って口元に運ぶ。
口の中に広がるのは、滑らかな舌触りと浸みだした野菜の甘み。
そして…………。
瑞樹は呆然と立ち尽くした。
「なんで……これ……これって……」
瑞樹の目の前が曇ったのは、鍋から立ち上る蒸気のせいでは無かった。
「……お父さんのシチューと……同じ味……」
ゼッタイに忘れることのできない、そしてもう二度と味わうことができないと思っていた……。
あぁ……これだったんだ……。
私がずっと求めていた物……。
頬に滑る、滴。
瑞樹は自分でも気がつかない内に涙を流していた。
「あのシチューを作ったのが君なら解るはずだ。私のものと、どこが違うのか」
瑞樹は答えられなかった。
いや、それ以前に彼の言葉など耳に届いていなかった。
だから、瑞樹の次の言葉は、機械の彼を驚かせることになった。
涙を拭った瑞樹はしっかりとした表情で、ガラスの瞳を見つめた。
「どうしたら、こんな料理を作ることができるんですか?」
「それは……私が聞きたいのだ」
機械の彼は二つのシチューを見比べた。
一見すると、それは同じ物に見えた。
だが、瑞樹には、全然違う物に見えている。
「私は君の作ったシチューを分析し、同じ物を作った……筈だった。だが……」
彼は自分の作ったシチューを一口啜った。
「だが……違うんだ。何かが足りない。君の作ったシチューを食べたときには、もっと別の何かを感じたのだ」
機械の彼は瑞樹の目を見つめた。
「それが何なのか、私に教えて欲しい」
やっと瑞樹は驚いた。
彼の申し出が、今自分と思っていた事とまったく一緒だったからだ。
二つの視線が交差する真ん中で、時間はゆっくりと流れていた。
*
雪は尚も激しさを増していた。
部屋の中は暖房が効いている筈なのに、少し寒いくらいだ。
洗い物を終えた瑞樹と機械の彼は、一つのテーブルに腰を下ろした。
改めて見る機械の彼は、なかなか端正な顔つきをしていた。
本当に人間みたい……。
瑞樹は、また彼を見つめた。
その視線に気がついた機械の彼は、少しだけ居心地が悪そうに顔を背ける。
「何から話したものか……」
小さくそう言った彼の姿が、瑞樹には少しだけ可笑しかった。
もしかして、照れたのかしら?
そんな事を考えて、クスクスと笑いを零す。
「それじゃ、まずは自己紹介。私は春賀瑞樹。一応、この店の店長です」
瑞樹は言いながら悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「私の名はビストロン。カスタムタイプのヒューマシンだ」
ヒューマシン……?
聞き慣れない言葉に、瑞樹は首を傾げる。そんな瑞樹の疑問を察してか、ビストロンは言葉を続けた。
「知らないのも無理はない。我々ヒューマシンが日本で表だった活動をすることはなかったからな。まぁ早い話、ロボットだ」
「はぁ……ロボット……」
それにしても人間の様だと思う。
そう言えば悠也が、こういうの好きだったっけ……。
目の前にいる彼は、テレビで見た犬型やダンスを踊るロボットに比べると、よっぽどアニメやプラモデルにありそうなデザインだった。
特に目を引くのは左腕で、何やら機関銃の様な物がついていた。
それはよく見ると胡椒轢きなのだが……。
「でも、どうしてロボットがシェフをやってるの……?」
肩についているのは武器ではなく、包丁のケースだ。
それに……よく見ると、彼の頭は上に長く伸びていて、それがコック帽に見える。
「それは私が料理用に作られたヒューマシンだからだが……」
ビストロンは、少し答えに困っているようだった。
デザインや、第一その名前からして、彼を作った人間が意図していることはなんとなく理解できた。
「しかし、私がこの様に生まれてきたのには理由があると……父は言っていた」
「お父さん?」
ロボットのお父さんって、どんなんだろう……。
瑞樹は一瞬悩んだが、よく考えればそれこそ作った人間の事を言っているのだろう。
「それで、そのお父さんはなんて?」
「いずれ私の力が必要になる時がくる。その日の為に、本当の料理人になれと……」
本当の料理人……?
瑞樹はさっき見た料理の腕の程を思い出す。
「でも、あなたの料理って完璧だったけど……」
「確かに、私には完璧な技術が与えられている。どんな料理でも再現できる……筈だった」
ビストロンは真剣な表情で瑞樹を見つめた。
「父は言った。私の料理に足りない物があると……それを見つけてこいと」
「それが……私のシチューにあったの?」
「ああ。だから……私に教えて欲しい。君の料理の全てを」
ビストロンの言葉に偽りがあるとは思えなかった。
だが、瑞樹にはその言葉の全てを受け止めることはできなかった。
「ごめんなさい……」
瑞樹は俯いて言った。
瑞樹が彼に教えることなど、とてもできない。
それが彼女の中にある答えだった。
「ごめんなさい……」
瑞樹はもう一度繰り返した。
俯いたままの瑞樹には、彼の表情を伺い知ることができない。
だが、その一瞬の沈黙が、彼の落胆を表していた。
「……解った」
ビストロンは静かに言い、そしてそっと席を立った。
「色々とすまなかった。今日の事は忘れて欲しい」
瑞樹が顔を上げた時には、彼の後ろ姿は扉の前だった。
ビストロンは、ドアノブを見つめたまま静かに言った。
「君のシチュー……本当に美味しかった。いつか、私も……」
瑞樹の心臓が、一際高く脈打った。
「あ、待って……」
瑞樹が引き止めようと席を立ったが、既に彼はドアの向こうに消えていた。
瑞樹は慌てて追いかけたが、既にビストロンの姿は、夜の闇と白い雪の中に消えていた。
*
朝が来ても、瑞樹の気分は晴れないままだった。
パジャマを脱いで制服に着替えた瑞樹は、愛用の白いエプロンを纏い、髪が邪魔にならないよう後ろで纏めてから部屋を出る。
「悠也。朝よ」
とりあえずノックだけして、悠也の部屋の前を通り過ぎる。まだ登校時間には早い。ちゃんと起こすのは朝食の準備が整ってからでいい。
厨房に立った瑞樹は、同じシチューが入った二つの鍋を見て溜息をついた。
あれから……どうしたんだろう……。
ふと窓の外を見ると、外は真っ白だった。
どこかで凍えてなければいいけど……。
冷静に考えてみれば、相手はロボットなのだから、凍死する事も無いはずだった。
が、瑞樹は彼を追い返してしまった事に後ろめたさを感じていたのである。
それに……。
瑞樹は冷たくなったほうろう鍋をコンロにかけた。
温まったシチューから、いい香りが漂ってくる。
瑞樹はレードルで一口啜り、やっぱり自分の物とは違うと思った。
「本当に、私が教えて欲しいくらいだよ……」
瑞樹は圧力鍋も火にかける。
その間に、瑞樹は食器棚からグラタン皿を取りだして、まんべんなくバターを塗った。
そこにご飯を盛り、シチューをかけて混ぜ合わせる。
程良く混ざった所でチーズを乗せる。
シチューの熱で、少し溶けかかる。
そこにもう少しシチューをかけて、その上にもう一度チーズを、今度はパン粉と粉チーズを振る。
あとは皿ごとオーブンに入れればいいだけだ。
瑞樹は火加減を見ながら、手早くバターとチーズ、パン粉をしまい込んだ。
オーブンの方は暫くは大丈夫だろう。その間に、テーブルクロスを洗濯して置いたものに取り替えて、今まで使っていた物を洗濯機に放り込む。
軽く店内を掃除した所で、そろそろオーブンのチェックにかかる。
グツグツと表面が波打ち、パン粉に程良い焦げ目が現れてきた。
「うん。こんなもんかな」
瑞樹は両手に鍋掴みを填めて、中から熱の通ったグラタン皿を取りだした。
出来上がったドリアをテーブルに置いてから、いよいよ悠也を起こしにかかる。
部屋の扉をあけて、今度は直接、耳元で怒鳴った。
「悠也! 朝よ!」
声に反応して、悠也は軽く目を開けた。だが。
「うわ、寒ぃ……」
再び布団の中に潜り込んでしまう。
「ほら! 起きなさい」
瑞樹は無理矢理布団を引き剥がした。
まるで小動物かダンゴ虫のようなポーズで丸まっていた幹也は、ばっと上体を起こし、恨みがましい目つきで睨む。
「凍えたらどうすんだよ」
「馬鹿なこと言ってないで、ご飯にするわよ」
瑞樹は悠也の頭をポンと叩いた。
「幾ら何でも、朝からドリアかよ……」
食卓を見て、幹也がげんなりした顔つきになる。
確かにボリューム満点で、胃がもたれそうな朝食である。
「残ったままじゃ勿体ないでしょ。ほら、片づかないから早く食べちゃって」
瑞樹は平然とドリアのチーズの乗った部分にスプーンを立てる。
「それにしたって……今日は随分と多くないか?」
幹也はなかなか中身の無くならないグラタン皿を見て言う。
悠也は、夕べまた新しくシチューを作った事を知らない。
夕べ作ったものは分量がさほど多くなかったので、そのまま悠也の分にした。自分は、それよりも量の残っていたシチューをグラタン皿から零れそうなほど入れている。
意外と言うべきか……瑞樹の胃は相当たくましく、食べろと言われれば朝から揚げ物だってぺろりと平らげる。
それでも授業中に気持ち悪くなったりした事もない。
悠也の方は、慣れてはいるものの、今日の授業に体育が無い事にホッとしていた。
「ねぇ、悠也……」
瑞樹は、ふと手を止めて悠也を見た。
「そのドリア……いつもより美味しくない?」
「はぁ? 何言ってんだよ。何時もと同じじゃん」
悠也はそれだけ答えて、食事に没頭する。
それを見る限り、悠也は料理の違いに気がついていないようだ。
瑞樹は一口だけ、悠也の皿から食べてみた。
やはり、どこか懐かしい味がした。
*
「おーはよ、瑞樹」
教室に入るなり、クラスメートの皆川咲子が話しかけてくる。
「おはよ、咲ちゃん」
彼女とは高校に入ってからの付き合いだが今では一番の親友と呼べる相手になっていた。
ついで……と言ったら失礼だが、もう一人仲の良いクラスメートも側にいる。
「どうしたの? 光司くん?」
咲子の隣にいる男は、何やら怠そうな顔をしていた。
「はぁ……なんか胃がおかしくてさ……」
高羽光司は怪訝な顔で言った。
「何よ、だらしないわねぇ。寝る前にお菓子でも食べてたんでしょ?」
咲子の言葉に、光司は益々、不機嫌そうになる。
「夕べじゃなくて、さっきだよ」
光司は適当な席に腰を下ろし、咲子を睨む。
「こいつ、朝から牛丼食ってんだぜ? しかも特盛りで……見てるこっちが気持ち悪くなるってんだよなぁ?」
「なぁって言われても……」
瑞樹は答えに困る。
「私も、悠也に同じ様な事いわれたくらいだし……」
「何よ、瑞樹は何食べたの?」
「ドリア」
二人の会話の横で光司が頭を擡げる。
「お前ら二人とも変だ」
「何よ、朝から牛丼もドリアも食べたらいけないみたいな言い方じゃない」
「そこまで言ってねぇだろ」
瑞樹の目の前で二人が睨み合う。
「でも、二人して朝御飯食べてきたの……?」
今まさに口論を交わしている二人だが、実際はとても仲がいいのだ。
しかし瑞樹がそれを指摘すると決まって、
「別に俺達はそんなんじゃないぞ!」
と光司が反論する。そして、
「何で、そこまで迷惑そうに言うのよ!」
と咲子が怒るのだ。
瑞樹に限らず、傍目から見れば本当にお似合いのカップルなのだが……。
「で、瑞樹。あんたは何を悩んでるの?」
「へっ?」
瑞樹は思わず目を見開いた。
「あ、なんで解ったの? って顔ね」
咲子はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
そして人差し指を立てて、瑞樹の頭を指さした。
「リボンつけてる」
「あ……」
瑞樹は朝食を作るときに纏めた髪が、そのままである事に今やっと気がついた。
「考え事しながら家出てきた証拠でしょ。で、何を悩んでるの?」
「春賀が何を悩んでるのか知らないけど、何だってお前はそんなに楽しそうなんだよ」
光司が呟くが、咲子は何も答えず、わざと聞き流した。
しかし、瑞樹の方も答えて良いものか悩んでいた。
まさかロボットが家に来たなんて言って、信じて貰えるだろうか……。
今更ながら、夢みたいな話だと自分で思う。
だが、鍋に残っていたシチューは紛れもなく本物だった。
「あ、そうだ。ちょっと待って」
咲子は急に声を上げ、自分の机に手を伸ばす。
鞄を手に取った咲子は、中から何かを出した。
「じゃーん」
咲子は手に取った本を得意げに見せてくる。
それを見た光司はまた、怪訝な顔をした。
「それ……何の本?」
瑞樹も恐る恐る訪ねる。
二人が身を引くのも無理は無かった。
咲子の手に握られた分厚い革の表紙には、蝙蝠の羽を身につけた悪魔の姿が描かれていたのだから。
「これ、占いの本よ」
「呪いの本じゃないのか?」
光司が呟く。実は瑞樹もそれに類することを考えていた。
「馬鹿なこと言ってると、ホントに呪っちゃうわよ~」
わざとらしく明るい口振りで咲子は言った。
「ハハハ……」
瑞樹は乾いた笑いを零す。
彼女がオカルトマニアである事は知っていた。
でも……その本はやだな……。
瑞樹は思ったが言い出せなかった。
「えっと、今日は二月の二十日でしょ……瑞樹の正座は乙女座で血液型はAで……」
真剣な顔で本と対面している咲子を止めることはできなかった。
「よし、解った」
バタンと本を閉じる咲子。それを見て光司はつまらなそうな、瑞樹は少し不安そうな表情を浮かべる。
「ズバリ、瑞樹が悩んでることは……」
少し勿体つけて咲子は言った。思わず瑞樹も息を飲む。
「今夜のメニューね」
咲子の言葉を聞いた光司がズッこける。
「そんなの、いつもの事じゃねぇか!」
「何よ、占ってみたら本当に、そうなったんだもん」
また始まる二人の口論の横で、そう言えば今夜のメニューを考えていない事を思い出していた。
授業中も、教師の話を聞きながら今夜のメニューのことを考えていた。
外を見ると、まだ溶けきっていない雪が白く輝いて見える。
教室の中は暖房が効いていて、上着を着ていると少し暑い位だった。
外はどうなのか。寒いなら、やっぱり身体が暖まるものがいい。
でも、今日もシチューだと悠也が怒るかな……。
そんな事を考えている間に時間が過ぎていく。
しかし、その時間の中でも夕べの事は忘れられなかった。
思い出す、あの懐かしい味……。
そう、自分はあの味を求めていたのだ。
もう一度……。
もう一度、あの味を店に取り戻したくて……。
終業のチャイムが鳴ると同時に立ち上がった瑞樹は、駆け足で教室を出ていった。
*
行きつけのマーケットで材料を買い込んだ瑞樹は、足早に家へ戻った。
悠也はいなかった。遊びにでも出ているのだろう。
いつもなら帰ったら小言の一つでも言わなければと考える所だが、今日は違っていた。
身支度を整えた瑞樹は、厨房に食材を並べた。
それは昨日と全く同じものだった。
クリームシチューの材料だ。
「もう一度……チャレンジしてみよう……」
瑞樹は決意を新たに包丁を握った。
火の通りを均一にするため、材料を丁寧に、丁寧に同じ大きさに切り分ける。
鶏肉を炒める時も、なるべく焦がさないように気を付ける。
水を張った鍋に材料を入れる。
いつもなら時間を短縮するために、圧力鍋を使っていた。
だが今回は、昨日の彼がやったのと同じ様に、ほうろう鍋でじっくりと煮込むことにした。
浮いてくる灰汁をレードルで慎重にすくい取る。灰汁が残っていると味が悪くなるからだ。
ボールに汲んだ水に何度もレードルを浸しながら、少しずつ澄んだスープにしていく。
野菜と肉の旨味が出ているであろう事を期待しながら、瑞樹は次の作業に取りかかる。
ホワイトソース。昨日、ビストロンが作ったものは純白と言って良かった。
例えば、バターが焦げついてしまってもそれだけで色合いが変わってしまう。
さらに牛乳も加熱しすぎると色が変わってしまう為、そうなる前にソースを完成させなければならないのだ。
素早く正確に……。瑞樹の手がプレッシャーで震えた。
それを必死で押し殺し、しっかりと鍋の持ち手を握る。
昨日の彼のように……いつか見た父のように……。
必死な表情で木へらを動かしてソースを混ぜる。
滑らかに、小麦粉が玉に成らないよう丁寧に……丁寧に……。
グツグツと煮立つシチューからはいい香りがしていた。
だけど……。
「やっぱり……違う……」
瑞樹は何時もと同じ味のシチューを味見して、肩を落とした。
やっぱり、私には無理なの……?
瑞樹の心に悲しみが広がる。
いや、悲しみよりは悔しさかも知れない。
どうして……。
自問自答を繰り返す。
だが答えが出る筈など無かった。
「ただいまぁ」
店の扉が開き、悠也が帰ってきた。
真っ直ぐに厨房にやって来た悠也は、姉の後ろ姿を見て立ち止まる。
「……何してんだ?」
姉の肩が震えている。
だが、まさか泣いているとは思わず、小走りに近づいた。
「なんだよ、またシチューか……」
覗き見た姉の瞳には、涙が滲んでいた。
悠也は言葉を失った。
「ど、どうしたんだよ……一体……」
心配そうな声が聞こえて、瑞樹はやっと悠也が帰ってきた事に気付く。
「な、何でもないよ」
瑞樹は涙を拭って笑った。
「それより……ごめんね。今夜もシチューになっちゃった」
その笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
「さ、お店開けなくちゃ」
瑞樹はこれ以上心配をさせたくないと、悠也に背を向け、店の扉に向かった。
その時……。
店の扉がゆっくりと開いた。
そして、そこに立っていたのは……。
「あ……」
瑞樹は思わず息を飲んだ。
「すまないとは思ったが……やはり諦めることができなかった。もう一度だけ、君の料理を味合わせて欲しい……」
立っていたのは、コック帽を被った鋼鉄のシルエット……。
瑞樹は思わず、駆け寄っていた。
「夕べは本当にごめんなさい! 私、あれから色々考えたの。私も、あなたの味を知りたいって……」
涙は止まっていた。変わりに、喜びが沸き上がってくる。
「私があなたの力になれるかは自信ないけど……お互いに協力することはできると思うの」
「それじゃあ……」
「うん。一緒に、やってくれますか?」
「勿論だ。オーナー!」
堅く手を握り合うロボットと姉の姿を、悠也は呆然と見守っていた。