メイドのソフィアとパンケーキ
息を止めて、引き金を引く。とてつもなく大きな音が鳴り響く。それに見合った反動が体を打つ。ご主人さまに支えられていなければ、後ろに吹き飛ばされていたかもしれない。
草の香りに火薬のにおいが混じる。
「けほ、けほ」
鼻を刺激するそのにおいに、ソフィアは思わず咳き込んだ。
「上手だ」
ご主人さまは双眼鏡で彼方の的を覗いていた。ちゃんと命中したらしく、頭を撫でられる。そうされると、ソフィアは理由も分からないのに気持ちよくなる。
「よし、今日はこれくらいにしよう。おなか、すいただろ」
ソフィアはうなづいた。起き上がって、ライフルからマガジンとブレットを取り外し、二脚と一緒にケースに収める。身長ほどもあるケースを背負い、ご主人さまの後を追いかけた。
***
銃とアクセサリーをしまってからキッチンのほうに向かうと、すでにご主人さまがお昼を作っていた。
「手伝いに来てくれたのか?」
手伝いに来たというか、むしろ料理はメイドであるソフィアがすべきことなのではないだろうか。
ソフィアはそう思ったが、自分ひとりで料理を作れるわけでもない。素直に首を縦に振った。
「じゃあ、卵を三つ割ってかき混ぜて」
言われた通り、冷蔵庫から卵を三つだし、ボウルに割ってかき混ぜる。
ソフィアは混ざり合っていく三つの卵黄を見ながら考える。今日のお昼はなんだろう。卵を三つも使うのだ、きっと卵料理に違いない。ということは、きっとオムレツかスクランブルエッグ。もしかしたら、「タマゴヤキ」という東の島国の料理かもしれない。
いずれにしても、ソフィアの大好物だった。南の大陸出身で、十分な食糧にありつけないまま育ったソフィアには、ご主人さまの国の料理も、時々ご主人さまのお医者さんが作ってくれる東の島国の料理も、とてもおいしく感じる。
「そろそろいいよ。ありがとう」
ご主人さまはソフィアからボウルを受け取り、そこに何やらいろんな粉を入れ始めた。そして再び混ぜ合わせ始める。魔女が魔法の薬を作っているみたいだ。ソフィアが不思議そうに眺めていると、ボウルの中身は卵ではなく、のっぺりとしたのりみたいな物体になっていく。
「よし……。これ、あっちのテーブルに持ってって。気をつけてね」
言われるまま、ソフィアがダイニングにボウルを運ぶと、ご主人さまは鉄板とおたまを持ってついてきた。
「パンケーキって知ってるか?」
今度は首を横に振った。「ケーキ」は食べたことこそないけど知っている。非常に高価な食糧で、二百年近く前に隣国のヴェルサイユで起こった革命のときにも大活躍だったとか、そういう話をハナ──ご主人さまのお医者さんに、聞いたことがある。
しかし、パンケーキとは何なのか。それが、まさに今から食べることになるものなのだろうか。
「あたしも子供のときぶりだなあ。うまく作れるといいけど」
ご主人さまはプレートに火をかけ、バターを塗った。そしてのり状のそれをたらりと垂らす。
ちょうどまるい形に黄色い「卵だったもの」がまとまった。プレートの上でぷくぷくと泡を立てて焼けていく。
甘い香りが立ち込めた。ソフィアはその香りに、空腹を強く意識する。
「……ほいっ」
ご主人さまが丸く整えた生地をひっくり返すと、きつね色の表面があらわになる。満月みたいだ。
「ソフィア、お皿とナイフ、フォークを持っておいで。もうすぐできるよ」
ソフィアは急いでキッチンに取りに行った。お皿を差し出すと、その上に「パンケーキ」が横たえられる。
ご主人さまは半分に切って、自分のお皿にも載せた。
「どうぞ、召し上がれ」
ソフィアは半月の端っこの部分を切り取り、口に含んだ。パンケーキはほろりと崩れ、甘やかな味わいが口に残る。
「おいしい?」
ソフィアはうなづいた。並み居る卵料理たちと互角にやりあえる……いやそれどころか、上をいくかもしれないほどのおいしさだった。ふわふわした食感はまったく未知のもので、いくら食べても飽きることがない。柔らかい甘みが口に残り、次のひとくちを誘う。
「バターやシロップをかけるともっとおいしいんだ……、もう食べちゃったのか。おかわり、いる?」
またうなづく。ご主人さまはソフィアに苦笑しながら、新たな生地をプレートに載せる。
いくつもの満月がプレートの上にあらわれ、ソフィアのおなかの中に消えていった。ご主人さまは嬉しそうに目を細めて、そんなソフィアを眺めていた。
***
お昼ごはんのあと、ソフィアは読み書きの練習をする。ソフィアが生まれた南の大陸では、読み書きができるひとのほうが少ないくらいだったが、ご主人さまの国では最低限できないと仕事につくのも難しい、らしい。
ソフィアが慣れない字に苦戦していると、外から低く唸るようなエンジン音が聞こえてきた。ご主人さまのおうちは小高い丘の上に立つ一軒家なので、車が来ることなんてまれだ。
「ソフィア、出てくれるか」
ご主人さまに言われ、ソフィアはメイドとしての役目を果たすべく、玄関へ向かった。
外にはおんぼろのジープが一台と、隣にピカピカの車が止まっていた。ご主人さまがたまに食べている高級なチョコレートみたいな形だった。一人、白衣を身に着けた小柄な女性が下りて、ゆったりとした歩調で玄関口に立つソフィアの近くに寄ってくる。
「こんにちは、ソフィア。ラウラはいるかしら」
落ち着いていて、美しい声色。彼女の声を聴くたび、そう思う。
うなづいて、彼女を応接間に通す。リビングにご主人さまを呼びに行くと、すでに紅茶とお菓子を三人分用意していた。またメイドの仕事を取られたような気がする。
「おいで」
ソフィアはご主人さまについて、応接間に向かう。
「やあ、ハナ。いつも来てもらってすまない」
「いいのよ、別に。その子のことも気になるしね」
三人がソファに腰掛けると、ハナはちらりとソフィアのほうを見て言った。
ハナはご主人さまの主治医で、時々こうして家に来る。ご主人さまは従軍していたとき、戦場で右足首に銃弾を受け、終戦から数年経った今でも定期的に検診を受けている。歩くことや日常の用くらいならほとんど問題はないようだが、走ったり激しい運動をしたりするのはハナに厳しく制限されているのだ。
「最近、傷みはない? 雨の日とか、違和感あったり」
「ないな」
「そう。ならいいんだけど……。うつ伏せになって右足を見せて」
ハナはすぐに触診を始める。
「ここ。触ってるのわかる?」
「……わからない」
「こっちは?」
「わかる」
「うーん……。まだ感覚が戻らないみたいね。これは痛い?」
それからハナはご主人さまの足をつねったり持ち上げたりしていろいろ試していたが、ため息をつくとそっと足を戻した。
「悪化もしていなければ好転もしていないわね。痛みがないならいいんだけど。きっと時間をかければ治るでしょう。なるべく激しい運動は避けること。いい?」
「ああ。わかってるさ」
「さて……次はあなたね」
ハナはソフィアの隣に腰掛ける。そしてソフィアの頬をぐにぐに引っ張った。
「……よく伸びるわね」
ハナがしたり顔にうなづく。それは診断と関係があるんだろうか。ソフィアは疑問に思う。
「おなか見せて」
言われた通り、ソフィアは服をたくし上げておなかを見せた。みぞおちやそのあたりに聴診器を当てられ、なぜか胸のあたりをさすられる。
「なかなかいい調子ね。ちゃんと食べてる証拠よ」
何がいい調子なのだろうとか、胸を触らなくても分かるだろうとか思ったが、ソフィアは特に何も言わなかった。
背中にも同様に聴診器を当て、のどの奥を見てから、ハナはソフィアを解放した。
「最近困ってることとかないかしら。どこかが痛む、とか」
ソフィアはかぶりを振った。
「ならいいの。あなたはまだ痩せぎすだわ。いきなりそんなにたくさんは食べられないかもしれないけど、だんだん量を増やしていくことね」
うなづく。
「ラウラ、ソフィアの健康にはちゃんと気を付けるように。それがあなたの役目でもあるわ」
「わかってるよ。ありがと」
***
ハナを見送ったあと、ソフィアは夕食を作るご主人さまの手伝いをした。ビーフシチューの付け合わせのポテトの皮を剥いただけだけど。ソフィアが包丁を持っている間は、ご主人さまの方が手を止めてソフィアを見ていたので、あまり手伝いになっていなかったかもしれない。
夕飯のあと、ご主人さまと一緒にお風呂に入る。真水は貴重だけど、ご主人さまともども、ハナに毎日入浴するように言いつけられていた。ハナの国では、お風呂が健康にいいとあつく信じられているみたいだ。
お風呂を出てから、タオルで髪を乾かしてもらう。髪を乾かしてもらうほうではなく、乾かすほうがメイドの仕事である、ということは、どう考えても間違いようがないが、ソフィアとしては髪を乾かしてもらうのは非常に気持ちいいので、黙っておくことにする。
お風呂の後は自由な時間で、ソフィアはご主人さまとラジオやレコードを聴く。ソフィアがあくびをすると、ご主人さまがソフィアの銀色の髪を手で梳いた。
「もうおやすみ?」
答えるように、またあくびをした。ご主人さまはレコードと部屋の明かりを落とし、ランタンを持って、ソフィアと寝室に移動する。
ダブルサイズのベッドにソフィアが横になると、そのそばにご主人さまも横たわる。そして後ろから、ソフィアの小さな体を抱いた。温かいご主人さまの体に包まれ、意識が蕩けそうになる。
「……ソフィア、あれやらせて」
ご主人さまがそう耳元でささやく。寝たふりをしようとしたが、彼女の吐息が耳をくすぐり、びくっと肩を震わせてしまう。
ご主人さまは時々、ソフィアに「あれ」をさせてほしいとお願いしてくる。ソフィアはご主人さまのメイドであり、できる限り彼女に尽くしたいと考えているが、このご奉仕だけは、進んでやりたいとは思えないのだ。
ソフィアがぐずぐずしていると、ご主人さまが悲しそうな声で尋ねた。
「いやなのか?」
そんなことはない。ソフィアは首を横に振る。
これ以上こうしていても、きっとご主人さまに「命令」されてやることになってしまう。メイドはご主人さまの命令には絶対服従だ。
それにソフィアも、ご主人さまと「あれ」をやるのは別にいやじゃない。ちょっと恥ずかしいだけだ。
ソフィアは覚悟を決めて、ご主人さまのほうに向きなおった。うれしそうな表情にランタンの光が揺れている。
ご主人さまはソフィアを今度は正面から抱きしめた。落ち着くような、いい匂い。彼女の体温が腕からじかに伝わる。
「いい?」
静かな瞳に射すくめられ、ソフィアは小さくうなづいて目を閉じる。
唇をくすぐられる。物足りないような気がして、ソフィアが薄く目を開けると、ご主人さまは唇を強く押し当ててくる。
唇と唇が触れているだけなのに、全身に熱を感じる。ずっと浸っていたいような、心地よい熱。
離れてほしくない。ソフィアはご主人さまに触れようとして、心の中でいけないと踏みとどまる。自分はご主人さまのメイドだから、ご主人さまに求められることがあっても、ご主人さまに求めるようなことをしてはいけない。
ご主人さまが唇を離す。すぅっと体の内側から冷えていくような感覚を味わう。それをご主人さまに伝えることは、ソフィアにはできないことだった。
ご主人さまと唇を合わせた後は、いつも胸が締め付けられる。もし、ハナみたいに、ご主人さまと対等な立場なら、もっとずっと唇を合わせられるのかもしれない。そう思うと、肌の色が少し違う自分に泣きそうな気持ちになってしまう。
「おやすみ、ソフィア」
ご主人さまはそんなソフィアの気持ちも知らず、彼女を胸に抱く。心に空いた穴が、少しだけ満たされるような気がした。ソフィアは彼女の胸に顔を埋め、そっと息を吐いた。