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君の瞳に映るのは  作者: novel_no_bell
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君の名は

 どうして俺はピアノを続けているのだろう。何のために音楽を奏でているのだろう。

 日曜日のコンクールの帰り道、俺は家の近くの浜辺を歩いていた。

 今日の結果は三位。ここのところ一位を獲った記憶がない。小学生のころはよく一位を獲ったものだが、中学生になってからというもの、どうしても「いい」と思える演奏ができず、一位を一度も獲ることができていない。

 浜辺の砂に足をうずめたり、砂を蹴り上げたり、近くに落ちていた石で水切りをしたり――そんな風にしながら物思いに老けていた。

 ピアノを演奏する目的を見失ってしまっている。もうあの人はいない。あの人のために演奏していたからこそ、小学生のころは優秀な成績を収めることができていたのだと、最近そのように考えるようになった。

「ピアノ、止めちゃおうかな」

 拾い上げた石を手でもてあそびながら、ぼそりとつぶやいた。

 その声は波の音にかき消されていく。

 目の前に続く浜辺に視線を持ち上げていくと、そこには一人の女性が立っていた。

 望遠鏡を覗き込み、これから徐々に暗くなっていくであろう空に目を向けていた。彼女は――。

 こちらの視線に気が付いたようで、彼女は望遠鏡から顔を離すと、こちらに笑顔を向けてきた。

「よければ見ますか?」

 望遠鏡のレンズを指さしながら、彼女は俺に声を掛けた。

 正面からの顔を見て確信する。やはり彼女だ。中学最後のコンクールの後に出会った彼女だ。

「いえ、俺は」

 咄嗟の再会に戸惑いを隠せず、声が上ずってしまう。

 まあ、そう言わずに。俺のところまで近づいてきたかと思えば、裾を引っ張って望遠鏡が設置されている場所まで俺を連れていく。

 彼女と俺が歩くたび、浜辺の砂がさらさらと音を奏でる。

 夕焼けに照らされた望遠鏡は、絵になるほどに美しくて、厳かで、どことなく儚さも身にまとっていた。

「あと三十分もすれば、見えると思う」

 あのときも彼女はこう言っていた。今と同じく穏やかな笑顔をたたえながら。

「あの、あなたは――」

 逸らしていた目を彼女の顔に向けると、そこには俺が期待していた表情はなかった。

「いえ、何でもないです」

 彼女の記憶から俺という存在は抹消されてしまったようだ。そもそも、記憶すらされていなかったのかもしれない。彼女にとっては、日曜日の夜に出会った一人の少年に過ぎなかったのかもしれない。でも、俺にとって、この人は――。

「あ、カニだ!」

 彼女は足元にいた一匹のカニを掴み上げ、こちらに見せてくる。

「はい、君のもの」

 俺の胸の前にカニを持った手が差し出された。

「いえ、掴むのはやめておきます。手を怪我したら困るので」

 ピアニストにとって手は命と同じくらい大切だ。

「ええ、もったいない。この時期にここでカニを見かけることなんて滅多にないのに」

 海に向かって駆け出して行った彼女に、俺はゆっくりとついていく。

「じゃあね。元気でね」

 彼女の手から離れたカニは、海の中へと歩いて行った。

 お、暗くなってきた、なってきた。しばらくの間、カニが海へと帰っていくのを見届けていたかと思えば、今度は望遠鏡の方へと駆け出して行った。

「早く早く! 君もおいでよ!」

 望遠鏡を覗き込み、顔を再びこちらに見せると、手でひょいひょいとこっちへ来いというジェスチャーを向けてくる。

 せっかちで落ち着きのない人だな。

 彼女の言われた通りに望遠鏡のもとまで足を運ぶ。

 ミシリミシリ。砂が足裏の肌から伝わってくる。

「ほら、見てみなよ。どう? きれいでしょ」

 ……これから覗こうとしている俺に言われても。

 彼女の感情表現に多少気後れしながら、望遠鏡を覗き込む。

 目の前に拡がる夜空の中に、カラフルに光り輝く星々。その色は二十四色パレットのようで、夜の空を彩っている。

 この人と初めて出会ったあのときもそうだった。

 中学最後のコンクールの結果に落ち込んでいた俺に、この望遠鏡で星空を見せてくれた。横で何やら彼女は騒がしくしていたけれど、星空を覗いた瞬間、俺の世界は星と俺の二人きりになった。

「どう? 元気出た?」

 どれくらい覗いていたのだろう。望遠鏡から顔を離した俺に、彼女は先ほどと同様に穏やかな笑みを浮かべていた。

「……はい。ありがとうございます」

 それはよかった!

 彼女は望遠鏡を片付け始めた。

 手伝いましょうかと声を掛けたけれど、片付けるのも楽しみの一つなんだよ。お姉さんの楽しみを奪わないでおくれ。と、芝居めいた口調で返事が返ってきた。

 どこまでが本当なのかは分からないけれど、俺はどうしても一つだけ聞いておきたかったので、望遠鏡を解体している彼女に声を掛けた。

「……お名前は何というのですか」

 作業していた手を止め、こちらをきょとんとした顔で見つめてきた。

「え、私?」

 俺は首を少しばかりすくめながら、上下させる。

「乙羽。桜井乙羽」

 この日、俺は彼女の名前を初めて知った。

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