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桜の丘の幽霊さん

作者: とと。

別サイト様のお題企画にて投稿した作品になります。こちらのサイトで投稿するのは初めてとなりますが、少しでも楽しんでくださると嬉しいです。

街のはずれにある丘の上には、花が咲くことのない不思議な桜の木があります。中には花が咲いているところを見たことがあるという人もいるそうですが、少なくとも私は見たことはありません。


そして、この桜の木には、とある奇妙な噂が囁かれていました。

それは、この桜はあの世に繋ぐ場所だというもの。何でも、花を咲かせている時に桜の元へ訪れると、死の世界にいる人に会うことができるそうです。

ただ、一つ。そのときに決してやってはいけないことがあります。

それは、その亡くなった人と仲良くなってしまうこと。桜の木があの世へと連れていってしまうそうです。


この桜は花を咲かせることはない、と私はずっと思っていました。ですが、この街に引っ越してきて二年程経った頃でしょうか。決して咲くことのないと思っていた桜の下で、私はとても悲しそうな人に会いました。



それは、とある雪降る日のことでした。








私はよく亡くなった人を見ます。

電車の向かいに座っている人をよく目を凝らして見れば身体が透けていたり、すれ違いざまに挨拶を交わし後ろを振り返れば誰もいなかったり、なんていうことは私の中では日常茶飯事です。

ですが、よく幽霊番組とかにあるようなそれで怖い思いをしたことは一度もありません。にっこりと微笑みかければ向こうも微笑み返してくれますし、挨拶をすれば丁寧に会釈をしてくれます。私たちと違う世界で生きるというだけで(生きていると表現するのは少しおかしいかもしれませんが)、特にこれといって私たち生きている人間と何ら変わりはないように思えます。亡くなった人だって、その人なりの日常を過ごしているのです。



他の人が見えないものが見てしまう私ですが、これは生まれつきのものではありませんでした。定かではありませんが、私が亡くなった人を見えるようになったのは、幼い頃に幾度も経験した手術がきっかけだったかのように思います。

私は生まれつき身体が弱く、体力のなかった幼い頃は救急車に運ばれることがしばしばありました。そのまま緊急手術を施されたこともありました。ほんの少し遅ければ死んでいたこともあったようです。

そのときのことはよく覚えてはいませんが、亡くなった人を見るようになったのは思えば、その頃からだったように思います。

最初は微かな気配を感じる程度でしたが、段々それは強くなっていき、ついにははっきりと姿として捉えることができるようになっていきました。私の視界の中に、この世界とは別の人が映し出されるようになったのです。


彼らは私と目が合うと皆決まって、少し切なげな表情を浮かべます。酷く悲しそうに私のことを見つめてくるのです。やはり、まだ生前の心残りがあるのでしょうか。

何か出来ることはないか。そう私は一生懸命考えました。ですが、結局は何も思い付かないので、私はいつも笑い返すことしかできません。せめて、その悲しみを少しでも和らげることができるように、精一杯明るく笑うだけです。


病弱で、しかも他の人には見えないものが見えてしまうものですから、両親には酷く迷惑を掛けました。私のせいで、両親が離婚してしまったことも知っています。今でも女手一つで私を育ててくれている母さんには、いつか恩返しをしたいなぁ、と思っています。



この街に引っ越して来たのも、私の療養が目的でした。元々住んでいた場所は都市の中心部でしたから、身体の弱い私にはあまりいい環境ではありません。いくら昔よりはマシになったとはいえ、いつまた病を罹ってしまうかはわかりません。

少しでも私の身体に負担をかけないように、緑豊かなこの街へと越してくることにしたのでした。







この街に来て二度目の冬が訪れました。

もうすぐクリスマスも近いので、街中には温かな光に溢れるイルミネーションでいっぱいです。商店街に堂々と佇む煌びやかなクリスマスツリーやわたあめのような髭を生やしたサンタさんの格好をした人を見るのは、何だか微笑ましく感じてしまいます。



その日は、知り合いの男の子の誕生日でした。そのお祝いをしにその子の家に行く前に、誕生日プレゼントを買いにショッピングモールへと寄っていました。本当は前もって用意しておくべきなのでしょうが、つい最近まで体調を崩しており、それがなかなか出来ずにいたのです。


そんな時、偶然にも買い物をしていたカケルくんと鉢合わせてしまいました。カケルくんとは、私のクラスメイトである男の子です。私が今の中学校へと転校して来て最初に、隣が席同士だった為、それがきっかけで仲良くなりました。文武両道という言葉がまさに似合うカケルくん。しかし、それを安易に誇張することはなく、誰とでも気さくに話せる彼はクラスの人気者でした。何故、私と仲良くしてくれるのか不思議なくらいです。


カケルくんは私の姿を視界に捉えるや否や、一瞬驚いたかのような表情を見せますが、すぐに、よっ、と手を挙げて挨拶をしてくれました。私もにこりと笑顔を浮かべながら、手を振って彼の元へ駆け寄ります。



「カケルくん、こんばんは。こんなところで会うなんて、偶然だね」

「まぁな。メイも買い物に来たのか?」

「うん! 今日ね、ハルキくんの誕生日なの。だから、そのプレゼントを買いに!」

「ああ、あいつか。で、プレゼントは決まったのか?」

「ううん。まだ、迷っているの。私、弟とかがいないから、男の子の好きなものっていまいちわからないんだよね……」

「あー……何なら俺も一緒に選んでやろうか?あいつとは年が違うから、好みが合うかどうかわかんねぇけど」

「え?! 本当にいいの? やった、ありがとう! カケルくん、助かるよ!」



それから、カケルくんと一緒にプレゼント選びをしました。きっと自分の買い物は終わっていたのでしょうに、カケルくんはまるで自分のことのように一生懸命になって、プレゼント選びを手伝ってくれました。申し訳ないとは思いつつも、その優しさに甘えてしまったのはどうしてでしょう。友人とこうやって買い物をするなんてことは滅多にありませんでしたから、カケルくんとの時間が楽しくて仕方がありませんでした。

そうして、無事にプレゼント選びを終え、途中までカケルくんと一緒に帰ることになりました。


帰り道は雪が降っていました。夜空から降り注ぐそれが、時折頬にと触れて、ひんやりと冷たく感じます。真っ白な夜でした。いつもとは違う特別な夜は、神様がハルキくんへ用意したお誕生日プレゼントなのでしょうか。そんなことを思いながら、雪空を見上げていました。



「ねぇ、よかったら、カケルくんも一緒にハルキくんの家に行かない?」

「はぁ……俺が、か?」

「うん。せっかく、一緒にプレゼント選んでくれたんだし。ハルキくんのお祝い、カケルくんもしようよ」

「いやいや。寧ろ、俺は行かない方が、あいつにとってはいいだろ?」

「え?! ど、どうして……?」

「だって、なんかわかんねーけど、俺あいつに嫌われているし?」



そう言って、カケルくんは苦笑うのでした。

そんなことはないのになぁ、と言い返してはみましたが、彼はふるふると首を振りました。

確かにハルキくんは意地っ張りで、時々言葉がきついなと思う時はありますが、それは単に彼が不器用なだけです。彼の不器用さが悪い方向にと働いて、誤解を招いてしまうこともありますが、本当は優しい子なのです。

だから、カケルくんに勘違いされていることはちょっぴり悲しいなぁ、と思いました。


結局、カケルくんはハルキくんの家には寄らず、私たちはそのまま別れることになりました。また明日学校でな、と言い残して帰っていくカケルくんの背中を見送ります。

明日また会った時は御礼を言うべきだなぁ、と思いながら、カケルくんの姿が見えなくなると振り返り、私はハルキくんの家へと向かいました。



ハルキくんの家を訪れることはよくありますが、やはり帰路ではない夜の道は少々怖いものがありました。

ですが、幸いにも今日は白の灯りがありましたから、それが夜道を照らしてくれていました。ざく、ざく、と雪を踏み付ける私の足音だけが響き渡ります。



ハルキくんの家まであと少しというところで、街はずれの丘が見えてきました。彼の家に行くには、この丘のふもとを通らなければなりません。

昼間は緑豊かな草花が青々と輝いているのですが、夜間は灯りもなく暗闇に包まれていますので、不気味に感じました。ひゅ、と激しく吹き寄せる風は、得体の知れぬ化け物の唸り声にも聞こえます。



この丘の上には、一本だけ桜の木があります。ですが、私はこの桜が花を咲かせているのを見たことは一度もありませんでした。

そして、この桜の花にはある噂があります。もし、花が開くことがあったのならば、桜はこの世とあの世を繋ぎ、死の世界にいる人に会わせてくれる。しかし、その住人と仲良くなってしまったら、桜の木にあの世へと連れていかれてしまう。

ですから、この街の人々はあまり街はずれの丘に近づこうとはしません。



丘をそのまま通り過ぎるつもりでした。ですが、視界の端に映り込む奇妙な存在感を感じ取り、私はふと足を留めてしまいます。すると、その足はしばらく固まったまま、動いてくれませんでした。ありえない光景が雪明かりに照らされて、私の目の前に広がっていたのでした。



――桜が、咲いていたのです。



今まで咲くことのなかったはずの桜が、咲いていました。迫り来る非日常は、息を呑むほどの美しさでした。冬の雪と春の桜。そんなミスマッチな組み合わせが、行くあてもない夜風に吹かれて、舞い踊っています。


気が付けば、丘の上を登っていきました。桜のあまりにも美しさに魅了された私は、まるで操り人形のようでした。一歩、また一歩、桜の木へと近付いていきます。

そして、丘の一番てっぺんまで登れば、薄紅の空が広がっていました。その狭間から、白い結晶が降り込んできます。紅と白のシャワーに注がれて、わっ、と感嘆の声をこぼしました。


すると、かさり、と茂みを踏み付ける音が聞こえてきました。私は咄嗟に後ろを振り返ります。

そこには、一つの人影がありました。桜の木のしたでぼんやりと佇んでいます。暗闇が邪魔をして、その姿をはっきりと捉えることはかないませんが、そのシルエットは随分と背が高く、線は細めに見えました。



『………キミ、は……』



人影がそう呟きました。じっとこちらに向けられる視線に、私の身体は固まってしまいます。まさかこの場所に誰かがいるとは思いもしなかったので、突然のことに足が竦んでしまいました。

そして、ひっ、と声を上げて、私はその場から去りました。勢いよく丘を駆け下ります。その途中、何度も転んでしまいましたが、ここから逃げ去ることに夢中になっていたものですから、痛みは何一つ感じませんでした。


このとき、待って、と後ろで微かに聞こえてきたような気がしました。いきなり驚かされたことにびっくりしてしまったものですから、その足を留めることはできませんでした。

ですが、その人影のとても悲しそうな声だけは、確かに私の耳に響いてきたのでした。





ハルキくんの家に着いた後も、私はしばらくうわの空でした。

決して咲くことのないと思っていた桜の木。それが、今は満ち溢れんばかりの花弁でいっぱいにして、雪空の下で咲き誇っていたのです。

そして、桜の下にいたあの人は誰だったのでしょう。やはり、桜の木が呼び寄せたあの世にいた人なのでしょうか。私がよく目にする亡くなった人と同じで、何だか悲しそうな人でした。


私がぼんやりとしていると、ハルキくんが、ねぇねぇ、と服の袖を引っ張ってきます。はっと我に返ってハルキくんの方を向けば、彼は頰っぺたをぷくりと膨らませて、どうやら拗ねている様子でした。



「マジでつまんねぇーよ!」

「……ハルキくん?」

「だって、メイちゃん、さっきから俺が話し掛けているのに、全く反応ねーんだもん! 俺の誕生日なのにぃー!」



不満を口をしたハルキくんは、そのまま、ぷいと顔を背けてしまいました。確かに、ハルキくんの言う通りです。せっかくハルキくんのお祝いをしに来たのですのに、こうやってぼっとしているのもいかがなものかと思います。

ごめんね、と申し訳なさげに微笑みながら、私はハルキくんの頭を撫でました。すると、ハルキくんはむっとしたようにこちらを見上げてくると、私の手を振り解きます。



「子供扱いするんじゃねーよ! 俺は、もう子供じゃねぇし! 今日で11だし!」

「あ、そうだったよね。 ハルキくんも来年は六年生になって、その次はもう私と同じ中学生かぁ……。何だか早いね〜」

「うるせーよ! 大体、俺が中学入ったら、メイちゃんは高校生じゃんかよ! 一緒じゃねーし!」



ハルキくんはいつもこのような態度です。私だけではなく、基本誰に対しても反発心を顕にしてしまうところがあります。この年齢の特有の反抗期もあり、また、彼の不器用な部分も出てしまっているのでしょう。

しかし、ハルキくんは決して悪い子ではありません。時折、微かに覗かせてくれる不器用な優しさも、勿論、私は知っています。

ですが、彼のマイナスな部分が目立ってしまって、カケルくん然り、よく周囲に誤解されてしまいます。


ハルキくんはしばらく口を閉ざしていましたが、やがて、私の方に向かって、ん、と手を伸ばしてきました。その行動の意図がわからないでいた私は、きょとんとしたまま首を傾げます。



「それで、持ってきたのかよ」

「……何を?」

「俺の誕生日プレゼントに決まってんだろ! 早く、俺に渡してよ! まさか、持って来てないとか言わないよね?」



どうやら、ハルキくんは誕生日プレゼントが欲しかったようです。言い方はきついですが、もしかすると、楽しみにしてくれていたのでしょうか。



「勿論、ちゃんと持って来たよー! えへへ、ハルキくん、楽しみにしてくれたもんね! 」

「はあ?! 別に楽しみにとかしてねーよ!!」



私がそう言うと、予想通り反論の言葉が返ってきました。くすくすと少しからかうように微笑みながら、ハルキくんへのプレゼントを探しました。


ですが、カバンのどこを探してもそれらしいものは見当たりませんでした。確かに、持って来たはずなのに。おかしいな、と私は首を傾げます。すると、私の様子を見て、ハルキくんは状況を察したようでした。しかし、今度は今までのように声を上げることをせず、ただ悲しそうにぼそりと呟きました。



「……やっぱり、忘れちゃったんだ」

「そんなことないよ! ちゃんと持って来ていたはずなんだけど……。ごめんね、今度会った時には必ず持って来るから」

「……もう、いいよ。メイちゃんの誕生日プレゼントなんか、別に最初から欲しくなんてなかったし」



ハルキくんはそう言い残して、走り出してしまいました。引き止めるように私はその手を掴もうとしましたが、パシン、と叩かれた音だけが響いただけでした。ドタバタと階段を駆け上がる足音が聞こえ、勢いよく扉の音がしたっきり、物音がすることはありませんでした。

一緒だけハルキくんと目が合った時、その瞳は今にも泣き出してしまいそうでした。それだけが、脳裏に浮かんできます。私がハルキくんを悲しませてしまったのです。

もしかすると、桜の下の人影から逃げた時に落としてしまったのでしょうか。あのときは、あまりにも慌てていたもので、きっと、プレゼントを落としてしまったことに気が付かなかったのかもしれません。


せっかくのハルキくんの誕生日を台無しにしてしまったことに今は、私自身を責めることしかできませんでした。








次の日。

私は落としたプレゼントを探しに、再びあの桜の元を訪れました。学校の授業が終わるとすぐさま教室を後にして、桜のある丘の方へと向かいます。



やはり、桜は咲いていました。どうやら昨夜のことは夢ではなかったようです。季節外れの桜は街の端っこでひっそりと、その花弁をほころばせていたのでした。

昨夜の雪で地面が湿っていたので、転ばないように気をつけながら、ゆっくりと丘を登っていました。


丘の上に登ると、落としたプレゼントがないかと辺りを見渡してみました。しかし、それらしいものは見当たりません。

とりあえず桜の木の周辺を探してみようと、大木の裏へ周ってみました。すると、私ははっと驚きの声を溢してしまいます。


桜の木に寄り掛かかり、一人の青年が眠っていました。微かな寝息がこちらへと聞こえてきます。見たところ、年は十代後半辺りくらいでしょうか。制服らしきものを着ているので、おそらく高校生だと思われます。

この青年の顔に覚えはありませんでしたが、その体型からして、もしかすると、昨夜の人影と同じ人なのでしょうか。口をぽかんと開けながら、その人を見つめていました。


すると、向けられる視線を感じ取ったのか、青年のまぶたがゆっくりと開かれます。どうしようかと思いましたが、昨夜のように逃げる気にはなれませんでした。

黒の澄みきった大きな瞳と目が合いました。私の存在に青年は一瞬だけびくりとしたようでした。ですが、そのあとは特に慌てた様子もなく、静かなまなざしで私を見上げていたのでした。青年の方から喋ろうとする兆しはありませんでしたので、私が最初に口を開きます。



「あ、あのー。ここら辺に、紙袋が落ちているのを見なかったかなー?」

「………」

「ええと、中に緑の包装紙に包まれた四角い箱があったと思うんだけど……」



青年は口を閉ざしたまま、じっと私の顔を見つめます。問い掛けに何も反応がなかったので、もしかして寝ているところを邪魔して怒らせてしまったのかな、と不安な気持ちになってしまいます。

すると、青年はすっと横の方を指差しました。何だろうと顔を覗き込むと、まさに私が探していたものが、そこにありました。喜びと安堵の入り混じった声がつい上がってしまいました。



「わっ! そう、これだよー! よかった、見つかってー。教えてくれて、ありがとう」



私はすぐさま駆け寄り、プレゼントを手にしました。これでハルキくんは喜んでくれるのでしょうか。昨日彼へとあげるはずだったプレゼントを持ち上げて、薄紅色の空へと翳します。



「……キミが昨夜ここに来た時に、落としていったんだよ」



ぽつりと落とされた声に私は振り返りました。すると、今まで無表情だった青年の顔には、優しそうな笑みが浮かび上がっていました。先程までの印象から打って変わったその表情に、内心動揺してしまったのは嘘ではありません。



「あ。やっぱり、昨夜ここにいた人だったんだ……」

「そうだよ。昨日、キミがそれを落としたから引き止めようとしたんだけど……」

「ご、ごめんね! 昨日は逃げてしまって……。いきなりのことだったから、びっくりしてしまったの」

「ううん。こちらこそ。驚かせてしまって、ごめん」



そう言って青年はゆっくりと立ち上がりました。やはり細長いその体型は、私が昨日出会った人影と同じようでした。青年はうんと背伸びをすると、目の前にある桜の木を見上げています。



「ねぇ、あなたは、やっぱり幽霊さん、なの……?」

「幽霊さん?」

「この桜の木に連れて来られた幽霊さんなのかなって思ったんだけど……」



私の方を振り返った青年は不思議そうに小首を傾げていました。すると、疑問を口にしたことにより、妙に冷静になってしまった私は羞恥心に襲われます。

もし目の前の青年が亡くなった人でも何でもなく普通の人であったのならば、こんな質問をしてしまえば、おかしな人だと思われてしまうに決まっています。きっと変な目で見られただろうなぁ、と赤く染まった顔を俯かせていると、くすくすと笑い声が聞こえてきました。



「だとしたら、キミは随分と冷静だね?」

「どうゆうこと?」

「いや、だって、普通さ。幽霊を目の前にして、あなたは幽霊なんですかなんて聞かなくない? 昨日のキミがした反応のように、逃げちゃうよ、ボクだったら」

「あっ……あれは! 怖くて逃げたわけではなくて……いきなりあなたが現れたものだから、びっくりしちゃったの! ……私にはいつも見ているから……」

「いつもって?」

「あのね、私には亡くなった人が見えるんだよ。いつも見ているから、慣れているというか何というか……。だから、生きている人も亡くなった人も、私にとってはあまり変わらない、かな?」



私の言葉を聞いて、青年の長い睫毛がぱちぱちと弾きます。私があまりにもおかしなことを言うので、驚いていたのでしょうか。すると、青年はそっと目を細めて言いました。



「――うん。そうだよ」

「……え?」

「キミの言う通り、ボクは幽霊さん。この世界とは違う別の世界から、桜の木に連れてこられてしまったんだよ」



どうやら、この桜の木にまつわる噂話は本当だったようです。

街はずれの丘にある桜の木が花開く時、あの世とこの世を繋ぐ場所となります。

目の前にいる青年は桜の木によって連れて来られた、死の世界の住人だったのです。



ああ、やっぱりそうなんだ。

私がぽつりとそう呟くと、青年は笑いました。でも、その笑顔にはどこか影があるように感じてしまいました。

どんなに笑っていても、私を見つめてくるその瞳はいつも潤んでいるかのように見えるのです。私が普段目にする亡くなった人と同じように、青年もまた、悲しそうな表情を見せたのでした。






私は青年のことを「幽霊さん」と呼びました。

何度か名前を尋ねてはみたのですが、彼はいつも決まって、秘密だよ、と唇に人差し指を当ててはぐらかしてしまいます。


あの日以来、ふと思えば幽霊さんに会いに行くことが多くなりました。勿論、亡くなった人と仲良くなってはいけないという決まりがあることは忘れてはいません。ですが、いつも悲しそうな顔をしている幽霊さんのことがどうしても放っておけなかったのです。


何故、いつも幽霊さんは今にも泣き出してしまいそうな顔をするのかは、わかりません。幽霊さんに尋ねてみたとしても、そんなことないよ、と言われてしまうでしょう。それに、私が知ったところ何か出来るわけでもありません。

だから、せめて、話し相手くらいになってあげられたらいいな、と勝手ながらに、思っていたのです。




「……そういえばさ、あのプレゼントは渡したの?」



今日も私は幽霊さんの元を訪れていました。いつもは私の方から話し掛けることが多いのですが、今回は珍しく幽霊さんの方から話し掛けてきたので、少しびっくりしました。

幽霊さんは口数が多くはありません。私が口を開いておかないと、沈黙が時を征してしまいます。

ですが、きっと幽霊さんは心配してわざわざ尋ねてくれたのでしょう。そう思えば、彼の優しさに何だか嬉しくなってしまいました。



「大丈夫だよー! あのあと、ちゃんとプレゼントを渡すことが出来たから。……気遣ってくれて、ありがとう」



あのあと、ハルキくんと仲直りすることは出来ました。無事に見つかったプレゼントを渡せば、ハルキくんはぶっきらぼうながらにも受け取ってくれたのです。



「誕生日プレゼント、ねぇ……。何だか、昔を思い出すなぁ」

「幽霊さんが生きていた頃の?」



そう何気なく口を開いた瞬間、少しばかり踏み込みすぎた問い掛けをしてしまったことに気が付きます。あ、と慌てて口を両手で塞いでも、もう時は既に遅しです。一度口にした言葉は二度と戻ってきてくれません。

ごめんね、と私は幽霊さんに謝りました。しかし、幽霊さんは機嫌を損ねた様子はなく、何のこと、ときょとんとした顔付きで首を傾げていました。



「ボクもね、昔は毎年お誕生日プレゼントを貰っていたから、何だか懐かしくなって。お誕生日プレゼントなんて生きている時しか貰えないからね」

「……」

「ん?……ああ、いや、キミがそんなに深く考える必要はないんだよ? ……重い空気にさせて、ごめんね」



そう言って謝ってくれた幽霊さんに、私はふるふると首を振りました。幽霊さんは笑っていてくれましたが、本当は触れられたくなかったことではなかったのでしょうか。いつも悲しそうな幽霊さんが少しでも笑っていてくれればと思って発した言葉が、心の傷口を抉るものだったらどうしようと怖かったのです。



「……ねぇ、キミは死ぬことは不幸せなことだって思う?」



すると、幽霊さんがぼそりと呟きました。え、と俯いていた顔が思わず上がります。黒髪を靡かせながら、私を見下ろす彼はやはり悲しそうに微笑んでいたのでした。



「ボクはね、それは違うと思う」

「……?」

「それもその人にとっては大切な人生の一部だってボクは思うんだ。悲しいことではあるけれど、でも、不幸せなことはではない」



だからキミが悲観するないんだよ、と言って幽霊さんは桜の木に寄りかかりました。ひらひらと舞い落ちる桜の花弁が彼の肩の上に留まります。そして、腕を組み、うとうとと瞬きをする幽霊さんは最後に言ったのでした。



「不幸せなのはね、それを受け止められなくて、そして、忘れていくことなんだよ」



何だか不思議なことを言う幽霊さんでした。言葉ではその意味はわかりますが、しかし、そこに込められている彼の想いはわかりません。それは私が幽霊さんのことを何も知らないというのもありましたし、また、私と彼とでは幸せの定義が違うのだと思いました。


私にとっての幸せとは誰かが笑っていることであり、そして、私にとっての不幸とは誰かが悲しんでいることなのです。

私がいつも目にする亡くなった人達は悲しい顔をしています。だから、死を経験することは不幸なことという考えが私の中で根付いていました。


幽霊さんがどのような想いでその言葉を口にしたのかは定かではありません。彼は私たちの世界にいた時は幸せだったのでしょうか。そして、この世界から離れる時は彼にとっての大切な人はそばにいてくれたのでしょうか。



桜の木を見上げれば、茶色い枝の部分が目立つ箇所が所々にありました。幽霊さんと初めて会った時よりかは散ってしまったのでしょうか。

ですが、まだ季節外れの桜は冬の空を支配します。ほころぶ花弁の群衆が、清らかで澄みきった青空に、薄紅の雲を浮かばせていたのでした。







「あ、カケルくん、見っけー!」


放課後の校舎で、私は探していた人を見つけました。カケルくんが振り向いてくれるように、大きな声でその名前を呼びます。すると、カケルくんは私にちゃんと気がついてくれました。



「おおっ、メイじゃねぇか。どうしたんだ?」

「えへへ。カケルくんのことをね、ずっと探していたんだよ」



私は手に持っていた紙袋をカケルくんにと渡します。カケルくんはそれを受け取ってくれましたが、何だか腑に落ちないような顔をしています。



「……なぁ、今日オレの誕生日だったか?」

「ちがーう! あのね、これはこの間、ハルキくんの誕生日プレゼントを一緒に探してくれた御礼! あのときは、本当にありがとう!」

「あー……そんなこともあったなぁ。てか、別に御礼なんていらなかったのに。メイって無駄な所で律儀だよな」

「褒め言葉として受け取っておくよ。ハルキくんね、とても喜んでくれたんだよ。私ってプレゼント選ぶセンスないからさ。これもカケルくんのおかげ」

「まぁ、オレの誕生日に変な植物みたいなのを渡されたのはびっくりしたけどな」

「あ、あれは…っ! 植物みたいなのじゃなくて、植物なの! 観葉植物! カケルくん、ちゃんと世話してる?」

「さぁ? どうだろうなぁ?」



揶揄うような笑みをニタニタと浮かべるカケルくんの背中を、私は冗談めかして軽く叩きます。いてぇな!とカケルくんは大きな声を上げますが、それが嘘だなんて御見通しです。大袈裟な反応をするカケルくんに私はぷくりと頬を膨らませると、彼の笑みはやがて優しいものに変わりました。



「まぁ、ありがとうな。ちゃんと受け取らせてもらったわ」

「中は近くのお菓子屋さんで買ったクッキーだからね。私のオススメだから、絶対に美味しいよ〜」

「おー……じゃあ、妹にでもあげとくわ」

「カケルくんも、ちゃんと食べてね?!」



そんなやりとりをしていると、私たちは話の流れで一緒に帰ることになりました。本来であればカケルくんとは家が反対方向ですので、校門を出ればすぐに別れなければなりません。ですが、昨日カケルくんが休んでいた分の授業ノートを貸してあげる為に、カケルくんも私の家に行くことになったのです。




家に着くと、誰かが訪ねて来ているようでした。来訪者は玄関先でキョロキョロと辺りを見渡しており、どこか落ち着きがありません。

その人は私のよく知っている人でした。ですが、彼の来訪は意外なものでしたので、少しばかり驚いたのも事実です。ハルキくん、と名前を呼ぶと、彼の小さな肩がびくりと跳ね上がります。



「メイちゃん……!」

「えへへ、ハルキくん、こんにちはー。今日は一体どうしたの? ハルキくんから私のとこに尋ねてくるなんで、珍しいね」

「……そ、その……大したことではないんだけど……」



何?と身体を屈ませながら、ハルキくんの顔を覗き込みます。すると、彼は目を合わせてはくれなくて、ぷいと顔を背けてしまいます。ですが、その口はぱくぱくと小さく動いていることから、何か言いたいことがあるのでしょう。私はそれを待つことにしました。



「おー? お前、ハルキじゃねぇか?」



後ろにいたカケルくんがハルキくんへと声を掛けました。すると、今までおどおどとしていたハルキくんの表情が一瞬にして変わるのがわかります。きりりと目付きが吊りあがり、唇はへの字を描きます。



「しばらく見なかったけど、元気だったか?」

「……」

「ああ、そういえば、この間、誕生日だったんだってな? おめでとう」

「……」

「……おい、何か返事くらいしたらどうなんだ?」



何とかコミュニケーションを取ろうとしているカケルくんだったのですが、ハルキくんは頑なに口を閉ざしたままでした。じっとカケルくんのことを睨み付けています。

私はハルキくんの態度を咎めようとしました。しかし、私が口を開こうとした瞬間、ハルキくんは黙ったまま走り去ってしまったのです。

ハルキくん!と彼の背中に呼び掛けましたが、それが届くことはありませんでした。

ハルキくんは私の方を振り返ってはくれませんでした。





今日も丘の桜の木には幽霊さんがいました。そして、そのことに毎回に安堵する私が確かに存在しておりました。

ただの私の勘違いでも構いません。傲慢だと言われてしまえばそれまでです。ですが、私が訪れると一瞬だけ、幽霊さんの悲しそうな顔が少し和らんでくれているような気がするのです。

もし、幽霊さんにとって、私の存在がほんの少しの気休めになれるのならば、それは幸福の一つでした。



「幽霊さんは、この桜が散ってしまったら、どうなってしまうの……?」



幽霊さんの隣に座り桜の空を仰ぎながら、私はぽつりと問い掛けました。それはずっと気になっていたことでした。この桜が咲いた時に幽霊さんと出会いました。ですので、この桜が散ってしまうの時が、幽霊さんとの別れ時ではないだろうか。風が吹くたびに散っていく桜が、ここ最近、怖くて怖くてなりませんでした。

幽霊さんはううんと少し悩む素振りを見せました。ですが、幽霊さんからは意外にもあっさりと返されてしまいます。



「……消えてしまうんじゃないかな」



幽霊さんは淡々と答えました。そのことを受け入れてしまっているのか、抑揚のない声でした。そっか、と相槌を打つ私の声は少しばかり涙ぐんでいたと思います。



「それは、……残念だね」

「まぁ、本来ならば、この時間は存在しないものだったからね。ただ、元に戻るだけさ」

「で、でも……私が幽霊さんのことちゃんと覚えているから! だから、大丈夫、この時間はなくなったりしないんだよ。幽霊さんと過ごした時間は、私の大切な思い出なんだからね」



私は胸を張って、そう幽霊さんに伝えました。

私は幽霊さんのことを何も知らないのかもしれません。彼の本名も、彼が生きていた頃についても、何も。

ですが、私は幽霊さんと過ごした時間を大切にしたいと思いました。桜がみんな散ってしまえば、幽霊さんは消えてしまうのかもしれない。だけど、それでも、私が生きている中で確かに存在した大切な時間なのです。

しかし、私の言葉に幽霊さんは静かに首を横に振りました。それを見て、正直私は少しショックでした。幽霊さんなら、そうだね、と言ってくれると私は勝手に信じていたからです。


「何で? 幽霊さんは、私がここに来るの、本当は嫌だったの?」

「いいや。嫌ではないよ。ただ、きっと、忘れちゃうんだろうなって思ってさ」



それを聞いて、私は泣き出してしまいそうになりました。幽霊さんは酷いことを言います。私は絶対幽霊さんのことを忘れたりしないのに。私は唇を噛み締めました。怒りというよりも、悲しみでいっぱいでした。

幽霊さんは私の顔を見ると、少し申し訳なさそうに笑いました。



「ねぇ、キミはさ、どうして人は忘れることをするのだと思う?」

「……? 大切なことをたくさん覚えなきゃいけない、から?」

「ふふ、それも、間違えではないかもね。でもね、大切なものだからといって、それを覚えているとは限らない。寧ろ、大切なものだったからこそ、人は忘れようとするんだよ」



幽霊さんは時々難しいことを言います。死が不幸せでないと言ったり、大切なものだから忘れようとするといったり。少なくとも、私には理解できませんでした。

くすりと微笑む幽霊さんが何だか意地悪に見えて、私はぷいと顔を背けてしまいました。








学校の帰り、私はハルキくんに会いました。ランドセルを背負っていることから、彼も学校帰りだったのでしょう。

カケルくんとの一件以来なので、彼はとても気まずい様子でした。さっと目を逸らし、そのまま立ち去ろうとしていたのを、私は引き留めました。



「ハルキくんは、カケルくんのことで何か気に入らないことがあるの?」



私がそのように問い掛けると、ハルキくんはぴたりと足を留め、俯いてしまいました。私は彼の方へと回り込み、身を屈ませます。目線を合わせようとしますが、ハルキくんは顔を上げようとはしてくれません。



「何かあったの?」

「……別に。そうゆうわけじゃ……ねーし。ただ、あいつが、何か嫌いなだけなの!」

「どうして? カケルくん、ハルキくんに優しくしてくれるでしょ? 何が嫌いなの?」

「嫌いなものは嫌いだし! それに、優しくしてだなんて頼んでねーし! あいつが勝手にやっているだけだ!」



どうして、ハルキくんはこんなにもカケルくんのこと嫌うのでしょう。私はわかりませんでした。私の知らないところでカケルくんと何かあったのではないかと思い、尋ねてみましたが、やはりハルキくんは答えてはくれませんでした。ハルキくんにカケルくんの優しさを知ってほしい。そんなおしつけがましい気持ちが、このとき、私の中にあったのは、否めませんでした。



「この間、ハルキくんのお誕生日にプレゼント渡したでしょう?」

「それが、どうしたんだよ!」

「あのプレゼントね、実はカケルくんが選んでくれたものなんだよ」



え、とハルキくんは顔を上げました。驚きで彼のくりくりとした大きな瞳がさらに大きく見開かれました。



「私ね、どんなプレゼントを渡せば、ハルキくんが喜んでくれるのがわからなかったの。だから、お店で偶々会ったカケルくんに選んでもらっんだ。同じ男の子だし、ハルキくんの好みが私よりもわかるかな、って」

「……」

「カケルくん、とても一生懸命に選んでくれていたよ。この間、ハルキくんが喜んでくれているのを伝えたら、嬉しそうにしていたの。だからさ、ハルキくん――」



私が言い終えるより前に、ハルキくんは走り出してしまいました。その拍子に、ハルキくんの小さな肩がぶつかってしまい、私はよろめいてしまいます。そして、ハルキくんは一度だけ足を留めて、微かに私の方を振り向くと、小さな小さな声で言い放ちました。




「…………メイちゃんなんて、大嫌い」




大嫌い。

ハルキくんは私に言い残し、そして、どこかへ去ってしまいました。アスファルトを蹴りつける音が虚しく響き渡っていました。私は、ただその背中を見送ることしか出来ませんでした。彼を追いかけようにも、足が言うことを聞いてくれません。彼の告げた言葉が、私の心を突き刺しましていました。

私は知らず知らずの内に、また人を傷付けてしまいました。ハルキくんが悲しそうな顔をしていたのにも関わらず、何がそうさせてしまったのか、わからない。それが、とてももどかしかった。私はどうすることもできず、立ち尽くしていました。







その日は幽霊さんの元へは寄らず、そのまま家へと帰りました。幽霊さんに会いたいという気持ちは確かにあったはずなのに、私は行きませんでした。今はただ一人になりたいという気持ちの方が勝っていたのでしょう。

ベッドの上で仰向けになり、天井をじっと見つめていました。そして、いつの間にかまぶたが閉じてしまい、私はそのまま眠ってしまいました。どこかで、夕食が出来たというお母さんの声が聞いてきたような気がしました。それに応じようとはしましたが、それでも、まぶたを持ち上げることは叶いませんでした。



私が眠ってから、随分と時間経っていたかのように思います。すると、突然、窓の外から部屋中を叩きつける凄まじい音がしました。私はその音に思わず目を覚まします。白い霧のようなものがぼんやりと浮かぶ中、窓の外へと目を向ければ、窓の硝子に滴が滴り落ちています。雨が降っているようでした。

私はその瞬間、ベッドから飛び上がり、窓の方へ勢いよく向かいました。湿気で雲の張る窓に手をつけば、私の手形が残ります。しかし、それは幾度となく窓をつたって流れる滴によって、すぐに形が崩れてしまいました。

私は窓の外を呆然と見つめていました。このとき、私が見ていたのは、ここからでは映し出されないものでした。



この雨で、桜が散ってしまうのではないだろうか。そうしたら、幽霊さんが消えてしまう。それが、怖くて悲しかったのです。

幽霊さんにこのことを言えば笑われてしまうでしょうか。桜はいずれ散ってしまうのにと言われてしまうのでしょうか。でも、こんな冷たい雨に叩きつけられて、散ってしまうのは悲しいことだと思いました。

私は幽霊さんに何か出来るわけでもなかった。身近にいてくれる人を知らず知らずの内に、傷付けてしまっている私が、友人でも家族でもない人の悲しみをなくしてあげたいと願うのは、差し出がましいことだったのかもしれません。



――でも、せめて。



桜は、明るい太陽に見送られながら、散ってほしい。清々しい青空の下で、鳥たちの歌声を聞きながら、静かに終わりを迎えてほしかったのです。






次の日。

私は朝起きると、すぐさま桜の元へ向かいました。昨夜、降っていた雨はもう止んでおり、水溜りが朝日を映し出していました。

ひゅう、と喉の底から白い息を吐きながら、私は走りました。が、元々の体力のなさが災いしてか、思うように走ることは叶いません。速く。速く。そう願えば願うほど、身体が反発するように、呼吸を乱しました。


それでも。何とか、あの丘のふもとまで辿り着くことができました。桜の木を瞳に捉えたまま、ふうと一度息を吐きます。幽霊さんと初めて会った時のような、薄紅の花びらたちはどこにも見えません。

嘘だ。嫌だ。もしかして、もう幽霊さんは……。恐怖で震えそうになる身体を必死に抑えながら、私は丘を登っていました。



丘の上に登ると、桜の木がありました。

ですが、昨夜降った雨のせいで、そのほとんどが散ってしまっています。大木の周りには、雨で萎れた桜の残骸が無残にも散ってしまっています。

周りを見渡しましたが、幽霊さんの姿はどこにもありませんでした。桜の木で静かに佇み、私の来訪を求めることも拒むこともしない。そして、私を見つめるその瞳はいつも泣き出しそうにしている。そんな幽霊さんの姿はどこにもありませんでした。


ああ、やっぱり、幽霊さんは元の世界に帰っちゃったんだ。結局、私は幽霊さんに何もしてあげることは出来ませんでした。彼の心の中で蔓延る悲しみを少しでもいいから、和らげてあげたいと思っていたのに。それさえも、私にはできませんでした。雨上がりの空を仰ぐ私の表情は、泣き出してしまいそうな顔をしていたと思います。



『あれ? ……キミ、来ていたの?』



すると、空から声が降ってきました。突然のことで、驚いてしまった私は、え?と間の抜けた声を落とします。潤んでいた瞳をごしごしと袖で拭い、声の降ってきた方を向きました。



そこには、幽霊さんがいました。

桜の木に登って、上から私を見下ろしています。ぱちぱちと瞳が瞬き、不思議そうな顔をしていましたが、やがて、彼はいつものように微笑んでいました。



幽霊さんの顔を見た途端、底知れない安堵感に包まれました。また、幽霊さんに会えたことが純粋に嬉しかったのです。ですが、あまりにも幽霊さんがいつものように微笑んでいたので、少しばかりの苛立ちが芽生えてしまったのは確かです。



「来ていたの、じゃないよ! 私ね、心配していたんだから……!」

「……心配?」

「昨日の雨で、桜が散ってしまったら、どうしよう、って。……幽霊さんにもう会えなかったら、……どうしよう、って……」



引っ込んでいたはずの涙がまた溢れ出しそうになりました。いつか幽霊さんとお別れしなければならない。しかも、その日が来るのはそう遠くはない。それは、重々わかっていました。だけど、それでも。幽霊さんと会えなくなってしまうのが、悲しかったのです。

しかし、幽霊さんはそんな私の気持ちなどつゆ知らず。くすりと悪戯に微笑むと、木の上からそっと手を差し伸ばしました。



「幽霊さん?」

「……ほら。手を貸して。心配かけてしまったお詫びに、いいもの見せてあげる」



何だかはぐらかされているかのように思えて、私はぷくりと頬を膨らませました。ですが、幽霊さんが優しく微笑んでいるのを見ていると、怒る気も失せてしまいます。幽霊さんの策略にはまってしまっているような感じもしましたが、それさえも、許してしまいそうになる自分がいました。


私は幽霊さんの手を掴みました。すると、幽霊さんはぎゅと私の手を握り締めました。とても温かな手でした。

幽霊さんの手に導かれて、私も桜の木を登ります。安定のある太い枝に足をつけると、ほら見て、と幽霊さんが指さした方に目を向けました。



「わぁ、すごい……!」



私は思わず声を上げました。眼下には、私の暮らしている街のパノラマが広がっていたのです。中央には家々が肩を寄せ合うように群がり、それを囲むように青々とした森がありました。そして、向こう側には微かに、白を帯びた海がうっすらと浮かんでいます。

隣で私の反応を見ていた幽霊さんは、目を細めて、くすくすと笑います。



「どう? お詫びになった?」

「あ、まぁ、……うん。でも、少しだけだからね! 私、本当に本当に心配したんだから!」

「ふふ、それは、ごめんなさい。それにしても、昨日は凄い雨だったねぇ。おかげで随分と散ってしまったよ」



ふわあ、と欠伸を零しながら、幽霊さんは呑気に言います。何だか、この桜が散ってしまうのを気にしているのは私だけかのように思えてなりません。幽霊さんはこの桜が散ってしまうのが、怖くないのでしょうか。



「あのね、幽霊さん」

「何?」

「こんなこと言ったら、おこがましいと思われるのかもしれないけど……」

「うん」

「私ね、幽霊さんの悲しみを少しでも紛らわせてあげられたらいいな、って思って、ここを訪れていたんだよ。……だって、幽霊さんは、いつも私を見て、泣き出しそうな顔をしているから……」



私は遠くを見ながら、ぽつりと告げました。これを聞いて、幽霊さんは何を思うのか。それはわかりませんでした。でも、最後の桜の花びらが落ちて、本当に幽霊さんと別れてしまう前に、それだけは告げておきたかったのです。



「私ね、よく人に悲しい思いをさせてしまうんだ。お母さんは私のせいでお父さんと別れてしまったし、この間は、ハルキくんを傷付けてしまったの。だからね、私は誰かを幸せにできる人間になりたいの。みんなが悲しむことがないように、幸せに笑っていてほしいんだ」



私は人の幸せが好きでした。だって、幸せそうな人を見ると、私まで嬉しい気持ちになるのですから。それは、私が知らず知らずの内に、誰かを悲しませてしまう人間なのが、嫌だったからなのかもしれません。だから、いつも悲しそうにしている幽霊さんには、少しでもいいから、幸せそうに笑っていて欲しかったのです。


幽霊さんはそうなんだ、と呟き、しばらく口を閉ざしたままでした。ちらりと横目で彼を見れば、きりりと険しい顔付きをしていました。いつもの朗らかな顔からは想像できません。もしかして、怒らせてしまったのでしょうか。私は申し訳ないことをしてしまったと思い、少し肩を落としました。



「――悲しませれば、いいんだよ」



すると、幽霊さんが口を開きました。その声色に冷たさが含んでいるような気がして、幽霊さんの顔色を伺います。ですが、先程の険しい顔が嘘のように、幽霊さんはまた微笑みを浮かべていました。



「キミは、どうしてその人たちは悲しんでいるのだと思う?」

「ううん。わからない」

「それはね、キミのことを大切に思っているからなんだよ」



ふわりと冷たい風が吹きました。私は身体が揺らめいてしまわないように、ごつごつとした大木にしがみつきます。しかし、幽霊さんはそれに臆することはなく、私に微笑みかけていました。枝先から落ちた花びらがひらりと一枚、幽霊さんの肩に乗りました。



「悲しむのは、それが大切だったという一つの証なんだよ」



幽霊さんの言うことはやっぱり難しいです。人を悲しませることはいけないことです。でも、それは「大切の証」だと言うのは一体どういうことなのでしょうか。無知な私が、ううん、といくら頭を悩ませて考えてみても、ちっともわかりません。



幽霊さんはくすりとまた笑うと、木の上から飛び下りました。突然のことで驚いて下を見てみれば、幽霊さんが私を見上げながら、すっとこちらの方へ手を伸ばしていました。



「そろそろ、家に帰った方がいいんじゃない? こんな朝早くに来たってことは、お母さんに黙って来たんでしょう?」

「あっ……! そうだった! わ、お母さんが起きる前に、急いで帰らなきゃ……!」



私は幽霊さんの手を借りながら、恐る恐る木の上から下りました。登る時よりも下りる時の方が怖く、少し足が震えていましたが、私の手を握ってくれる幽霊さんの温かな手がありました。

無事に地面に着くと、ほっと私は胸を撫で下ろしました。私は幽霊さんに御礼を言うと、急ぎ足で家に向かいます。昨日の雨で地面が滑りやすくなっているので、それには気をつけながら。




「――――メイちゃん」




すると、私の名前を呼ぶ声が聞こえてきました。え、と驚きの声を上げながら、後ろを振り向くと、そこには、桜の木の下で私をみおくあ幽霊さんの姿がありました。

どうしたの、と私が首を傾げながら尋ねると、幽霊さんは呟くように言いました。




「ごめんね。――ずっとずっと、大好きだよ」




幽霊さんが言ったその言葉は、一見、簡単ではありますが、でも、今まで彼が口にしたどの言葉よりも難しいものでした。幽霊さんはどうしてそのようなことを私に言ったのでしょう。その言葉に込めらた幽霊さんの気持ちは、やっぱりわかりませんでした。



でも。このとき。

ほんの微かではありますが、幽霊さんが初めて本当の笑顔を見せてくれたように思えたのです。悲しみからひとときだけでも解放された安堵に満ちた顔。幽霊さんがこのような顔をしたことは今までありませんでした。

私はそれが何だか嬉しくなって、満面の笑みを浮かべました。幽霊さんのことは何も知らないけれど、でも、一瞬でも、彼が幸せそうに笑ってくれてよかった。宝物箱に仕舞い込むよう、幽霊さんのその笑みを、この目に焼き付けておきました。





それから。

桜の花は全部、散ってしまいました。幽霊さんはもう、元の世界へと帰ってしまったのでしょうか。








あの日以来。私があの桜を訪れることはありませんでした。なので、幽霊さんがあのあとどうなったのかは、残念ながら、私にはわかりません。













僕は大好きな人を奪った桜の木が大嫌いでした。


あの桜の木には噂があります。

花が咲いている時にあそこへ行くと、亡くなった人に会うことができるとこの街の者は言っています。ですが、そのときにはその亡くなった人と仲良くなってはいけません。でないと、桜の木に連れていかれます。


あの人はよく桜の木を訪れていました。桜の木に向かう彼女はいつも幸せそうな表情をしていたものですから、桜の木に連れていかれてしまったのでしょうか。だから、あの桜が今でも大嫌いです。



 




初恋の人は僕が11歳の時に亡くなりました。

僕の家は街の小さな病院で、その人がよく患者さんとして通っていたのがきっかけでした。

その時は、幼心ながらに抱いた恋心をどのように扱えばいいのかわかりませんでした。だから、僕はいつも彼女に対して反発的な態度をとっていました。

僕の気持ちが彼女に届くことはないという諦めも、もしかするとあったのかもしれません。

しかし、どんなに嫌なことを言っても、彼女はいつも僕に優しくしてくれました。僕を邪険に扱うことは一切ありませんでした。それが歯がゆくもあり、また、それに甘えていたところも確かにありました。



だから、あのとき、あんな言葉を言ってしまったことを、今でも後悔しています。





僕が11歳の誕生日の時、彼女は赤いミニカーをプレゼントしてくれました。

そのミニカー自体に興味はありませんでした。彼女が僕のためにわざわざ選んでくれた。その事実だけが、ただ嬉しかったのです。なのに、それを言葉にすることはできませんでした。せめて、御礼だけでも言おうとして、彼女の家まで訪れたこともありましたが、結局は何も言えませんでした。


しかし、その赤いミニカーがきっかけで、僕はその人のことを傷付けてしまいました。それが、彼女に会うことができた最後の時間だったということも知らないで。

赤いミニカーは彼女からのプレゼントだと思っていました。ですが、それは実は違っていたのです。赤いミニカーは彼女と、そして、彼女のクラスメイトからのプレゼントでした。二人で一緒に選んだものだそうです。

僕はそれが酷く悲しくてなりませんでした。彼女からの贈り物かと思っていたのに、喜んでいた自分が馬鹿みたいでした。普段仲のいい二人の姿を知っていましたから、何だか置いてきぼりにされたようで、裏切られた気分になってしまいました。



大嫌い。



まだ精神的に子供だった僕は、その感情を彼女に思うがままにぶつけてしまいました。ただ一言。僕はそう彼女に言いました。いつも明るくて元気な彼女が、そのときは、泣き出しそうな顔をしていました。

彼女に酷いことを言ってしまうのは、優しい彼女への甘えにほかなりませんでした。喧嘩しても、最後には仲直りできる。また、彼女は笑っていてくれる。僕はそう思っていました。



――それが、僕が彼女に言った最後の言葉になるとも、知らずに。



その次の日のことでした。彼女は急に都心部の大きな病院に入院することになりました。病気がまた再発してしまったそうです。

そして、そのまま、彼女が僕の前に現れることは二度とありませんでした。

これは後になって聞いた話ですが、彼女は元々長く生きられない命だったそうです。


次がきっとあるから、と。そう思っていた僕は彼女との時間を大切にしませんでした。大好きだった彼女を最後の最後に傷付けて終わりました。寿命で亡くなったのだとわかってはいても、僕のせいで彼女は死んでしまったのではないか。もしかすると、彼女は僕のことを恨んでいるのではないだろうか。そんな思いがありました。


だから、僕は彼女との思い出をどこか遠くへやりました。彼女と過ごした日々を、考えないようにしました。

きっと、あんな別れ方をしてしまったことへの罪悪感を受け止められずにいたのでしょう。思い出に蓋をして心の端っこに追いやっていました。彼女との思い出を僕はなかったことにしたのです。


そして、あの人が亡くなって、数年ばかり経ちました。






それは、高校二年の冬でした。

来年からは受験生であり、進路の話が出てくる中で、僕は何も考えてはいませんでした。医者となって親のあとを継ごうと思ったこともありましたが、あの一件以来、それは考えてはいません。今の僕の学力で医学部に進むのは無理でしたし、何より病気で亡くなったあの人のことを思い浮かべてしまうからでしょう。

自分の将来について、考えることができませんでした。正直に言ってしまえば、どうでもよかったのです。高校卒業と同時に家を出て、アルバイトをしながら、暮らしていける分のお金を稼いでいく。そんな生活もいいかと思っていたのです。



そんなとき、僕は街はずれにある桜が近々切り倒されてしまうことを耳にします。滅多に花を咲かせることのないというあの桜の木です。何でも、あの付近にショッピングモールをつくるそうで、その際に桜が邪魔になるそうです。


彼女は、亡くなる前よくあの桜の元を訪れていました。しかも、それは、頑なに閉ざしていた蕾を、花咲かせていた時。春ではなく、ちょう今くらいの寒い季節の頃でした。

もしかすると、桜の木が彼女を連れさらってしまったのではないか。そう、思いたい自分がいました。彼女は病気で亡くなったとわかっているのに、何の罪のない桜に自分の過ちをなすりつけようとしていたのです。だから、彼女が大好きだった桜が、僕は大嫌いでした。


だけど、あの桜が切り倒されると聞いて、ふいに悲しくなってしまったのです。僕自身でも矛盾していると思います。でも、僕が嫌いでも彼女は好きだったから。あの人との思い出は心の奥底に仕舞い込んでいたはずなのに。あの人がよく訪れていた桜がなくなることで、今度こそ、彼女のいた証がなくなってしまうのではないか、と。僕は悲しくてなりませんでした。



僕は桜の木を訪れてみることにしました。彼女が大好きだった桜を最後に一度だけ見ておきたいという気持ちと、彼女のことを思い出してしまうから見たくない気持ち。そんな相反する気持ちが交錯し、とても複雑な気分でした。

ちょうど、そのときは雪が降っていました。吹き荒れる風が、僕の頬をじりじりと痛め付けます。だからこそ、僕が目にした光景は異常なものに見えたのです。



――桜が、咲いていたのでした。



これは、神様の悪戯なのでしょうか。滅多に咲くはずのないはずの桜が、今僕の目の前で咲いているのです。


大樹に手をついて、僕はしばらく桜を見上げていました。大嫌いな桜に目を奪われるなんて非常に屈辱的ではありましたが、しかし、そのくらい美しかったのです。狂った時を刻む冬の桜。雪空の下、花弁をほころばせ、雪に紛れながら降り注ぐそのさまは、額縁に収めて、絵にしてしまいたい気分でした。


すると、ふいに僕の意識が飛びました。急に視界が真っ暗闇に包まれてしまいます。一体何が起こったのか。そのときは、まだ、わかりませんでした。



そして、やがて、意識が戻り、僕はまぶたを開けました。目を擦りながら周囲を見渡すと、おぼろげだった視界が段々とはっきりとしていきます。僕の瞳が映し出したのは、桜の花弁と雪の結晶が宙を舞う光景。先ほどものとさほど変わりはありません。変わっていたのは、空の色くらいでした。

きっと、疲れのせいでしょう。いつの間にか僕は眠ってしまっていたみたいです。それにしても、日が落ちるまでこんなところで寝てしまうなんて不用心にもほどがあります。そう自分を咎めながら、僕は家に帰ろうとしました。


すると、不意に誰かの視線を感じました。こんなところに人がいるなんて思いもしません。僕は警戒しながら、視線のする方を向きました。



――そして、その視線の先にいた人を見て、僕は言葉を失いました。



桜の木の下にはセーラー服の少女がいました。黒い三つ編みが夜風に吹かれ、ぱちりと大きな瞳をした栗色の瞳がこちらをじっと見つめています。最初はまだ夢でも見ているのかと思いました。ありえない。だって、今僕の目の前にいる人はもうこの世界にいないはずなのだから。


すると、少女は小さな悲鳴を上げると、瞬く間に走り去ってしまいました。待って、と呼び止めてはみましたが、僕の声は彼女には届きませんでした。

少女が何かを落としていったのに気が付きます。それはどうやら紙袋のようで、飾りが施されていることから、誰かにあげるプレゼントだということがわかります。中には、緑色の包装紙に包まれた四角い箱と、その上にぽつりと置かれたメッセージカードがありました。僕はそれを手に取り、そして、恐る恐る捲ってみました。




ハルキくんへ


11歳のお誕生日おめでとう!

これからも、仲良くしてね。


              メイより



メッセージには僕の名前と彼女の名前がありました。そして、このメッセージは確かに見覚えがあります。そう、僕が11歳の誕生日の時に彼女から貰った赤いミニカーと一緒に付いていたものです。だとすると、この紙袋の中には――。





この桜にまつわる噂話は、どうやら本当だったようでした。

滅多に花を咲かせない桜。それが、花開く時、亡くなった人にと会わせてくれるのだといいます。そして、桜の木は確かに会わせてくれました。



亡くなった人が存在していた時間へと、僕を連れていってくれることによって――。








メイちゃんは、僕のことを「幽霊さん」と呼び、よく僕の元へやって来てくれました。しかし、僕を亡くなった人だと勘違いしている彼女が、僕の正体に気がつくことはないでしょう。


大切だったはずなのに、捨ててしまった時間。

桜がメイちゃんがいた時間に、僕を連れていってくれました。

そして、この時間は過ぎ去ることなく、元通りに戻ります。桜は一度散ってしまうと、また咲いていた頃に戻るのです。夜空いっぱいに咲き誇る桜の下で、メイちゃんに出会う時間へと巻き戻してくれます。僕は捨ててしまった時間を、何度も何度も繰り返しました。

メイちゃんは桜の花びらが散ってしまうと共に、その命を落としていきました。そして、また、桜が咲き誇ると共に蘇る。捨ててしまった時間を取り戻すように、メイちゃんとずっと桜の木を見ていました。



でも、メイちゃんと桜の木を見るのが怖いと思う僕もいたことは確かです。メイちゃんとの思い出を作るのが怖かった。僕は不器用だから。だから、昔の僕のように、またメイちゃんを傷付けて終わってしまうのではないだろうか。それが、怖くて怖くてしかたありませんでした。また、大切なメイちゃんとの思い出を、悲しいからという理由で、忘れようとしていた僕が、今更、彼女との思い出を作る資格なんてないような気がしたのです。

だから、この時間が思い出だと言ってくれたメイちゃんの言葉を僕は否定してしまったのです。それに、元々存在するはずのない時間を思い出にしてどうするというのでしょう。この時間は、桜が散ってしまえば、なかったことになってしまい、そして、何事もなかったかのように元に戻ってしまうのですから。



正常に刻まないこんな狂った時間の中ではなく、ちゃんと過ぎ去る時の中で、メイちゃんと生きていたかった。だから、僕はメイちゃんの運命を変えたいと思っていました。桜の木に花びらが咲いていなくても、メイちゃんとまた一緒にいたい。彼女が病気で死ななくてもよかった未来がどこかにあるのではないかと思いました。


でも、いくら時を繰り返しても、メイちゃんは必ず桜と共に、その命を散らしてしまいます。何百回も、彼女の死を見てしまいました。僕はどうしてもそれが許せなかった。やり直してもやり直しても変わらない運命。でも、それをどうしても変えてほしいんだ。そう懇願するように僕は好きでもない桜を何度も何度も見上げました。

しかし、桜はただ繰り返すことしかしてくれませんでした。メイちゃんが亡くなってしまう運命を変えてはくれません。僕が最も見たくない思い出を、桜が嘲笑うかのように、見せつけてくるのです。



どうしたら、メイちゃんを死から守ることができるのかわからなくて、僕は桜に操られるままでした。

幽霊さんの笑顔が見たいから、と。そう言って、桜の下で笑うメイちゃんはいつも綺麗でした。永遠に繰り返される時間の中で、その笑顔だけが、僕が生きる意味でした。メイちゃんの笑顔を見るたびに、彼女がいつまでも笑っていられますようにと、強く願ってしまうのです。



でも、同じ桜を何度も見て、僕は悟りました。この桜は繰り返すことは出来ても、変えることは出来ないのだと。僕がどんなに足掻いても、メイちゃんの死は必ず訪れました。僕は無力でした。僕の我儘のせいで、彼女をたくさん死なせてしまいました。



しかし、それでも、メイちゃんは最後まで笑っていました。幽霊さんが悲しむことがないようにと、僕に会いに来てくれました。彼女は明日を生きようとしていました。

変えることは出来なかった結末。でも、それに抗おうとするのは、彼女の人生を否定してしまっていることになるのではないだろうか。そう、思うようになってきたのです。その死が決して不幸なものだったとは。思えなくなってしまったのです。――だって、メイちゃんはいつもだって、あんなにも幸せそうに笑っているのだから。



僕はメイちゃんの死が悲しかった。最後に彼女を傷付けて終わってしまった時間を認めたくなかった。でも、だからといって、その結末を変えようとするのは、とても酷いことだと思いました。その死さえも、メイちゃんの大切な人生の一部でした。僕が気に入らないからといって、存在するはずのない時間を繰り返し、メイちゃんの人生を何度もやり直しさせてしまっていることこそ、悲しいことだったのです。






激しい雨が降りました。

雨に打たれて、花びらが落ちてしまいました。ああ、もう少しでメイちゃんと終わりの時が来る。メイちゃんが僕の世界からいなくなるのは、雨上がりの日のことでした。

僕はメイちゃんの結末を知っています。でも、もう僕はどうすることもしませんでした。



雨上がりの朝。

メイちゃんは僕に会いに来てくれました。きっと、これがメイちゃんと一緒にいられる最後の時となるでしょう。

桜の上から眺める街の風景は綺麗だから、と言って、僕はメイちゃんに桜の木へ登るよう促しました。差し出した僕の手を握るメイちゃんの手。その手は、まるでこれから迎える死を暗示するかのように、酷く冷たいものでした。



「私ね、よく人に悲しい思いをさせてしまうんだ。お母さんは私のせいでお父さんと別れてしまったし、この間は、ハルキくんを傷付けてしまったの。だからね、私は誰かを幸せにできる人間になりたいの。みんなが悲しむことがないように、幸せに笑っていてほしいんだ」



桜の木の上で、メイちゃんはそのように告げました。何百回と繰り返す時間の中で、何度も聞いてきた言葉です。――大丈夫、きっとメイちゃんならできるよ。今まで、僕はそう返していました。メイちゃんの結末を変えることこそが、彼女にとっての幸せなのだから、と思っていた僕は、これから訪れる彼女の運命を知りながら、薄っぺらな嘘を吐いていました。


でも、もう嘘は吐きませんでした。だって、それは本当は叶うことはないことを、僕は知っているのです。メイちゃんの死に向き合う以上、悲しまないでいることなど、できないのです。彼女が大切だったから、僕は悲しんで傷付くことを選びました。



メイちゃんと別れる時、僕は彼女の名前を呼びました。かつての僕が呼んでいた、そのままの呼び方で。メイちゃんは少し驚いていたかのように、僕の方を振り向きました。




「ごめんね。――ずっとずっと、大好きだよ」




――あのとき、メイちゃんのことを大嫌いだなんて言って、ごめんなさい。

僕は今までずっとメイちゃんに言いたかったことを、やっと、言うことができました。メイちゃんの瞳には「ハルキ」ではなく、「幽霊さん」として僕のことが映し出されているので、きっと何のことかわからなかったのでしょう。しばらく、不思議そうな顔をしていました。でも、それでも。最後には、やっぱり彼女は笑っていてくれました。



僕はもう彼女を追いかけることはしませんでした。メイちゃんを引き止めそうになる自分自身を必死になって抑えつけました。これから死に向かうメイちゃんを静かに見送りました。

僕はメイちゃんの死を、このとき初めて、受け入れられたかのように思います。大切だったはずなのに、捨ててしまっていた思い出を、これからは背負って生きていこうと決めたのです。




――――さようなら。僕の大好きな人。







気がつくと、僕は地面に横たわっていました。ゆっくりと起き上がりながら、辺りを見渡すと、そこは、あの桜の木が切り倒された後でした。立ち上がり、僕の膝下にまでになってしまった大木を見下ろしました。そこから見える幾重にも重ねられた年輪が、桜の木がこの街で長い年月を過ごしていたことを示しています。

どうやら、僕は元の時間へと戻ってきたようでした。メイちゃんのいない世界に、僕はただ佇んでいました。



ひゅうと風が吹きました。すると、僕の肩の上に乗っていた桜の花びらが宙を舞います。いつの間に、乗っていたのでしょう。今まで、その花びらに気が付きませんでした。

冷たい風に運ばれて、遠くの空に消えていくその花びらを、僕はいつまでも見送っていました。









それから。

僕は医者となりました。家の跡を継ぎ、今日もあの街で生きています。

たまに僕はあの丘だった場所を訪れることがあります。桜は大嫌いだけれど、でも、もしかすると、メイちゃんが季節外れの桜を見上げながら、笑っているのかもしれない。そんな小さな小さな期待がありました。




ですが、メイちゃんと一緒に見たあの桜はもう、どこにもありませんでした。

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