7章
7章
1.
この日記が書かれたのは、どうやら五月二十三日だということだった。時刻はおそらく夜以降、つまりぼくとかえるちゃんが家に帰ってから以降の時刻だと推定して構わない。その証拠に、彼女が乗ったというバスの運転手が商店街前で降りていったと証言している。
名前は比島涼花。ぼくらと同じく花園学園の生徒だ。学年は二年。クラスはD組。
彼女の友人たちが誘拐された前後の時間帯を鑑みると、比島涼花は最後に誘拐されたようだ。しかし他の二人の友人が誘拐された形とは少々異なる経緯を辿って誘拐されている。誘拐に何か差異があるとすれば、それが犯人に連れ込まれてか、狂言か、自ら誘拐犯の現場へ乗り込み、自分もまた捕まってしまうがそれも誘拐と呼ばれる故の誘拐か、経緯が異なる。
だが、彼女のされた誘拐はそのどれもと違っていた。比島涼花は誘拐される前に、ぼくに直々の依頼書を送ってきている。この日記も自身がどれくらい本気で依頼してきているかという証明のために送ったものだ。時折ふざけて、自分を注目させるために何かを偽る人は存在するが、報道では語られていない、およそ信ぴょう性のある(これは六旗朱莉刑事に裏を取った)事実も語られていれば、背筋を正す他ない。
ぼくは五月二十六日にこの手紙を読むことになった。その二日前、五月二十四日に比島涼花は誘拐されたと思われている。その午前に、ぼくは彼女との会話を果たしている。正確に言えば、手紙による会話だけど。その時点で、比島涼花は自分が誘拐されるとわかっていて、ぼくと会話をしに来たのかわからない。ぼくは彼女の行動が理解出来ないとは思わない。依頼人はどのような形にせよ、何らかのSOSを発している。それに気付くこともあれば、気付かないこともある。もし彼女の救援信号に気づいていたなら、その行動をぼくが止められていただろうか。答えがいかにあるにせよ、もうその時刻はとっくに過ぎてしまっている。
しかしこれは比島涼花自身が望んだ展開でもある。ぼくが彼女を止めなかったこと、彼女が誘拐されたと推測出来ること、そしてその誘拐に、三音ツバサが関わっていること、その裏に、当然の如く六旗尊の論理の渦が存在すること。そしてその全ての時間の集約はこの花園クロニクルに最初から収められている物語でもある。そう。これは時間の概念とその流れをなぞらえた物語。万物の流れの物語。その全ての効果が発揮されたとき、ぼくはたぶん愛を知る。でもきっとそれはぼくだけじゃないんだと思う。
2.
比島涼花と話したのは、五月二十日の午前、二時限目だった。合同科目である書道のクラスで彼女とぼくは隣り合った。かえるちゃんとアキは音楽を選んでいた。だから基本的にはぼくは一人だった。彼女も友達と書道を選んでいたが、この日は違った。あえて、ぼくの隣に座ったのだ。
今思えば彼女にとっては、ぼくに話しかけるまたとない機会だったのかもしれない。
最初、彼女はにこやかに微笑んだ。お互いに道具を机の上に置いた後、彼女はぼくに事前に用意した手紙を渡して読ませた。彼女のハンドクリームのほのかに甘い香りがした。そこには友達を救ってほしいとあった。誰かとは名前すら記されていなかったが、ぼくはそれが誰のことか知っていた。
見坂由美、木下良香の二人だ。十七日の報道にある通り、彼女たちはゴールデンウィーク明けの週を最後に学園に登校することはなく、家族側から警察へ捜索願が届けられていた。要求こそはないが、推測するに誘拐か、暴行監禁目的かのどちらかだろう。しかし本学園の生徒が連続して行方不明となり、その後捜索願が受理されるも、救出に至っていない状況だ。これを踏まえると、ここに六旗尊の一連の事件と何も関連性がないと考えるのはもはや難しい。今やぼくらはどのような事件もと言うと大袈裟だが、この街のごく近しい事件は全て彼がコントロールを得ているのではないかという疑問に縛られている。それは無理もないことだった。
当然今回の事件も、ぼくは彼が大きく関与していると見ていた。以前あった皆口ゆかの誘拐含め、行方不明の女子高生三人と、学園の生徒である比島涼花との関係性を知れば、ごく自然に関係すると考える。少なくとも、ぼくはそうだった。
ただその裏付けに至るものが少ないと警察としては立場を同じくするかはわからない。警察も一つの合同捜査組織なのだから、他の可能性全てを念頭において捜査する。優先順位から言って、関連性があると見ていると意見が上がっても、公に断言は出来ない。したがって、この誘拐事件の最後の四人目が誘拐された時点で、この推測は成り立つのだ。それまでの間は一応関係性も考慮して、捜査を続ける、という意思で事は進む。それはぼくにとってはありがたいことでもあった。なにせ依頼進行の妨げが一つ減る。もし警察が、比島涼花の行動範囲を手早くリサーチしてしまえば、比島涼花の目的は達成されず、事件の形を変えてしまうかもしれなかった。
まあそれも杞憂に終わりそうだ。こちらは上手くいくだろう。
だが警察のほとんど全員は、六旗朱莉刑事以外はこのことを知る事はない。どの地点かはわからないが、捜査に関する足止めが彼らには用意されていた。もちろん六旗尊の手によって。
ぼくは比島涼花がこの一連の誘拐について何かわかっていることはほとんどないと思っていた。最初の依頼の時点では。しかし彼女の残した手紙を読んで、気が変わったし、六旗尊との関連性を疑い始めた瞬間から、また一筋縄ではいかない事件が起こったのかと考え出したものだ。
そしてもし今回の事件に真相があるというのなら、それは最初からぼくは知っていたはずだった。ただ理解に追いついていないだけで、ぼくは比島涼花に伝えるべきことを伝えなかったのだと思う。比島涼花が理解していたら、彼女はどうなっていたか、比島涼花が理解していなかったら、彼女はどうなっていたか。この二分する領域がどの過去から始まっていたか、今からそれを探り当てるのは果てしなく、難しい。
一つ言えるのは、比島涼花がどちらの分岐にいたにせよ、彼女はいずれにせよ、友達を救おうとしに行ったことはわかる。どう足掻いても、ぼくは彼女を止められなかったのだから。彼女は自分を信じるが故に、先へ進んだ。手紙のやり取りは結局互いの役割を明確にしたに過ぎなかった。ぼくらのやり取りを遮るかのように、先生の視線をそれとなく感じた。気のせいかもしれない。でも授業が終わって、ぼくと彼女はこの事件について話すことなく、その時間を終えた。もちろん改めて話を聞こうとは考えてはいた。しかしおおよその事情は知っていたし、彼女と手紙を交わしたことで、依頼を受けると言ったようなものだ。受ける必要がなければ、ぼくは彼女のことを無視していただろう。それに最初からぼくは彼女を止められないと考えていたこともその要因の一つだった。
そして比島涼花は最初の通り、誘拐された。
最後の手紙に書かれていたのは、駅内の地図とそのロッカーを開ける暗証番号だった。どうしてその方法を選んだのか初めはそれとなく、彼女が行方不明になったあとで、はっきりとわかった。もし彼女自身が誘拐されたとわかれば、家族は彼女の部屋を調べるだろうし、警察は彼女の部屋を捜索する。学園に関しても生徒が触れるようなところに、彼女の私物を置くことはない。しかし彼女が見られていなければ、(そうなると警察からの協力要請により、ロッカーは固定される)、この一連の行方不明事件に繋がっていく一次資料がそこで見つかるはずだった。
比島涼花が誘拐されたと報道を受けたのは、五月二十五日の昼だった。でもぼくらは既にそのことを知っていた。五月二十六日の昼の時刻には六旗朱莉刑事から、この一件が彼の計画であることを知らされた。そしてそれを教えたのは、白永谷さゆだった。実行犯は三音ツバサだった。
ぼくらは二十五日の夜に、比島涼花の依頼を引き受けると決めていた。だから二十六日昼に、六旗朱莉刑事から連絡を受けた後、ぼくはそのロッカーについて話した。
「まだ押さえていないよ。順番から言えば、二手に分かれて彼女の部屋の捜索、学園側へ捜査協力依頼。そして目撃情報の収集。もしそのことが表に出るとすれば、もう少し後になるかもしれない。しかし油断はしないでほしい。その情報もすぐに集め始めるだろう。手遅れになる前に、持っていくべきだな」
「わかった。すぐに向かった方が良さそうだ」
この連絡の後、ぼくは早退することにした。そしてこれは夜に聞いた話なのだけれど、この時既に比島涼花も早退し、学園の外に出て行ったとある。もちろん行方不明になった友達を救いに行ったのだ。成すすべもなく、彼女もまた捕まったのだろう。その犯人に。三音ツバサに。
ぼくは手紙にあった駅内にあるロッカーへ向かい、彼女が使っていた番号のパスワードを押す。ロックが解除されると見えたのは、プリントアウトされたA4サイズの資料数枚がファイリングされていた。それをカバンに仕舞い、家に持ち帰ってその資料を読む。
これはまだ公開されている比島涼花の「T・о.y」内にある日記には載せられていない部分だった。文面から察するに、何年か前にこの街で起きたという事件を元に、この日記は書かれている。
3.
五月一日。
「あたしはそのバスに乗って、眠っていた。その日は友達が皆予定あったし、たまには一人で行ってみようと駅チカのマンガ喫茶に寄った。夜までの時間を過ごしながら、気になっていたマンガを何冊か読んだ。その帰り道のバスは珍しく人は少なかった。一人か二人いたぐらいだ。いつもは座れない事が多い。確かそのことは「T.о.y」にも書いてはずだ。うん、書いている。でもちょうどいい。ちょっと眠たかったから。それで家近くの停留所まで眠っていた。運の良いことに、あたしは停留所前の何十秒か前に眼を覚ましたから、乗り過ごさずに済んだ。学園祭の疲れかもしれない。あたしはポスターデザインとそのコメントを編集する仕事を任されていたから、その疲労がちょっと回ってきたのかも。きっとそうだ。
最初に、あなたがチームリーダーだと先生は言った。ありていに言っちゃえば、みんなが作るポスターを上手くアルバムっぽく仕上げて、廊下の壁紙に並べる仕事だ。それをあたし一人でやれと言うのだ、それってなんなんだろうと思う。理由はわかっているけどね。
まぁそれがひと段落した日に、こうしてちょっとだらけようかなって思っていたら、いつものメンバーは予定が出来てしまった。三人とも理由は違う、けどまぁそれも仕方がない。
バスの中で、夢を見ていた。違うな。寝ながら、昔のことをつい思い出したんだ。
うんと小さい女の子。小学一年生の夏休み。
その年では記録上の真夏日。夜はねっとりとして眠れなかった苦労がたぶんあった。あたしは親戚の叔父さんと裁判の傍聴に出かけた。夏休みの宿題はと叔父に聞かれ、まだないとあたしは答えた。夏の終わりも近かったし、それ以外に特筆すべき、成果を挙げたわけでもないので、叔父さんの仕事を見に行ったらとママにも言われ、まぁそうだなと思った。叔父は行政書士の仕事をしていた。弁護士と違うことはわかったが、よくここには出入りするらしかった。
叔父の年老いかけた手が裁判所を指した。暑いな、ジュースでも飲むかと自販機の前に立ち、硬貨を入れる。缶ジュースを飲む。叔父は時計を見ながら、あと十分ぐらいだなと言った。映画みたいに時間があるのかと思った。何か紙芝居のようなものでもあればいいなと期待していた。
でも今思えば、そんなことあるはずがない。
材質がやや固めの傍聴席に座った。その時間が来るまで少し話した。
聞くところによると叔父は過去に借入金や医療訴訟なんかの裁判を見て回ったそうだ。
その人はここで全てを決められると叔父は言う。
すべて? あたしは聞き返す。
そうだ。全てといっていい。人生における大事な時に対して、と言った方がいいな。一番大事な時だ。お前にもあるだろう。誕生日とか、クリスマスとかな。大切にしたい時間だ。
あるよ。友達とか、パパとママのことも。
そうだ。その人だけに限らないが、お前もいつかあそこの席にいる人と同じく、決断をするだろう。
叔父は裁判長の席を指さす。あたしはそっちを見る。一番上の席だ。
ああ。これはもっと涼花が大人になったら、わかることかもしれない。いや、きっとわかるよ。とにかく大事なときだ。
それで?
それで、その時のやり取りが全てここで記録される。何を喋ったか、何を喋らなかったか、でも何を想ったかは書かれることはない。それをここから見ていくんだよ。誰でもそうだが、わからないものに対しては想像する他ない。
叔父はそのようなことを言っていただろう。
でも小学生の頃の日記なんて、もう捨ててしまっているから、気持ち以外のところは正直覚えていない。だからこれはちょっとした想像だ。
けど、叔父さんは裁判の後、あたしに言っていた。
だから涼花も気をつけなくちゃいけないよ。
でもあたしは、いったい何に対して気をつけるべきなのか、それからどうしたら逃げられるかはわからなかった。男の子と一緒にやったゲームみたいに、クリア出来るかな? それって?
あれから少しだけ先の未来。
去年の夏にもう一度同じ場所へ裁判の傍聴に行ったことがあった。そのときの記憶もあったし、昔の記憶と混同しながら、今日のことを思い出してみている。
そこでまた何かが違うってことに気づいた。でもそうじゃない、全部最初からそうだった。あたしが気付くのが遅いってだけだ。気をつけるのが遅かったのだ。何もかも。
あたしが住んでいたときから、この街は実はずっと物騒で、ずっと危険な場所に変わりつつあるということだ。この街、花園市において犯罪って用語が使われるのは誰かのジョークか、年に一度や二度の報道事件くらい。そう、希なことだった。
そんな事件よりも友達同士の些細な言い合いとか、電車内でのちょっとした注意が最高レベルの人のもつれ。なのに、それだって年に数度見かけるか、それすら自分が言うか言われるか。世界情勢に比べて、極めて珍しいレベルの平和。
ここ最近のことや他の街のニュースを見るとむしろこっちが異常なんじゃないかって思えるぐらいだ。
でも今は、それが昔のことに変わった。
この街は学生同士のケンカや、例えば万引きをはじめとする軽犯罪に繋がるケースはめっきりない。一度警察関係の人たちが学園に麻薬撲滅キャンペーンの一環で話してくれたけど、ここはそういう場所なのだ。けど、最近の話。別のクラスの皆口友紀って子が誘拐されたんじゃないかって聞いたときは皆やっぱり不安になった。殺人って言葉がよぎった。
それに。
前に、一度、血に濡れたビルの壁にすれ違ったことがある。
予備校の試験に行ったとき。去年の冬頃だ。
ちょうど警察の人が薬品をつけたモップをかざして掃除しているところだった。やけに薬の臭いが気になって、立ち止まってしまった。他の人もうんなんだろうなと見てすれ違っていった。シンナーっぽいねと誰かが話していたけど、ほんとの薬品の名前はわからない。
ニュースでも聞いたのは、路上で大人同士の言い争い、お金の貸し借りのもつれだと言っていた。
だからこういう話が世に出るたびに、ったくさ、こんな物騒なところはごめんだという声は当然ある。犯人捕まったし、前々からそういやここには変なやつが多いんだよとか、とかくそうゆう話。
学校でも家でもファミレスでも、どこでも聞くような話だから、きっと街のどこでだってしているような話だと思う。
あたしだってしたし、あたしのママだってしたと思う。
それに。
こうした事件に嘆くのは地元のメディア、ニュース番組と決まって、あたしに関してはあんまりその話には乗り気じゃない。ただそういうのって嫌だねって程度のこと。人並みには関心あるってだけ。
あたしが興味あるのはその人の眼だ。
何よりもまずその人の眼を見る。眼で判断する。
嬉しい、悲しいがそこにあるって誰かが教えてくれた。視線に考えの先触れがあって、相手が何を言いたくて、何を口にしようとしないのかってことを考える。
いつか社会に出たら、これが役に立つと思えればいいけど、今はまだどこにも活かせるような機会に恵まれていない。失敗続きにも思えるし、このことに気がつけば、時既に遅しってこともままある。
だってね、そうゆう人がいつあたしの眼の前に現れるかなんてさっぱりわかんないし、もし出てきたとしても、成すすべもなく、死んじゃうんだろう。
さっき言っていた血に濡れたビルの壁の血の色は叔父のものだ。
今度はパパとママ、友達から、気をつけなさいと言われる。
かわいいからとか、スカートが短いからとか、とかくそんな理由で。
おまじないを唱えるように言う。
それさえ言えば、そう、なんとかなるってみんな思いたい、みたいな感じで。
いつもの朝玄関で靴を履いて、いってきますとあたしが言うみたいに。さよなら、じゃあまた明日ね、かもしれないけど。
だからたとえそこにいなくても自分でなんとかするしかないんだろうな。
最近ではいつも制服のポケットにスタンナイフを入れて、ときどきトリガーを引いて、ナイフがちゃんと動くかどうか確かめる。手入れって大事。肝心なときに使えないのは、やっぱり意味がないから。
もちろんそれは何かあった時のために。
それを見せるとなんか強そうって良香が言った。それで友達もみんな似たようなものを持っていたこともある。化粧品とか、風邪予防のマスクとか、色違いの制服リボンとかとおんなじ感覚で。
でも今まで使ったことはない。
人を傷つけたことがないから、これがどんな威力で、効果範囲はどうってことはわからない。所持しているのにも関わらず、通販ショップ程度の説明しか出来ないのだ。
これからはわからない。
そうだ。もうわからない。なんで友達がそんなことしたのかわからない。良香はそういう種類の馬鹿じゃなかったはずなのに。好きな人のために学園祭で使う台本を盗んだ。
あたしも由美も七瀬もこればっかりは助けられない。いや、言い訳が通用しないのだ。
五月二日。
ゴールデンウィーク前に、良香とは連絡が取れなくなった。今までは「T.о.y」やスマホとか使って、何かしら彼女のこと、足跡は辿れたと思う。あたしはすぐに皆口友紀って子を思い出した。由美も七瀬も同じ意見だった。良香は誘拐された。警察の人があたしたちの家まで来て、事情を出来るだけ細かいところまで教えておいた。綺麗な女性の人が主にあたしの話を聞いてきた。薬指の指輪からその人が結婚していることがわかった。
六旗さんって人。変わった苗字だなと思った。その人はわかりやすく事情を説明してくれた。たぶん言えないことも多いんだろうから、全部は教えてくれることはなかったけど。
皆口友紀って女の子のことも知っていたみたい。というか、その子がどうなったかってことも知っていたかもしれない。あたしが子供だから、じゃなくて、口にしないちゃんとした理由があるから、口にしない、そんな態度。
話が終わってその女の刑事さんが見せた顔はちょっと複雑だった。その意味はよくわからなかった。
五月三日。
由美の家に泊まりにいった日だ。本当は皆でパジャマパーティする予定だった。
でも今当分の目的は違う。表面上はそうだけど、二人で良香のことを話したかった。話せる相手は由美しかいなかった。七瀬は弟の面倒をみなきゃいけないからと今日は断られた。
あたしたちはとにかく明るく振舞った。いつもみたく。でも途中で泣いた。彼女の両親は旅行に出かけていたから、その涙を見たのは二人だけだった。でも泣き止んで、さぁカレー作ろうよと言ってお互いにちゃんと立ち上がった。それから、カレーを作った。料理は愛情だと言い聞かせて。
夜は二人で買った新しいパジャマを見せあった。二人で同じ毛布に包まりながら、皆口友紀って女の子の話をした。
「確かお姉さんがいたよね。皆口ゆかさんだっけ」
「うん。最近探偵の人たちと仲良くしているって話」
「行方不明の妹を見つけたいって理由で」
「じゃあもしかしたら」
「良香も探してくれるかも」
「でもお金がないよね」
「バイト代だけじゃ、足りないよね」
「けどさ、あたしたちよりもまず良香のパパ、ママがどうにかしようとするんじゃない。普通は」
「警察じゃ見つけられないし、そうなると探偵を雇う。探偵といったら、斧ノ目杏って人が有名だ。そしてその子は今年からこの学園に編入された」
「それはチャンスかもしれない」
「頼んだら、引き受けてくれるかな」
「言ってみよう。ダメだったら、違うこと考えようよ」
「でももし戻ってきたとしてさ、あたしたちは今まで通りの関係じゃいられないよね。良香がいなくなった原因は、台本を盗んだことにあるわけだし、それを謝らないでいなくなっちゃったら、みんなすぐに元通りにはなれない」
「うん、元通りにはなれない。でもだから新しい形とかに出来ないかなって思う。そりゃあ、表面上仲良くは難しい。けど、こっそりパジャマパーティとかやればいいかなって」
「涼花は甘いね。今まで四人が集まってパジャマパーティやっても、結果、良香は男を選んだ」
「それに違いはないけれどね」
許すか許さないかで言えば、あたしたちはどこにいるのか正直よくわからなかった。もし良香が戻ってきたら、あたしは曖昧なまま、彼女と友達のふりを出来たかっていうとたぶん出来ない。でもしちゃうかも。誰かが決めてくれればいい。けど。
その夜の結論はそんな感じだった。でも深夜一時を回って、思いは覆る。
隣で眠っている由美はすやりと眼を閉じている。トイレに行きたくなるけど、何だか怖くもあり、ちょっと我慢でもしようかと布団を被った。でも、思い直してやっぱりベッドを抜ける。
廊下に立つとまず電気をつける。壁に手をつけながら歩き、トイレへ向かう。終わった後、部屋の手前まで歩いたところ、由美の部屋から音が聴こえてきた。並べられた音色が宙に浮かんで、歌でも口ずさんでいるみたい。
何かの幻聴っぽく、着信音は鳴っていた。ベッドに潜りながらボタンを押して止めようとする。由美は寝相を変えるぐらいで、眼は覚まさない。着信画面にはメッセージが一件入っている。誰かなと思う。七瀬か七瀬の弟のユウチかも。でも違った。
受信相手は、良香だ。彼女からのメールだ。メッセージを開く。なんだちゃんと返事くれるんだとあたしは思う。でも違うみたい。
動画。動画付きで、スクロールすると勝手に映像が流れる。
その部屋に、彼女がいる。後ろを向かされている。でもそこは良香の部屋でも彼氏である飯沢くんの部屋でもない。良香は喋る。す、涼花とたぶん言っていた。思うに、言わされていた。それ以外の言葉は聞き取れなかった。カメラが移動し、正面を向く。酔っ払って、姿勢を崩した格好だ。ただ赤黒く染まっている。画質の粗さがその色を隠していた。けど、血。血のせいで良香の表情が読み取れない。制服。シャツとその奥にあるものは開かれて、何かがだらしなく垂れていた。胃、それから腸。そういうの。
場所は、ホテルのようだった。家具や鏡の配置からして。でもどこだろう。そこは。そんなところ。
支えの椅子から転げ落ちて、首にかかった縄は彼女を縮めていく。柔らかい文字のような人の形。声は次第になくなっていく。息に伴うぐらいの声。よだれは見えない。でもたぶんよだれだ。そこであたしは彼女が死んだのだと悟る。
二回。その動画を見る。由美を起こそうか。どうしよう?
迷った挙句、あたしは由美を起こす。その動画を見せる。彼女の冷え切った顔。同じことを思ったはず。あたしたちは二人でこのことは秘密にしようと誓い合う。七瀬にも言わないようにしよう。
そう約束した。
でもあたしはその約束を破る。探偵に、このことを知らせようと思う。
五月四日。
由美とは連絡が取れなくなった。良香と全く同じ方法で。だから警察の人に由美がいなくなった前後の事情を聞かれても、不思議と平然に答えられるようになっている。六旗朱莉刑事って人は同じ姿勢で、同じ口調で、事件についての質問をあたしに投げかけた。答えは同じだ。あたしは知らないのだ。その事件について。
でも察するに、皆口友紀って人と、良香と、由美が行方不明扱いになったのは、どれも別々の事件のような気がする。そこから先を当然知りたいと思うけど、あたしにそんな頭はない。想像もここまでだ。
斧ノ目杏。この学園内の唯一の探偵だそうで、幾つかの事件をこの一ヶ月で解決しているって話。この実績と知能。もちろん全て一人で事件を解決したかについてはちょっと話に出てきたこともある。
けど、もう誰も事件の真相を知ることが出来ないのなら、その真相に最も近い人に任せるのが一番じゃないかって結論だ。
たぶんこの日記を読んだ頃には、探偵である斧ノ目杏って子は推理し始めている。
どうかあたしを見つけてください、杏さん。
あたしは自分の意志でそこに向かってみます。もしメッセージが出来るなら、その場所からあなたにSOSを送ります。
それでは、さようなら。
4.
「七瀬さんって子に会ってみようよ」かえるちゃんはそう提案した。この先の展開を踏まえれば、手順の一つとして彼女に会っておく必要はあった。しかし一連の事件について、七瀬が知っているようには思えない。
「でもさ、杏。七瀬さんの身の安全をあたしたちで何とかしてあげられるんじゃない。そして事件も解決してみせれば、六旗尊にだって近づけるかもしれないじゃん」アキが言う。
「警察関係の人が彼女の自宅周辺を巡回するだろう。彼女の行動を逐一、行きと帰り、主に地下鉄や商店街一帯がその対象となる。当然学園もその範囲だけど、警戒レベルは下がると見ている。六旗朱莉刑事が七瀬って子の警護に当たるそうだ。だから安心はしていいと思う。でもこのまま、何も起こらない可能性も充分ありえる話だ。比島涼花までが犯人の、いや、三音ツバサの狙いであるとするなら、これ以上の被害は広がらない。二人の生死の判断もまだつかないし、この二人をどうするかによって、彼女の目的が成功するか無になるかが決まる。だとするなら、容易に手をかけるなんて真似はしないはずだ」
「三音ツバサの目的を考えるとね、やっぱり六旗尊自身に、花園クロニクル自体の修正を求めていると思うんだ。そのためにこの事件を起こして、交渉に必要なカードを増やしていく」
「しかし問題は、彼が交渉に応じるかどうか」
「もし応じない場合は、最悪のケースになる。でもどうやって彼女は六旗尊と交渉するつもりなんだろう」
「白永谷さゆを使えばいい。ないしは直接連絡を取るか。ただそうした方法を取ったとしても、ぼくらがそれをどうやって知るかってことだ。三音ツバサが六旗尊だけにこの事件を通じてコンタクトを取ろうとしているようには見えない。報道の取り上げ方を見れば、三音ツバサにメディア規制をかけるだけの力はない。つまりこの事件じゃない部分を、表舞台に差し出そうとしている。それが花園クロニクルの歴史の修正が目的だとして、本当にそれだけが理由に当たるのかどうかってことだ」
「それも案件に入れておこうよ。まずは七瀬さんに会って、六旗朱莉刑事にも意見を仰いでみよう。あとは白永谷さゆと三音ツバサの動向を伺う、ひとまずそんなところでいいんじゃないかな。杏ちゃん」
「まぁひとまずは」それからアキが調べてくれた島田七瀬の住所を元に、彼女の家に行ってみることにした。でもその前に、学園内でひと声かけておくべきだ。出来れば、ぼくたちだけで、秘密を共有出来るような話をしたいと思っている。悪い話じゃないから、と安心させることが目的の話し合いだ。
5.
学園内での彼女たち四人組の評判と言えば、そう驚くものはない。仲良しで、いつも一緒で、楽しそう、こう平坦な言葉が並べられる。
島田七瀬はそうしたグループに一人はいそうな、物静かで大人しいタイプの外見と中身だった。平凡なくらい、他の三人と比べては目立たない。
だからといって暗く、物怖じすることはなく、相手が、この場合ぼくらがどのような目的で話しかけてきたかを彼女はそっと感じ取り、ここではない場所で話し合う方がいいのではないかとさえ提案してきた。
しかし友達が三人も行方不明扱いとなっているのに、この妙な落ち着きの出処は、彼女の暮らしからその理由は見つけられた。島田七瀬は弟であるユウチと、彼女たちの母方の祖父母と四人で暮らしている。商店街の並びにある古書店が彼女たちの住まいだった。二階建てで、一階が古書店及び祖父母の家となっていた。彼女たち二人は二階に部屋を持っていた。両親が先に亡くなり、財産の一つであるこの家を彼女は相続したと言っている。実際には彼女の祖父母が管理する決まりになっていたが、いずれ祖父母たちも七瀬にこの家を相続させるか、売却手続きを取るかのどちらかを選ぶのだから、あらかじめ七瀬に名義を残した方がいいだろうということになった。つまり彼女は比島涼花たちが将来的に考えなければならないことを先取りした形で生きている。ただその大人びた顔から時折離れたように彼女は笑う。緊張はそこに感じられない。
彼女の祖父母たちはそのような孫の姿を見て、しみじみといった形で喜んでいた。ぼくらと一緒にいて、笑顔でいる。それは報道を幾つか見て、事件に悲しむ孫娘を慰めにやってきてくれたのだろうと見て取られたようだ。ただぼくは彼らに真相を話すことはない。彼らがこの渦中に触れるのはこのような意味でいいのだと思う。
「弟のユウチはね、今遊びに行っているから」つまりぼくら四人以外は、この話を聞くことはないのだということを示唆していた。
「早速だけど、ぼくらが七瀬さんに聞きたいこと、話しておきたいことがあるんだ」
「それはやはり事件のことですよね」
「そうだ。何か知っていることがあれば、教えて欲しい。これは警察にも聞かれたことであるのは承知の上だ」
「私は知っていることは皆が行方不明になった理由がわからないことです。涼花たちから、連絡が来たこともないんです」
「いなくなる前に、何か予感とかしませんでしたか。例えば誰か見知らぬ人と会っていたとか」
「ほとんど皆と一緒にいましたけど、特にそう感じるものはありませんでした」
「わかった」
「では、次に私が質問しましょう。七瀬さんは花園クロニクルについてどう思いますか」
「学園祭の舞台の台本以上とは思いません。でも、良香が起こした事を考えると、それが何か重要な意味合いにも思います。具体的にどうって言うとなるとそれも困るんですが、ただ良香は願いを叶えたかった」
「でも方法を間違えた」
「それ以外にもしあると良香が気づいたなら、こうはならなかったかもしれません。生きていてほしいとは思います。友達だし、彼女にいなくなってほしくはないです」
「うん。じゃあ、これで最後の質問ね。七瀬ちゃんは彼女たちの居場所のこと知っているんじゃない、もしかしたら」アキはそう訪ねた。
「私自身はわからないです。ですけど、警察の人たちがこの周辺ではないなということを話しているのは聞きました。それとなく、聞きかじった程度と私の想像で言うなら、行方不明になった人たちを長く一つのところに置くのに適している場所は限られているのではないでしょうか」
確かに島田七瀬の言う通りだった。先日見た比島涼花の日記、三音ツバサとのやり取り、警察捜索範囲から推測するまでもなく、彼女たちの居場所は、かつて皆口友紀が見つかった場所しかあり得なかった。しかしそこでぼくらは三音ツバサと会うことはなかったし、彼女もまたそこでは会うつもりはなかったはずだ。
ただ本来の歴史から辿る道と風景を、三音ツバサは明らかに変えようとしている。彼女の要求を鑑みても、ひょっとすると何もなされずに彼女は逮捕されることだってありえるはずだ。直に警察が現場を押さえ、事件は終幕に向かうことは明らかだった。だとするなら、ぼくらの役割はまた決まっていた。ここでは六旗尊からしてみれば、彼の描いた歴史の顕微線のように、三音ツバサによって乱された事件ですら、利用している風にも感じられた。これは大した間違いではなく、ちょっとしたケアレスミスなのだと言わんばかり。
だからぼくらが島田七瀬の家に行くことも織り込み済みかのようで、話が終わったそのすぐ後に、白永谷さゆから連絡があった。
「良い事を教えてあげましょうか」
「君たちにとっては、だね」
「まぁね。それは。良い事っていうのはね、比島涼花と見坂由美の居場所を教えてあげようってこと」
「聞こうか」
「例のホテルの、五階と十五階に彼女たちはそれぞれいる。部屋番号は言わなくてもすぐわかると思う。見ればね。ただ肝心の三音ツバサは最上階のバーにいる。最後の演出のためにね」
「やけに親切なんだな、君は」
「全ては六旗尊のため、だから」
「彼のことが好きなのか」
「頭のある探偵じゃなくても、わかることじゃないかな、それは」
「わかった。本当にこれで最後なんだな」
「そうね。ちょっと感慨深いものがあるけど、まぁ感傷に浸っていたら、出来る仕事も出来なくなってしまう」
それから電話が切れた。ぷつっというコール音がこの部屋に小さく残った。
6.
島田七瀬の家を後にすると、ぼくらは探偵事務所へと戻った。ここ一連の最後の事件、これが最後の夜になると思い、全ての身支度を済ませた。ぼくらは何か話したかもしれない、笑顔でいたかもしれない、悲しい顔だったかもしれない。でもそれですら、何か作り事のような感情で心に残った。頭の中にあるのは、ぼくの考えじゃない。演者が古典や歴史に長々と記された言葉を引用してみせるように、この一つの推理を披露するだけだ。もうその終幕は近い。
探偵事務所を出た後は、ぼくら三人で例のホテルへと向かった。
その頃街の夜は、夜の葉は、全てが違ってしまったように見えていた。それは舞台で見た木々の色によく似ていた。人が不安を見つける色に。そしてこの夜空と緑と光の色はもう二度とぼくらには見えないだろう。見ることはないだろう。その光彩に背を向けて、ぼくらはホテルの中へ入り込んでいく。入口は前と同じく、開いている。出口もきっと同じように、開いているはずだ。
7.
以前と同じように、ホテルの明度は一定を保っていた。ライトが照らす角度を覚えているわけだし、同じ道だ。迷うことはない。だから白永谷さゆが言った通りに道筋を辿れば、そう、あっさりと被害者の一人目を見つけることになるのだ。
見坂由美は比島涼花が残した日記とはより悪化した状態で見つかった。腐敗と香水と、ホテルの古びた臭いが、立体的に浮かび上がった姿として、彼女はその場に腰掛けていた。
解く作業は、六旗朱莉刑事たちが担当する以上、ぼくらに任された役割は、この部屋番号と大まかな状態を伝えるだけだった。アキもかえるちゃんも風邪予防のマスクをしていたが、その臭いは、脳髄に直接訴えかけてくるみたいで、すぐに二人共目を逸らして、その場から離れた。
なぜぼくは平気なのだろうと自分でも思う。確かに臭いは厳しいが、マスクを一つ身につければ、おおよその予防は出来る。詳細を確かめるために、カーテンを開けた。やや雲がかったためか、微細な面までは届かないにしても、先ほどよりは明るい。これでも充分だった。彼女は確かに、見坂由美だった。最後に彼女の目を閉じて、ぼくも部屋を後にした。
503号室とぼくは六旗朱莉刑事にそう文字を送った。
わかったと彼女は返信をしてきた。
それからライトを東に向けて、先の階段を目指した。アキとかえるちゃんは不安そうにこちらを見つめている。かき消すように、ぼくは言った。
「先に行こう」この中でホテルの道順を知っているのはぼくだけだった。一応地図は三人ともチェックしてはいたが、直接ここへ向かったのはぼく一人だけだった。二人の不安も含めると、先頭を切らなきゃいけないみたいだ。まぁそう怖くはないからいいけど。
それよりも、体力的に十階も階段を行き来する辛さの方が身に応えてきた。後十階分、それから最上階までもう五階分。確か三音ツバサもここを上ってきたはずだ。
しかし十階に着いた時、とある予測をここでする。見坂由美と比島涼花は一体どうやってここまで連れてこられたのだろうと。ぼくはその疑問をすぐさま口にする。
「誰か協力者がいたんじゃないかな。だって、六旗尊って人の元で働いていたんだから、他にも三音ツバサとおんなじこと考えていた人がそれに共感した。そしてその人と一緒に二人を運んだ」
「確かに別々の日にいなくなったのだから、それは妥当に思える」
「でも、杏ちゃんの中では違う方針を彼女が取ったと思っている」
「腑に落ちない、ところがあるんだ。協力者がいたとしても、六旗尊を裏切っている身分だ。そんな人間が何人も出るような状況は考えものだから」
「そんな組織は危うすぎるってこと」
「それもある。でも理由としては、まだ足りない。協力者と運ぶにしても、五階と十五階。協力者の人数を鑑みても、せいぜい三音ツバサと誰か一人、二人だ。もう一人が男だとしても、そう単純に事が運ぶわけはない」
「エレベーターは使えないし」
「階段だけではないみたいだけど」
「リフトも見当たらない」ホットポットに入ったぬるいコーヒーを飲んだ。それからまた立ち上がった。時刻は午後の夜十時を回っていた。月明かりすらない夜の最上階を目指して、ぼくらはまた階段を上った。
二人目の被害者である比島涼花を見つけた部屋の番号は、やはり白永谷さゆの言う通りにある。ぼくが触れて、彼女の心臓や掌から感じる冷たさは、見坂由美とは同じものではなかった。
だが、匂いはあの時と同じだ。若干の古い臭いに紛れても、きちんと区別することは出来る。髪の柔らかさと心音から察するに、たぶん彼女は生きている。
「死んじゃいないよ」
「うん、そうかもしれない」
「でも、なんで」
「わからないよ。ただ、彼女に関しては最初から殺すつもりはなかったと考えるしかない」他、二人の状況からするに、彼女だけを生かす必要があるとすれば、それはおそらく比島涼花にしか伝えていない真実があるはずだ。三音ツバサが話したはずの歴史の史誌を取って、聞かせた相手が比島涼花かもしれない。六旗尊や白永谷さゆとの関係性を見れば、あの二人を裏切ったのに、正確な記憶を残す最後の最手に選ぶには難しい相手だった。
犯人が決まって最後に告白を伝える相手は、そう探偵であり、あるいは被害を受けた誰かなのだ。後はぼくらが、彼女に話を聞きに行くだけだ。
それが曲がりなりにも真実だと言うなら、その歴史は残っていくだろう。その結末を知る人が少なくとも、まぎれもなく、一人以上はいる。
その続きを話せるぐらい回復した比島涼花は、おそらく三音ツバサから聞かされた言葉を一字一句漏らさず、周到に覚え、考え、自分の言葉がまるでノイズであるかのように、自分の意思をなくして、喋る。腹話人形のように語る。彼女の語呂に合わせ、示し合わせた言葉、文節、文脈を並べ立てた先にあるのは、三音ツバサの絶望だった。たぶん彼女は泣いていたのだろう。でもその姿をぼくらに見せることはない。あり得ない。これも六旗尊の論理の渦の収束線なのだから、彼女が泣く姿はこの物語には、歴史には、存在し得ない。
「六旗尊は過去の歴史を書き換えた。誰にも気づかれない方法で、誰も直しようがない状態で、そのスクリプトを別の次元に置き換えた。表面上はハッピーエンドの物語。でも、最後の最後を見れば、都合よく、六旗尊に改変された物語。改変される前の最後の最後にある、時間軸では、君たちも知っての通り、時の王子は死ぬ。つまり本来的には、君は死ぬんだ。斧ノ目杏。通常の、原典によれば。
しかし六旗尊の道理として見れば、君は死なない。生きてしまう。血園姫と一緒にね。そんな最後で良いじゃないかとさえ君は思うかもしれない。私が偽りの魔女なのだから、その役目通りに、その科白のスクリプトと筋の流れからいけば、死ぬのは、最後だ。この史実に死ぬ決まりがあたかも自然、韻律、神経配列と調和し、彼の血にまみれている。そうだ。私はただ死にたくないだけなんだ。六旗尊から、その言葉を全て剥ぎ取ってやりたいんだ。血を抜き取ってやりたい。だから二人も、いや正確には三人も手にかけたことを許されるとは思っていない。思えることは、絶対にない。どう足掻いても、どう転んでも、どう叫んでも、どう倒れても、私が死ぬ事実に変わりはないんだ。でも、覚悟は出来ている。最後は知っているだろう。この物語の、偽りの魔女のピリオドは、斧ノ目杏、君が手を下すんだ。私の、心に、体に、言葉に絶望をくれ。そうすれば全て終わらせることが出来るだろう。結末は知っての通りじゃないか。君も、手を伸ばせば、もう届く場所に、私はいるんだ。わかるだろう。わかるだろう。わかるだろう」
その言葉を全て言い終えると、再び比島涼花は肩を落とし、前かがみになった。アキはここに残って六旗朱莉刑事たちを待つと言った。
「二人で行ってきてほしい。私は大丈夫だから。お願い」
「わかった。かえるちゃん、上を目指そう」かえるちゃんは否定しなかった。もうぼくらは止めようもない地点にいるのはわかっていた。引き返す選択はあらかじめ、ない。
でも二人になっても、暗闇の中を進むことは変わりない。かえるちゃんはその中で手を握り、隣に並んだ。ぼくもその手を握り返した。最上階に近づき、辿り着く頃には、ぼくらの考えはまとまっていた。この苦悩も、愚行も、思考傾向も、簡略である一方で粗雑に見える倫理も価値観も全て、一つの収束にまとめられていた。
でもこの多く言葉を六旗尊は旧花園クロニクルから書き換え、歴史を置き換えた。だからこれは同次元の別の物語。全てなぞらえたかのようでいて、全てをなぞらえない物語。
なぜぼくがこの物語に選ばれたのか。
なぜかえるちゃんがこの物語に選ばれたのか。
なぜ三音ツバサがこの物語に選ばれたのか。
なぜ六旗朱莉刑事をこの物語に選んだのか。
全てを取って聞かせる時間はきっとない。勿体無いのではなく、六旗尊の不在とぼくらの存在は等しく並んで、ここにある。だからその謎は全てを思い出せば、解けるはずなのだ。
彼の言葉の偏在=そこには常にぼくらがいる。ぼくらのうちの誰かがいる。誰かが語る。ぼくらは聞く。またぼくらは誰かに語る。その連鎖と連絡の流れをトップギアに入れたのなら、最後のみならず、最初も、次章も、次々の章も、そのまた次までも、ぼくらは突っ走っていくはずだ。
でも死ぬことはない。死なないように歴史に書き込まれているのだから、死なないってわけだ。だからこのぼくの言葉も、いくら粉々にしたところで、三音ツバサの死は確定している。未来はあらかじめ決められている。いや、違う。過去の再演なのだから、スクリプト、行為、科白までもが一致しているから、確定している。
たとえ土壇場で自分が死にたくないと思っても、史実を変えろという無理を押し付ける相手を間違えれば、本来の道筋のまま、死んでいく。
最上階に辿り着く直前から、鍵盤の音楽が聴こえてきた。弾いている彼女の姿は暗いが、音の配置から、これが旧花園クロニクルにおけるタイトルだったはずだ。三音ツバサはぼくらの足音を聞き、側に寄ってみせる。楽譜の最後の音が並べられた。三音ツバサは立ち上がり、ぼくらの前にその顔を見せ、ぼくに手を出すように指示をした。ぼくの開いた手に、ある長物が渡された。
ナイフだ。比島涼花の日記にあったスタンナイフ。その通りにいけ、ということなのか。
「話は聞いている。君はぼくに自分自身へ絶望をくれと言う。でもぼくはそうは思わない」
「そう思わなくても、君は私を刺す」
「そしてこの物語を終わらせる」
「その覚悟は出来ている」
「ぼくたちもその覚悟は出来ている。でも君を刺す前に、一つ確かめておきたいことがある」
「何?」
「三音ツバサの死が確定しているなら、なぜこのナイフはここにあるのだろう。物語の配置でいけば、君が死ぬための道具が用意されているはずだ。しかしこれは程度の差こそあれ、君を傷つけることがあっても、君を確定するためのものではない」
「そうかもしれない。でももし何かの偶然、いや、六旗尊の論理の渦に巻き込まれたこの流れは私に死を確定させるものになっているはずだ」
「でも恐い。でも死にたくはない。生き抜きたい」かえるちゃんはそう投げかける。
「ぼくもそう思う。もし自分が死なないラインへ行けるのなら、行きたい」
「でも行こうとは思わない。それは三音さんが本当は自分が役割を演じぬこうとどこかで決心を固めているから」
「一度は六旗尊の言う通りに、偽りの魔女を演じようとした。でも出来なかった。そして彼らを裏切って、別の道を作ろうとしたけど、失敗した。少なくとも上手くいかなかったと君は思っていた。でも君は間違ってなどいなかったんだ。その考えは。狙い通りじゃないかもしれない、しかし、目的は達成出来る」
「偽りの魔女を、杏ちゃんが、いや、時の王子がこの刃で、君の役割を終わらせる事が出来る。そして君は死なない。三音ツバサは生きて、この物語から退場する。その後のことは、六旗朱莉刑事が取り計らってくれると思う。罪は消せないし、罰は残る。でも君の願いは叶う」
「台本の最後も書き直してもらうことにするよ。本田部長なら、事情を理解してくれると思う。少し痛いかもしれない。これまでの君の痛みと比べれば、いや、これはぼくが言うことじゃないな。ぼくが関われるのはここまでだ。この科白の最後に、ぼくと君は赤の他人の振りをしよう。さよなら、三音ツバサ」
そう言ってぼくはスタンナイフを三音ツバサに差し込み、その電流を流し込んだ。三音ツバサにしかわからない痛み、苦しみ。もうそんなのはいい。けど、別の痛みが彼女を死の恐怖から遠ざけると知っていたからこそ、彼女はそれを受け入れた。血は見られない。
呼吸はある。君の涙の跡を見る。
宣言通り、これで終幕の手はずは整った。