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花園クロニクル  作者: syo
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6章

6章


1.


本事件の始まりは一週間前に遡る。

事件に即した依頼人川島哀音はその時から、今に至るまで幽霊と恋に落ちていた。文字通り、彼女は幽霊と恋に落ちたのだ。

事の顛末は追って話すとして、まず話はこうして始まる。

「幽霊は苦手だ。まず存在が。次にその演出が。加えて形而上学的に。最後に文字列そのものが。あーあ、声に出すだけでも腹立たしく、そう言う自分がまず信じられない」

「そういうものなのかな」ぼくはそういう思考にはならないからこうした聞き方に自ずとなる。

「映画でもマンガでも、何かおぞましいものって見たくないから。ニュースですらね」彼女はいの一番に、そう宣言した。お化け、幽霊、妖怪と称される逝きもの、逝きものが見られる状況そのもの含め、苦手だと言った。近寄りたくもないそんな人間だと彼女はこれらの言葉の最後に付け加えた。

きっぱりそう言い放つからには、それなりに彼女の中に一つ確信めいたものがあるようだ。しかし少なくとも、ぼくはその話が今回の依頼にどう結びつくかは思い知らない。

幽霊を見るにはまず幽霊を幽霊と認識する能力、幽霊を見る能力が必要だ。そうした能力がない人がこの世には多いのだから、ひとえに川島哀音の会話の流れから察するに、ああこの子は怖いものが嫌いなのだと理解する。だが、彼女はそう判断されることも嫌う。

「会ったことはないの。会ったと言っていいかも。でも本当は会いたくもないけど。」

「そうかな」おそらく彼女は一つの仮説を頭に抱え込んでいた。

何かの見間違い。あるいは友人の死に直面し、ショック状態を迎えているだけかもしれない。それはどちらにせよ、それはぼくらの仕事ではないはずだった。オカルト方面にも、医療学方面にも、明るくないのだからこの話はまずもって断られるべき依頼だった。

ただまあ探偵事務所へ足を踏み入れたのだから、依頼は何か事件に関係する事柄なはずだった。ここ最近の事件は知っている。だからその関係だろうと見ることにした。彼女の本来の依頼内容が何かを知れば、その後、紹介する窓口のページも見つかるはずだ。

向かいに面したソファに座った川島哀音はトラックジャケットに学園の制服を着ていた。自己紹介代わりに自分は陸上部のマネージャーだと彼女は言った。そうかいとぼくは返した。

ぼくの隣にアキがいて、川島哀音との会話を書き写していた。もしこの事件の分析に役立つと言うなら、この文書も後で読み返してみてもいいだろう。

しかし会話の節々から彼女がどんな事件に関わっているのかを知った。例の川原での事件だ。その報道から見れば、彼女が幽霊と口にするのも無理はなかった。顔面が陥没した遺体を見た可能性を思えば、依頼人は頭が混乱していてもおかしくはない。死に瀕した友達のことを思えば、精神的に気を落ち着ける事は難しい。依頼や事件の内容を整理するには時間がかかるというものだ。だが口ぶりからはほとんどいつもどおり、そうしているんじゃないかと想像出来る喋り方だった。

死んだ友人の幻を見ているだけと周囲に説得されたことに無性に腹がたったと告げた以上、ここは慎重に彼女の誠実さを知っていこうとした。

「幽霊、つまり彼女本人を見たことを詳しく聞かせてほしい」

「いいよ。けど探偵であるあなたはこーゆう話なんか、信じられる」

「幽霊が?」

「そう。幽霊が」ぼくは首をかしげざるを得なかった。この依頼をぼくら探偵のいる事務所へと持ち込んだ時点で、川島哀音にはぼくらがある程度、自分の話に加担する存在だと理解されているはずだったわけだ。

にもかかわらず、幽霊が信じられるかと人に聞く。幽霊がおぞましく、信じられないと語る人自身からそう訊ねられるのだ。しかしまぁここでの問いは探偵という立場から見れば、事件を引き受ける意志を聴きたかったのだと思う。

引き受けない理由は感じない。ただ六旗尊絡みの依頼でなければ、丁重に断っていた一件だ。だからひとまず約束を破らない事は言っておく。

「当然、依頼人の言動や依頼そのものも含め、他言はしません。あなたのためにも。自分たちのためにも」この言葉を受け入れたかはわからない。

しかしいずれにせよ、彼女にとってこのことは誰かに話さなければいけなかったはず。その決心を示すように、ようやく川島哀音は硬まった体の重心を落とすように、崩し始めた。

かえるちゃんの入れた紅茶を口に含んだ。お茶菓子にも手をつけて、ひとまず食事に専念する。それから事件のことを話し出す。家で練習してきたかのように、やや途中でつまるところもあった。それでも今ぼくらを眼の前にした時点でも、いかなる時点においても、川島哀音の頭の中には幽霊が確実にいたはずだった。いや、事情次第では、幽霊は複数数えるかもしれない。それも事件を追っていけば知れる話だ。

今は彼女にしか見えない幽霊がいる。あるいは幽霊たちが。

だが少なくともそれは依頼人が探偵に頼むような代物じゃないってことくらい誰にだってわかることだ。例え、彼らが事件に関わっていなくとも、キーワードを出せば、アポイントの時点で話は成立しない。

ただぼくには思い当たる節は二つあった。六旗尊。そしてあのニュースだ。

報道の詳細はともかくとして、最も彼女が話題の軸とする事件は知っていたと言っていいかもしれない。でもそれは知っていたというより、あらかじめふいに誰かに知らされていたような感覚だ。

夜の臨時ニュースでぼくらは彼女が亡くなったことを知っていた。

けど、唐突にこの一件のことについて口を挟むことはほんの一瞬迷った。しかし言うことにした。彼女の話の流れも噛み合わせることで、依頼の順序も明白になるだろうから。

「これはもしかしたらになりますけど、昨夜の臨時ニュースなどで報道された事件と何か関係ありますか。河原での事件と」

「探偵さんはもう知っていたの? あの子のことも?」

「あくまでニュースで知った程度です。だからあなたが彼女を幽霊と口にする理由の一%ぐらいは知っています」

「でも」

「でも?」

「あれはまだ身元が不明だって言われています」

「確かにそうだ。けどおおよそは君が知っている通りだ」

「街の人はみんな事件のことも、あれが誰かも知っているみたい」

「だが君の中では何か引っかかるところがある。だからここへ来た。みんなとは意見が違うからだ」

「彼女の幽霊を見たの」

「幽霊か。あなたは事件とその幽霊から何か繋がりがあると感じながらも、それを正確に誰かへ伝えたかった。探偵がいれば、その考えと手立てを実行してくれるはずだと。予想通り、今のところ、この話を信じてくれる人はいなかった」

「そしてあなたが最初になった。いや、もしかしたら私と同じように考えた人がいるかもね。だからあなたはこの世で二番目かもしれない」

「別に二番目でもいいとしよう。どちらでも話に決定的に差は出てこない。あなたの話を決して否定するつもりはない。依頼人の言葉は保留し、一旦整理する。これが正しい態度だ。一つ聞きたい。君は幽霊を見たのか」

「見た、と言うしか。可能性はそれしかなくって」

「事件直後に口にする人はいなかった。まずいない。でも君は口にした。だがそれを聞いた警察と周囲の判断。君の判断とにはこうして大きく開きがある。だから君は怒ったんじゃないのかな」

「そう、その通り」

「殺人と見られる事件そして幽霊と言葉を並べて、積極的に君の話に関わり合おうとは誰も思わない」

「まあね。でもここまで来ておいて、あなたたちに詳しく話さないわけにはいかない。そもそも何があったのかだって私にもよくわかんないの」

「それでも話す必要があると思っている。ぼくらを信頼しないわけにはいかない」

「そうかもね。あなたを、あなたたちを信頼するしかないもの」川島哀音は何から話そうか、最初から辿り直しているようにも思えた。その間、ぼくは先の事件の記事を読んでいた。アキはぼくらの会話を書き取り終え、文書整理をしていた。かえるちゃんは夕日の色、飴細工のような窓からその川に繋がる道を眺めていた。

それはほんの数日前、五月三つ目の週に起こった事件だ。正確な検証はこれから詰めるとして、日にちは報道機関から見れば、五月の十七日前後が有力だった。皆口友紀の一件からまだ二週間しか経っていなかった。川島哀音の証言も含めるとその日でほぼ間違いない。

「いつも早朝に走っているの。見てわかるでしょ。ジャージ。部活のね。そう、陸上部、こう見えても。立派なマネージャーで通っている。あなたたちも同じ学園なら知っていると思うけど、学園近くの河川敷辺りが大体の練習コース」

「中央橋付近のところかな」

「いつもそうね。朝は一人で、たまに部員たちと合同で、一緒にトレーニングする。その日の朝は一人で、河川敷、中央橋を軽く走っていたところだった。もう少しで今日のノルマは達成。野菜ジュースを買って飲んで、それから学園に戻るところだった」

「いつもなら、それで今日の分はゴールだった。でもそのポイントで大量の魚の死骸を見かけた。唐突に」

「向こう側からでもそれとなくわかったんだけどね。ゴールポイントの手前でちょっと気になって川べりへ降りていった。これは変だなと思って」

「そして正体を識別して、警察にコールした」

「報道を見たはずなら、後は知っているでしょ?」もちろん知っていた。警察の捜査により、この奇妙な一件の原因はすぐさま特定された。付近の小学校から連絡があったのだ。現場近くの小学校プール用水に使われる塩素の後処理が流れ出たのだ。薬漬けにされた魚の大量死。警察が進めた調べでは、学校側は塩素を高濃度にした状態から換水してしまったと証言している。

この事件をつとに、地元メディアで中心的に取り上げられた。もしこうしたニュースだけならば、数日後には忘れ去られていくカテゴリーのものだった。

ただ一つの問題がなければ。

「しかしその大量死となった魚を処理するために取り除く作業が行われた。その後に彼女を見つけた」川島哀音のスマホにあるフォトアルバムの一枚から、女の子の笑顔の写真を見る。

「名前は羽島あずさ」

「あずさ」と川島哀音は名前を繰り返す。

「同級生ってわけだ?」そうだと彼女は頷く。

「彼女とは仲が良かった。同じクラスだった」

「そう。友達だった。どこに行くも、それこそ一緒で。なんて嘘。ほとんど一緒にいたってわけじゃない。でも遊び友達の中では一番気が合った。それは確かだよ」

排気物処理業者が市の依頼により死んだ魚の後処理を担当し、業務をこなした。女子高生の遺体が見つかった。顔面は潰されていた。しかし身元は学生証や遺留品から羽島あずさとされた。残酷な事に、と言えばいいのだろうか。その第一発見者は友達だった。川島哀音は友達が死んだのだと受け止めきれずに、彼女によく似ているという幽霊を見たと証言しているのだろうか。しかしそれはよくよく思えば違うものだ。

「そういうわけじゃないよ。それはそれ。ちゃんと受け止めているんだから。気にしないで」

「でも幽霊というのは、ある意味では」その続きはかえるちゃんが口ずさむようにして言った。

「彼女のこと。きっと忘れられないからじゃないのかな」きっとそうだろうとぼくも思った。


2.


「あなたたちの言う通りかも。彼女が亡くなってからずっと私は忘れられない。羽島あずさのことを。だから亡霊を見たんだと証言しそうになったこともある。でも本音で言うとね、ある意味では彼女があずさの生まれ変わりであればいいなって空想する。これがただの見間違いだとしてもね」

「見間違い。信じないなら、それはそういうものかもしれない。君の視力が物体にぶつかって錯覚を起こした。例えばそれで説明が終わってもいい。でもそうじゃない。理的な証明をつけるポイントは違う。ここへ来たのはそのためだ」

「気持ちの問題を抜きにしても」

「気持ちの問題だけじゃないよ」

「気持ちだけに限って言うと、友達が死んだことをなかったことに出来ない以上、誰か似ている人を信じてしまいそうになる」

「ぼくらが聞きたいのはその先なんだ。それが事件とどう関係しているかどうか。そろそろ話してもらえるかい」

「ごめんなさい。ちょっと感傷的だったかも。改めて考えなおしたことだけど、確か警察の人の話では、あずさの死亡推定時刻以前、つまりあの子の行動履歴に関して何かおかしいところがあるって口ぶりで言ったのね。ほんとのところ、何を思っていたかまでは知らない」

「けど、何かおかしいんですね」かえるちゃんはそう訪ねた。川島哀音はそうだと返す。

「その辺りについて、警察の言葉に淀みを感じた、ってことかな」

「何か、そう、逐一確認するという形だったと思う。詳細を詰めるって感じ?」

「彼女の行動履歴、決して空白ではないはずだ。しかしそこが微妙に噛み合わない。ノートに記帳されていることと」

「そうかもしれない。でも確証はまだないんだ。何か曖昧に含んだ言い方だった。例えばね、私があずさから受け取ったメッセージの内容と、警察の調べたことが噛み合わない」

「彼女自身が君に行動履歴を教えておいた」

「そんな感じかな」

「あるいはそれは事実だ。けど犯人とされる人物が羽島あずささんの行動履歴内容そのものを上書きした」

「そうだったら何の意味があるの。バレているわけだし、教えているようなものじゃない?」

「かもしれないな。君にメッセージを送る準備としてそうした」

「こういうことがありましたって言いたいがために」

「具体的にはね。君だってそう言われて混乱が生じやすくなっている。こうしてわざわざ君に探偵のところへと掻き立てる理由が出来たわけだから。その犯人と同じ血液から、君は何か特異なものを見つけたんだ。そのポイントを解き明かせば、事件そのものが解決出来るかもしれない。君の依頼はそういうことだろう」

「私が見たのはね、あずさが死んでいたはずの時間、私とあずさが働いているカフェの監視カメラに、あずさが映っていたからなの」

「なるほど」事実と虚偽の境目が食い違うわけだ。幽霊と言うと大袈裟だが、可能性を示すにはいい証拠と言えなくはない。この辺りの裏を取るには六旗朱莉刑事からも情報をもらう方が良さそうだ。

「それでどういった対応をしたんです」

「お店の人たちと何度か確認したの。みんなも彼女はあずさだったって。あずさ自身がカフェに入ってきて、注文をして、持ってきたコーヒーか何かを飲んでいった。でも本当にあれがあずさだったのか。いまいち自信ないけど」

 「そして会計を済ませた。なら、レシートはあるはずだ。時刻はわかる。最低でも」

 「あった。けどそこにお客さんの名前なんて載せないし、本当に彼女かどうかは。最初は思っていたけど、ちょっとわからない」そしてぼくはその混乱の正体をここで知った。

 「会計を担当したのは、まぎれもなく君だったんだろう」川島哀音は頷いた。

 「だから余計に困惑し、何が真実かさえ判断がつかない。その判断をぼくたちに委ねることにした」

 「そうです。それ以外、方法がないから」

 「でも友達である羽島あずさが死んでから、羽島あずさかもしれない人物に会ったってわけだ」

 「そう。たぶん会ったんだ」

 「なぜその時に言わなかったんだ」

 「案外ぼうっとしていたのかも。連勤だったし」

 「何も考えつかなかった。でも後で皆気がついた」

 「そんな話ってありえますか」ぼくは有り得るんじゃないかなと答える。

 「でも彼女は幽霊じゃない。大いに含まれたところはあるけど」

 「その謎を解いてほしい。探偵さん、いや、斧ノ目さんたちに」

 「わかりました。引き受けましょう。ただ時間はどれくらいかかるかはわかりません。しかしひとまず一週間以内に。そこで何も成果を挙げられなかったら、この依頼は無しにしてください」

 「その条件でいいです。もしこの謎が解けなかったら、その時はその時で考え直してみようと思います」

 「それも悪くない選択だ」

 それから契約書を取り揃えた。依頼証明書には彼女の名前があった。署名と捺印。その写しを書き終え、アキはぼくらにいその一連の書類を見せた。互いに頷き、一枚ずつ本書と控えを分けた。その後、川島哀音は部活に向かうつもりと言った。

 「聞かれるな、きっと」

 「もう慣れ始めているみたいなんだ。そのおかげであずさが本当に死んだって理解出来るから、不思議よね」

 「幽霊は、彼女じゃないって考えているのか」

 「今そうかもって一瞬思っただけ。でもそういうのって、すぐに変わっちゃうものだよね」

 「まあ、確かにな」それから川島哀音は探偵事務所を出て、真っすぐ学園の方角へ歩いて行った。ぼくはすぐさま、六旗朱莉刑事に連絡を入れることにした。

 通話中のメッセージ。ぼくはこの事件についての留守録を入れておいた。返ってくる時にはまた何かわかっているだろう。しかし警察が事件を解決していない以上、何もわからないかもしれない。何かわかった気になるだけだった。ただそうであっても、ただ時にはそういうことも必要だった。

 捜査資料の周回読書はまだこちらに渡ってはいない。なら、警察とは別の方法を用いるぼくらがその資料を目にする機会が設けられる時は近い。警察の面子と事件解決の両天秤。引いては川島哀音の依頼の達成と社会的な実務の達成に対して、彼らが不利益を被らなければいいだけってこともあった。

 問題はその方針をどう寄せるか。これも中心にいる六旗朱莉刑事その人次第だった。

 そんな風に三十分程、駱駝椅子に座りゆったりと考えを巡らせていた。それから三人で外に出た。まだ昼過ぎで間もなく、陽は暖かい。捜査資料が例え来なくとも、ひとまず現場に向かうことにした。

 街近郊から少し外れたところに川の柱があった。探偵事務所から見えたのは、区画整理で地下に作られた川の水脈だった。この街中には至るところに川の道筋があって、どこからでも川の柱まで歩いて辿れる。まるで故郷みたいにして。

 ぼくらが羽島あずさの遺体発見現場に着く頃には、当然この地点は片がつけられていた。献花やお菓子など追悼を除けば、川の状態は元通りといっても良かった。特定の地点は立ち入り禁止のテープがまだ残っていた。このように状況の採取は終了しても、事件はまだ解決の言葉を聴かされていない。アキは報道誌から拾った写真をぼくとかえるちゃんに見せることで、まだ暗く沈んだままの、ぼくらの中にある推理へ光を当てようとした。

 「いや、わからないさ」ぼくは写真から川島哀音の過去について少し考えてもみた。どのような方法で、いつ、誰が、どのように彼女を殺めたのかを瞬間的に探っても、そういとも簡単に片のつく問題ではなかった。かえるちゃんとアキも同様に、何かを待っているような、遠く見つめる視線で現場の状況を調べ直していた。それからぼくは切り出した。

 「誰がとか、殺人に関する要素は後回しにしよう。その前に、川島哀音が言っていた事を気にかけよう」二人は同意してくれた。

 「そうだね。改めて考えてみようかな。確か羽島あずさの死亡推定時刻以前の行動履歴に空白の時間の時間があるって言っていたよね」

 「羽島あずさが死んでいたはずの時間に、彼女かもしれない人が勤務先の監視カメラに撮されていた。その謎をどう説明するか」

 「幽霊じゃない」アキはそう言った。

 「そうなのかも」

 「幽霊だとするなら、羽島あずさが死んだ時刻を、犯人が操作したってことじゃないか」

 「アリバイはあえて整合性が取れないようにしているみたいだし。川島哀音さんに何を見せたかったのか。その理由がわからないと、事件もわからない」

 「警察も悩んでいるみたいだし? 杏が答えを出さないといけないんじゃない」

 「六旗尊絡みの事件だしな」きっとそうだと思う。

 「あるいは三音ツバサかもしれないよ」

 「むしろその方が自然だよ。この街に事件なんてまず起こらなかったのだから」遠くから見慣れた車が速度を落として直に脇に寄せた。六旗朱莉刑事はぼくらがここにいることをそれとなく知っているみたいな顔でいた。

 「もしかしたら君たちもここに来るんじゃないかと思っていた」

 「あらかじめ知っていたみたいな言い方ですね」

 「知っていたわけじゃない。彼女から聞いたんだ」とかえるちゃんを見て、それから視線を戻す。それに。

 「留守録は聞きましたか」

 「もちろんそれもある。川島哀音のことだな」捜査資料は出さずに、はっきりとした口調で事件についてつらっと述べた。

 「私たちの見解としては、あれを川島哀音の言う通りだと言うのは難しいんだ。警察が幽霊を信じて事件の解決、未解決を判断するわけにはいかないからな」

 「でも彼女自身はあれが羽島あずさだと証言している」

 「見間違いも当然考えられる。周りは嘘だと思っているようだ。私も嘘だと思う。ただ署内と私の考えには差がある」

 「幽霊を信じるなら、アリバイは通らない」

 「普通はそうなんだ。しかしまぁもしあれが本当に幽霊であるのなら、あの現場の遺体は羽島あずさであると確定する。アリバイ工作があったとしても、操作を霍乱するために犯人が行ったことだと片付けられる」

 「幽霊を模した人真似かもしれない。でも辻褄の合わない箇所は出てきている。そうすることで一体何を秘匿したかったのか。あるいは何を表に出したかったのか」

 「それがわからない。捜査経緯を簡略化して言うと、そういうことだ」

 「手詰まりってことですか。背後に六旗尊がいるという可能性は」

 「それも含めてね。ただこういうときに白永谷さゆが現れないとはね」

 「彼女が事件の案内人ですからね。いないのは気になるな。こちらでも調べます」

 「あぁそれからもう一つ気になることがある。三音ツバサのことだ」 

 「彼女のことですか」ぼくは聞き返す。

 「三音ツバサが皆口友紀の一件に携わっていたようだが、めぼしい証拠は見つかっていない。しかし私個人の考えを述べるなら、彼女が犯人でまず間違いはない」

 「今回の件に関わっているかもしれない」

 「確かではない。だが真実味はあるな」

 「ただ川島哀音はどうやってぼくらの元に辿り着いたのか」

 「三音ツバサが君たちの場所を教え示したと」

 「たった一人でここへは辿り着かないでしょう。もし羽島あずさの死が彼女たちと接点をもたらすきっかけになるなら、その可能性はありますけど」

 「何かわかったら、教えるよ」そうしてほしいですとぼくは答える。

 「ただ。まだそのギミックが何なのかすら、ぼくらにはわかってなんかいないんだ」

 「でも君は探偵だ」

 「でもあなただって刑事だ。直に真相はわかるはずです」

 「どちらもそうだ。事件を解決すべく動いている」

 「いつもそうしているみたいに」

 「三音ツバサのこともいずれわかる」

 「三音ツバサの目的は花園クロニクルの歴史を、思い出のまま、残すことです」

 「思い出のままに生きられないさ。彼女は確か偽りの魔女だったと聞くけど」

 「そうです。この街へ偽りを汚染するという役割を演じている」

 「ように見える。しかしそれは彼女の本線とは違うようにも思える」

 「表向きは、六旗尊の計画に沿っていたのかもしれません。でも今は彼女が関わっていることから見れば、その手を離れ、独自に行動を取っている」

 「輪郭がぎくしゃくしていませんか」

 「そうだな。今回の顔なし遺体も、証拠や手口から見て犯人の理想的な形となったとは言い難い。つまり自ら辿れそうな足取りを残しているんだ」

 「手がかりをはっきりと残している」

 「ああ。でもだからこそ、三音ツバサに繋がる道が出来ているんじゃないか」

 「そして彼女のステータスからすれば、次もまたぼくらに会いに来る」

 「つまりお互いの脈は理解していると」

 「彼女が何か知っているのならね」

 なるほど。六旗朱莉刑事は会話が終わったと見てこちらに背を向けた。河原を上り、車に乗り込みそのドアを閉めた。


 3.


 その日の午後はずっと三音ツバサたちと演劇の練習をしていた。彼女は酷いくらい優しい声で歌を歌っていた。劇中で使われる歌と踊り。振り付けは昔から変わっていない。その体の流線形にぼくらは見とれていた。

 「何? あなたも踊りたい?」三音ツバサからは汗と何の花かはわからないが、その匂いがした。色の付いた匂い。

 「そういうわけじゃない。君も知っていることだ」

 「この踊りを考えた人は美しいってこと?」

 「違う。いや、踊りは確かにそうだ。でも、君が関係していることだ」

 「犯人のこと?」周囲とは距離があったせいか、彼女たちには聞こえていない。かえるちゃんもこの対角線から、一歩引いている。話は耳に入っている形だ。

 「そうだ。別に話さなくても構わない。いずれ話すかの違いでしかないが」

 「そうね。いずれは話さなきゃいけないことだし、話してもいい。けど、この練習が終わったらね、探偵さん」

 「いいさ。今はぼくも君も敵同士を演じればいいんだ」

 「三音さんはもう偽りの魔女になりきっているの?」彼女は首を振った。いや、振り損ねた。

 「もう言葉は、いや、科白は当てられているから。そう思えば、私とあなたたちがどう向き合うかだってわかるでしょう?」

 「それはわかっているよ」

 その後ずっとその言葉について考えていた。ぼくはわかっていなかった。何もわかっていなかった。そうだと示すように、三音ツバサはある一つの提案をぼくらに見せた。

 練習終わりの講堂から離れた場所で、彼女はぼくらを待っていた。川島哀音は空っぽの教室で恋人を待つように退屈な顔だったはずだ。三音ツバサとぼくらが現れると、真っ先に彼女の横顔を見つめて、微笑んだ。

 「おかえり」彼女は確かにそう言った。当然、三音ツバサに向けた言葉だ。

 「ただいま」と返した後、まあ座りましょうと全員に向けて言った。まだ昼食をとっていなかった。グループみたく机を合わせてぼくら五人はお昼ご飯を食べ始めた。

 「あなたもこれ、食べる?」そう言って三音ツバサは作ってきたハムカツサンドを差し出した。三角に折られ、間からハムカツとレタス、ソースが染み込んだパン。受け取って食べたが、これはおいしいと言わざるを得なかった。

 「不味くないよ。ぼくらよりは料理が上手い。かえるちゃんは違うけど」かえるちゃんはそう言われることを遠慮していた。もらったお返しに挙げた卵焼きを彼女たちはおいしいと言った。

 「お世辞じゃないよ。本当においしいんだ」

 「そう言われるとね。でも三音さんがどうして羽島さんと関わったのか、そろそろ聞かせてほしいんだ。それが私たちを呼んだ理由だから」

 「犯人は、私だよ。かえるちゃんだったかな。君だって最初からそう考えていたんじゃない」

 「もしあなたが犯人だとしても、そんな安易に呼びつけることは難しくて」

 「難しく考えなくてもいいの。あなたも斧ノ目杏のパートナーだから、探偵らしく決め付けてもいい。そして推理を披露して私を捕まえればいい」

 「もしあなたが犯人だとするなら、まだ凶器はその手にあるはずです」

 「確かに、確かに。そうかもしれない」

 「顔面を殴打に使ったのは、鉄製ではなく、木製のハンマーそれから削る針」

 「一理ある」三音ツバサは否定せずに、かえるちゃんの推理を受け入れていた。

 「DNA及びその他の鑑定において、君はあるトリックを使った。幽霊の件だ」

 「そうかもしれない」

 「被害者であった羽島あずさの一部例えば指紋や痕跡のあるハンカチ衣服を、あのカフェにわざわざ残していった。本来なら、そんなものは残らない。でもどんな事件であっても、残るものは残ります」

 「監視カメラの映像だ」ぼくは言った。

 「監視カメラは残るものね」

 「監視カメラに残った映像とカフェにある痕跡。もしこの二つが別々の時間に配置されたとしても、後から検証する人は果たしてそんな風に考えたりするのでしょうか」

 「いや、しないな。結び付けるのが一般的だ。そして川島哀音は一番立場が近くにあって、その映像を見る可能性の高い人物。騙すにはうってつけかもしれない」

 「素晴らしい推理と結末ね。でも一つ足りない」

 「三音さんの言う通りです。まだ何か一つ足りないみたいなんです」

 「それはこれから始まるもの。でもまだ早い」

 「では、あなたは犯行を認めるんですね」

 「認めましょうか」

 「例えば君がそう認めたとしても、その決定的な証拠を見つけるまで君はぼくらの推理から逃れ続けることが出来る」

 「だってそれが偽りの魔女だから」

 「確かにそうだ。そうだとしよう。後は君の望む結末が来るんだろう、もうすぐとは言えない時間に」

 「もちろん」そう言って三音ツバサは微笑んだ。川島哀音もその笑みに同意した。

 「でもまだ披露するには早いよ」

 「それがいつになるか」

 「遅すぎても良くはないだろうね」

 「学園祭が始まってしまうからね」

 「確かに。学園祭が始まる前には決着を付けておきたいよね。何もかも。歴史、私やあなたたちの日々が歪な形で更新されないようにね」

 「しかし君は彼女が書いた台本通りに演じているようにも思える」

 「あれは認めているの。守らなきゃいけない歴史と守る必要のない歴史。どちらが淘汰されるかべきなのかを見定めているつもりだから」

 「そして必要のない歴史を燃やす」

 「無くしてしまえばいいと思う」

 「ぼくは別にそうしなくてもいいと思うよ。ただ歴史の残し方をぼくらは間違えているだけなんだ。六旗尊がどう君を間違えさせているのかわからない。でもぼくらはそうするだけじゃないはずだ」

 「協定なんて生易しいもの、結ぼうとしても無駄かも」

 「結ぶつもりなんてないさ。取引だってするはずもない。君に引導を渡す相手が誰かはもう決められているわけだから」三音ツバサは押し黙った。瞬き、その後、否定もした。

 「間違って作られた思い出を、塗り替えるのが私の目的よ」

 「確かにそうだ」ぼくは他、四人を見た。弁当箱は空になっていた。

 「食後に温かい飲み物は必要かな」そう訊ねた。三音ツバサと川島哀音は断った。ぼくらはコーヒーを一つと緑茶を二つ買って戻った。それからぼくらは星野環からメールを受け取った。


 4.


 彼女たちが教室を出て行った後、ぼくはメールを差し出した星野環を呼び出した。

 彼女は長い休暇中も自分の仕事に精を出していた。「T.о.y」のラジオプログラムに出演してくれる生徒を探していた。番組の収録が終わり次第、こちらへメールを送ってきたのだ。

 「簡単に言ってしまおう。白永谷さゆが取引をしたいと申し出たんだ」ぼくはメールを読み返した。確かに大まかに言えば、白永谷さゆはぼくたちと取引をしたいという内容だ。でもそれは拒否権の行使できない、あるいは拒否をしたところでその選択した先にメリットがそもそも存在しない道筋になっていた。

 「元々彼女たちは論理の渦を三音ツバサにも分け与えていた。偽りの魔女も含めてね。白永谷さゆは単に名義を貸しているだけだと言ってきたの。どうしてか私にね」

 「それは君がゴールを決める役割だから」

 「多分ね」

 「ということはシステム関係の取引か。ぼくらにも参加させるのは、その取引と今回の事件を溶接する手段が彼女にもあるわけだ」

 「もう事件を解決したの」

 「いいや、まだだ。でもかえるちゃんが推理した通りで間違いはないと思うよ」

 「ただ、三音ツバサさんは何か一つ表には出していないことがある」

 「それで全てをひっくり返す。それを防ごうと、白永谷さゆはさっきの条件を出してきた」

 「もし本当にそうだとするなら、全ての辻褄は噛み合うし、彼女たちの目的にも沿う形だ」

 「で、あなたたちはこれに乗るの?」

 「乗らない選択肢はある。でも取引をするよ。ぼくらは推理だけで全てを解決するつもりはないんだ」

 らしいねと星野環は言い返した。それから白永谷さゆと会うために場所を移動した。

 終着駅近くにあるアパートの一室に、白永谷さゆはいた。彼女はパジャマ姿で髪をまとめていた。

 「ここが君の部屋なのか」ぼくは素直にそう訪ねた。

 「ここが私の部屋」白永谷さゆを見るのは久しぶりなような気がした。縮こまった部屋とコーヒーとソファが残っていた。後は彼女だけで、ほとんど何もない部屋だった。パソコンでさえ、持ち込まれたもの。

 「たまにしか使っていなくて、時々自分の部屋なのに勝手がわからなくなる」

 「そうゆう悩みはどうでもいいよ」

 「結構重要なんだけどね」

 「重要だとしよう」

 「まあその話は後でもいいけど。それよりも話さなきゃいけないことがあった」

 「取引の話だ。ぼくらがここに来たということは大体どうゆう理解をしているか、それが君にも伝わっていると思うけど」

 「三音ツバサから歴史を取り戻したい。あなたたちは多分そう考えているみたいだけど」

 「違うのか」

 「違う」

 「例えば?」

 「三音ツバサは本来の、いや元々あった花園クロニクルの歴史を初期値のまま、保つこと。それが目的だった」

 「その後の歴史は必要ない。だからその全てを削除したい。そのために動いている」

 「もちろんそれは都合よく操作された歴史があるからって理由だけど。そのために後何人殺そうとしているのか」

 「つまり殺人は君たちの計画にはなかったと言いたいのか」

 「当然ね」

 「でも傷つけることは構わない」

 「傷が問題にはならない」

 「傷すらも、論理の渦の一つに収束してしまえば、何ら問題ないと」

 「足りないけど、教科書ぽく言えばそう理解してもいい」

 「君たちは歴史を修正する。修正し続ける」

 「あるいは歴史を保存し続ける。あの台本は学園の文化財産としてまぁ永久ってことはないでしょうけど、いつかはテキストデータとして管理される」

 「ぼくらの血ですらも?」

 「人格ですらよ」白永谷さゆは訂正した。

 「確かに。そうだとしよう。君たちは人格ですら、歴史の一資料として残したい。その一歩として、取引をする。そう考える」

 「まぁあなたたちなら私と取引しなくても、事件を解決は出来る。でもこの取引が事件解決と六旗朱莉って人のためになると思えば、そう悪いものではないはず」

 「彼女のためか」

 「そう。彼女のため。全てではないにせよ、あの人は六旗朱莉のために生きている」

 「よくそんなことが言えたものだな」

 「私はあの人の人格を代弁しているようなもの。まぁそれもいつかわかること。今は事件の解決に協力してあげる」

 「助言は聞いておくことにするよ。誰のためにじゃないんだ。ひとまずこの人格のために、そしてこの正しい歴史のためにだ」

 「あなたもわかってはいるでしょ。川島哀音が見た幽霊の正体を」

 「おおよそはね」

 「たとえ事件が解決したとしても、三音ツバサは彼女を材料に最後の計画を始める手はずを整えている」

 「それが君たちにとっても最後の事件になる」

 「あなたたちにとってもね」

 「ぼくたちにとってどうかはわからない。いつかどこかで探偵を必要とする日が来るかもしれない」

 「これは最後から数えて二番目の事件だとして」

 「三音ツバサは証拠を見せない厄介な相手だと思うよ、本当にね」

 それから白永谷さゆは持ち込んだパソコンのファイルを見せた。

 それはある意味では三音ツバサのやろうとしていることと同じだった。でも意味合いは違ってくる。成功確率は高く、かつその効果は一目で知ることが出来る方法だった。唯一と言っても良かった。

 ある意味では、三音ツバサの感情を全て記述しうることなのだから、それは手段として、全く理にかなっていた。後はそれをいつ起動させるかだった。

 「ソフトウェアは実は随分と前からあってね、明日くらいには出来上がるんでしょう」と星野環を見る。

 「簡単な仕事だった。要するにデータを二手に分けて、いらない方を削除する。残された情報を手にすれば、今後三音ツバサが何をどうするかがわかるってこと」

 「そう。後、肝心なことはね、三音ツバサもそうすることを望んで川島哀音と関係を結んだの」

 「愛がその証拠だとでも言いたいのか」

 「ある意味ではね。まぁそれも彼女がこの交渉に応じるか、応じないか」

 「つまりこれは歴史の分岐点というわけだ」

 「そうね。でもどちらを彼女が選んでも、何もない」

 「得るものも、得ないものも、ない」

 「彼女としては心が満たされればそれでいいの。私たちはそうはいかないけどね」

 「それで、いつ彼女と、彼女たちと顔合わせをするんだ」今まで一度も、白永谷さゆと三音ツバサが対面していないことに気付いてそう言った。

 「明日午後十一時」

 「場所は?」

 「ここ」白永谷さゆは地図がマークアップ記号で結び付けられた画面を見せた。ぼくらの住む街の中心点といっていいだろう。その場所を指定した。元々は旧花園市に所有地であり、現在は花園市に所有権利の移った旧市街のビル。ランドマーク、そう呼ばれていたところだ。

 今では観光地として生まれ変わったが、昔のままで保てば、あと数年程で取り壊され、一つの空欄として名を残していたかもしれない。去年の十一月から建築計画がスタートし、六月にはその披露も兼ねたイベントがあるという。その最屋上の小部屋に繋がる道、専用のエレベーターから従業員通路を抜けるところをぼくは想像した。

 妙な心象風景でもない、そのフロアはぼくらを慈しむようにと設計された色とりどりの花と蕾と鏡の世界。

 硝子が四方に面している写真には誰も写されてはいない。その最初がぼくらというわけだ。その時間が来るまでぼくらは今日と同じように過ごした。学園祭の準備と推理に時間を費やした。それ以外の、何かぼうっとしてしまったことはあまり思い出せなかった。

 冷たくなった夜の街に、ぼくらは待ち合わせたのだから、それまでの幾らかのことは一つの歴史から見れば、書き取るに足らない部分だった。空白ではなく、余白の体と心で誰かが歌を歌っていた。アキとかえるちゃんは花園クロニクルの劇中歌を歌っていた。最後にはぼくも混ざって歌い出した。

 それ以外の事はあまり覚えていないのだ。


 5.


 ぼくの手にソフトウェアが届いた。星野環が完成させたというCD‐ROMは保護フィルムとソフトケースに仕舞い込まれていた。インストールには五分もかからず、その機能を展開出来ると話だ。ただ一つ注意点としては、このソフト自体の性質にある。システム効果が反映される範囲は狭く、絞られている。しかし歴史書一つ分のデータに相当する数値は叩き出せる代物で、応用さえ、考えなければ充分だと言えた。

 見方を変えるなら、基本的なデータ換算にのみ制限を加えることが出来る。酷い回り道から、歴史を構築していけば、残せるものだが、一般的な知識だけではデータをペーストするのも難しいと彼女は言った。

 「これで歴史を戻しても、根本を絶つには至らない。なぜなら風邪やインフルエンザ、体炎症、がんなんかと一緒で症状を抑える薬に過ぎないから」後は人の体と心次第というわけだ。

 「わかっている。ただそれでも今必要なんだ」

 「そう考える人がいる」

 「そうだろうね」

 「これが終わったら、ラジオの最終回にも出てね」

 「止めちゃうのかな」

 「ラジオ自体は辞めないけどね。でも学園祭のプログラムは一旦終わりってことで」

 「まぁそうだよね。考えすぎたよ」

 その後、ぼくらは手を振って彼女を見送った。天気は淀み始めて、夜の終わりまで黒ずんだ雨が降っていた。雨が止んでからぼくらは家を出た。電車と街中の光は眩しい代わりに、一つ一つの単位は小さく、すぐに暗い道に繋がっていた。

 その道をくぐり抜けてから、白永谷さゆが話していた通路を見つけた。懐中電灯でその奥を照らし、時折、道を戻り、曲がり、真っ直ぐにぼくらは進んだ。従業員用エレベーターは最上階から一階まで降りてくるのを待った。全部で十二階。スムーズにエレベーターの動作音と階数を知らせる音が静かに鳴って、扉が開いた。橙色のピンライトが、天井と足元を照らしていた。そのライトは一つの方向を示していた。行き先は言わずともわかっていた。

 一つだけ、ドアが小さく作られていた部屋を見つけた。その表示プレートはまだ空白だった。部屋の中に入ると彼女たち二人がいた。三音ツバサと川島哀音だ。そしてPCとデスクが一つずつ。それ以外の備品も設置されているが、彼女たちはそれに触れず、ソファに座ることもしなかった。

 「待たせたかな。二人共」

 「いや、待っていないさ。ところで例のものは持ってきてくれたの」

 「持ってきたさ。ちゃんとね」ぼくは鞄とその中身を示した。

 「信じるとしましょうか」

 「で、君は何をぼくらに差し出すんだ。最もぼくらが求めているのは君が事件に関わったという君自身の証拠だ。それ以外はいらないつもりだ」

 「私は犯人じゃないよ。君、かえるちゃんが言った推理は見事その通りだとは思う。でもだからといってその全てが一人の人間を指すとは限らない」

 「君がそう否定するなら、犯人はどこにいる。誰で。なぜ君に加担するんだ」そう言いながらもぼくはそれとなく、その後すぐに、川島哀音が犯人であると知った。

 「なぜ君なんだ」ぼくはなんて愚かな質問をしたんだろうと思う。

 「なぜ私、なのかって」川島哀音は口調こそ抑えていたが、眼は微笑んでいた。

 「そうだ。君の友達だったんだろう」

 「誰が」

 「羽島あずさが」

 「友達なんかじゃない」

 「例え友達じゃなくても、君の役目はそういうものじゃないはずだ」

 「残念ながら、私の約目はそうだったってだけ。でもこれで三音ツバサを救えた。少なくとも六旗尊って人と対等に渡り合うだけの力を得た。そう思わない」

 「思いたくないよ。でもこのソフトを使えば、三音ツバサ。君の可能性に繋がるってわけなのかな」

 「そうね」

 「ぼくは。いや、ぼくらは最初からこのソフトを君に渡すはずだった。なぜならぼくらにも珍しく、台本にはない科白を一つ思いついたからだ」

 「ぜひ教えてほしいものね」

 「いや、君は既に知っているものさ。六旗尊や白永谷さゆも知っている。みんなわかっていることだ。ぼくはようやくそう考えられただけ。その最後のシーンにもうすぐぼくらはたどり着くんだ。違うと思うかな」

 「わからない人」

 「それはお互い様だね。でも。まぁいい。このソフトをどうするかは君たちが考えるんだ。ぼくは考えた。だから君たちのためにもこれを運んできたんだ」鞄から取り出したソフトを、デスクの上に置いた。そこから何歩か引いて、彼女たちが手に取るのを待った。

三音ツバサはこちらを何度かちらっと目視した。

 「三音ツバサ。君は知っていたはずだ。羽島あずさと君が似ていたことに。二人がよく似ていたことは川島哀音が言っていたように確かなことだった。幽霊と恋に落ちてしまった。そう表現してもいたけど、本当に君は川島哀音が好きだったんだろう。違うのか」

 「好きと言っていいかも」

 「私も」川島哀音はそう同調した。

 「だとしたら、尚更ぼくはこう思う。君たちが手を結んだとして、そのことを誰も思い出に残すことはない。それがどういうことかわかるか」

 「歴史に残らないのと一緒、そうでしょ」

 「いや、正確には違う。それは歴史を上書きするのと同じことなんだ」

 「上書き」

 「そうだ。上書きだ。川島哀音にとっての」

 「例えそう思えたとしても、私は歴史を元に戻す。あの人のような歴史を思い残したりはしない」

 「杏の言う通りだよ」ぼくらはその声がする方へ視線を向けた。かえるちゃんはソフトを手に、ぼくらとは距離を図った。

 「何のつもりかは知らないけど、なぜそれを?」

 「やっぱり思ったんだ。君たちにこれを渡すべきじゃないって」

 「かえるちゃん」

 「アキちゃんも杏もごめんね。でもこれは駄目なことだ」かえるちゃんは叩きつける前の、体を振りかぶる姿勢を取った。床に、壁に、体にぶつければそれは壊れるぐらい物なので、その勢いが続けば、思い通りになるはずだった。

 でも違った。ソフトの入ったケースは別の手に握られていた。川島哀音の。そしてもう片方の手が、かえるちゃんの首元に置かれていた。軍物のカテゴリーナイフ。その引く仕草で決まってしまうことはわかっていた。

 誰かが止めるには遠い距離だった。ぼくはかえるちゃんを傷つけるものだと思っていた。でも違った。彼女はかえるちゃんを手放した後、自らの胸をナイフでえぐり出すように刺した。呼吸が途絶える音がした。

 三音ツバサは彼女に駆け寄った。川島哀音は視線を送った。視線に追いつくようにして彼女は手を差し出す前に一度胸を押さえた。それから赤い水彩模様に濡れたプラスチックケースを彼女に手渡した。星のように。ぼくらにはもう届かない距離と距離。倒れた彼女のブレザーは赤紫とその身からの血の色。シャツも、その肌の色も、全てがそうなってしまっていた。

 ここで初めて三音ツバサは証拠を見せた。同時に川島哀音の肩を抱いて、何か声をかけていた。唇の形は愛を伝えていたはずだ。

 でも確実にぼくらは手遅れだった。

 三音ツバサは、当初の目的である花園クロニクルの歴史を修正しようとした。初めにあった元の歴史へと全てを戻そうとした。それ以降の歴史を全て消し去ろうとした。

 他ならぬ自分の手で、愛を告げた相手に託され、二人とも血に濡れた手で、最後の作業を完了すべく、PC内へソフトを挿入した。後はОSが全てを成し遂げてくれる。自らが出来なかったことを、デジタル上において完遂させるのだ。

 もし全てが終了しても、この目の前の風景は変わらない。変わらないように思える。

 時刻は午前へと変わった。宇宙が瞬くような、時間。川島哀音は止まる。

 「インストールが完了しました」エンターキーを三音ツバサが押した。それが終わると花園クロニクルにおける最初の歴史以外の史実はこの世にはなく、後は人の胸に残るだけとなる。

 これで三音ツバサの悲願は終わったはずだった。

 でもまだ続くと言う。白永谷さゆは言う。悲劇はまだ終わらないと言う。

 論理の渦は一つに収束すると誰かが言った。ぼくは何も言わなかった。言うべきことはあったが、その感情には名前がなかった。

 ぼくの胸からその感情がなくなるときは着実に近づいていた。今はこの頭の明瞭さをひどく憎たらしく、そして同時に愛し始めていた。

 新しい花園クロニクルの歴史は愛で始まろうとしている。

 叶わなかった二人の恋の続きを書き換えようと、ぼくはかえるちゃんの手を握り、かえるちゃんもまたぼくの手を握り返した。

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