5章
5章
1.
そのひとときに、愛と悲惨を込めて。
彼ならきっとそう言っただろうと思う。本学園の学長である橘公平はあの古書の中には書かれるべき一節があると話した。
依頼人がそう話すのなら、ひとまずそう受け取っていいのかもしれない。
「上峰太郎は知っているね?」ええ、まあとぼくは言った。
「覚えています、しかしぼくらからすれば、作家としての印象はあまりに薄いですが」構わないと彼は返した。なんせ、何十年も以前から続く話だから。
「彼は祖父の友人だった。彼は自身でも語っていたが、完璧な推理作家ではなかったそうだ。一冊完成させるまでに費やした時間とそれに比例する労力から見ても、彼の作家としての地位を長くまで伸ばす程には値しない」
「努力が実らない、いや、実らせるつもりがあったかどうかは存じませんが、この人の場合、たぶん特定の誰かのために小説を、物語を書いていた」彼の台本への見方は一致していた。
「私もそう考えていてね。結局のところ、彼の作家としての地位は地方の名文家程度というのが今日に至るまでの社会的な評価だ」
と言っても、と彼はやや笑った。私も祖父から聞いた口でね、と橘公平は呟く。
「そしてこの中には、彼が書いたはずの一節がかつては存在していた」ぼくらと等距離に置かれた一冊、しかし本と言うにはあまりにも重量と質感が現代的なデザインとはかけ離れていた。
「この一冊は君たちに預けたいと思う。私的なことで大変申し訳ないが、友人の結婚式に私はこれから行かなければならない。だから」
「その間に、出来れば解決を」
「勝手なことだがね」
「それを踏まえて、君たちは私の依頼を引き受けてくれるのかな?」
「いいでしょう。但し、この依頼に関してもちろん最低限の約束ですが、口外はしないでもらえますか?」もちろんだともと彼は答えた。手元の書類にサインを加え、こちらへと戻した。
アキが依頼書をまとめている間、橘公平は昔の恋人の話をした。ちょっとした世間話をかいつまむではなく、こちらの状況にすり合わせるつもりだった。
彼がその彼女と過ごした期間はごく僅かだ。その分、思い出は濃く、一日を思い出すだけで、風景や匂いが振り返るものだよと彼は言った。
そうですかとぼくは言った。
「その人は、朱莉さんと言うんだ」と彼は告げた。六旗朱莉刑事のことだろうとすぐに指摘したし、彼も認めた。
「今は大変な状況にあると聞いたんだ。幾つか学園も関係している事件があった。お互い仕事柄、近況、人格含めてね。手こずるまではいかないかもしれない。しかし容易でもない」
「ええ、容易ではありませんね」
「しかしそれは誰であれ、経験することだと彼女は言っていた」
「彼女にもこの依頼を聞いてほしかったんですか」そう言った後すぐこれは言わなくてもいいことだと気づいた。
「君の言う通りだと思う。でも私と彼女はわざわざ話さなくてもいいんだ。もちろん全てそうだとは言わないけれどね。それは私と彼女がお互いの人生における定点であること、互いに望んでそうした交友関係になれるのは、六旗朱莉、彼女だけだと知っているからね」
それから橘公平は窓の向こうを見つめ、また目線を下に戻した。書類は支度され、こちらのサインも加えられた。下準備は終わった。
「これで後のことは君たちに任せるだけだ。今日は急な頼みとは言え、引き受けてもらったことはありがとうと言わせてほしい。貴重な時間だった。学園の生徒と話す機会はやはり私にとってそうないことだと思うからね」書類の控えをファイリングに収め、鞄に仕舞うその仕草すら、大人の行為に見えた。
「それはぼくらもそうですよ」立ち上がた彼を見送る。最後に柔らかく微笑んで背中を見せた。ぼくらは事務所へと戻った。
かえるちゃんはコーヒーカップを洗いながら鼻歌を歌っていた。
アキは彼の付けていた匂いがいいよねとぼくに聞いてきた。
「確かにね」机の上に置かれた古い書物を手に取り、めくっていく。装丁はかつての美しさとかすれた色、金と銅を混ぜた色彩の表題印字で飾られていた。なぞってその跡を辿る。この本は肉骨格、つまり二重の意味において、歴史の洗練を受けた跡が見られた。この一冊は、上峰太郎の書いた花園クロニクルの私家版として作られた。橘公平が言うには二冊作られた内の一つだった。それを依頼と共にここへ持ち込んできたのだ。
一つ一つが古びた紙束を、二つに分けた。目的の箇所。本来そのページは二十三と二十四と印字されているはずだった。しかし彼の言う通り、再度確認した通り、そこには何もなかった。ぼくらが、そして彼がずっと見ていたのは単なる空白だった。
そこにはいつかの日、花園クロニクルの一節が確かに記されていたそうだし、彼女たちの歴史が、真実が残っていたのだと。しかし何かの拍子でそのページは無くなった。抜け落ちた、あるいは最初から存在していなかったのか、誰かが破り捨てたのか。理由はいずれにせよ、今残っている一節は彼にしかわからなかった。
その途中で途切れてしまった物語の中で覚えているフレーズがあると言った。
「そのひとときに、愛と悲惨を込めて」彼の依頼はその言葉で始まり、その言葉で終わる。
確かに。これは奇妙な依頼だった。彼手持ちの花園クロニクルの私家版に書かれた一節を元に、消えた、そのたった一ページを探し出してくれというのだから。
通常であれば、この案件はこちらの元に届かない話だろう。考えることすら、ないかもしれない。しかしぼくらの置かれた立場からすれば、この欠損した歴史をいずれ探す必要はあっただろう。
「もしなかったら?」アキはそう聞いた。
「その場合、捜索の範囲を伸ばす他ないよ。たとえ今見つからなかったとしても、手がかりに近いものは必ず手に入る。少なくとも別の鉱脈が」
この一件がその他の事件に連なるかは、また別にして、何か関心を引くことは間違いない。消失した一ページにも、この街と歴史の確かなことが書かれているとすれば、それを見ないわけにはいかない。もし書かれた時代が違ったその一節の中にも、いつかの自分たちに繋がる血と遺伝子があるなら、手をつけるべきだとぼくらは判断した。
それにこの古書に記されてはいても、今、ぼくらが使っている花園クロニクルの台本にはない科白が数多くある。その一つ一つを振り返り、記憶に留めておくことで、この全てを把握したかった。
だから調査対象はこの街全域と言えた話だ。ただこれだけ広範囲に対象が及ぶなら、時間も労力も多くを注がなければいけない。しかし彼の思い出から言って、今まで彼が立ち寄ったことのない道にはその欠損した一枚がないと考えられた。少なくとも遠くには及ばない。高校時代にその古書を持ちだしたと話していた。彼がその本をよく手入れした、その一定の、かくして限定された領域で探すなら、ひとまず彼の自宅から始める必要があった。しかし彼はそのことをまず否定した。
「その前に私が住んでいた家はもう取り壊してある。両親は亡くなっていてね。だから今の家以外には、旧家の荷物はない。しかしここにはないのだよ。目的のものがね」
「書類の一枚一枚をめくった。しかしそれでも見つからない。記憶でさえも、そうだと」
「そのようだ。私としては完璧に探したはずなのだが。つい、うっかりしていたつもりもないが」
「そうだとしましょう。では、心当たりは他にないでしょうか。思い出の地。その古書と共にあった日々を一つ、あるいは二つ思い浮かべ話すだけで、手がかりにはなります」
「私としては二つあるんだ」
「聞かせてください」切り取り式のメモパッドをめくって、ボールペンを紙に押し付けた。
「一つは図書館だ」
「旧花園記念館」
「その隣に学生だけに使用許可された図書館、いや正確には図書室ぐらいの大きさの場所だ」
「そこにあるかもしれない」
「かもしれない。昔、といっても私が高校生の頃だ。十年、いや、もっと前の話かな。その時、彼女にこの本を貸したことがあったんだ」
「六旗朱莉刑事に」
「もちろん彼女に」
「では、彼女がもっている可能性もある。しかしそれはないと考えている」
「何度か聞いたことがあってね。どの答えも同じだった」
「であれば、その図書室のどこかにあってもいい」
「おかしくはないと思う。それが理由なんだ」
「どうしてかはわからない。が、ふとした拍子にそのページだけ抜け落ちてしまったと」
「何も乱暴に扱ったというわけではないよ。しかし一つの可能性として、別のページが一度そこで取れてしまったことがあってね。なにせ古い本だ。そういうことが珍しくない。今は最善の処置をしているおかげでこの本はヴィンテージとしての体裁を非常に良く保っている。その一枚を除いて」
「今から確かめに行きますよ」
「いつか館長か誰かに電話をしてね。あるかどうか聞いたこともあった」
「見つからずじまい、ですか。ただどこかの資料に挟み込まれている」
「望みは薄い。ただ万が一ということもある。いや、万が一しか私は望んでいない」
「しかしそれは奇跡ではない」
「のようだね。引き受けてもらえるのかな。こうしたリクエストも?」
「ええ。依頼は確かに引き受けました。ならば、断る理由はありません。早速探してみましょう」
「頼むことにしよう」
「では、もう一つ教えてもらえますか」
「神社だ」
「神社ですか」
「ここも高校生の頃に行った覚えがあってね。そこの神主の方とは知り合いの知り合いで、家の方 にもお邪魔させてもらったことがあった」
「ええ」
「そしてある時、私は彼からこの花園クロニクルの私家版を受け取ったんだ」
「その神主である方が預かっていれば、それもしかるべき場所で見つかると?」
「あり得ない話だろうか」
「再度、聞いてみる価値はあるかもしれません」
「彼はないと言っていたんだ。ただもう一度探してみましょうと話してくれた。君たちのことも話を通してある。事前に連絡さえくれたらと返事があった。快く迎えてくれるはずだと思う」
「わかりました。今日はまず旧花園市の方へと向かってみることにしましょう」
「神社もその付近にあるんだ」
「地図で調べますよ。その他のことも」
「任せっきりになるだろう。これから私は電車に乗ったり、知人たちと付き合ったりとそちらの状況を直接確認は出来ない」
「当初の予定通り、メール等で報告します」
「夜にでも構わないよ。酩酊はしない主義でね」
「面白い冗談ですね」
「まあそうでもしないとね。もう時間が来るので、一旦切ることにするよ」
「夜ですね」
「ああ。それでは健闘を祈るよ。君たちの頭脳とその若さに」
電話の遮断音。ぼくらは地図を眺めた。二つのポイントを繋ぎ合わせた。順々に巡っていくとすれば、図書室、神社と優先順位で行けばいい。地点にマーカーを並べて置き、隣町へと向かう準備を済ませた。
上手くいけば、今日中に全てが終わる依頼内容だった。
電車と徒歩の時間を数えた。旧花園記念館の開館時刻内、つまり午前の利用には間に合うと踏んだ。小さなウェブサイトの開館スケジュールには確かにそう記されていた。
2.
耳慣れない汽笛とホームと車窓。電車から降りた後も不思議と頭に残っていた、その音。方角から言えば、東改札から向かえば間違いないねとかえるちゃんは地図の順々を指差した。
実際その順番で歩いて、その順番で目的地へと向かった。途中で見つけた匂い。野菜をとかしたスープとパンの店は合間に行こうと三人とも口にした。
旧花園記念館は木と石門に囲まれていたので、おおよその把握は早く、道に迷うことはなかった。駅から徒歩でちょうど十分。入ってすぐに受け付け員が声をかけてきた。横足という苗字の相手だった。聞くと案内係も兼ねているそうで、常時ではないが、閲覧者が少数に限り自分がこの役を務めていると言う。
「入館料ですが、学生は無料ですよ。初めての方でしたら、私がこの館を案内、ガイドして回ることになっておりまして」
「ありがとう。本当はそうしたいところだ。でも実はぼくたちはここの観光を楽しむために来たわけじゃないんだ。ガイドはまたの機会に」
「では、図書室のご利用ですか」
「ええ。閲覧した図書がありまして」
「午前の開館はあと三十分ほどですが、それでも?」
「構わないですよ」そう話すと横足という案内係は手元の館内見取り図をぼくらに見せた。
「この通り、受付のちょうど後ろに図書室はあります」
「ありがとう。早速入ってもいいですか」
「どうぞご自由にお使いください。ただ図書室の加賀という人は無口で、騒ぐのを好まない。ただ仕事熱心な方で」
「注意するよ。でもぼくらは特別そうしたいわけじゃないんだ。探したいものがあるだけさ。必要となったら、頼むかもしれない」
「見つかるといいですね」そう彼女は微笑み、それからまた受付の席に腰を落ち着けた。
図書室入口の扉は立て付けが酷い割には、静かに開いた。無音と無臭と無人の気配があって、彼女の言う加賀という人はたぶんその奥の部屋にいるのだろう。椅子の軋む音が注意深く鳴っていた。一応声はかけたが、返事はなかった。貸出し窓口に閲覧者記入の欄にサインをし、ぼくらは靴を脱いでその室の絨毯を踏んだ。
西側に当てられたカーテンは日光をたっぷりと含みながら、風に揺れていた。三つの大きさに分かれたテーブルと椅子。その周辺には対象年齢に宛てた図書棚。他には洗面台とペーパータオル。寄贈された小学生のコンクールポスター、紙芝居の読み聞かせを告知するプリントを貼り付けたコルクボード。
図書室内を歩き回った後、彼の話していたことを思い直す。もしここに失くした古書の一節があるなら、それはどこにあるのか。誰かが持ち出して捨て去った可能性はないか。でも今はあるという前提で目の前にある本一冊一冊に手をつけていった。他の資料の中にあるのは、どれも別の世界の歴史であり、別の言語の集合だった。その本とは無関係な一節は、どの書物には存在しないし、目にしてもそれは栞代わりに挟み込まれた返却お知らせカード一枚だけだった。
時刻が十二時を指すと一旦この作業を取りやめた。まだほんの、何百分の一も終わっていないように思えた。ぼくは一日でこの作業が終わると見込んでいた。この予想は安易だった。
一度、図書室を後にしようと扉を閉めた。背を向けた最後の瞬間に彼の居る音がした。もしかしたら違う音だったかもしれないが、確かにそのように感じた。
駅の途中まで戻り、先ほど記憶に止まったお店に入った。野菜と香辛料の匂いはいわく言い難く、濃く、甘い。判別に困る香りが周囲に漂っていても、周囲の客は誰一人咎めているようには思えない。それもそのはず、出てきた野菜と鶏のスープはその通り、濃く、甘い。スープと香辛料のほどけた跡が舌に残って、濃く、甘い。
黙して食事を済ませ。またさっきの道を進んだ。午後の開館時間は夕方までだった。それまであと四時間以上はあった。三人で手分けして調べていったが、開館を迎えるまでにその全ては終わった。
成果はゼロ。
しかし仕事の一つは片付いた。ひとまずそう捉えていた。アキもかえるちゃんもぼく、この作業の疲労を訴えたりはせずに、テーブルの上で報告書の作成を始めた。上三行から四行もない文書量をスペースに埋めていった。
それが終わる前後に、ぼくは神社の神主である花村一に連絡を取った。彼の声は厚みと奥行きがあるせいか、聞き慣れなくとも、おおよそ会話は淀み無く進んだ。
「斧ノ目さんですか」
「ええ。橘先生からの紹介と言えば、いいでしょうか」
「確かにその名前には覚えがありますよ。どちらにも。あの子も電話で言っておりました。自分のところの子たちをそちらに向かわせますから、どうか快くと」
「そうおっしゃっていたんですか」
「ええ。まあ。しかし珍しい話だ」
「事情は伝わっていると思います」
「話せば、短く済むものです。が、あの子にとってはそうではないでしょう」
「と言うと?」
「それは来てからお聞かせしましょう。公平さんが学生たちにここの場所を教えるのは実は初めてでしてね」
「理由がある」
「お待ちしておりますよ」
「そうさせてもらいましょう」ぼくらは図書室を後にすべく、靴を履いた。彼の思わしき靴は一番左上の棚に鎮座していた。とうとう加賀という人に会うことは出来ずじまいだった。
旧花園神社への道のりは旧花園記念館をさらに東へ進んだ先にあると花村一神主は話していた。といっても隣駅に行くほどではない。その一丁手前の位置。交差点の案内板と神社周辺にある緑道が結びついていたおかげで、迷うことなく辿りついた。
「お待ちしていました。橘先生の学園の皆さん方」
「こんにちは」
「こんにちは。今日は天気がいいものですね」
「そうですね」
「早速ですがこちらの住居に当たる方へご案内しましょう」彼が手を向けたこぢんまりとした土蔵の向かいに家はあった。平屋で、家族四人分。神主の家族と息子夫婦。来年には孫が生まれると彼は言った。
「このとおり、歴史の積み重ねた匂いが古くに過ぎまして。今、取り壊し、立て直そうかと思うのです」
「中身はどうされるのですか」
「息子夫婦に預かれと言うのも何か違う気がしましてな。どこかいい引取り先があればいいでしょう。どうですかあなた方は。ご興味はありますかな」
「ええ。それがぼくらの目的そのものですから。それから。古書なんかも見せて頂けますか。もしかしたら探し物もそこにあるかもしれない」
「ええ。ただここは後ほどにしましょう。先に家の方の資料室を見てもらいましてな」
「何だろう」とぼくらは彼の後をついていった。他の部屋と違いその部屋だけスライド式の扉に建て替えられていた。古い木の戸棚に敷き詰められた資料や文献の束と、寄贈されたという学生向けの図書。
「この中から探すのはやはりひと苦労なものですが、四人もいればすぐに終わるものじゃないですかな」花村一神主はそう微笑み、同意を求めた。
「確かにそう考えられます。いや、そう考えましょう」と手分けして先ほどと同じ作業に移っていった。紙の束を一つ一つくまなく分けていく。その中に、思わしきページを見つける。それだけだ。しかしもしぼくらの誰かがそのページを見つけたとして、彼にそのページを見せ真偽の判断を仰いだとして、偽であった場合、ぼくらはどうすべきなのかまだ話し合ってすらいなかった。
いや、偽りであるなら、それこそ真実が何かわかるはずだった。少なくとも橘公平の記憶にある一節は俄然信頼出来るものになるだろうし、その全てをたとえ思い出せなくとも、真実味は帯びる。
ぼくらはそれを頼りにして、作業を続けていくことにした。
市民冊子や新聞の切り取り記事、回顧録に年表をはじめとする公的な記録。著しく削られた覚え書き。意図して調整された報告の数々。それらは諸々の、誰それの、彼此の、公私の、と名付けるまでもなく全て一人の頭に頼って書かれ、誰もそれに頼ったことを言及しない。全ての文書はこうして読まれて書かれても、たとえばオセロ盤のように、決して表のイメージだけでは読まれえない。
つまり何かの加減で言葉はひっくり返り、とっちら返る。間もなく忘れた話ですら、たぶんそうしてひっくり返る。試しに一つの文章を、言葉の意味をひっくり返して思い返せば、同じ解釈には至らない。
しかしそれは逆説として成立する。ここにたとえ同じ意味だけ並べた言葉でも、あらゆるステータス、記憶と忘却の数値を調整し、集積された情報から、ヒトの歴史形成の型が出来上がる。そしてそれは既視感のある風景には成りえない。
既視感のない風景。
既視感を利用した風景。
彼の知らない風景の中には、それは存在しない。
だから彼の求めているものは、確実にどこかには存在し得る。
新聞には、ない。
ノートには、ない。
それから絵本に、記しの中にも、ない。
あくまで本の形に合わせてある、誰かが誰かに確かに言ったはずのその全ては並んでいない。
一つずつ思い当たる文献に目を通していくことで、彼の記憶がどうあったかをぼくらは思い出す。
今、ここにある資料の束を読み進めていけば、ごくごく自然に言葉とイメージのボルテージは高まっていく。その分だけ、彼の記憶の中の一節。その純度も、徐々に輪郭が出来上がり、それは一つの絵になるはずで。それが彼の依頼に応えることそのものだった。
「しかし見つからないものだな」ぼくはそう言った。アキの手にも、かえるちゃんの手にも、花村一神主の手の中にも、もう触れている言葉はない。
それから資料を全て元に戻した。それが終わる頃、玄関奥から、来客が来ていると彼の奥さんが言った。花村一神主は来客の姿を認め、六旗朱莉刑事を連れ立って来た。
「お邪魔だったかな」
「いえ、そうは思いませんよ。しかし今回の依頼はあなたが知ってか知らずか、事件性はまるで皆無です。またそうなる恐れもない。よって、今回ばかりはあなたの出番はないものでしょう」
「でも君たちは私の名前を彼から聞いていた」
「聞きましたよ。文脈に触れる程度には」
「けれども私は君たちに教えなければいけないことがある」
「あなたがあると言えば、それはあるんでしょうね」
「彼は今ここにはいない」
「ご友人の結婚式だそうで」
「そうか。結婚式。そういうことか。いや、まあいい。率直に言おう。彼はいつの日かなくしてしまった」
「直接そう聞きました」
「しかしな、あれは元々ないものだ。そもそもあのページは欠損していたんだ。だからその代わりを別のお話で埋めようとした。それは私と彼が編み出した、手紙のやり取りでね。もし演じることがあれば、お互いの言いたいことを、そう書こうと決めていた。その中に、彼の言葉と私の言葉を、花園クロニクルに挟み込んだんだ。栞代わりにね」
「つまり彼は思い違いをしていた」
「つまりはそういうことだな」
「でもどうして彼にそう教えなかったんですか」
「教えたと思う。でも彼の中では、最初に手に入れたときには既にあったと言っていた。でも私に読ませてくれたときには、それは既に存在していなかったと言う。だから話はつまるところ、彼よりも過去に遡らなければならない」
「しかしそこまで遡ったとしても、そのページが果たして本当にあるかどうかは保証されない」
「ああ。保証しない。でも私にも、その一節ぐらいは今でも思い出せる。全て思い出すには難しいけどね」
「聞かせてもらっても?」
「構わないよ」それから六旗朱莉刑事はこう読み上げた。
「探した夢破れ、その渦の藻屑と消えるのは、かくも夢とも日とも、その地の続きとも異なりましょう。ええ。それはあなたの瞳の中にだけ。そして私のこの胸の中だけ」
「血園姫の科白ですね」かえるちゃんはそう言った。
「そうだ。私はちゃんと覚えていたよ。初めての愛の一部を、まさかそう簡単に忘れるはずはないさ」
「でも彼は忘れていた」
「無理もない。彼は忘れようとしたんだ。お互いが同じ考えであるわけはないからね。しかしこうして思い出そうとしてくれただけでも悪くはないよ」
「あとはあの子に伝えるだけではありませんか」花村一神主はそう言った。
「ええ。これで完了です」ぼくはその言葉を失わないように書き付けた。それぞれの思い出の中にも。いつでも諳んじることが出来るよう、ノートの中にも。最後の場所は、依頼人に書き付けることだった。
ぼくは彼女が告げた通りの内容をメールで送信した。
彼は以下のように返事を送ってきた。
「確かにその言葉だった。思い出せない部分は、彼女が持っていた。そうか。なら、それでいいのかもしれない。見つからなかったことは残念だった。たた君たちには依頼はこれで終了してほしいと思う。これで十分だ。全て思い出せないことは承知しているし、また全てを思い返したいわけでもない。自分にその機会が与えられるものか、知りたかったのかもしれない」
六旗朱莉刑事にこの内容を見せた。ぼくは彼女が知らなかった顔をするまでずっと、この科白はきっと二人だけのものだと思っていた。
「このひとときに、愛と悲惨を込めて」
彼ならきっとそう言っただろうと思う。彼女はぼくを通して、橘公平の姿をたぶん想像していた。その誰かを思い出して微笑む顔は恋人に見せる初めての顔によく似ていた。
でもそれは同じくらい別の誰かにも向けられた微笑みのようにも思えた。繋ぎ目なく見せた寂しげな視線は誰かを探していた。ここにはいない誰か。ぼくらにはそれが誰かわかっていた。わかっていたけれども、この瞬間に対してぼくらが出来ることはこの意味を、ひとまず心に留めておくことだけだった。
帰ってきた事務所内で鳴り続けていた発信音。
ぼくは折り返しかけようと受話器を取ろうとするが、その前に留守録サービスが機能しだす。白永谷さゆからのコール。二人はもう家に入っていた。ぼくは一人、音量を絞って聞く。
「いないみたいね。いや、もしかしたら、いるかもしれない。まあいいとしましょうか。どのみち知ることになるわけだし」
一旦間を置いて、再度彼女は話し出す。
「どうだった、今回のシナリオは? 取るに足らない芝居。二人共、昔を思い返して一体何を取り戻したの? 自由? 愛? それとも運命? 少しでもそういうのって感じた? 科白から割り当てられた人格と近似値の相手同士の経験を土台として、データベースを作り上げる。そう難しい作業じゃなかったでしょ?」
知らないなとぼくは返した。しかし彼女には聞こえていない。
「基本となるフォーマットとシミュレーション。この街には幸い何度も歴史を繰り返したドラマがある。それを元に今回の計画と花園クロニクルをすり合わせ、訓練結果を吸い上げるってことね。だからあの二人は、もちろんそれ以外の人間も参加にはうってつけだった。いや、参加じゃなく、出演ね。この街、この歴史に縁が深く、かつ、花園クロニクルと同じように人生を歩めそうな人間であること」
経験や感情の問題を抜きにしても、ある一定の結末を望める人物。感情の経験値を必要とせずにも、この会話を、この経験を支えることの出来る人物。
「思い出はあくまで二次資料のようなものであって、一次よりは優位には立たない。六旗尊の周縁であり、その他条件全てを満たしていた」
ここにいないにも関わらず。それは可能なことだ。
「この会話は不在の人物によって成立している。だからこれはある意味では私たちの会話ですら、ない。なら、話は早いでしょ。この日を忘れずにいること。しかしそれは思い出とイコールでは結ばれない。それは論理の渦によって組み替えられた歴史の遺伝子と言ってもいい。この歴史を正確に覚えている人間はもう誰もいない。世界にあるはずのない歴史。世界に存在しない歴史。今日の歴史が明日の真実とは限らない。日々淘汰され、最も的確に調整された歴史の人格。それがあなたたちなの」
しかしぼくらは覚えているだろう。これらを末代まで語り継ぐ気でいるために、彼らはこのシナリオに誰を選んだのか。
ぼくらであり。ぼくらではない。
ぼくらではないとしたら、そのときの覚悟はどうなるだろう。なんてね。そんなことまだ思いついちゃいない
「これで決められた会話も終了。今回の依頼も規定通り、明日、午後十二時ちょうどに振込まれる」
わかったよ。物語は続くということだ。ぼくたちが死ななければ。
「あなたたちが死ななければ」白永谷さゆはそう思ったこともないって調子で言う。
それからあちらの電話が途切れた。