4章
4章
1.
皆口友紀が行方不明になったのは八月の三十一日だと聞いた。
学園の夏期休暇が終わったのは遡ること、八月二十四日。だからそれから一週間後。その夜を境に皆口ゆかの妹はいなくなった。世界から消えた、いや、彼女は舞台から姿を消したのだ。
彼女の不在は彼女たちの花開いた傷口と二酸化炭素とを結んで、固く縛った。古い傷と新しい傷が混在して、目立つ傷を与えた。つい最近もクラスの誰かがすれ違ってその夜のことを考えた。
事件当時の夜。誰もがその夜のことを思い出したし、誰もがその夜を忘れて、誰もが忘れることを学んだ。
でも二人は忘れなかった。二人以外の誰かもちゃんと覚えていた。
包帯の端の留め具を元の位置にきつく締めなおすと皆口ゆかはその最初の日のことを語る。おそらく友人にも、学園にも、家族にも、警察にも、そして自分自身にも語り尽くしてきたことなのだから、細部に至るまで、既にその物語は精巧に出来上がっていた。
「最後にあの子を映したのは、コンビニ前の監視カメラに残った記録です。私はその映像を報道と警察に呼ばれたとき、合わせて二度見ました。でも手がかりと言う程のものではなく、有力な目撃証言も寄せられない。捜査は行き詰まったと思いました。直接的にそう伝えられた、というよりも徐々に友紀のことを話題に上げる人が減り、目撃情報も減り、次第に私たちや、私たちに親身に接してくれた人以外が忘れていったことで、やはり上手く見つけられなかったのだろうとふと思ったんです」
「私も捜索に参加したが、見つけることは出来なかった」
「それからさやかと一緒に、友紀がいなくなった最後の場所へ行きましたがそこには妹がいたという痕跡は一つもなかったんです。それからつい最近に至るまで、チャンスは巡っては来なかった。もちろんそれはあなたたちのことです。彼女のことじゃありません」
「もう少し詳しく語りましょう。友紀は「T.о.y」内でサークルを作ったと言っていました。ですが、それが何のサークルであるか、私たちは知りません。通りを一つ隔てた街に行く、そのような示唆が友紀の作ったブログに書いてありました。だからもし事件に巻き込まれたとすれば、その場所でしょう。しかし何もわからなかった」
「あの辺りは過去に不審者が出たと報告がされていたんだ。一度女子高生が性的な被害にあったケースもある。それを受けて、周辺一帯は警官が重点的に巡回するよう指示が出ているはずだ。ということもあり、ここ最近ではそうした報告、及びその他の軽犯罪も摘発はされていない。距離で言うと、学園、彼女たちの自宅から見ても、隣の町へ行くには少し時間がかかる」
「その町はそんなに危ないところなんですか」
「落ち着いた、いや、今は殺風景な町だと聞く。ここ数年経済的な面で凋落ある町だ。最近では今年の初めに中規模クラスのホテルが一つ経営破綻した。解体作業計画が市から出されるところだが、事情が事情だけに、白紙になりそうだしな」
「あそこって商店街とかなかった?」アキがそう訪ねる。
「あるな。しかしホテルとは違い、まちおこしなどイベントを謳い、市を盛り上げようとしているそうだ。今回の市長選の争点も確か、ホテル絡みだったな」
「そんなに大事だったんですか」
「前の市長にとっては自分の両親が経営していたホテルだ。愛着の一つもあるだろう。だからこそ潰したくはないんだ。元々あのホテルは八十年代、バブル期に建てられたホテルだった。余白の多い土地を買い取ったホテル産業。町の開発計画。しかし建設したはいいけど、バブルが弾けて、お客は次第に立ち寄ることを忘れ、私たちが住んでいる街へやってきた。打開策として行った低価格路線も成功せず、静かな町のシンボルとして、残っていただけだ。確か名前はつばさホテルといったな。今回の市長選の争点はホテルの再建か、あるいは解体かってところもポイントだった。結果は解体側の現市長が当選し、今年中に解体作業計画を発表し、実行に移す予定だった。しかし今のところ音沙汰はない」
「なるほど」
「まあホテルがこの先どうなるか私には知れない問題だ」
「でも皆口友紀がこのホテルに泊まったことはあるかもしれない」
「せいぜいその程度かもしれない。それよりも彼女をどう探していくかだろう。私としては探偵である君たちに任せる他ないと思うが」
「確かにそうする他なさそうです。今一度、皆口友紀さんの失踪した周辺地域を中心に調べ上げてみましょう」
「ちょっと待って」星野環がこの空気を静かに割る。
「皆口友紀の失踪、いや行方不明かな。私もラジオ放送や「T.о.y」で彼女のこと、呼びかけてみるつもりだけど、もし見つからなかった場合は、どうするつもりなんだ」
「そうだな。悪いけど、まだ何も思いついていないんだ。ぼくにしては珍しいぐらいだ」
「行動しつつ、新しい考えを思いつくのが杏だから、きっと上手くいくんじゃないかな」アキはそう言ってくれているが、ぼくにはまだ本当にこの行方不明事件の核心には触れていない。そうであるから、やはりしくじる可能性の方が高いと思えるのだ。あとこれは名案とも言えなくないアイディアを、かえるちゃんの口から聞くことになる。
「確かに皆口友紀さんを、いなくなった場所で探すことは悪くないと思う。でも少なからずの人たちが彼女のことを忘れ、事件性かどうかも忘れてしまっている以上、何か不意をつくような演出をしない限り、注意を寄せることは難しいかな」
「注意を引けば、また新しい、具体的な証言が得られるかもしれない…か」
「そうだよ。杏ちゃん。彼女は確かブログをやっていたよね」そう言うと、かえるちゃんはたった今思いついたという、架空の人物をでっち上げるという、ごく単純な仕草を手持ちのノートに書き連ねる。きっとその方がわかりやすいとしてイラストまで丁寧につけて、次のぼくらの行動を決定づけた。
2.
まずは検証から始めましょうとかえるちゃんはレントゲンのように、イラストと皆口友紀のブログを交互に見せ、比べるようにした。
「大事なのはどうやって皆口友紀さんが生きているだろうと周囲に思わせること。でもただ文面だけで目を引くような出来事になるかどうか。問題はそこなんだ。けどそれもしかるべき手順を踏めば、解決する。最初にごく些細なこと、皆口友紀と行方不明時に、もしかしたら彼女を誘拐したかもしれない人物でしか知り得ないことをブログに書き連ねてみる。もちろんね、始めから、目に留まるなんてことはないよ。重要なのは、彼女がすぐそばにいる誰かだと実感させることだ」
当然、この検証と実行には少なからずの時間がかかる。しかしそれなりに揃った人数を以てすれば、資料の構成はそう難しくない。付け加えておくならば、ブログの認証に必要なパスワードは比較的簡単に手に入った。皆口ゆかが覚えていたのだ。ぼくとかえるちゃん、星野環が学園祭の準備のために、離れている間に、アキと六旗朱莉刑事と皆口ゆかの三人がこの準備を整えてくれた。またここで考えざるを得ない問題だが、白永谷さゆ、引いては六旗尊がどう絡んでくるのかぼくらはそれを常に意識していなくちゃいけない。今のところ、何かあるわけではない。もちろん今のところは。
そして正直に言えば、学園に戻っての数時間は、皆口友紀のことを忘れてしまうことがなかった。もしぼくらの態度が演技に表れていると考えるなら、それは確実に、あるいは絶妙に花園クロニクルの雰囲気に混ぜ合わされているだろう。だから何度も何度も台本を読み込み、体で覚えたその流れを初めて舞台で見せる演技をしているのは、クラスメイトや代役も兼ねる演劇部であって、ぼくら二人ではないのだ。ぼくとかえるちゃんは主役に選ばれておきながら、この舞台で必要な経験値を積み足りていない、本来求められる一定のレベルにすら足りていない、いや、そうではない。ぼくらにとっては、そもそもレベルキャップという概念すらない。
無だ。
練習に費やすはずのあらゆる時間と比例し、舞台演技が完成されていくのに対し、三つの事件が、そしてこれからぼくらの起こす四つ目の事件が、その数値を無に変えてしまう。だからぼくら二人が彼女たちの演技と微妙に噛み合わず、にも関わらず花園クロニクルの中に存在できるのは、時の王子と血園姫、この二人にとてもよく似ているのではないかと思うからだ。
それでも科白や仕草を間違えることはある。でもそれは単に忘れてしまったのではなく、記憶喪失めいたある種の閃きの欠如から来るものと感じていた。この繰り返しが数時間続き、休憩を挟んでも、また練習が再開されても、脳裏にこの考えは焼き付いていた。
夕方前に、ぼくらは探偵事務所に戻った。帰ってきたあと、かえるちゃんと初めて同じベッドで眠った。ぼくの部屋で。ぼくらは疲れていたから、制服のまま、するりと寝室に潜り込み、すぐそばで眠った。
夜が終わる前に、ぼくらは目覚めた。気がつくとかえるちゃんも体をベッドの端に向けて、足を床につけていた。熱い体は、フローリングに溜まった低い温度の空気で冷たくなった。階下へ降り、リビングに入る。
「おはよう。よく眠れたか」六旗朱莉刑事がパソコンと向き合ったまま、そうつぶやいた。
「ええ。とても、甘く眠れました」アキはアイスシンクを目に当てて、ソファで横になっている。星野環は新聞を読みながら、六旗刑事の状況を細かくチェックしている。
「皆口ゆかは?」
「ああ。彼女は帰した。病院にな。ほんの数日の差ではあるが、まだ入院してもらった方が良いと医師は言っていた。だがそれが終われば、退院出来るとも言っていた。まあ本当はここに来てもらった方がいい、しかし怪我の完治が先に必要なことだし、あんな手の状態じゃ、参加してもらうのは難しい。志津さやかが来ても、どのみち準備が整ってからではないと動き出せないわけね。だから今はこの三人で充分だった。もうすぐ、あと五分もしないうちに基礎は固められるよ。その間、眠気も吹き飛ぶ、コーヒーでも飲まないか」そう言って、六旗朱莉刑事はキッチンに立ち、人数分のコーヒーを沸かした。
「資料がそこにある。二人共、読んでもらえる」星野環はテーブル上にあるファイルに目をやった。ファイルの中身は全部で十二枚ある。それらを精読した結果、この十二枚の資料は皆口友紀の行動分布図とログ返信履歴、そして交友関係を示すものだった。コーヒーに手をつけながら、ぼくらは三人が解析した結果を読み終わる。
「さて問題はここからだ。上手くいくかは正直なところよくわからない。犯罪紛いなことに目を向けることはあっても、私は彼らの協力者ではない。刑事だからな。なぜ事件が起こるのか理解は出来るが率先はしたくないものだ。そしてこの手法もまたモラリティという意味では逸脱した行動なのだろう。しかしこれに手を貸せるのは、現状私も含めて七人だ」
「いや、八人だ。六旗朱莉刑事」
「もう一人、いるのか」
「ええ。います。それはもう一人の、いや、本物の皆口友紀です」
「そうか。ああ、そうだな。一番の目的はそれだ。このやり方がやや常識外れなのは承知の上だ」
「もちろんそれは皆わかっています。でも資料を読む限り、第一段階はクリアだと思います。次の段階、つまり実践的に、皆口友紀をどう偏在させるかです。最もこれに関しては、皆口ゆかの回復が第一。そして彼女が主役に対して、ぼくらはあくまで効果的に脇役回りを演じる、あるいは黒子に徹し、街の表情を探る」
「さっきも言った通り、皆口ゆかの回復はもう何日か後だ。その間、私たちが描いたプロットの通り、作戦が進むことを祈ろう。そろそろだな。ソフトのダウンロードが終わったようだ。これに関してもその時に説明しよう。私ももう帰ることにするよ。仕事も終わったし、また明日も早い」コートとマフラーを素早く身にたくしこみ、六旗朱莉刑事はドアを開け、帰っていった。星野環もまた明日と言って、帰っていく。かえるちゃんと二人で残ったコーヒーを片付け、アキをベッドに連れていった。
3.
今日は四月の三十日。ジョージ・ワシントンが初代アメリカ合衆国大統領に就任した日だ。ホームステイ先の同僚クリスとはその二日前にお別れした。ブログに貼ってある大半の写真はその思い出たちだ! 私はそこで自分の夢を知ったし、みんなの夢を知った。抽象的に言うと、そうなっちゃうけど、単純に言えば、私は語学の勉強をしたかった。翻訳、通訳、いや、もっと相応しい言葉があった。そう私はステイコンシェルジェになりたかったのだ。
ちょっと話逸らすけど、その夢のことももっと話したいけど、私は嘘をついて学園を辞めた。辞めたくなかったし、辞めることに何か大きなメリットがあると言う人はまずいない。賢明って言葉は私の中には、ない。でも自分の仕事に使う時間が減っていくって感覚はちょっとした恐怖で、強迫観念を感じないって子はいないよね。最短距離であってほしいと思うよ、どんな方法ももちろん。だから私は、学園を去った。学園長は退学届けを受理はしなかった。辞めたというのは、書類上の意味じゃなく、一つの区切りってことでお互いに合意したようなものだった。
それから私はアメリカに渡った。私は滞在先の友達クリスの家で語学の勉強をしながら、ワーク紹介で見つけたアパレルショップで週三日働き、週に二度、クリスと一緒にカナダにある日本語学校へボランティアに行った。詳しく語ると長いから、短く言うとそれは地方、郊外と呼ばれている地域の諸問題を海外の人と共有するってことだ。ダムや航空会社、バス、エネルギー運営について。日本の新聞や著書、ウェブサイトを用いてディスカッションするのだ。
とまあ、ちょっと長かったけど、この約八ヶ月間をおさらいするとこんな感じ。次のブログ更新のときは、もっと手短にしようと思う。グッバイ!
4.
最初のログはこのような形になった。最初の嘘を書き込んだのは、ぼくとアキだった。草案を考えたのはかえるちゃんで、皆口ゆかも含めた全員で文章のチェックを取った。写真の素材と加工は星野環が引き受け、最終的に六旗朱莉刑事がゴーサインを出した。
元々このログの閲覧数は数える程もなく、一日に一回アクセスがあるかないかの日が多い。つまりほとんど世界の誰にも着目されていないようなものだ。しかしそのたった一回のアクセスの中に、皆口友紀と何らかの関係性を築いた人間がいるかもしれないのだ。
ログの再開と同時に、星野環はラジオ番組の中にこのことを、ごくさりげなく盛り込もうと企画した。ウェブラジオの生放送に三回に一回は話題にすれば、何人かのリスナーはログに辿り着くはずだった。
三日経って成果を挙げたわけではないが、皆口友紀のログアクセス数は日に十回から二十回の辺りに収まっていた。しかしこれでもまだゼロより少し数値が動いた程度のことである。
問題はこうしたぼくらの行動を覆そうとする誰かが一人も出てこないことだった。話題にした星野環のラジオにさえ、皆口友紀のことを記したメッセージは一件もなかった。ぼくらが緩やかにまた学園の日常に戻りつつあるその日に、白永谷さゆは星野環のラジオに出演させてもらえないかと交渉してきた。
でもその要求は、ぼくらの探偵事務所の電話を通じて行われた。ぼくとかえるちゃんとアキ、つまりいつもの三人しかここにはいなかった。
「一応君も学園の生徒だから、ラジオに出演する権利はごく普通にあると思う。でも君は学園祭で何をするつもりなのかな」
「お化け屋敷って言っていた」
「表向きは」
「裏向きであっても、同じこと。どのみちしばらくやることがないから、退屈なわけね。もちろん学園祭の宣伝はするつもりだけど」
「別にそれは構わないと思うよ。それは。でもそろそろ君たちの計画をどうにかしてこちらに明かすべきじゃないかな。手順があるのはわかっている」
「手順通りにいっているよ、きちんと。でも簡単には晒せない。わかるでしょう。六旗尊はきっかり最後の細部まで手順を考えているのだから」
「なら、これ以上は時間の無駄かもしれない」
「まあ、いずれにしても、全ては手順通りだから」電話を切ったあと、星野環にこのことを伝えた。否定的になるのも無理はなかったが、引き受けることを提案した。前回の事件のことを思えば、警戒すべきは白永谷さゆであることに違いない。が、彼女自身が手を下すことは考えづらいと言える。だから最低限、ぼくらは誰からも見える場所で彼女と会う必要性を感じた。ラジオの収録場所を学園内の放送室を借りて行う。六旗朱莉刑事を近くに待機していてもらう。アシスタントとしてかえるちゃんとアキの二人にも星野環についていてもらう。ぼくと志津さやか、そして皆口ゆかは、この日の、この時間、この街にはいない。
ぼくたちは隣の町へ、皆口友紀がいなくなったと推定されるその町へ再び調査することになる。手がかりはごく少数しかない。警察が公的に発表したもの、はという意味だ。もしその中で個人の文脈が語ることが出来たのなら、有力な仮説の一つや二つが知見になることだって珍しくないはずだ。しかし口から出ることはなかった。ぼくらがそのような説を唱えることが出来るかどうかはわからない。ひとまずゴールデンウィーク初日はそう始まることをぼくらは話し合っていた。
5.
街へ向かう人々は多くなることが予測出来た。行楽シーズンの初日はいつもそうだ。街に何か大きなイベントがあるわけではないが、それでも人々の大半は街に買い物へ行き、ランチを取り、会話を楽しみ、映画を見る。賑わいの空気が街を包んでいるようなものだ。そんな中、ぼくらはそれとは全く反対の方向に向かっている。電車で十数分の距離からは、花園の匂いや感覚は看板案内でしか感じ取ることは出来ない。
電車内の客はまばらで、イベントを楽しむというより、帰省のため乗っている様子が伺えた。朝食の匂いがまだ体に染み付いていたけど、電車から降りる時にはその匂いはなくなっていた。ぼくらはマップを見ながら、皆口友紀の辿ったであろう箇所を回っていく。最後に監視カメラで記録されたコンビニ、スーパーや何の変哲もなさそうな路地、あるいは今や閉館となったホテルへと足を進めていった。正直一つは手がかりに当たるだろうとぼくらは踏んでいたわけだが、一つも当たらないまま、お昼を迎えようとしていた。ショッピングモール内にあるパスタ店で昼食を取りつつ、ぼくらは皆口友紀が残した写真や文章を元に、彼女の行方を、頭の中で探そうとしていた。同時にぼくは見つけられなかった時の言い訳も用意しようとしていた。しかしそれはある意味では正当なのだろうと思う。これがラストチャンスだと考えているからこそ、そのような明らかに、彼女を探すことを止められるんじゃないかとぼくは言った。彼女たちももちろんそれぐらい感じ取っている。でも今まで言葉にすることは一度だってなかった。だから今まで曖昧に、いつか、いつの日か、皆口友紀は戻ってこられるという幻想を信じられたんだろう。だがもちろんぼくらは探す依頼を引き受けた以上、探す。そこにどのような結末を迎えても。
時折、かえるちゃんたちの様子が気になっても、ぼくらはそのことを口にすることはない。そろそろ白永谷さゆと対面していることだろう。話し合った結果、ぼくらはお互いの様子を随時報告し合わないと決めた。異常な事態がもしあったとしても、帰ってきてから全てを、順序と量を整理してから、テーブルに意見を出し合うと決めていた。
ショッピングモールを出た後、ぼくらは皆口友紀の履歴を辿るようにして街を歩き、記録していった。ぐるぐるとくまなく、しらみつぶしに行くには体力と時間が必要だった。けどぼくらはそうはせず、初めから彼女のいそうな場所に検討をつけて歩き回ることにした。だから余計に見つからない可能性は増えていった。残るのは当然検討すらつかない場所、人の部屋、スーパーの食料貯蔵庫、会社の極めて公的なスペースや人気のない緑道といった、特定の目的がなければ入ることが出来ない、内部の住居だけだった。午後から夕方に時刻が傾きかけてくると、ますますぼくらはそのような考えが、単なる閃きではないことを体で感じ取り始めていた。
「では、どうします。探偵であるあなたの審議はどれほどのものか、そろそろ聞きたいと思っていました。もうここにいないということは明白です。ただ目に触れる場所にいないからといって、その場所にそう簡単に入っていけるような仕組みにもなっていないことも同じほど明白でしょう」志津さやかの意見は今まで黙って仕事をしてきたことの裏付けとも言えた。
「結論から先に言いましょう。ぼくらはあのホテルに行くべきじゃないかなと思います。これ以上、表の部分だけを探してもぼくらは彼女を見つけることは出来ないでしょう。事実、警察でも、街の人たちの目でさえも、見つけられないまま、今に至っています。もっと遠い、別の街へ行った可能性ももしかしたら、という文脈で言えますが、その可能性はより低いです。もしそうであるとしたら白永谷さゆは登場しないはずです。二人が見つけられるはずの距離にいるのだということを暗に示唆しているのではないかとぼくは思うんです。だとしたら、これはぼくの落ち度かもしれないけど、最初から白永谷さゆに問いただすべきだった。でもそうはしなかった。たとえそうしても彼女が答えようとはしなかったでしょう。しかしこの質問に答えても、答えなくても、白永谷さゆが示すんです。それはどのみちそう遠い場所に皆口友紀はいない、会いに行けるだけの距離にいる。そうだと知っていたからこそ、ぼくらと二人を引き合わせるようなことをした」
「でもね。斧ノ目さん、それは嵌った私たちが言うのもどうかと思うけど、罠かもしれない。そしてそれは私たちをより根深いところに落として、二度と這い上がれない位置に立たせようとしているんじゃない」
「ええ。それは何よりも最初に考えました。実を言うとぼくらも二人に会う前に、白永谷さゆ、いや、その奥にいるであろう六旗尊の論理の渦に巻き込まれたんです。だからぼくらは全員もう戻れないところまで来ている。しかも、良いか良くないかは別にしてぼくらの打ち合わせたこの計画ですら、彼の思考の産物のようなものです」
「その思考通りにいけば、ホテルに行くべき、だとあなたは思うのですね」
「そうだ。それ以外に、現実的な選択肢は残されていないんだ。皆口友紀を探すことを諦めるということ以外の選択はもうそれしかないってことが知らされているようなものなんだ」
「わかりました。では、そこへ行くことにしましょう。ただ一つばかり懸念材料があります」
「たぶん、それもクリアされていると思うよ。ぼくらが行く頃には」
志津さやかは頷き、行くべき方角へ目線をつけた。足取りは既にホテルの方へと向いていた。ぼくらはその行動を裏付けるようにして、その道まで歩いた。表の通りはもちろん人がいた。しかし裏側に回ってみるとそこには誰もいなかった。向かいにあるお店はホテル同様閉ざされているか、あるいは取り壊されているか、まだ開いていないかのどれかだった。カラオケボックスが一つ開店表示されているが、二重のドアになっているせいか、気配はこちらまで感じ取れる程はなかった。それでもぼくらは慎重に、かつ自然を装いながらホテルの地下駐車場まで歩いて行った。ひとまず下から入っていけるかどうか試してみようとぼくは言った。
地下駐車場は五月の温かい日差しや空気を遮った形の空間だった。そして電気が通っていない以上、真っ暗闇だった。ぼくらはそれぞれ懐中電灯を取り出して、電源を入れた。光をかざしている間に、体は平温に戻っていった。汗は最初心地いいぐらいに引いていった。でもその直後に感じた汗の温度は地下駐車場を支えるコンクリートのように冷たくなっていた。
駐車スペースはエレベーターを境に、二手に分かれていた。運搬用トラックサイズの駐車スペースと軽自動車用の駐車スペースだ。当然どちらも空白を示しているはずだ。お互いの光線の行先を見ても、接触する物体は全て地下駐車場に準拠している。真っすぐ進むと予想通り、エレベーターに辿り着く。
「エレベーターは、うん、当たり前だけど使えないね」皆口ゆかがボタンを何度か押して確かめていた。
「では、従業員用の階段に行ってみましょう」志津さやかはホテルの分布をきっと諳んじることが出来るのだろう。ぼくと皆口ゆかは、彼女の後をついていきながら電灯の明かりを合わせて、先を把握しやすいものにする。
志津さやかが地下一階へ繋がる扉に触れ、重そうに引く。錠が閉じていないのは単にかけ忘れていたかどうか疑わしく思えてくる。というのは閉館、閉店した場所が今こうして不審に侵入を防ぐための扉を厳重に閉めておかない理由はない。閉める理由だらけなはずだ。防犯、盗難、あるいは放火や器物破損に、ぼくらのように不法に侵入する者たち。
もし開けたとしても、鍵穴は正しい形で、破壊された痕跡はない。上に行く途中でも、そんな犯罪に使用された形跡は微塵もない。閉館する前の最後の後片付けをしたときと同じような、整頓され、静かな空間が目の前にある。
地下一階は従業員用に作られた場所で、大きく分けて、四つあった。人事や経理等の処理を担当する事務所、従業員用のロッカールーム、シャワールームと仮眠用の個室のブース、そして休憩用の自販機とベンチ及び喫煙室が設けられていた。しかし今の状態では、どれがその場所に配置されているのか、よく目を凝らしてみないとわからない。
暗い空間では一つずつ見ていく必要があった。地図を参照にしながら、皆口友紀に繋がりそうなめぼしいものを探さなければならなかった。でも乾いたシャワールームを最後に見て、ここにはもう何もないことをぼくは悟った。
「上に行ってみよう」返事はいつもより小さく聞こえたが、しっかりと聞き取れた。光の射す方向は同じだった。
一階フロントフロアは広大なように感じた。だが、ぼくらはそれを三列に並んで距離を取り、一定のメートルを進むごとにお互いを照らし合い、異常がなければそのまま直進するという方法でこの広さの問題を解消した。一本の筋のような光が何度か重なり、また何度か外れる。その終わりに至ると、二階にあるレストランフロア及び厨房を見て回った。結果は同じだったが、最後にこのフロアにあるガス、水道、電気メーターの数値を写真に収めてから上に行くことにした。手がかりというより、一つの記録を目だけではなく、きちんと形にしておきたかった。エレベーターはもちろん使えないので、階段を使った。このホテルは七階建てだから、往復することを考えるとやや骨の折れる作業に思えた。
といってもホテルの部屋は基本的に錠がされていたから、入って調べることすら出来ずに次の階へ順番を回す作業が続いた。しかしいくつか空いていた部屋は存在した。それはおそらく担当従業員が閉めたつもりだが、実は錠がかかっていないという形のものだ。その部屋を見ていくときちんとベッドメイクが施され、備品は補充され、いつ営業が再開されても申し分ない状態を取っていた。誰も来ないとわかっている部屋の備えはただただ虚しいばかりで、実は、本当は最後に招く客はいたのではないかと推測出来る程、その部屋は完璧な形で保たれていた。ただそれでも、この中にも、彼女はいない。
人の匂いも、形も、気配も、影も、暗闇に飲み込まれたホテルの最後の部屋へ行けば、何もかもわかるはずだった。
その最後の七階に寄ると本来あってはならない部屋、つまりそれは八や九といった不吉さを示すルームナンバーの部屋にぼくらの探していた人がいた。無論一目で理解出来た。遺体という形を以て、ここにあった。
6.
皆口友紀の最後の呼吸がいつだったのかこの状態では調べようもなかった。腐敗はまだ進んでいないから死後数日以内だとわかるが、このような検知が求められる場面では、数値の正確さを厳密に理解出来ないのは痛かった。六旗朱莉刑事にコールした。すぐに彼女は出た。
「どうだ。そっちの様子は」
「見つかったよ。死後数日は経っている。でも正確なところはわからない」
「そうか。事前に決めていたように、関係者と一緒にそちらへ向かう。手配は私がしておく。君たちはその部屋にいてくれ。遺体と一緒にいるのはつらいだろうが、もうここまで来てしまったんだ」
「ええ。何とか気落ちしないように努めてみます」
「出来るだけ早く着くようにする。こちらも問題は生じているが、想定範囲内の問題だ。君がいないのは少々心細いが、あの三人の内二人は探偵のパートナーと秘書だろう」
「そして星野環もいる」
「そうだ。そっちに着いたらすぐに連絡する。それとあのログの事は伏せておいてくれ」
「やはり捜査資料になることを見越していたんですね」
「ああ。どのみち露見しないことは有り得ない。しかし上手くいけば、真実に近づく方法にもなり得る」
「我慢の時ですか」返事の後、六旗朱莉刑事は電話を切った。それから二十五分後に、警察医療関係者が『709』の部屋のドアをノックした。
この一室のみ、カーテンが開けられると日差しが空間を満たすように、飽和した。皆口友紀はその実験の結果だと言わんばかりに皆目を向け、背けを繰り返していた。
皆口ゆかは泣いていた。号泣ではなく、力を抜き取られた最後に涙を流す泣き方で。志津さやかは俯き、皆口ゆかの肩を支えていた。
皆口友紀はおよそ人形のように、手首、足首、頭部の首、そして脊髄、腰といった中枢部にそれぞれ白、赤、黄の糸がアトランダムに取り付けられていた。ただこれが何を示唆しているか、今はわからない。つまりこの糸についていたわずかな痕跡では具体的な犯人像はおろか、どのような意図でこの犯罪が企画されたかすらも、思い浮かべても、それすらほんの空想に過ぎないということなのだ。
だから遺体が運ばれ、検証も済んだ後にこの部屋に残るのは人を象ったマーク、捜査資料の際に摘み取られた部屋のごく一部と、カーテンを閉めるときに垣間見えたこの部屋の光の記憶だった。それからこの一室の扉前には立ち入り禁止のテープが貼られた。
ぼくたちは学園に戻ることにした。六旗朱莉刑事は警察署に戻ると言った。
7.
学園までの移動の電車の中でぼくは束の間の眠りに落ちた。一つ手前の駅で志津さやかに起こされ、ただ降りることを考えた。それから目覚める前のことが瞬時に思い出される。ぼくらは皆口友紀を連れて帰ることは出来なかった。するのはこの知らせだけだ。報告はこうした事実に即す一言、二言で足りるだろう。
通学路を通って行くと、ちょうど陽の色が変わり、時刻も一つ回っていった。薄く青っぽい大気の中をくぐって学園内に入り、そのまま真っすぐ星野環たちがいる第二資料室へ向かう。学園内は休日ということもあり、必要のない場所の電気は通っていなかった。自動式の光が点滅する中、階段を上がり、角を曲がるとまず見えたのは第二資料室から覗く明かりだった。そのドアを開けて、温和な暖色の光から、ぼくらが見たのはまず何よりも彼女の姿だった。
白永谷さゆはその柔らかい室内光の中に誰よりも馴染んでいた。静かに電話を受け、指示に頷き、ぼくらの姿を認めると、ぼくを向かいに座るよう目で促した。星野環は変わるようにして立ち上がった。ラジオの収録電源はオフにされていた。
「どうだった。お化け屋敷は」
「恐くはなかったよ。やはり君たちが関わっていたのか」
「ある程度まではね」
「ある程度までは」
「そう。ある程度までは。というのは、ちょっと厄介になってしまったことがあってね」
「厄介なこと、って言っても、また誰かを巻き込むんだろう」
「その通り。ただ今までとは違う。今までは六旗尊の言う論理の渦が上手くいっていた。でも何事も流暢に進まないことがある。それが今回の事件だった」
「本当は皆口友紀が死ぬはずじゃなかったってことか」
「流石。そう。あなたの今言った通り、皆口友紀はそこで死ぬはずじゃあなかった。私みたいに舞台上の死を演じるのが彼女の与えられた役割だった。だからあなたたちが皆口友紀を見つけに行くことはわかっていたことだし、それが上手くいくことだって、彼の台本通りだった」
「しかし演技を変えた人物がいた」
「生憎なことにね」
「その人物は、台本だと皆口友紀を殺す犯人となっていた」
「でも気が変わったのか、何か目的があるのか、本当に手をかけてしまった」
「その責任を果たそうとぼくらに犯人を見つけろって言うのか」
「そのつもりはない。ただね、その人は厄介なの。こうして私たちを裏切ってしまったわけだし、裏切ったということはこれから何をしでかすかわからない。あなたたちもそんな訳のわからない相手がこの街にいるとすれば、私の話を聞かざるを得ないんじゃない」
「確かにその人物は危険だよ。それ以上に危険なのは君たちだけど。でもそいつは誰だ。そしてぼくらにどうすることが君たちにとっての最適だと言うんだ」白永谷さゆは微笑み、タブレットにある数枚のフォトを提示した。行方不明になった姉を探してくださいとでも言わんばかりに、その目にはやや困惑と不安が見えた。そしてその目の色が言うまでもなく、一種の演出めいたものに映っても、その返答を受け止める必要が今のぼくらにはあった。
「名前は、三音ツバサ」そして説明を付け加える。
「彼女は今度、この学園に入学する。つまり君たちと同級生ってことになる」
「そんなの学園はおろか、警察だって放ってはおかないだろう」
「もし彼女の犯行が立証されなかったら」
「現場からは証拠らしきものは見つからなかった。手がかりでさえも。現実さを取れば、立証可能なものもなく、犯人として立てることは困難だ。でもそちらの計画を記した資料が、警察に渡れば可 能性が出てくる。しかしそれ自体に信ぴょう性が認められなければ、無意味だ」
「でも考えようによっては安心出来るかもしれない。あなたや他の人間の監視が厳しい学園内部で事を起こすのはあのホテルで成し遂げるよりも、リスクが高い。流石にホテルで犯罪に関わった以上、またすぐに手をかけると思う」
「ありえる話だ。本当に、気まぐれで行動するタイプなら、どう足掻いても誰かに触れるだろう。しかしそうじゃない部分もあるんじゃないか。今まで六旗尊の下で動いていたのだから」
「まあ私みたいな人格だったら、そこまでじゃないかもしれない。けど、彼女はもう違う人格になっているかもしれない。しかし仮に衝動でやっていないのだとしたら、困るでしょう」
「お互いに。だからここは手を組む、組まないにしても次のフェーズに進行しようじゃないか、そう言いたいってこと」
「正しく」そう言って、白永谷さゆはタブレットを仕舞う。席を立ち、それぞれを一瞥してから第二資料室から出て行く。影に溶け込むように、ここからいなくなる。
8.
その後、数日の間、地元のテレビや新聞は皆口友紀の事件を大きく取り扱うことが予想されたが、実際はそうではなかった。ごく小さなニュースとしてこの事件は報道され、その数日を以てこの話題は口にされなくなった。
学園では、緊急に全校集会が開かれた。橘学園長が登壇し、教頭、担任、クラスメイトが登壇し、皆口友紀への別れの言葉を告げた。姉である皆口ゆかも全校生徒の前で、妹に対する思いや別れを口にした。最後に皆で黙祷を告げ、それが終わると通常の授業に戻っていった。
現代文Ⅱ、英語、生物学Ⅱ、数学、日本史、美術。
六時限目が終わるとぼくらもまた学園祭の準備に取り掛かる。廊下には既にポスターや、装飾が壁に彩られている。美術部や華道部の手により、春と夏の入り混じった景色が散りばめられ、中には花をモチーフにした香水を飾りに振りかけることで、その雰囲気を一足先に作り上げている。
演劇部の部室から微かにそのような匂いがしていた。花の蜜を象った匂いではなく、人工的に作り上げた花びら、一輪、一輪に塗りこまれた人を誘う匂い。
それが彼女のものだと一目でわかった。見慣れない顔と格好だから、というのももちろんある。背が高く、細い割には弱々しさを感じない。髪型は短めで片側だけを編み込み、制服はシャツ上にメンズ用のセーターを着て、下のスカートはその足の長さからは指定よりも短く見える。紺色のローファーが彼女をより大人びた印象にしている。こうして全体で見ると彼女から、アンバランスな、いや、アシンメトリな感想を抱く。
ぼくは彼女と目が合った時に、上から下まで見た際に、よくわからない理由で目を背けてしまいそうになった。でも彼女は微笑み、ぼくに握手を求めてきた。
「よろしくね。斧ノ目杏さん。私は、三音ツバサっていうから。こっちはかえるちゃんだっけ。君もよろしく」そうして矢継ぎ早に、かえるちゃんにも手を差し伸べ、本田陽加部長から台本を直に受け取る。そして笑顔でぼくらにも話しかけ、この配役を得るに至った経緯を簡潔に説明しれくれる。この上なく、親切に、丁寧に、気取ったところを露一つ見せずに。
「長らく、偽りの魔女の役は決まっていなかった。でもたった今私に決まった。陽加部長が言うには、そして私が思うには、この役にはとてつもなく優しい女の子じゃないと演じきることが出来ない。私がもしとてつもなく優しくないとしても、それを証明するのは大変難しい。それぐらい私は優しくて、懇切で丁寧だ。私が優しくないところがもし斧ノ目さん、あなたから見てそうした面が発見出来たとしても、それはとてもとても難しい証明問題のように、最適な解を世間に、学園に向けて問いて見せるのは酷く骨が折れることでしょう。チョークがいくらあっても足りないし、言葉をいくら用意してみせても、その裏の裏の裏のさらに連続した裏まで、つまりは真実を見通せたとしても、その目を欺く脳の瞬間を私は見つけてみせるでしょう」まるで三音ツバサはぼくと二人きりでいるときみたいな親密さ喋り方で話しかけてくる。もちろんここには他にも演劇部の部員数人と、本田陽加部長、かえるちゃんとぼく、そして三音ツバサがいる。事件の概要を知らない人間にとっては、その言葉の連続は、一種の記号にしか聞こえないし、もしその記号の真の意味を読み取れたとしても、正しく、彼女の言う通り、三音ツバサはぼくの目を欺く脳の瞬間を見つけとって見せたことになる。
とてもとても。それはとても優しい声と笑顔で、自ら立てた説を一つ証明してみせたのだ。いとも容易く、ものの五分足らずで。
ただ三音ツバサが正式に偽りの魔女に決定したことにより、舞台花園クロニクルの配役はほぼ固まった。後は演技、衣装、舞台の調度を整え、その三つが仕上がるようにするだけだった。上手くいけばいい。それは誰もがそう思うだろう。しかしそのポイントは、本番における完成度、リハーサルにおける充実度なんかよりずっと前の時点で、決まっているものだと本田陽加部長は言った。肝心なのは、そのポイントはいくら言葉で尽くしても、尽くし足りない程、準備が進んでしまったあとに理解出来るものだと言う。
衣装の工程は、台本同様、服のデザインを細部から解釈するところから始めている。去年の衣装をリファインした後は、今年流行している生地素材を元に洋服のデッサンを書き直す。もちろん予算と時間は限られているのだから、足りない部分は古着や、製作者の私服などを使ってもよいことになっている。適当に手を抜くと、デザインに粗が出来上がり、本番と舞台装置の仕上がりについていくことが出来なくなってしまう。その逆も数年に一度は起こるようだ。しかしだからこそ、完成度の高い演劇が披露されると、それだけ多くの観客、これまたそれは学生と教職員、保護者一同だが、そこで大きな信用を勝ち得るものだ。
配役が決定し、まずぼくらがやったことは、体の寸法を隅から隅まで測ってもらうことだった。教室から保健室へ移動した。そこで身長体重はもちろん、頭、肩幅、袖丈、体幅、胸、着丈、膝の長さに足のサイズ、髪の毛の長さや、目の形。極めつけと言っていいのは、掌にある皺の一つ一つまでじろじろと見られて、カメラに撮られたことだろう。文字通りぼくの体のありとあらゆる情報をチェックシートにしるしをつけていった。この上なく恥ずかしいことに思えてきたが、実際は全く逆で、ある種の清々しさすら感じてきた。
かえるちゃんも三音ツバサも同じこと考えていたのだろうか。かえるちゃんは慣れているのか、カメラを前にしても、自然にポーズを取るように、手を広げたり、姿勢を正したりしていた。三音ツバサはにこにこと微笑みを見せながら、次々に来るデザイン班の指示に応えていた。
他の生徒のサイジングも何か図鑑を観察しているような感覚に思えてきた。細かな習性の違いを見つけようとしているかのような、そんな調査の仕方によく似ていたのだ。
寸法作業が終わると、今度は保健室から特別教室へと移動した。そこはテレビ局の楽屋のように、全身の映る鏡張りがセットされ、メイクアップに必要な道具が揃えられた部屋だった。演劇部の部員たちがルームカーテンを開け、中から取り出した衣装を着るように言った。
「うん、これはね、去年使用されたものなんだ。一応、そう、一応みんなに合わせてもらうって、そこから色々と今年のデザインに見合った形に仕上げていくものだからさ」
ビニールで丁寧に包まれたフィルムを剥がしてその衣装を着てみる。勧められるまま、道具も合わせてつけてみるとぼくは確かに、この物語に出てくる時の王子であってもおかしくはないと思えた。普段着る制服や洋服とは違う、いや、異なるのに、そこにいるのは数値がものすごくぼくに近いぼくだった。人は変わっていない、でも奇妙なことに、美しいことに、そこにいるのは恋に惑わされ、その恋によって命運が変わってしまう彼女そのものだった。ずっと前からぼくは時の王子がそんな人だってことは知っていた。でもこれは知らなかった。知るはずもない、ただ一つの感情だった。
恋だ。
恋にとても似ていた。いや、これは恋だ。正真正銘の恋だ。ぼくの感情は、自分自身に恋をしていた。そしてかえるちゃんの血園姫の姿を、三音ツバサの偽りの魔女の姿を見て、同じように、ぼくは彼女たちに恋をするように接する眼になってしまっていた。
これは一つの極めつけに見えてもいいはずの感情だ。
同時に、これはかなりの部分が人工的に思えた。人形のような殻型の眼には必ずといっていいほど、誰かの意匠が施された形で映っている。ドレスを着替える度に、鏡に映る時の王子の姿は花園クロニクルに相応しく、彷徨いの果てに行き着いた人の姿だ。土草を愛でる色。風を遮り、雨を凌ぐための衣装。宝具は別れの形見であるがゆえに、その形はところどころ歪ながら、使い込まれた痕跡を残していた。隣にいるかえるちゃんの衣装は他人の手によって運命をもたらされるという境遇と迷いと清廉さが垣間見えていた。素材は服の形を損なわない硬いものよりも、肌に吸い付くような軽やかなものが。ドレスの色は派手さや重さよりもペールトーンで彩られ、挟まれる程度の赤やワインといったカラーリング。アクセサリー類にもその設定が生かされており、比較的控えめなデザインのピアスやブレスレットが中心的だった。
ドレスのサイジングが全て終わった後、ぼくとかえるちゃんは真っすぐ家に帰ろうとした。玄関まで行ったところで誰かに呼び止められた。振り返り、それが三音ツバサだということに気付く。
「何か用があるのかな」
「もちろんあるに決まっていますよ、斧ノ目さん。それは花園クロニクルに関してのとても大切な情報なんだ。二人とも、無視はしてくれないと考えていますよ、きっと」
「花園クロニクルについて、あなたは何をどう知っているの」
「たぶん君たち二人は全く知らないでしょう。だから私が教えましょう。これからのためにね。場所は花園歴史館。花園クロニクルの歴史の諸元をこれから見に行きましょう」
「それには興味があるよ。三音ツバサ。君がそこに案内してくれるってことだ」
「そうとも。そんなに移動時間はかからない。花園の市民ならば、誰であれ、無料で入場出来、資料閲覧にも大した手続きなど要りません。しかし問題は、あと二時間ほどで歴史館が閉まってしまうということですね」
「でも話をするには充分な時間がある」
「当然、ここまでは所要時間の範囲内でお話していますよ。資料閲覧は一時間程度もあれば二周も見て回ることが出来ますからね」
「わかった。行くことにするよ」かえるちゃんもいいよと言った。ぼくら二人は、三音ツバサの足取りを辿るようにして、彼女についていった。
9.
三音ツバサが案内したのは花園歴史館にある個室で区切られた資料室だった。それまで見てきたパネルやそれに基づいて作られた解説文、映像資料のモニターすらもないただの白い壁で区切られた一室。机も、椅子もなく、資料用の書物もない場所だ。唯一特徴的と言えるのは、カーペットぐらいだ。出力装置によって床は万華鏡のように様々な花柄を描いては消え、描いては消える。
「特別にライトアップしてもらっているんですよ。目に優しい光度に調節し、長時間における電力消費も抑えてあるぐらいです。つまり環境には随分と、建設的に対応してもらっています」
「いい場所かもしれない。で、君から何を話してもらえるのかな」
「時間内にきっちりご説明しましょう。まず花園クロニクルは知っての通り、舞台の台本です。ではその舞台の台本を書いたのはいったい誰なのか」
「上峰太郎だ」
「そう。上峰太郎がこの物語を最初に書いた。しかしこの物語は一説によると魔術書としての意味合いもあると言われている」
「運命の魔術書」
「学園内ではまことしやかにそう言われる。つまりそれはどういうことかと言うとね、人の歴史の構造自体を変えてしまうというわけなのです。歴史にはよく食い違いが見つかる。複数の歴史資料が見つかると多かれ少なかれ、複数の分岐が見つかりますよね。資料間での整合性が取れているかはともかく、一体どのポイントをきっかけに全く別の分岐が生まれるのでしょう」
「もし仮に、記述内容にどちらにも一定以上の信ぴょう性が認められている場合において」
「そうです。もし仮に元となる資料が似たり寄ったりにも関わらず、歴史資料の分岐が生まれていた場合、そのポイントというのは無視できないものです。そこで私も考えました。歴史には複数の成立資料がある。しかしその幾つかの中に、とある理由があって、公には出来ない資料がある。そしてその本来の一説を隠すために、別の形のものを被せる。花園クロニクルは謂わばおとぎ話です。しかしもし花園クロニクルの成立の一説が寓話や物語特有の幻想性といったものの中に、そのポイントが隠されているとしたら、どう思いますか」
「それもありえるかもしれない。六旗尊がその大元で、白永谷さゆや三音ツバサ、君たちを使って、その一端を担わせている」
「それも悪くはないよ。いい線はいっている。でもね、事態はそう単純でもない。花園クロニクルはある意味では歴史の一部分を演劇という形に変えて、寓意として何か伝えようとしているのかもしれない。直接は言えないから、物語という形を通して、歴史を提出する方法を取るわけです」
「そしてそれを行ったのは、原作者ではない」
「そう。上峰太郎ではありませんね」
「だから今日、成立前後の情報を私たちに見せることが、その真相に近づける。つまりあなたも、物語の核心にまでは迫っていない」
「核心にまでは迫っていないんですよ、困ったことにね。だから最序盤から話を始めましょう。旧花園市にあった郷土資料館である一つの資料が見つかりました。上峰太郎は家族との戦中疎開先について大まかに語っています。なんでも上峰太郎とその家族は旧花園市に当たる村の小学校付近に住んでおり、彼自身は目の病気を理由に戦争には参加出来なかったそうだ。しかし学生経験をしていたことから、下級生たちの教育を彼は担当していた。太郎は終戦後、父親が始めた化粧品会社を手伝う傍ら、自身の趣味で買い漁っていたという外国の推理小説を読みふけっていたそうです。彼が青年の頃もその小説は存在していたようですが、戦争中に大半を処分しています。また仕事の息抜きとして、推理小説を読んでいくうちに上峰太郎は作家を志し始めだしたのもこの頃だと記述があります。それからというもの懸賞小説誌にたびたび応募していた。この花園クロニクルの原型となった話は、当時駆け落ちした従姉と名も忘れた男のいきさつを、周囲からの証言を元に、描かれたという。花園クロニクルが単なる恋愛話ではないのは知っているでしょう」
「ああ。台本は全部読んでいるよ」
「でもいま私たちが知っているのは、演劇部の部長である本田陽加さんが書き直しているものだから、最初の話とはもしかしたら違うかもしれない」
「が、根幹は変わらないでしょう。ストーリーは元より、主要キャストである時の王子、血園姫、偽りの魔女の役割分担、舞台美術、音楽、衣装は全くその頃と同じ。全てにおいて作り直すことはあっても、その基本形は常に定まっている。話の解釈として、これは社会の本流では生きていけない人間が、その平行線から本線に戻って生きていかざるを得ないことを描いた物語だそうだ」
「なるほど。上峰太郎は自分が読んでいた推理小説や間近で見聞きした出来事、彼自身が長年に渡って書き溜めたアイディアノートを組み合わせて、この花園クロニクルを書き上げた。しかしどこかで歴史は変更された」
「それがいつかはわからない。この学園の演劇台本として使われた時代のいつか。今の私たちが読めば、確かに、そう、よく出来たおとぎ話のように聞こえてきます。事実この台本になってからもう何年も使われてきているのだから、実際フィクションとしての扱いが長いでしょう。事実を元にした小説としての歴史よりも、長い」
「ならば、尚更、この花園クロニクルがどうして運命の魔術書だなんていう都市伝説めいた話が出てくるのだろうか、ということだろう」
「そしてそうした噂を流したのは誰でしょう、ということですよ。正しく、私たちが話すべき課題は」
「加えて考えてもみるけど、これに六旗尊がどのような形で関わっているのかって思うの」
「そしてそれがわからない。私はやっぱりね、知りたいんだ。それを。それらの起源を。けど、彼は全く以て教えるつもりはないようで、それはとてもとても困るんだ。私としても。なぜなら上峰太郎は、私の祖父だから。祖父の残した歴史を、かなりつまらない理由で、書き換えたっていうのはかなりのところで許し難いことなんだ。六旗尊がどうして論理の渦なんか作り上げようとしているのかはわかる。だから彼の考えに賛同したんだ。この計画が上手くいくというのもわかる。だって彼が何かしようとするとそれは必ず上手くいくわけだからね。人をタイプ分けするって考えはあまり関心しないけど、とにかく六旗尊はそういうタイプだ。もし彼が私なら、もっと上手くやる。君たちを極めて論理的に説得して、いや、巻き込んで自分の計画の手駒みたく、自分は前に進まず、君たちを前に進めさせる。じゃあ、それはどこまで進めば、ゴールなのか。チェックメイトなのか。それを君たちは知る必要がある。二人にこの話を聞かせたのは六旗尊にとっては計画の下準備に過ぎないということを知らせたかったから。次はより危険な方法を取らざるを得ないから、私はフェアに、君たちと関わりあいたいと願う。こんな他人のことを、すごく歪な形で考えるなんて初めてだよ。話はこれで終わりだ。もうここの明かりを消すよ。閉館時間だってほら近づいている」そう言って、三音ツバサは部屋から出て行った。ぼくとかえるちゃんが追いかけた時には既にここに三音ツバサはいなかった。ぼくらは家に帰ることにした。もうここは暗いし、考えるにはおよそ向いていない場所だから、帰ろうよ。そう言うと、かえるちゃんは小さく頷き、ぼくの隣に揃って歩幅を合わせるように姿勢を正した。
10.
家に帰ってくるとまずアキが拗ねた態度を取り、共に夕食を取ることを渋った。リビングのソファに体育座りし、その体を毛布で巻いて、両親の帰りを待っている子供みたいな態度。
こちらが聞くまでもなく、ぼくらの帰りが遅かったこと、そしてそこに自分がいなかったことに納得出来る理由をぼくらが言えないことが気に食わないって顔をしていた。空腹なのはお互い様だが、ぼくらの面持ちとアキのテンションが同じなわけはない。
「ごめんね。今日は時間がないから、これで我慢してね」予定では魚介ダシを使ったパエリアでも作ろうかと話していた。しかし現実を見れば、ぼくらが口にしたのはレトルト食品のカレーライス。食事の時間はいつも賑わっていたが、今日は食器と手を動かす音しかしない。アキは空腹のせいで余計に気が立っていたのかもしれない。それは彼女がいらっとしたとき特有の足を揺らす行動が見受けられたから。
ただその問題が解消されると、つまるところ、空腹が補われるとアキは三音ツバサへの諸対応をどうするか率先して話し始めた。目の前には、かえるちゃんが作っておいたプリンが空になっておかれている。資料も何もなしで話し出したのだから、一応、念のためにとぼくらは本田陽加部長から預かっている花園クロニクルの台本をテーブルの上に置く。
「つまりね、三音ツバサはこの花園クロニクルの台本を手に入れたいってわけ。何が狙いなのかはさっぱりだけど、とにかく主導権を握るためには学園の中枢に、自分をねじ込むことが重要だって考えていってこと。だって私たちだってそうしようとしたから」
「確かに彼女の目的はただ単に歴史を正しい方向に戻したいだけじゃないと思うんだ。そのためには六旗尊の計画がもう少し進む必要があるし、今の段階においてぼくらに出来ることと言えば、まず学園祭を成功させる。次に、六旗尊の計画が進むに当たってぼくらはしたたかにでも構わないから、彼の計画範囲内で生き延びる必要があるってことだ。物騒だけどね、三音ツバサは危険を示唆したんだ。実際に皆口友紀が死んだ。次に誰も狙われないとは限らないわけだし、備えはしておいた方がいいと思うんだ」
「でも杏。この家には武器と呼べるものなんて一つもないよ。危険は冒すけど、法律違反をしないって」
「ちょっとその辺りは考え直してみるよ」
「もしかして、ルール違反するの」
「そういうわけじゃない。ぼくがやりたいのはポリシーのすげ替えじゃない。ポリシー通りに、探偵らしく推理でこの状況を切り開いてみせるつもりだよ。武器はそれだけで構わない。危険を冒すのに、何もルール違反する必要すら感じない」
「なら、いいけど。でもかえるちゃんはどうするの」
「うーん、私も考えてみる。きっといい案が出ると思うし」
「じゃあ、私はうーん、上峰太郎について調べ直してみる。何か手がかりが見つかるかもしれない」そう言って立ち上がった。パソコンの前に座り、電源を入れる。ぼくらも台本に眼を通しながら、アキの頭の中を通すようにして、上峰太郎に続くキーワードを探そうとする。だが、情報は見当たらない。少なくとも、こちらが求めているに値する資料はヒットしない。そこで出た一つの検索結果はデジタル上にこちらが欲している情報は存在しないってことだ。いや、正確には存在しているのかもしれない。しかし見つからない。
たとえ何らかの力が働いて秘匿されているのだとすれば、尚更ここに真相に近づくための道が用意されているということだ。もし本当になかったとしても、それはそれで次に進み易くはなる。それとも。あるいはこうだ。検索に値するキーワードはデジタル上には存在しない。しかしアナログ上、つまるところ誰かの頭の中には完璧とっていい形で存在する。そうであるが故に、ここにはない。見つからない。そもそもウェブ上に形を置くこと自体有り得ない行為かもしれない。というのも、六旗尊の論理の渦という計画自体およそアナログ的な手法で進められているからだ。ならば、全てをデジタル上、仮想空間上、コンピューターの中で事を進めようなんて話をそもそも順位の上に置く事自体間違っているだろう。もし今想像した通りに、手順が存在するなら、ぼくらは着実に前に進んでいる。
六旗尊の期待通りか、外れかはさておいて、今はただこの物語の中に身をゆだねている振りをする。ひとまずそれで様子を探る他ないだろう。事態が進展を見せるまでは。