3章
3章
1.
こうして四人が食卓に揃うことに珍しさを感じなくなってきた。一つの習慣的風景と言えばいい。手馴れた形。食事を取った後、ぼくらは事件解決の報告を六旗朱莉刑事に話すが、たとえそれを述べたとして、六旗尊の居場所を突き止めるに値する手がかりにはならないことを再確認するに過ぎなかった。だからここでいう戦略会議というものは戦果を挙げるためのものではなく、手持ちの戦力やこれまでの戦績を確認すること以上の意味を持たない。今後起きる可能性のある事件への役割分担、事件の中心的舞台となるであろう学園自体の調査、今までの事件をおさらいし、そこから一定の法則性を見つけること。
幾度も確認したことを嫌というほど頭に叩きこむ、それが目的としか言い様がないのだ。
もし白永谷さゆや協力者なる人物が巧みに、周到に配置されているなら、その人間もやはり学園の関係者といっても間違いないだろう。白永谷さゆを警察署で引き取った人物。学園内の教職員の誰かであることはおよそ察しがつくことであっても、それが秘密にされている以上、白永谷さゆがどう関わっているにせよ、六旗尊に次ぐポジションの人間だってことは理解出来る。ということは最低でも二人は白永谷さゆを退けても、その奥に、辿り着けはしない。つまりまだほんの序章に過ぎないのだ。この物語の中においては。
「白永谷さゆからも、そしてもちろん六旗尊からも重要と呼べるほどの手がかりは見つかっていない。昨日署内にある共有データベースに手を付けたが、ロックがかかっていた。その前までは調べられていた。でももう私には調べられない。しかし学園内データベースの扱いまで範囲が及ぶかどうかはわからない。そこからアプローチすることは出来るかもしれないんだ。誰か、この際、秘密を守れる人間であれば、誰でもいいと思う。君たちに協力してくれそうな人はいないだろうか」
「ぼくには思いつかないな」アキもぼくに同意見だと頷く。
「六旗刑事は、出来るだけ、いや、警察内で出来ることはもうないと考えているということですか。警察を通すのはもう難しいと」かえるちゃんがそう訪ねると、六旗朱莉刑事はその通りだよと返した。
「私が個人的に行動しうる範囲があるとしたら、それはもうとっくに越えてしまっているんだ。こうしてここに来ることだって上層部からすれば、実はお見通しなのかもしれない。プライベートとは言え、非番の刑事が探偵事務所に出入りするのはやはり好ましくはないだろう。しかし私だって何も無計画でここに来たわけじゃない。実はね、ちょっと会ってみてほしい生徒がいるんだ」
鞄から小型のタブレットと、学園のパンフレットを取り出す。数枚のショット写真と学園紹介のパンフレットにはぼくらと同じ制服の女の子が一人、大々的にと言っていい形で写されている。
星野環。二年生、誕生日は十月十六日。パンフレットには、学園ポータルサイトとアプリケーションソフト『T.о.y』の開発設計者であると紹介されている。紹介文を要約すると、星野環は前年四月、入学早々の時期に生徒会理事へ立候補し、入会を果たしたあと、既存の学園ポータルサイトのアップデートそしてそのサイトへシームレスに移行可能なウェブサイト及びアプリケーションソフト『T.о.y』の予算計画書を提出し、生徒会での賛成意見を多数集め、計画を実行に移した。
学園内部の活動をより発展的に展開させ、学生生活の充実化を達成させる、という目的の元、このソフトは開発された。といってもただお堅い教育ソフトということはなく、学年とクラス外生徒同士の緩やかな交流や休日あるいは放課後に行われる小規模なイベント開催のためのセッティングソフトとしての側面が特徴的だった。学園ポータルサイトが授業選択といった教育プログラム中心に組まれているのに対して、こちらは生徒の目的や行動が一致する者同士を学園側が教室や視聴覚室、資料の提供を行ったり、スポーツイベントや街にある史料館等への簡易見学ツアーを企画したりする、やや緩やかな目的に適ったことが中心となっている。
「たとえ部活やサークルに所属していなくても、セッティングする機会を生み出せればいいと考えていた。そしてこれは遊びとしてのソフトだけではなく、きちんと進学や就職にも役立てるような、興味深いソフトに仕上げることが出来た。そのおかげで、姉妹校からもぜひこちらでも適応したいという意見を受けたことは設計した甲斐があったと思う」と星野環は述べている。
写真には彼女が橘学園長から表彰を受けているものと、六旗尊からも同じく賞状を授けられているものがそれぞれ一枚ずつあった。
「写真を整理したらこれが出てきたの。それで調べたら、この女の子と尊さんが握手を交わしていた。確かその時発表されたレポートのテーマは『社会における秩序を構成しうるコミュニティの有用性と発展』といったものを彼女は書いていた。割といいものでね、単に教科書を読んだだけじゃ、書けないものだ」
「しかしそのレポートがどうであれ、一連の事件に彼女がどう関わってくるんだ。まさかただ単に六旗尊が見知っているからという理由で会った方がいいって言うんじゃないだろう」
「いや、そんな単純な理由じゃない。そんなつまらない理由じゃないさ。まあこれは説明しなくちゃいけないな。ごく単純に言って、君たちと立場が明確に違うってことが重要だ。君たちは二つの事件を連続して解決してみせた。しかし今後もそれが上手くいくとは限らない。しかも白永谷さゆと学園に密接な関係がある以上、学園の中枢にいずれは近づく必要がある。となると、君たちは学園の生徒ではあるけれど、中枢の領域にいるわけじゃない。あくまで生徒として収められているだけだ。そして彼らの中心に辿り着くことは今の方法だと時間が掛かりすぎるし、生徒会などに入らない限りは通常ほとんど不可能なことだ」
「そこでその付近に足を踏み入れている人物と同じ位置にいてみたらいかがかなって、ところですか」
「そういうことだ。しかしいずれにせよ、白永谷さゆの方から何か仕向けてくるか、あるいはこういったルートを自分たちで提案するかの選択しかないってわけだ」
「うーん、それならちょっと提案があるんだけど」と珍しくアキから言葉が出た。それを聞いたぼくたちはまぁそれなら、ごく自然に会話をするきっかけになるだろうと彼女の『T.о.y』内にある専用フォームへメールを送ることにした。彼女の性格からして断ることは考えづらいだろう。事実彼女はこの誘いを快く引き受けてくれた。日時は四月のある晴れた空の夕方で、ほとんどの雪があらかた溶けきってしまった風景を背にシナリオは始まっていく。
2.
預かった台本を手に、視聴覚室へと向かった。演劇部には専用の教室がない代わりに視聴覚室や音楽室、美術室といった特別教室の使用許可が容易に取れるとのことだった。演劇部では毎年この時期、学園祭準備の初期に、この視聴覚室に花園クロニクルのキャストを集める。渡されたばかりの台本読みや昨年度の舞台の映像を見ることから学園祭の準備が始まると聞いた。
基本的にはキャストや部の関係者以外に見学させることはないそうだ。しかし校内新聞や学園のウェブサイト用の資料作成が目的であればその限りではない。リハーサルですら、見るものは少ない。そうすることが学園祭への期待を高め、お祭りを充分楽しむためのスパイスだと本田陽加部長は話した。
だからここにいる人のほとんどは既に顔見知りしかいないわけだ。演劇部部員とぼくら三人、カメラを首に下げた新聞部員が一人。みんなが集まったと見て、部長が指揮を取ろうとすると沈黙を割って一人の生徒が入ってくる。空気が静まり返った後の、もう一段階静まった感覚。星野環が視聴覚室に入ってきたときに聞こえた音はそんな音だった。すぐに彼女が誰であるか言わなくてもぼくにもわかっていた。
無造作に捲くっているように見える制服の袖は、同じ長さと角度で畳んである。黒のタイツで足首までの長さが強調され、黒のローファーでその境界線はぼやけているように思える。
上に視線を移すと腰までの長髪と熟した桃のような肌の色が特徴的で、彼女のやや生真面目そうな顔にフレームの広い眼鏡が似合っていた。しかし星野環ははっきりと通った声と時折砕けた口調がそのイメージを和らげ、バランスを取っているようにも見えた。
「ここで撮影してもいいかな。ちょっとした資料映像が欲しいんだ」
「構わないよ」了解を取ると彼女は奥にあった机と椅子の上に、タブレットPCと筆記具とメモ用紙、袋にあったブルーのデジカメを取り出し、専用の三脚台を設置したあと、PCのカメラも使って撮影を行った。といっても撮影することなどあるのだろうとかと思うほど、まだ何も始まっていないし、イベントが行われるような盛り上がりも感じない。ただみんなそれぞれ練習の時間を待っていただけだ。
しかし彼女にとってはそうではなく、聞けば、今夜「T.о.y」内にある番組でラジオ放送するための資料を求めていた。星野環がパーソナリティを努めるプログラムが今夜から放送予定で、その放送に学園の生徒をゲストとして招くつもりだと言う。学園祭の盛り上がりを担う一イベントをラジオ以外にも「T.о.y」を使ったミニイベントを単発ながらも開くとのことだ。
その最初のゲストとして星野環はぼくたちをゲストに選んだ。やはり学園祭演劇は学園にとっても、彼女にとっても、眼目事項の一つとして見られている。そのキャストを最初に招くことが次の期待、盛り上がりの波を生み出すきっかけと考えてのことだろう。そしてぼくらにとってもこれは当初から望んでいた流れだ。断る理由はない。問題は彼女がこちらの話をどの程度まで飲み込むか、その手はずをどう整えるか、それが不確定だった。
そしてこれは眼前の課題としてあるけど、ぼくらはいったい何のために推理を行っていくかを検証するいい機会でもあった。まず今のところ、六旗尊引いては白永谷さゆの持ち込んだ論理を実証するべく動いている。もしその実証性が証明されたのなら、ぼくらの中にある、あるいは彼らの中にある、不必要な要素が抽出されていき、最適化され、ごく単純な理論を用いただけで、渦を生み出すことが出来る。論理の渦が人を束ね、かき混ぜる。ノイズ、ノイズ、ノイズ。
しかも厄介なことにその竜巻は知らず知らずのうちにぼくらが生み出すそれと変わりなくなってくる。事故や事件、傷害や口論の発祥の多くを人が作っている以上、人の作った人工物で囲まれている以上、人が人を傷つけている現実。だから雑音をいかに取り除いたとしても、人の思想設計に触れない日は存在しないし、それをぼくらは常に選んでいるようで、選び取れていない。選ばされているような感覚がいずれにせよ残る。しかし一定の力学はある。だからぼくらが巻き込まれているにはおそらく理由がある。つまり本来ぼくらの中に動機がなかったはずのものだとしても、この竜巻は塵芥やその他をちゃんと分別して巻き込むべき人間を証左する。こうして純度が濃いものから薄いものへと移っていく。理由も論理も身体も関係なく、その理論に絡め取られれば、ぼくら側の目的は徐々に薄まっていく。引いてはぼくらをぼくらではなくしていく。
かつてぼくの推理であったものはその誰かの推理であり、かえるちゃんやアキの明晰は劇作家による書割めいた明晰の上に今や成立とうとしている。これまでを踏まえるなら、虚の推理と偽の明晰。そしてまたさらに厄介なことに、これからぼくらは花園クロニクルでもう一つ役割を与えられている。真言なき真言。仮面を付け替えては、また異なる仮面に付け替える。しかもそれから戻った時の素顔でさえ、眠った時の表情にさえ、その仮面の跡は残っていく。
だから、ここ数日ぼくの頭に浮かぶのは推理と明晰ならぬ、虚推理と偽明晰なのだ。だからここでぼくが語っていることはある種のプログラムによるもので冷静に語っているのはそのせいなのかもしれない。あるいは、もしかしたら、プログラムによるプログラム。辞書を参照してその言葉を羅列するように、例えばこんなふうに理屈を並べているだけなのかもしれない。今ぼくが心に何も思っていなくても、頭に浮かび上がってくる言葉にはなんら真言性がなくても、推理と明晰は既に決定済みで、それが一つの経験則のように、ぼくの中で、はたまたかえるちゃんやアキ、他の人たちの中でこうして形になる。何か一つ閃いたと思えは思うほどそれはオリジナルか何かの複製の複製が生まれたに過ぎなくて、つまりは偽物であって、感情によるものではなくて、感情の抜け殻であって。あるいは感情のプログラムを真似てみたか何かの所作でしかなくなってきている。
このようなことを一つの科白のように、ぼくらはそれらを喋っている、喋る形を取っている。実際には別の形を取っていても、とりあえず一時的な保留の形を喋っている。随時思考も思想もアップデート出来るようになってくる。そう、オリジナルでなくても、ぼくらはこうして推理も明晰も真言も話せるように出来ている。
そうなるとやはり言葉の純度は低くなる。
言葉の純度の数値が次第に低まればこの物語の最後には、きっと人生の最後の最後にはぼくの純度もまた限りなくゼロに近づいていくだろう。そうなる瞬間がもし来るのならば、それとは反対にぼくの頭の中は誰かの、ぼくと誰かとの記憶で埋め尽くされる事になるだろう。
でもまだ物語の途中ではある。だから話を続けよう。
ぼくらはまず去年行われた学園祭、花園クロニクル初演の映像を見る。スクリーンから流れる映像はやけに鮮明で映画のようだった。昨年度のキャスト。そこから見えるものは何もかもがぼくらと違った形を取っていた。昨日、目を通して覚えた科白と同じ場面を通して見る。時間の都合上、ほんの初め、しかしその最序盤でさえ、彼女たちが語ったお話とぼくが読んだ花園クロニクルの語りはなぜか同じ言葉のイメージで捉えることが難しい。連想する言葉もないまま、つまり割と見入ってしまったその後、早速ぼくらは覚えたての科白とそれぞれの実際の舞台での立ち位置を踏まえて、最初の本読みを始めた。ぼくらは予知を告げるようにその科白を教え合う。未来に感じた不安と不安を慰めるための誰かを正面に見合って、その言葉を互いに教えあうのだ。忠告のようなものを注意深く聞いた後、また同じセリフを全部で二度繰り返す。
このように本読みを三回行い、冒頭のシーン全ての言葉を吐き出しても、一連の動きが演技として成立していたわけではない。星野環が撮った映像を見せてもらう。この違和感、ぎこちない演技はぼくらがまだ同じフレームに収まっていないことを教えるものだった。
でもこれでお互いの役割ははっきりと見た。ぼくが時の王子で、かえるちゃんが血園姫の役だ。アキはまだ役が振り分けられていないけど、次までに何か重要な役どころでもやってみてそれから決めようかと本田陽加部長は配役リストを眺め、そう伝える。
「じゃあ、今日はこれでお仕舞いにしよう」そう言って、本田陽加部長はみんなを解散させる。ぼくらは星野環と一緒に食堂へ行き、今夜放送予定のラジオプログラムの打ち合わせをした。彼女は先日解決された事件についても耳にしていたようで、このことをラジオでも聞いてもいいかと訪ねてきた。
「学園祭が中心だから、まず聞かない方針を取る。けど私は聞きたい。ごくプライベートな話として」
「別に構わないよ。でも言えることは少ないと思う。これから学園祭に、花園クロニクルに集中しなくちゃいけないし、ぼくらには別のこともある。だからこの事件について語るのはこれが最初で最後になるんじゃないかな。公の場で語るには」軽く頷き、星野環はラジオの台本を配る。
「形だけの台本だから。軽く進行表があるだけ。間に、何曲かかけようと思うんだけど、著作権の問題があってね、フリー音源のものに限ってオンエアーするから、そこは了承してもらえる」
「わかった。でも気にしない問題かな」
「ところで、君たちは探偵だそうだけどね、いわゆる事務所ってあるの。探偵事務所」
「あります。ご覧になりますか」
「いいな。それは。あっ、今閃いたんだけど、その場所を使ってラジオを収録してみたいな」
「ぼくはいいと思うけど」それからかえるちゃんとアキを見た。
「いいじゃない。宣伝にもなるし」
「私も賛成かな。いい機会だと思う」了解が取れると探偵事務所の住所と収録時間の予定をこちらに伝えてきた。星野環の部屋との距離を考えると、今から、夕方のこの時間から来た方がいいということになった。片道に一時間はかかるから、出来ればその方がいいのだと言う。夕食も一緒に取ることを約束した。
3.
探偵事務所の窓からは交差点がいつも見えていた。やけに静かだった。昼間はもちろん都市の交通事情からして常に車の走行音が街中を埋めている。夜の七時頃を境目に、徐々に速度を落とすように、音も静まっていく。といっても騒音と言うほどのものではない。会社通勤や運送トラック、バス、タクシーの大半はもう勤め終えているのだから、それもそのはずだった。
星野環はそんな交通事情を知って良かったと言った。ラジオを収録するのだから不必要な騒音は避けたいのだからと理由を付け加えながら、ラジオの最小単位とも言える集音機材を手に、必要な配置場所へと動かしていた。パーカーにデニムという力の抜けた格好で作業しているのがぼくらを信頼している証拠にも思えた。
制服は事務所のコートクローゼットにかけられていた。ぼくも他の二人も同じく簡素な格好をしながら、その時間を待っていた。生放送まで、あと二十分はあった。
探偵事務所をスタジオに置き換えて、数時間足らずで本放送前の試験が始まった。視聴者数は十数人程度だ。メーリング機能は常備されていて、質問意見投稿はいつも使っている「T.о.y」内のフォームから行えた。中でも熱心にそのメッセージを読んでいたのはかえるちゃんだった。友達の手紙を読んでいるみたいに、そのコメントを眺めた。一旦他のコメントを読んだ後、また最初のメッセージにまで戻って何度か頷いてみせた。
それから星野環に促されて、セッティングされた席に腰掛けた。緊張がほぐれていないぼくとアキは二人にからかわれた。でもそれで少しは穏やかになれた気がした。時報が終わると、星野環はマイクに向かって定番のあいさつを述べた。
「皆さん、こんばんは、星野環です。今夜も「T.о.yレディオ」の時間がやってまいりました。四月最初の放送から隔週二ヶ月に渡って、学園祭特集をお送りいたします。そこで今日は特別ゲストにお越しいただきました。学園祭演劇花園クロニクルで主演を務める、斧ノ目杏さんと花園緑さん、そして高木亜希さんです。こんばんは」
「こんばんは」とぼくらも返す。
「今回お越しいただいたのは学園祭のことはもちろん、学生生活についても色々聞いていきたいと思います。リスナーのみなさんから投稿された質問等は三人に読んでもらったので、追々話してもらうことにしましょう。でもその前に一曲、昨年度に演奏された学園祭演劇花園クロニクル劇中歌『テンペスト』を聴いていただきましょう。それでは、どうぞ」
ピアノ伴奏のみで歌われたバラード。そのアウトロに放送に戻る。
「はい。聴いていただいたのは昨年度の学園祭演劇花園クロニクル劇中歌『テンペスト』でした。歌ったのは今年卒業された合唱部の、高山美月さんによるものです。で、ここからは今年六月十六、十七、十八、十九日の四日間に渡って催される学園祭の話をしていきたいと思います。今年も数々のイベントで彩られる学園祭になることでしょう。その中でも特に、注目が高いのはやはり演劇による舞台イベントです。ここからは主役を演じる斧ノ目杏さんと花園緑さん、高木亜希さんに話を聞いていきたいと思います。それでは時の王子役が決まっている斧ノ目さんから、主演に至るまでの経緯なども交えて話してもらえますか」
「こんばんは、斧ノ目杏です。今回ぼくが学園祭演劇のキャストに選ばれたのはとても、とても不思議な縁から来るものだと思います。正直に言えば、ぼくよりも演技力のある有望な人はいるでしょう。でもご存知のように台本が盗まれようとした事件を解決したことがきっかけで、ぼくは演劇部の部長、本田陽加さんから台本を託されました。かえるちゃん、花園緑も、アキも同じです。だから今回演じるのは本田部長との約束を守ることにもつながります。ぼくらが台本を持って、演じぬくことがそのままイベントの盛り上がりにも貢献することになります。この不思議な縁を出来るだけ前向きに捉えて、楽しんで、学園祭に望みたいと考えています」
「ありがとう。では次に、花園緑さん、お願いします」
「皆さんこんばんは。花園緑こと、かえるちゃんです。私のことを覚えていてくれてまずはありがとう。仕事を辞めたわけじゃないから、心配はご無用です。でもしばらくは表舞台には出てきませんが、今回初めて演劇に挑戦します。ヒロインらしいヒロインといってもいいと思います。葛藤と可憐さの二つを身にまとうというのも初めてです。でも美しく演じられる、そう信じています。だからこのラジオに出演することもすごく、すごく嬉しいんです。この楽しみをどうか学園祭まで取っておいてください」
「私もその言葉を聞いて安心しました。最後に、アキさんもお願いできますか」
「こんばんは。高木亜希です。私はまだ何も決まったわけじゃないから、何も言えないけど、学園祭はきっと成功します。上手く叶うように、私も一緒に頑張っていきたいと思います」
「ありがとう。三人からのコメントも頂いた所で、お便りもここで一つ読んでいきましょう。ラジオネーム蓮の花さんからのコメントです。何でも初投稿だそうです」
学園祭への期待と自身が担当するというキーポスター、ビジュアルの話。ごく簡単なシルエットだが、そこには蓮の花が描かれていた。そしてごく小さな文字で、本名が記されていた。白永谷さゆ。ここでまた忘れかけていた名前を思い出す。ぼくらが言葉を失ったのに気づいてか、知らずか星野環は話を続ける。その一瞬後、ぼくらは気持ちを崩さないよう、明るく振舞い、番組最後まで平静を保つように言葉を続けた。でもその中身は、からっぽだ。
夜十時の時報の後、星野環と一緒に別れの挨拶を告げる。それから写真を一緒に撮った後、星野環だけ家に帰る。駅まで見送り、最後に残ったその違和感に対して何も口にしないまま、手を振り合う。もしその違和感の正体に星野環が気づいたとして、彼女はどう口にしただろうとぼくは想像する。しかし結局のところ、彼女は何も言わずに、ぼくらに背を向けた。いや、ぼくらが踏み込む必要があったのに、上手く入るタイミングを見失った。ぼくらは戦略を一つ見誤り、夜を終えた。白永谷さゆの名前が出てくることによって、ぼくたちは戦略を練り直す必要が生じた。
でもその必要はなさそうだった。星野環はその後考えたのだろう、ぼくに送ってきたメールには事件絡みのことを思い出し、言葉が詰まったものだと解釈してくれた。何か必要があったら、電話をかけるように、意見を申し出てほしいと文末に添えられていた。おそらく彼女もまた六旗尊によって運命が狂わされた人間の一人なのか。しかしそうでなければ協力を告げることなどしないし、そうでなくとも、何か不安なものを感じ取ったことはまず間違いない。
詳しい目的を告げた後、やはりそうだったのかと返事が来た。彼女の中も全てではないにせよ、点と点が続いていた部分がようやく線として繋がりつつあるみたいだった。後は六旗朱莉刑事も交えた五人で次の事を話すつもりだった。少なくとも明日にでも会うことがぼくらの中で決まった。それからぼくも眠りに就いた。
4.
今日の夜にぼくらは集まると決めていた。寝起きたばかりの顔をこすって、昼休みの終わりのチャイムを聞く。次の授業は古語と数学の二コマが割り当てられ、それが終わると演劇の打ち合わせとキャスト会議に時間が割かれる。
こうしてみるといかにも一人の生徒のスケジュールが規則正しく映し出されているようにも見える。試験や祭りの本番を迎える前の緩やかな日常を描き、ともすればだらだらと過ごしてしまいがちな瞬間は唐突に終りを告げる。
ホームルーム後、二人と教室を移動する前に、スマートフォンを見た。
「T.о.y」のメーリングボックスにはメッセージが一通ポストされていた。星野環からだ。送信はおよそ五分前。開いてみると、写真だけが添付されているだけ。空の写真。天気はここと同じく、晴れている。暖房が教室に充満しないように、誰かが窓を開けてその雪解けの冷たい空気を嗅ぐと、きっとその場所は屋上なのかなと思う。授業が終わって二人には後で合流することを告げる。ぼくが返信する前に、彼女は二つ目のメッセージをくれる。白い帯状のものがぼやけている。そして次には文字。S字カーブが逆さになったような形。どこかで見たことがあるようだ。でもわからない。だからぼくはちょっと屋上へ行ってみようと階段を上がった。ちょうどよく十字路ですれ違うみたいにして、上から氷の欠片が落ちていった。それから最後の文字。いや、文字ではなく記号だ。しかしそれは反転すれば、意味がわかる。見るからにそれは救難を示す合図だった。サインは極めて古典的である以上、それは誰にでも通用しうるサイン。
S.О.S.
つまりは助けてくれということだ。
5.
急いで屋上へ向い、扉を開けると倒れている女の子が二人いた。一人は星野環だとわかった。左頭部に殴打された跡があり、青いあざが浮かび上がっていた。目が虚ろだが、意識と力はあり、自力で立ち上がる。もう一人は背中を見せている。溶け出した雪水の溜まりに、片膝をつけてうずくまっていた。どうしたのと尋ねたが返事はない。正面に回ってよく見ると、彼女の左の掌に、黒く細長い、弓矢が突き刺さっていた。ぼくは声をかけて、それから周囲を見渡す。辺りにいるのはぼくたちだけだ。血は出ているけど、まだ多量ではない。
「痛い、痛いよ…」
「だいじょうぶ? とにかく早く保健室に行こう。立てる?」そう言うと小さく頷く。ぼくは彼女の肩を抱いて、楽な姿勢をするよう促す。星野環も体が冷たくなっていた。ひとまず連絡しよう。保険職員の井口先生が屋上へ来るまでぼくと星野環は一言も話さなかった。六旗朱莉刑事に連絡をし、事情を伝えた。かえるちゃんとアキにも伝えた。ただ二人もすぐに話そうとはせず、彼女たちの傷口の形を目に収めていた。少なくともそのように見えた。
最低限のメディカルチェックを済ませると井口先生は電話を繋ぎ、他の教職員に連絡を取っていた。それから救急車。知り合いの刑事に連絡した旨を告げると頷き、ぼくら二人で下の保健室へと連れて行くことにした。
もう一人の女の子の名前は皆口ゆかといった。井口先生が預かった生徒手帳から名前を読み上げた。星野環を隣のベッドに座らせ、傷口の手当をした。それから温かいココアを彼女たちに飲ませた。皆口ゆかの手がおぼつかなく、ぼくが時折彼女の手を支えた。体の寒気を取るために、彼女たちはゆっくりとココアを口に含み、時間をかけて飲み干した。それでようやく落ち着きを取り戻したように思えた。
「ありがとう」いつの間にか彼女は泣いていたみたいだ。でも泣き止む。手の甲で涙を拭く。
「はい。二人とも落ち着いています。警察への事情は彼女に話してもらった方がいいでしょう。まず治療が先はいわずもがな、ですが」それから内線電話を切る。
井口先生は小声で、ぼくに言う。
「矢自体は細いけど、傷が残るかもしれない」
「そうですか…」
その後すぐ皆口ゆかの担任である水島先生と教頭の小高教諭が来た。彼女たちの様子を見、ぼくには聞こえない声で後対応の話をし始めた。一連のやり取りがなされた後ちょうど、六旗朱莉刑事が保健室の扉を開けたところだ。彼女の後ろには救急隊員が二人。皆口ゆかと星野環を連れて、そして水島先生は彼女たちに付き添うため、保健室から出ていった。
残ったぼく以外の三人に今回の事情を説明した。しかしどう話せばいいか改めてぼくは考えなくてはいけなかった。
「落ち着いて話してほしい。起きたことをよく思い出してもらえるかな? でもその前に、手についた血を洗おう。話はそれからだ」
「はい」蛇口をひねってお湯を手にさらし、ハンドソープで赤と肌色が混じった手を洗う。手を乾かし、保健室にある回転椅子に座る。向いに六旗朱莉刑事が腰掛け、余った椅子二つに小高教諭と井口先生が座った。六旗刑事はポケットから缶コーヒーを取り出し、それをぼくに飲ませた。冷めたコーヒーの味。ひと口つけて、ぼくは話せる範囲がどの程度のものなのかを告げる。
「つまりほとんどぼくに語れることはないんです。ぼくは星野環から助けを求めるメッセージを受け取りました。それは見てもらった通りです。ただそこで何があったかは直接二人に話を聞く他ないでしょう。ええ、完全にぼくではなく、こういう問題は警察に任せるべきじゃないかなと思います」
「だが、それじゃ足りない」
「もちろん。ぼくが、ぼくらが推理しなければならない。そう考えています。というのもここにも白永谷さゆの予告とはいかないにしても、予兆は感じ取れたわけですから、彼女が関わっていないとは思えません」
「なるほど。しかしね、私たちにとってはやはり警察に一任した方がいいんじゃないかと思うわけですよ。生徒たちがわざわざ危険な道に誘われ、踏み、こうして怪我をしている。大事に至らなかったことは不幸中の幸いだ。でも関わらない方がいい。君たちのためだ」
「小高教諭。それは教育者としてはごく自然な考え方です。しかし今日起きた事件はあくまである男の理論の完成のために作られた一つの報告書です。彼女たちは論理の渦に巻き込まれ、その余波は広がり、さらにはこの学園を中心地としたより大きな渦を巻き起こしています。つまり彼女たちが避けようとしても、もはや避けられない問題にまで至っています。危険から遠ざけよう、安全な学園生活を送ってもらうことが、教職員としての責務ではあります。が、ここではそうした論理は通用しない。いや、ほかでは通用するから、正確ではないでしょう。正確に言えば、今発生している論理の渦は私たちでは解決しえないように設計されています。それは私たちの役割ではないと言った方がいいでしょうか。彼女たちが解決するように、設計されているんです」
「それはつまり? 私にももう少し分かりやすく話してもらっていいかな」
「彼女たちは探偵なんです。ええ、探偵だからこそ、この論理の渦を収束出来るんです。私たちにこの謎は解けないように出来ているんです。だから私たちはあくまでそれぞれの職務を全うすることが求められています」
「私たちでは力になれないと」
「そうは言っていません。学園内での対応は教職員である小高教諭、そして橘学園長にしか務まらないでしょう。下手に警察が会見を開こうとすると、すぐに事件性があるとマスコミに見られかねません。だからここから先は彼女たちに任せる他ないんですよ」
「学園長にもこのことを伝えておきましょう。職員会議を臨時で開く必要がありそうだ」そう言って小高教諭は保健室を出ていった。ぼくらも保健室を出ていった。椅子を片付ける音が背後で二、三度鳴った。
6.
先に屋上へ向かうことにした。六旗朱莉刑事と階段を上がっていき、屋上に入ると彼女は白い手袋を履き、現場周辺を検める。
「どういう体勢で倒れていた?」
「かがんでいました、こんなふうに」と皆口ゆかがあのとき取っていた姿勢を見せる。次に星野環の配置。
「そう」向かいにあるものを見つめながら、目を細める。
「あそこからじゃ、届くわけがないだろうな。風はなく、角度的にも悪くない条件だ。しかしここからの距離を鑑みれば、さしずめ神の矢でもなければ、届かない」
新校舎と向かい合う形の旧校舎。四階建ての屋上付きだ。雪は溶けきっており、少量の水溜まりが見える。
「もし可能性があったとしても、ここでは新校舎から丸見えだな」
「ええ。しかし放課後の人が少ない時間帯に起きたこととは言え、学園内外から見られるリスクは高いでしょう」
「なら、向こうからはないな。目立ち過ぎる」
「やはり直接刺したと考えですか」
「もし直接刺したのであれば二人は知り合いみたいだったんじゃないかな。本当に知り合いだったかどうかはこれから裏を取るけど、見ず知らずの人間の心臓に弓矢を突き刺すに、何も抵抗もしないのはやはりおかしい。しかし知り合いなら、もっと奇妙だ」
「どうだろう? 君なら、どう企てる?」
「どう事件を起こすことが、最も論理的か」
「そうだ。でなければ、理に適わない」
「もし直接彼女の手に刺したのであれば、二人はきっと知り合いだった。しかしまだ裏が取れているわけではない。だから、これは単なる可能性の範疇に過ぎません」もし知り合いだったなら、もっと長い時間が必要だったはずだ。遡ってみると、生徒会室に顔を出した後、星野環に会いに来た白永谷さゆは屋上へ行くよう、促した。そこからぼくが星野環から連絡を受けて屋上へ向かうまでの時間を思えば、短い。合間を縫うような、何かここに作為的なものを感じるが、その姿形はまだわからなかった。
「それはこれからわかることだ。現場は見た。写真にも収めておこう。それから弓道部の部室だ」
専用のカメラで辺りをフォーカスし、手際よくシャッターを切る。画面を見つめ、カメラフォルダをチェックすると、ぼくは六旗朱莉刑事についていくようにして屋上を後にした。
弓道部の部室は二階にあった。職員室と対面の廊下側は、主に運動部系の部室が並べられていた。弓道部はその一番端にあった。ぼくら二人が弓道部の部室に入ってくるとそこにいた全員がこちらを向いた。準備前だったのか、落ち着いた雰囲気だった。微妙な空気から、彼女たちも何が起きたか気になっていたみたいだった。それを説明してくれるとは思ってもいないだろう。でも、学園の人間ではない六旗朱莉刑事の風貌を見て、それを察する人も多いと見た。
「入部希望じゃ、ないですよね?」
「もしかして…さっきの」
「そうだ。実はさっき怪我人が出たんだ。そのことについて話を聞きたいだけなんだ」
「あー、やっぱり、ですか」
「その弓矢がね、もしかしたら部で使われているものかもしれないと思ってね。見たところ、全く同じ形状だ」六旗朱莉刑事は机の上に置かれた矢を手に、一連の事情を説明する。自分が警察の人間であり、これが極めて事件性の高いものであるかどうかを。なんとなく予感としてはあったが、それでも突然のこと過ぎたのか、冷静だったかは判断がつかない。異様なほど部室内は落ち着いていた。しかし背後からドアの開く音が聞こえて、その空気は変わる。ぼくらはみな振り返る。印象がやや厳しい目つきで、ぼくと六旗朱莉刑事を交互に確かめる。それから自分が部長であることを告げる。
「失礼します。あなた方はどういった要件でここに来たのでしょう。見たところ、入部希望者ではないと理解出来ますが、先程救急車が来たことと何か関係があるのでしょうか?」
「ええ、そうです」
「事件の捜査に協力を求めてきたんだ」
「なるほど。申し遅れました。私は部長の志津といいます。志津さやかです。いきなりこの子たちにいっぺんに話してもいいですが、難しいでしょう。職員室の隣に個室があるので、そこで私が伺っても構いませんか。彼女たちにはそれから説明しましょう」
「その方が早ければ」
一旦部室を出る。職員室隣にある応接室の鍵を取りにいき、彼女が開けた小さな個室に入る。
「場所は狭いですけど、お話しやすいかと思われます」彼女は結わえた髪を一旦解く。赤茶色系の髪の毛は首筋で切り揃えられている。
「それでは事情を聞きましょう。誰か怪我をされた。その怪我に弓道部が関係している、ここまでは理解出来ます」
「ええ。その通り。学園の生徒二人が怪我を負った。一人は頭部に、もう一人は手に傷を負った。右の掌に。そして彼女の手に刺さったのは弓道部で使われている、黒い弓矢」六旗刑事はタブレット端末のフォルダにある彼女の手の写真を見せた。志津さやかはその傷に気に留めることなく、写真をじっと見る。
「確かにこれはうちの部で使用する弓矢です。そこで私たちから弓矢に関する情報を細かく知りたい、そう思っても構わないですか」
「そうね」ぼくにも同意を求めてきたので、頷き返す。
「これは主に練習用として使っている矢です。大会等では公式に指定された矢を使用しますが、予算の都合上もあり、安く大量に発注可能なものを買っています。それがこの矢です。品番まではわかりませんが、おそらく今年度のものだと言っていいでしょう」
「なるほど」
「しかしどういうわけかわかりませんが、矢は盗まれたものかもしれないですね」
「その根拠は…過去に盗まれたことが?」問いに対して、志津さやかは否定する。
「可能性として思ったことです。というのは基本的に部の備品は私と顧問とで管理し、日々確認しているので、物がなくなればすぐにわかります。もし使用中に破損したときは必ず報告があります。しかし矢が盗まれたという報告はありませんし、数が急に減ったこともありません」
「もしあるとすれば、個人で同じものを買っている可能性が考えらますね」
「確かにそうだな。みんなそうするもの?」
「私が知る限りではありません。直接メーカーから取り寄せるにしても、箱単位で買う必要があるため、個人で買うというのは考えづらいことです。それよりも部員の誰かが矢を壊してそれを恥と感じ、嘘の報告をした結果、なくなった一本の矢が存在する、と考えた方がまだ納得がいくものです」
「盗った方が思い当たるのか。しかしそれでも確証はない」
「仰っしゃるとおりです。しかしところで、こちらの方は?」
「ああ、説明が遅れた。彼女は探偵の、斧ノ眼杏だ。事件の第一発見者として、そして事件解決の主任者として、いる。私は彼女の同行をしているんだ。彼女は怪我をした二人を最初に見つけた」
「そうですか。あなたも先程の弓矢を確認しましたか?」
「ええ。確かに同じものだと思います。でも何か引っかかる。あなたが言ったことを元に考えると、どこで入手したのかが不明だ」
「もしよろしければ、弓矢の在庫管理表などをお見せしましょうか。そこで誰が紛失を報告したのかわかります。最も犯人と呼ぶべきか注意して頂きたいですが」
「それはもちろん。そのための会話ですから、これは」志津さやかは六旗朱莉刑事にも視線を送る。
「わかっている。早速だが、見せてもらいたい」
「わかりました」でもその前にぼくに質問をする。
「一つ聞いてもよろしいですか。怪我をした人の名前を」
「皆口ゆか、だ」
「そう、彼女が。それはお気の毒な」
「何か知っていることでも」
「まあ高校生なら、恋の悩みの一つや二つ、伝え聞くこともあるでしょう。ここは共学制度ではありませんが、大会等で知り合う相手もいるでしょう。そういう場面を見かけます」
「それ、聞かせてもらえる。参考程度に」
「構いません。ただし噂の範疇を出ない部分もありますが」
「それでも」
「ほんとに参考程度、ですか」
「わからないよ。でも彼女や私はそう考えない。学園内で怪我が起きたのだから、犯人がいれば、最低でも彼女の人間関係を知る必要はやはりあるだろう」
「資料を取りに戻ったら、そのこともお話しましょう」そう言い、志津さやかは部室を出て行く。
「彼女は犯人じゃない。けど…何か知っているみたい」
「そうみたいですね」それから彼女が在庫管理表を手に戻ってくる。
「これが今年に入ってからの管理表です。昨年のもありますが、そちらはデータフォルダからのコピーです。ええ、こちらです。見比べて、特におかしいと思えるところはありませんが」
「ありがとう、今のところこれで充分だと思う」
「やはり今年度に注意した方が良さそうです」
「ああ」紛失報告者の欄を見る。二人だ。平川加奈、山崎彩音。
「実は、この二人共、すでにうちの部を辞めた人間なんです。一年生の時に入って、二年生になって辞めた。つまり最近のこと。先程の話と絡めるなら、私が言えるのは矢の紛失と彼女たちの人間関係ぐらいですね。まず平川さんから話しましょう。彼女が辞めたのはちょうど十日程前のことでした。辞めた原因を聞いてもごくありきたりでしたが、気には留めません」
「というと?」
「練習がきつい、学業との両立が難しいとか。そのような理由でした」
「そうか。じゃ、続けて」
「辞めた原因がもし本当にそうであるなら、気には留めません。しかし部員たちの話の端々からは皆口ゆかと友達の男性に告白をして振られ、その気負いに引きずられ、部を辞めてしまったと考えるのが私の中の推測です」
「皆口ゆかが、そそのかしたとでも」
「見方が悪ければそう思う人もいるでしょう。しかし悪い想像ですよ、それは。実際のところは違います。彼女には妹がいた。でも皆口ゆかの妹、皆口友紀は行方不明になっていて、友人である男性も彼女の方を気にかけていた」
「掛け違いで、好きな人がいると思い込んだ」
「それなら、誰かと付き合うのはやぶさかではない」
「きっとそうでしょう。ただ恋が成就しなかっただけです。これも聞いたお話ですけど、平川さんが矢に恋文を括りつけてその想いを届けたそうです。つまり彼女が嘘の報告をした一人だと言えるわけですよ」
「それでその弓矢はどこに?」
「それこそが、彼女への凶器として使われた、と私は想像します」
「でもそうなると、弓矢を持っているのは平川加奈」
「もしくは振った男性が、と一瞬思いましたが、振った男性が持つのは考えられないですね」
「山崎彩音の方は」
「彼女が辞めたのは三月末です。三年生と最後の交流会が終わった後です。彼女はバイトと掛け持っていましたから、春休みを期にそちらを優先させたのでしょう。彼女も矢を亡くしたと報告しました。そして彼女もまた何かを祈願するために矢を持っていった可能性はあるかもしれません」
「というと?」
「これは流行りの遊びだと私は考えているのですが、恋文を矢に括りつけて、相手に渡せば恋が成就するという迷信が去年あったのです。今ではもう誰もやりませんけど、気持ちが若ければ、興味が湧くこともあるでしょう。あったと思いますけど」
「あなたも充分若いと思うけど」彼女は眼で自分はそうではないと見せてから、話を戻す。
「それを彼女もやったんですか」
「今思えば、です。というのは彼女には付き合っている男性がいて、その人と縁寿するために矢をくださいと一度言われたことがあるのです。当然そうした目的外のことに渡す理由はありません。そしてそのあと、彼女が弓矢を失くした」
「どちらも恋愛絡み。あなたは山崎彩音の彼氏が誰か知っているの」
「いいえ、私は存じないんです。部員の誰かがその恋人について話しているところは見ていませんし、写真で見せて回っていたこともなかったようですが」
「妄想、いや違うな。よっぽど見せたくないぐらいいい男だったんだな…」
「妄想。確かにそう言う人もいます。探偵に、刑事さん、ですか。これで私が話せることは以上になります。他に何かありますか」
「いや、一通り、それも貴重な話を聞けた。あとは矢を失くした二人から詳しく聞きたい」
「彼女たちの連絡先などに関しては職員室へどうぞ」
「またあなたに話を聞きにくるかもしれない」志津さやかはそれがなければいいですねと返した。ぼくと六旗朱莉刑事はその部屋を出た。
職員室で、先の二人の連絡先を聞いた後、もう時刻が夜に差し掛かっていることに気づいた。
「今から連絡したい」
「でもその前に二人の容態を見に行きましょう」
「花園緑と高木アキにもついてきてもらった方がいいな。連絡を取って、私の来るまで病院まで行こう。そこで話を持ち寄った方が良さそうだ」
「ええ。もちろん」それから階下へ向かいながら、二人に連絡を取った。
7.
彼女たち二人が運び込まれた病院は市内で一番大きい病院だった。だからこれがあまりいい形で事が運んでいないとわかった時には、ぼくらは遅すぎた。既に病院の中に入り込もうという心積もりだったのだから。しかし入らないわけにはいかない。星野環そして皆口ゆかの二人から、話を聞かなくちゃいけないのだ。
病室二階に彼女たちはいた。暖を取った個室の中で二人は眠っていた。ぼくらは彼女たちが起きるのを待つことにした。二人が目覚めたのは十分程経った後だった。鎮痛剤等の影響なのか、深い眠りにいたのかはわからないが、星野環と皆口ゆかは揃って双子のような同じ眼で目覚めた。次第に状況が飲み込めてきたのか、もう十分経った頃には、これから何を成すべきかすっかり理解していたと思う。
「本当はここにもう一人いたんだ。知っての通り、白永谷さゆだ。彼女は私の技術を欲しがっていた。「T.о.y」の基本設計図及び権利関係そっくりそのままね。あればECサイト立ち上げに関するソフト費用の削減にもなるし、技術的な観点から言えば非常にベーシックなソフトだから取り扱いもそう難しくはなく、色々応用は利く。何に使うかはわからないけどね。でも彼女の計画にはこの技術が必要だった。でも私は渡さなかった。だから誰かに殴られたわけだ。犯人の動機はこれから解明してもらうとして、このソフト、商売の観点から言えば、まあおいしい話だと言っても過言じゃあない。でも私としては、これが未完成だと考えていた」
「あれほどの完成度で?」ぼくはそう返す。
「不味いものを作った覚えはない。しかし、安定性に欠ける面は少なからずある。ユーザーインターフェースの滑らかさ、ページ切り替えにおける体系的なシステムバックアップ、無論全体のソフト管理も欠かせない。面白いソフトだけど、誰かに渡して、はい、それでおしまいとはいかない。けど、それでも、白永谷さゆはこのソフトを欲しがった。正確には、彼女の後ろにいる、六旗尊がこのソフトを求めていた」
「あの人が?」
「あぁ、あなたはあの人の奥さんでしたね。じゃあある程度までは知っているでしょう? あの人の計画を」
「多少はね。しかし私も全容は知らないんだ。今回の、いや、一連の事件だって追いつくのがやっとなんだ。あの人の本当の狙いはわからない」
「私にはわかります。そしてそちらの探偵さんも」
「論理の渦、計画」
「正しく。人を一定の、論理的な問題状況下に置いて、感情を抑制しつつ、事態の収束を図るための性能試験。でもこれは私の中の推測で思い付く言葉。本当に六旗尊がそんなことのために人を傷つけようとしているのかはわからない」
「傷つけようとしている」かえるちゃんはそう言った。
「いや、傷をつけることすら、実験の臨床データとして解析しているかもしれない。私も、星野さんも、杏ちゃんたちもみんなその試験に巻き込まれるように参加している。けれど、その試験から遠ざかることはもう出来ない。出来ないように出来ている」
「論理の渦って、それぐらい巧みに出来ているってことなの?」
「そういうことだと思う。でも、抜け、は存在するはずだ。もしこれを一つの研究対象だと捉えれば、次の段階が必ず来るはずだ。そこで彼は、六旗尊はぼくらの眼の前に現れざるを得ないんじゃないかと思う。だから今出来ることとして、皆口ゆかさんを傷つけた人を探すことが必要だ」
「皆口ゆかさんだね。あの時何があったのか教えてもらえる?」
「あの時、放課後の時間、私は白永谷さゆに会うはずだったの。新校舎の屋上で、私たちは彼女に妹のこと、友紀を捜すための有効な方法について教えてもらう手はずだった。星野さんはその協力者で、協力者は多い方がいいと白永谷さゆは言っていたの。それには納得して三人で話し合うことになって、途中で、彼女が言ったように交渉が上手くいかなくなった。私はそんなものが必要だなんて考えもしなかった。でも必要だと言っていたの」
「しかし渡さなかった」
「渡す、というよりそこに向かいたくはなくて、断った。そこに誰かが来た。その誰かは分からないけど、もう一人やってきて私を殴りつけた。私はその人の顔を見る前に、気を失った。結果は軽傷だと診断された、でも唐突さと衝撃で、軽い脳震盪のような状態だったんじゃないかって言われた」
「私もその人に傷つけられたの。手をね。星野さんを殴った後は、こっちに向かってきて弓矢を刺そうとした。抵抗した拍子に私は手で防ごうとした。だから手を怪我したの。白永谷さゆと共謀と言っていい関係だと思うけど、本当に何が目的かはわからない」
「どうして私たちを襲ったのか?」
「そう。通常、いや、あらゆる場合においても、こうした事件を起こすのはリスクが高すぎやしないかと思うわけで、何か仮説があるならば、こうして事件そのものを発生させることに意味がないようにも思えるんだ」
「動機のブラックボックスですか」六旗朱莉刑事は頷く。
「そうだ。事件の報告において最も重要な視点と言ってもいい。それが今回の事件でも基点となるはずだが、動機が全く不明ということだ」
「彼女たちを狙ったのは、きっと理由がある。ですが、怨恨や衝動的といったキーワードは今回当てはめようとしても、なぜだかしっくりと来ない。まず襲ったところで犯人と白永谷さゆに具体的なメリットはないし、交渉が決裂しても、このような方法を選ぶのは全く理性的じゃない。かといって、弓矢を用意し、また目撃証言もないということから、計画性が感じられないという意見も通らない」
「だからもしかしたらね、杏ちゃん。やっぱりこれはフレームケースとしか思えないよ」かえるちゃんはそう言葉を進める。
「白永谷さゆの時みたいに?」
「うん。白永谷さゆが死んだと見せかけたのは、警察と探偵を召喚するためだった。でも実際には彼女が死ぬことはなかった。今回のことも、それに似たケースを適用する可能性があるのかもしれない。白永谷さゆが関わっている以上、その可能性は最初に検討できるんじゃないかなって気はするんだ」
「確かに彼女も死んではいない。でも実際に彼女は傷ついている。そして白永谷さゆは計画通りなのか、ぼくたちを集めることには成功している」
「そして謎解きをさせる。後は事件を解決し、次のステップに進ませる。彼らの意図が見えてこない以上、進まざるを得ない」
「少し話を戻していいか。現場検証の時のことを」
「ええ」
「現場から見るに、直接刺したことは間違いない。そしてそこで使われた弓矢は弓道部のもの。弓道部部長志津さやかに聞くところによると、弓矢を自由に持ち出す可能性は基本的に一つしかない」
「盗み出すこと」
「しかし盗むといっても、矢を失くしたと言って嘘をつく必要がある。弓矢を失くしたのは二人の元弓道部の生徒。明日朝早くに、この二人の指紋と、摘出された弓矢の指紋を照合すれば、事件は解決に至ると思いたい。しかし実際は弓矢に指紋が検出されたからといって直ちに犯人というのも考えにくい。そもそもこの二人が犯人じゃない可能性も残っている。あくまでこれは手がかりの一つ。他にも弓矢のすり替えなどが現実的に起こりうるし、その可能性も否定はしない。後は明日動くことにしたい。今日は一旦解散にしよう。面会終了時間も近いことだしな」
ぼくらはまた明日来ることを伝え、病室から出ていき、六旗朱莉刑事に送ってもらった。帰り際誰も話さなかった。それはひとえにそれぞれの推理を巡らせているのではなく、それぞれの推理の糸が絡まりつつあるのを感じ取っているからだ。そこに、犯人の意図が隠されているのではないかと思いつつ、ぼくらは眠りに就く。
8.
朝目覚めるとメッセージが一件新規で届いていた。六旗朱莉刑事からだ。指紋の検出結果を聞きにいく。九時にはそちらに着くとあった。今はまだ七時だった。
朝食を三人で取った後、着替え身支度、昨晩までの推理を整理して、黙って彼女を待つ。ぼくらが押し黙っているのは決して答えを口にすることを恐れているのではない。探偵にそのような選択肢はそもそも存在しないのだ。ある一つの楽章並びにある一人の指揮者のその仕草が来るまでその楽器に、その旋律に、触れることはないのと同じ理由で。つまりぼくらは主旋律ではない。主を巧みに、最も甘美に、切実に聴かせるための空気のような音なのだ。
車が事務所の前に止まると、ぼくら三人は家を出る。
「おはよう」その言葉の後またずっと病院に着くまで静かに過ごすのだ。
病院に入ると面会者用の駐車スペースではなく、搬送車や入退院患者用の送迎タクシーが並んだ駐車場に車を留める。病院の入口ですれ違った看護師から良い花の匂いがした。それから院内には独特の香りと暖房の温かみが広がっていた。
昨夜と同じ病室へ行き、昨夜とは逆の形でぼくらは席に着いた。六旗朱莉刑事が口を開く。
「みんな疲れているところ申し訳ない。しかしこれで話は最後になるはずだ。星野環さん、皆口ゆかさん。あなたたちにお聞きします。昨日夕方、あなたたちは白永谷さゆの誘いで新校舎の屋上へ向かい、その場所で見知らぬ人物に殴打され、掌を刺された。これに違いはない?」皆口ゆかは小さく何度か頷く。星野環もそれを認めるような目だ。
「白永谷さゆそしてその人物が逃げ去った後、斧ノ眼杏が屋上へ来た。そして保健室へ連れていった。昨日あなたの手に刺されたその弓矢の指紋を検証したら、あなたともう二人の指紋、平川加奈、犯人のものが出るだろうというのは理解出来る。つまりこれには合計三人の指紋が主につくはず。あなたに刺さった矢の深さは掌の半分は過ぎている。弓道部から矢を借りて人間の皮膚と同じ硬度のもので試しに突き刺してみたけど、これにはかなりの力がいることがわかった。男の捜査員にもやらせてみたけど、かなり厳しいものだ」
「ということは、犯人は相当力の強い人物ですか。いや、力というよりも原理を応用すれば誰でも簡単に出来ることじゃないですか」
「それも可能性としてあるだろうな」
「だから矢を刺したのであれば、血痕が矢柱に残るはず。それなのに、矢には血痕がなかった」
「そうだ。私が最初から感じていた違いはそれだった。刺して逃げるだけなら、そんなものを拭うことはまず考えない」
「なぜ血痕をぬぐう必要があるのか。なぜ最初から手袋などを着けて、犯行に及ばなかったのか。衝動以外の動機、つまり計画性に比重が置かれた罪を犯すときに、犯人は自分の指紋を隠すのがセオリーです。形跡を消すことに最新の注意を見せるのが基本ではあります。でもそれなのに、犯人はそれをしなかった」
「手袋を使って行えば、指紋は残らない形を取りやすい。例外的に手の圧力の度合いを見る方法もあるが、今回のケースには当てはまらない」
「だから血痕を拭い去ったのはこれが作為的な犯罪であることを示したかったから」
「作為的な犯罪?」被害者である二人はそう口を揃えた。
「あれほど深く矢を突き刺すには、相当の力が必要だと説明がありました。しかしそれだとどうしても指紋がついてしまう。手袋など指紋の痕跡を消す方法を使わない場合には、どんなに小さいものでも」
「もちろん指紋は取った。さっきも言ったように」
「指紋を残したのは残す理由があったから。誰が犯行を取ったのかという状況を限定しなければいけなかったから。外部犯の可能性をまず消す、つまり内部の人間、学園内関係者であり、そこから凶器と人物が絞られれば、エピソードは限られてくる。それを警察やぼくたち探偵に示したかった。掌か垂れていく血は仕方がないと犯人は思ったが、平川加奈と皆口ゆか、それ以外の指紋がもう一人ここに加わったからこそ、この犯罪は完成した」
「そのもう一人を呼ぶことにしよう。さあ、入ってきて」朱莉さんの声を合図に、彼女が入ってくる。志津さやか。弓道部の部長だ。制服姿で結わえた髪は下ろされている。
「あなたも座ってくれる、志津さん」
「はい」その代わりに、六旗朱莉刑事が立ち上がり、推理を続ける。
「今回の事件は、皆口ゆかと志津さやかの二人で作り上げた一種の共犯関係だ」志津さやかは俯き、彼女の言葉に耳を傾けている。
「私たちがこれを一種の作為を感じた理由は何も一つだけじゃないんだ。まず矢柱の指紋は拭き取ってあるけれど、矢羽根の指紋を取らなかったこと。こちらの証拠は消すけれども、あちらの証拠は消さない、というのは不可解だし、腑に落ちない。それに指紋を取るという行為自体が一つの証明として残る場合もある。犯行の動機と犯人の形を意図的に絞らせてしまうし、事実絞らせた。この弓矢を使用したのも、そもそもそれが目的だった。どういう真意はこれから聞かせてもらうが、ナイフ等の方がまだ手に入りやすいし、犯人を不明瞭にすることも可能だったはずだ」
「内部の人間だから、そう仰っしゃいましたけどそれだけで私たちが犯人とはならないでしょう。その説明を願えますか」
「二つ目の理由」それは、とぼくは語る。
「それは犯人像を絞れるけど、誰が犯人かはあやふやにしたかった。目撃したはずの二人がその人物の輪郭について詳細を言及出来ない状況、星野環さんは一瞬のことで目撃する可能性も薄い、しかし皆口ゆかさん、あなたに関しては見ていてもおかしくはなかった。しかし覚えてはいないと言った。本当に覚えていないかもしれない。もしそうだとしたら、やはりそこに特定の人間の可能性を消すために行った可能性がある。本来ここは学園です。各配置された監視カメラ、警備職員及び教職員の一定巡回、生徒同士の視線、全く触れずに学園内で堂々と歩けるのは、やはり学園の人間だけです。しかしそれでも犯人に繋がる有利な証言はしなかった。ここにポイントが置かれているのではないかと思ったんです」
「そうですか。続けてください」志津さやかは静かに目で反論しているように思える。ゆっくりとこの推理を後で分解していこうとも捉えられる視線。
「もし犯人像をぼやかしたいのなら、幾つかの方法が考えられます。そう難しくない。自分で正体を隠して行ったか、誰かに協力を得て、噛み合わない不明瞭なスペースを作り上げるか。今回は協力したのが志津さんで、協力してもらったのが皆口さんだ。二人が協力すれば、この問題は成立する。そしてあなたたち二人だという根拠。これを示すこと」
「確かにその根拠こそが一番大事でしょう。私もそう思います。あるかどうかはわかりませんが」
「足跡だよ」そう告げる。
「足跡?」
「そう。足跡。昨日あなたが部室に入ってきたときに、頬が赤く見えた。それにちょっとした寒気があった。ほんのちょっと、でも暖房設備が行き届いた学園内でそれは違和感だ。だからどこか外へ行ったんじゃないかとも思った。トイレ、教室、体育館、職員室からそのような寒気はない。だからもしかしたら、いや、もしかしたらではなく事実、あなたはあの時間屋上のドアの後ろに隠れていた。その形跡が残っていました。足袋の足跡が。足袋は学園指定のローファー、部活動用スニーカーとも違い、足型が特殊な形を取っています。その足跡を、雪解け水を使って意図的に、ほんの一部分でも残した。もしこれが作為的であることを免れようと思ったら、スニーカーを履いて誤魔化すでしょう。けどそれをしなかったのはあえてここに辿りついてもらうためだったんでしょう?」
この言葉に、志津さやかは沈み込んだ息を吐きだし、その最後にようやく口を開く。
「やはり探偵の方、それから刑事の方の眼をくらませることは出来ませんでした。どう足掻いてもわかってしまうものだとは理解していたんですけど。無理でしたね」犯行を認め、苦笑いをする。
「そうか。だとするなら、尚更不思議だな。理由はどうあれ友達の掌を突き刺すなんて、平常心でも、狂気であってもしないものだ」
「平常心であったことは一度だってありません。友紀がいなくなってから私たちは一度だってそんな気分にあったことはないのです」
「動機を話します」皆口ゆかも話し始める。
「志津さんは、さやかは、私の妹のために協力してくれました。白永谷さゆという人が今回の犯行をプランして、私たちがそこに乗ったんです。事件が起こってしまえば、警察は動かざるを得ない。あなたがケガをすれば警察は再捜査を開始し、今回の事件と関連性を見出すべく情報を集めだすだろうって」
「ゆかの話を聞いて反対はしました。しかし普通に友紀を探しても見つからない。警察に任せても時間が経つばかりです。ですが、もし上手くいけば、学園内や警察だけではなく、誰もが協力してくれると見ている部分がありました。今思えば甘かったんでしょう」
「私もそうした考えを完全に否定出来るほど、大人ではないよ」
「誰かに協力してほしいだけだった。理由はそれだけです。利用しようとまでは思っていませんでした。でも私たちは利用された。友紀を見つけるためだけに、こうした手段を選ばざるを得なかったことは謝ります。ごめんなさい」志津さやかは頭を深く下げた。顔を上げた時の、涙を皆口ゆかが傍で拭いていた。
「結局は白永谷さゆの思惑通りか」
「事件は解決したけれど、核心には届かない」
「でも、一歩前進、そう思いたいな。今度は私たちで友紀さんを見つけよう」
「そうしようよ。杏」
「そうするしかない。いや、そうしたい。二人とも、今からでもいい、探偵であるぼくたちの力なら、貸してあげられるよ」
「そうですね。そこからきちんと話せば良かった」
「今度はそう無茶なことはしない」
「そう、もちろん」それから皆口ゆかと志津さやかは皆口友紀が行方不明になったときのことを語り始めた。