2章
1.
「斧ノ目さん、去年のクリスマスに何があったか覚えている?」受話器越しに六旗朱莉刑事はそう問いかけた。ぼくに対して聞いただけではなく、むしろ自分で記憶するために聞いたのだ。話の焦点は互いに知っていたが、次の話はまだしていなかった。あの日以来、ぼくと六旗朱莉刑事は会ってすらいなかった。
あの事件と、最も密接に関係していたのは誰であるかをことさら思い出すために、その日のことを口にした。声の調子からしてまだ口の中に苦味が残っているみたいだ。たとえ表面的には冷静に語っていたとしても。
「もちろん」ぼくはそう答えた。覚えていないわけはない。
「街郊外にある総合病棟で起こった殺人未遂偽装事件。その事件によって出た被害者は花園緑という名前の女の子だった。事件の加害者、正しくは事件の実行犯、白永谷さゆを私は逮捕した」
「しかし釈放された」報道によれば、そうだった。
「そう。不起訴処分で。でも事件はまだ終わっていない。彼女の言葉を借りるならプロローグが終わったばかりだ」
「もうあれから四ヶ月は経ちますね。今ではぼくとアキとかえるちゃんの三人は学校に通っている。花園学園に。しかも同じクラスだ。偶然とはとても思えない」
「もちろん偶然じゃないと思う。おそらく全部あの人がやったこと。私の夫である六旗尊がね。私はあの学園の卒業生。あの人は特別に祝祭への参加が許された人。話はもう十年ほど前に遡るけれど」
「その話はまだいいですよ。いずれ、必要があったら聞くことにします。ただぼくらをここへ集まる理由、その目的が何かもぼくらには知らされない、当然あなたにも」
「そうね。もしあの人以外に知っているとすれば、それは白永谷さゆだけ」
「結局、彼女は何者だったのか?」少しの沈黙のあと、彼女は何かを読み上げた。署内のデーターベース、つまりパソコンの前でこの電話をしているのだろう。あるいはそのデータをコピーし、別の場所で通話を考えた。内容をまるっきり覚えた上で、身の安全をわきまえた上で。それぐらい彼女も出来るだろうと思い、会話を聞き取った。
「白永谷さゆは中学時代に、カット出身のモデルとして雑誌デビューした。それから今の事務所に所属した。彼女に関してこれ以上語るべき点はない。でも今は辞めている。去年のクリスマスの一件以外にも、前科はないか改めてみた。一つだけ見つかった。住居不法侵入でね。放火未遂と併せて、彼女は立件されかけた。ただ中学卒業仕立ての女の子の行ったこと、彼女自身が充分な反省を認めたからと大きく罪には問われてはいない。その程度だけどね。しかし実際には証拠不十分だったこともあり、不起訴されることもなくカタがついた。その時の身元引受人がかつてこの学園で教師をしていた人だった。偶然わかったことだけどね。名前も載っていた。けど、その人物は既にこの世にはいない。こんなの普通有り得ないことだけどね」
「しかし死んだ人間の名を名乗り引き取った人物を引っ張ることは出来ない」
「一度処理されたものを以上の理由で署内まで来てもらうのは、意外と苦労と手間がかかるものだって今回の件で改めて知った。そして今回も身元引受人がわからない。それに引き受けは、私の知らない時間に行われた。だから彼女はもういない」
「あからさまですね」
「またゲームのルールだと言うんでしょうね。彼女流の言い方をすれば、そんなところ」
「しかし肝心なことと言えば、あなたの夫である六旗尊は、ぼくたちにどんな要求をしているんです? わからないなり、あなたが思うことがあれば、教えてください」
「一つは犯罪に関わらないこと」数秒の沈黙のあと、ぼくは言った。
「つまりあなたにも検討がつかないんですね」
「全くね」
「白永谷さゆに会えば、少し、いや少しどころじゃないな、大きな前進といっていいのかもしれません。それほどの展開があると思ってもいいんじゃないですか」
「彼女が求めてきたのは、あなたたちを学園に入学させることだった。何が狙いかはそこでわかると言っていた。わざわざ転校までさせて、何がしたいのかはこちらも知れないところね。でも向こうが動きを見せるまでは学園生活を謳歌してなんて、あなたたちには言っていいのか、迷うところだけど」
「お気遣いなく。アキとかえるちゃんがいますから。探偵事務所からそのまま三人で来たと思えば少しは気が楽になるかな」
「何も起こらなければいいけど」
「でもそんなのは無理な期待です」
「まあね。じゃあそろそろ電話を切るから。また何か動きがあったら話し合いましょう。探偵さん」
「そうですね」ではまた、と言って電話を切った。二人が遠くから袋を手に下げているのが見えた。購買部で買ったものを食べるのは今日が初めてだった。傍から見れば、ぼくら三人は新学期早々仲良くなった同じクラスの女子三人としか思われないだろう。四月の天気のいい日にちに、校内のカフェで食事を取る姿はさして珍しくもないし、偶然のかけらもない。実際他愛もない会話がそこらで交わされて、ぼくらも同じようにそうする。夢を現実で充たすように、あるいは現実を夢で充たすように、話をする。まだ何も決まっていないことばかりを、決めているかのように、だらだらとぼくらは話した。部活の話だ。
「部活とかって入る? それとも探偵部でも作る?」アキは上級生から受け取ったサークル活動、生徒会、同好会のポスターの束を一枚ずつぼくらに提示する。テニス部、体操部、料理研究会、弓道部、スペイン語学研究会、生徒会活動などなど挙げれば切りがない。ここ花園学園は共学制が取られていない市内唯一の私立学校だった。つまりは女子高ということになる。前後は言わずもがな、右を見ても左を見ても文字通り女子しかいない。
教員に関してもまず同じことだが、唯一学園長だけが男性だった。入学式の際、挨拶の場に彼は立ったのだが、ほとんどの女子生徒の視線を釘付けにしていた。若く、聡明で、細く筋肉質な体型でありながら、顔もいい。夢に描いたような人物と言われればそれまでだが、本当にそんな人間はときたまいるし、環境によっては割といる。そして学園内における男性は彼一人だけだった。名前は橘公平。学生時代は労働と法律の関係を学び、卒業後は当学園での唯一の男性教師として、社会政治法律の重要さを生徒に教えていた。どのような過程があったのかはわからないが、先々代の学園長の推薦もあり、昨年度においてこの学園の長となった。先代の学園長は別の学校に転任扱いとなり、昨年度の交代時にここを去った。
そして週に一コマだけであるが、授業を受け持っていた。政治経済だ。その受け持ちになったクラスは幸運だと言われている。至福の時間なのだと。一クラス三十人前後と数え、その三十人はその時間を過ごしたから将来が約束されたものだと大げさな事を言う人もいる。しかしこの幸運がある程度実績を持っているからには、半ば否定は出来ない。この五年間彼が関わった仕事は全て上手くいっているし、受け持ったクラスの進路先から見て彼がその要因の一つを担っていることも明らかだった。学園以外にも、保護者からも他校の教師生徒や教育委員会、海外の姉妹校からも真に好意的に見られていた。つまり完璧と言っていいぐらいの教育の歴史が彼に寄り添っている人材。しかしそれはこの学園の施設完備や教育方針があった上に成り立っているのだと当の本人は自身の貢献についていくぶん控えめに答えていた。
アキが持ってきた部活勧誘のポスターにはそれぞれ、橘学園長公認の朱印が押してあった。つまりどの部活動に入っても、入った人間の一定以上の成績は保証されているのだというしるしを意味するのだと思う。それ以上に、この朱印が活動を充実させる自信と環境が揃っていることも示していた。
「部活かぁ。私はね、やっぱり演劇部に入りたいな」演劇部のポスターには学校祭行事等による年十二回の舞台公演他、他校との共同演劇にも参加できますと書かれてあった。
「そりゃあ、かえるちゃんはね。私たちには難しいじゃん。コスプレしているみたいになっちゃうし」かえるちゃんはくすっと笑った。
「それもそうだね。だって二人ともこの前、カラオケに行ったとき、すごくぎこちなく踊っていたでしょ」一週間前のことだ。
「それはぼくらが運動不足なだけだ。経験値も低いから。でもレベルを上げたところで技術的に改善する見込みと、推理に費やす研究の報酬を比べれば、後者の方が圧倒的に向上する。つまりぼくらには向いていないな。部活は止めよう。それよりも白永谷さゆを探すべきだ。生徒名簿ぐらい見せてもらえるはずだろう?」いちごのサンドイッチをかじって、魔法瓶に入ったコーヒーを飲む。
まず手始めに、彼女を探さなくてはならない。白永谷さゆという名前でここに通っている以上、彼女は一年生のクラスのどこかにいるはずである。その次に彼女の身元引受人であったとされる人物と会うこと。つまり最低二人の人間に話を聞き出さなければ、次の段階へ進むことはない。
「その肝心の白永谷さゆ、だっけ? 彼女ね、今日、学校に来ていないって」かえるちゃんはそう言った。
「なんで知っているの?」
「先生に聞いてみた。C組にいるんじゃないかって。それでさっき見たけどそれらしい人はいなかった。気になって近くにいたC組の子に聞いたら、今日はいませんってさ」
「だとするなら明日にするしかないね」
「そのようだね。でも私たちが彼女に会って話を聞いたとしてもね、素直に本当のことを喋ってくれるのかな」かえるちゃんはメロンパンのフィルムを剥がして、ひと口かじった。
「例え嘘でもぼくらは信じざるを得ない、そう思わないかな。というのは他に判断する材料もなければ、判断しない選択肢の先にはぼくらには何もないんだ。何もない、というのは彼女たちに関わらない先にぼくらが選ぶ選択肢はないっていうことなんだ。つまりぼくたちには最初から向こうが用意したものに乗っかるしか手は残されていない」
「けどね、杏ちゃん。私が思うには少しくらい泡を吹かせてやってもいいんじゃないかなってことだよ」かえるちゃんは人差し指を立てて、手はずがないわけじゃないと示す。
「翻弄されるだけで終わるのはちょっともったいない気がする。つまり彼女のシナリオにないことができたら、それは少しぐらい向こうも驚くんじゃないかってこと」
「でもどうするつもり? 具体的に何かあるのかな」
「いや、まだないよ。何も」
「思いついたら教えてくれるかな」
「勿論だとも。アキちゃんにも言うよ。だからそれまで待っていてね」
「うん、わかった。で、今日さ、どうする?」とアキは言った。
「やっぱり見学に行ってみたいな」とかえるちゃんは言った。確かにそうだなとぼくも賛成した。
放課後ぼくらはいくつかの部を見学した。料理研究部に行ってお菓子作りを体験し、郷土歴史研究会に行ってこの街の歴史をパワーポイントで学ぶ。最後は演劇部に行って昨年の学園祭の舞台花園クロニクルをスクリーン視聴させてもらった。
演劇部の部長さんが熱心なタイプで、台本のサンプルを一人ずつに渡していた。きちんと製本されて、美しくフォントされている形だ。ページ数はやや短いが、その分内容は濃く、構成が練られていると感じた。
「君は確か、ああどこかで見たことあると思ったら、ドラマに出ていたね。確か。もし君が入ってくれるなら今年の学園祭はすべからく成功するだろう。今日は見学者がいるけど、実際に部に入ったら、舞台に出る人数を絞っていく。だから主演倍率はここにいる数より見積もって少ないと考えてもらうといい。でも演劇部に入ることがなかったからといって、演劇が出来ないわけじゃない。学園祭の舞台はクラス抽選で選ばれたところが担当するんだ。だからもし抽選で選ばれることがあれば、是非やってみてほしいな。もちろんどちらも、ということだけどね」見学が終わったあと、ぼくらは地下鉄に乗って事務所へと戻った。夕食の買い出しが一人分増えたが、きちんと調理されたものを家で食べることが日課となりつつあった。かえるちゃんがぼくらよりも料理が上手なため、最近では家で食事をする日が多くなってきたのだ。
三人とも学校に通っているため、調理はごく簡単なものにならざるを得ないとかえるちゃんは言う。確かにそうだ。ぼくら二人もそこまで食欲に関しては熱心ではなく、もしある程度整ったものを口にしたければやはり外で食べるべきだと考える選択を取ってきた。といいつつも、ぼくら三人は探偵事務所を居に構え、かえるちゃんに関してはタレントの仕事もしている。彼女は高校卒業までは仕事量を抑えることにするとぼくらに言った。それもやはり事件の影響とも言うべきなのか、この顛末に積極的に関わろうとすることで一つの責任を果たそうとしているのかもしれない。しかしこれもぼくらから見た考えで、予想とは反している可能性もある。事実彼女はぼくらとの生活を楽しいと言ってくれているし、料理のみならず掃除洗濯も率先してこなしている。そこまでしなくてもと言ったことがあるけど、これは好きでやっているのだからとぼくらが全くといっていいほど手をつけなかったシンクの汚れを落としていたのが印象に残っていた。
牛肉の焼けていく匂いがこちらまで漂い、じゃがいもを油で揚げる匂い、それからスープの温かみが部屋を潤していく。お米が炊き上がり、それがこちらまで到着する頃にはぼくらは行儀よく席に付いている。まるで子供みたいだと彼女が言う。
「確かにね。しかしこれだけのご馳走作れるなんて、どこで覚えたの?」
「あの病院だよ。料理以外にも、服飾や運動力学についても学ぶんだ、あそこでは」
「かえるちゃんは何でも知っているの?」
「何でもじゃないよ。少なからずのことは知っているだけだよ。そして君たちは推理することなら勉強を怠らない」
「ま、そうかもしれない」かえるちゃんが用意した料理、前菜代わりのトマトとブロッコリーのコンソメスープに、塩をさっと振ったフライドポテトにパン粉を多分に含めたやわらかなハンバーグ。そして米。夕食は誰一人食べ滞ることなく、進んだ。
胃が満たされたあとで満足な思考を巡らせるのは難しかった。アキもかえるちゃんも自室に帰って早めの就寝を宣言するとリビングにはぼく一人だけとなった。かつてのように、探偵事務所を一人で始めたときのことを思い出す。
かつてぼくは一人の探偵だった。今が違うにしてもその時点では一人であること以外に選択肢はなかった。誰かと一緒にやるという発想はなかったのだ。それからアキがここに通うようになり、かえるちゃんがここにも加わると既に昔のことを思い出すことはなくなってきた。いつか誰かに一人のときを話そうとは思うけど、今はまだいい。そう思いふけりながら、手元の探偵小説の続きを読んでいると電話が鳴った。事務所にある電話は夜切ってあるので、もし依頼があればこちらの子機にかかってくる。しかしそんなことが今は稀になりつつあるので、どうせ間違い電話か勧誘かと思っていた。本を閉じ、受話器を取りに行く。相手は誰かと思ったが、名乗り上げたことで思い出した。白永谷さゆ。彼女の声だった。調子からして向こうも落ち着いた場所にいるらしいと見た。
「もしもし?」
「はい。こちら斧ノ目探偵事務所ですが。ご用件は?」
「ああ、あなたは確か、斧ノ目杏。探偵」要件ではなく、名前を言ったことで相手が依頼人ではないとすぐに感じた。
「どちらさまでしょう」あえてぼくはそう言った。
「白永谷さゆ。もう忘れたの、探偵」
「あなたか。で、何のようです?」
「依頼したいことが一つあるの。別件でね。いささかややこしいことになりそうだから」
「別件? 出来ればそちらで上がった問題はそちらで対処すべきでは、と思いますが」
「まぁ予想はしていたことだけれど、私には専門外のことでね。もちろん仕事に対する報酬は支払うけど、いい?」口ぶりからして、こちらが断る前提は頭になかったようだ。
「危険な仕事は引き受けかねます。しかし何よりもまず依頼内容を知らなければいけない」
「簡単な仕事ね。明後日ある問題が持ち上がるから、それをあなたたちで解決してほしい。どう、簡単でしょ?」
「学園で?」
「その通り。もし問題が持ち上がらなくても報酬はきちんと振り込む手はずになっている。だからあなた方に不利益になることは決してない」
「そちらから見た場合ですがね。しかしなぜ敵だと思わしき相手に依頼するんです? その辺りが今一つわからないな」
「確かに犯人と探偵の関係から見たら、敵同士。そう言っても構わない。でも事情がどうであれ、互いを必要とする犯人と探偵も存在するんじゃない。この世の中には」
「思惑によりますね。前だってそれを求めた。そして今回も」遮るように彼女は言った。
「今回は違うと言える。これから起こるであろう問題を見れば、それはすぐにわかるはず」そう言われても信用しろというのは無理な話だった。どんな依頼内容にも不明な点というのは少なからず出てくる。しかしその大半の疑問は、任務遂行と共に解き明かされるのが定石である。だが、前回を思い出してほしい。あからさまに罠を見せられその線を踏んだのだ。ぼくたちは。何のために。それも不明なのだ。それが解き明かされるのなら、進んで引き受ける義理は生まれたかもしれない。でも今は否定すべきだった。
「断るよ。引き受ける義理も理由もないな」
「そう。でもあなたは関わらざるを得ない立場になる。きっとね。また明日もう一度電話をかけるから、それまであなたの仲間と相談でもしておいてね」そう言って電話は途切れた。言いたい事の半分も言わなかったが、それでもひとまずこちらが怒っていることは伝えたつもりだった。二回目がないことを祈りたいが、それは無理な話だ。こちらでなくそうと思っても、向こうは何かトラブルを抱えているみたいだ。いずれなるトラブルを。六旗朱莉刑事に電話をし、断る旨を伝えた。出来ればこの依頼を引き受けてほしそうにした声の調子だったが、断ってもいいと言ってきた。しかしそうもいかないのかもしれないと考えるようになったのは、次の朝だった。
翌朝、二人に昨夜の電話のことを伝えた。白永谷さゆからの依頼が来たんだと。二人の意見は依頼を引き受けるべきだという結論だった。ぼくからすれば、どんな種類の危険に巻き込まれるかわからない以上、簡単には答えなくなかったのだと言った。昨夜はやや否定的な心情だったことも含め、少なくとも引き受ける選択肢は存在しなかった。しかしそれでも今一旦この依頼を自分以外の誰かに提出した時点で、ぼくはこの依頼を本当は引き受けなければならないと感じていた。言葉にした時点で。彼女の依頼に対しての何らかの返答、譲歩か条件付きかは違えど、結局のところ前向きな検討を考える段階にいるのだと悟った。もしそれ以外に道があったとしても。
「どのみち私たちに出来るのは依頼を引き受けることであって、断ることじゃないな。もし今断ってもね、別の道筋で彼女たちと関わることを強いられるかもしれないよ」
「言われてみればそうだろう。でもぼくとしては嫌な感じなんだ。準備不足ということも大きい。しかし引き受けなきゃいけないとも感じ始めているんだ。不思議とね。昨日は断ったのに」
「でも引き受けようよ。これは。あの刑事さんのためにもさ」
「確かにね。今はそれだけしか、依頼を引き受ける理由がないからね。わかった。三人で協力していこう。ぼくらならきっと出来る。そう思うことにしよう」それから三人とも微笑むが、一種の保険のように、自らの将来を安心させるための微笑みだとこのとき感じた。大抵こうしたケースのとき、相手も同じことを感じ取っている。目の色を見ればこれもやはりわかることなのだ。
とはいえ、何をするべきだろう。事件を意識して待つことを余儀なくされたのは、探偵として良きことなのかどうなのか今ひとつわからない。全ての仕事は依頼と依頼されることの繰り返しによって成り立っている。とするならば探偵は初期に依頼の告知こそはすれど、あとはひたすら待たなければならない。仕事が来るまで。この待つという行為をひたすら続けたあとで、次もまた耐え忍ぶ、中長期間に渡っての思考が要求される。大抵の依頼、これは浮気調査だが、浮気相手との密会現場の証拠写真を求められた場合、これらの行為は要求される。粘り強く、確証を見つけ上げなければいけない。写真、動画、なんでもいい。だがそれらの行為の中に自身の欲求は存在しない。純粋な視点という意味おいて。そしてそれがどこまで自らの意識下にあるかは正直定かではない。相手の代わりに成すべきことを成すのだから、そこに自分の思考は本来入りようがないけれども、それでもぼくの脳内には何かしらの個人的な思考が生まれてしまう。
しかしそれだって相手がぼくにそんなことを求めた結果生まれたものではありはしない。振り返ればみんなそうだ。依頼主は基本的に自分か誰かの身の潔白だけではなく、相手の身の、文字通り一部分を他人、この場合、探偵に確実に残されることを目的としている。浮気であるなら、目的は離婚それから賠償金へと繋がる。その他のケースもやはり金銭か人身か、そのどちらかの潔白さかそれよりも身勝手な振る舞いを許容するための一準備といった体で依頼をしてくることだって多い。
このような前提をいくつか並べ立ててみたが、当然答えは出ない、答えが出ないのは理解していないのではなく、理解をする手順はこのあとに来るからだ。つまり理解のあとに行為を取るのではなく、行為のあとにその理解をする。今のこの状況は白永谷さゆたちが行為を先に用意して、ぼくらに行為を辿らせる。それからぼくらが理解する。事態はそうして進行している。今のところ。目的は六旗朱莉刑事が、夫と再会する手はずだというが、それだってどこまで真実味があるか定かではない。より深いレベル、もしこれがあるとするなら、より社会的な、正当性のある理由があってもおかしくはないし、その方が腑に落ちる話だ。
だが今はその真意を話せないのかもしれない。より密度の高まった地点でなければぼくらと六旗尊は話し合えないのかもしれない。そのプロセスとしてあちらで持ち上がった問題を一つ一つ解決していく。そして二人が出会うための道を用意する。正しくこれがぼくらの仕事だと言うべきだが、しかしこれもやはり歪んだ、螺旋のような階段を上りゆく道にしか思えない。
その日の夜にぼくらは白永谷さゆの電話を取り、依頼を正式に引き受けることを伝えた。彼女の表現通りなら、事件は明日か明後日起こるかもしれないのだと言う。だがどのみち時間は限られていたし、対策と呼べるものは何一つなかった。一応話し合いを持ってみたが事前に防ぐにも情報がなかった。
どんな事件にも何かしらの資料と呼べるものは依頼主から提供されていた。例え嘘でも真実でも、それほど差異はなく、依頼を遂行するにあたっては大きな支障にはならなかった。でも今回はそうではない。何か事件が起こるから、解決しろというのは、どう見たって無理な要求である。世界のどこかで事故や事件が起こるからといってその全てを防ぐないし、上手く解決解消するなど手には負えない仕事ではある。彼女の依頼からしてぼくらの状況から見て、学園内にひとまず視野を収めればいいはずだが、それでも生徒三百人、教職員四十名弱、校内スタッフ十数名もの数が朝から夕方晩まで行動している範囲をくまなく監視、調査は不可能といっていい行為だ。
とすれば要求はある程度予想がつく。向こうだって起こる事件全てを解決しろと言っているわけではない。少なくともそういう依頼ではない。見るべきポイントは限りなく、絞られているはずだから。要するに、白永谷さゆが姿を現した事件の現場そのものに視点をフォーカスすれば、ぼくらが捜査する事件はたった一つに定まるのだ。
それから事件は起こった。時刻は次の日の夕方を指し示していた。
2.
ぼくらがその場に居合わせたのは偶然だったのか、彼女の想定通りとも言うべき範囲に足を踏み入れていたのかは定かではない。だとしても今現在の状況を整理するなら、まず始めに盗まれたものがあり、それは事実であるということだ。盗まれたものは、演劇部の台本である。二つ目は詳細を後で語るが、その盗まれた本にまつわる神話めいた語りをどう捉えるかによる。これもやはり信じる以外に方法はないという種類の話かもしれないが、追々調書に残していくことにしよう。三つ目にどのようにしてその台本を盗み出したかということについて考えを張り巡らせなければいけない。というのは台本のあった部室には鍵がかかっており、その鍵は職員室の鍵保管部という別室に保管されていた。ここでは管理人こそいないが、入る際には必ず教職員一人と生徒一人が同伴で入室し、使用する部室の鍵を取る手はずになっている。入力方式つまりパスワードを順々に押してロック解除されなければ鍵は手に入らない。肝心の部室はというと鍵一つで開くことになっていた。
演劇部部長である本田陽加からの証言を元にこれから彼女が調書を取る。しかし正式な事件ではない以上、多少砕けた表現が混じることもある。以下ご了承頂きたい。
「今日からの話? ええ、いいけど。今日部室を訪れたのは、昼休みのときね。うん、確か学園祭演劇で使う台本を友達と一緒に見ていたの。良香のやつと一緒にね。で、それから部室を出て教室に戻った。彼女とは同じクラスだし、よくご飯食べたりする仲だね。遊びにも行くけど。だからそれ以外のことを思い出すのは難しいかな。だってそのあいだに盗まれたわけでしょう? その台本がね。盗まれた時刻かぁ。わからないな。気づいたとき? ああそうだね。正確なところを言うと午後四時十六分だね。職員室に鍵を取りに行ったのがその三分前だってことが記録にあるから、その時間でいいと思う。うーん、なぜこんなものを盗むのか、私にも基本的には検討がつかないよ。だって何の変哲もない台本だもの。でも特別と言えば特別だね。まあこれには理由があるのだけれど、ちょっと聞いてくれるかな。この学園を代表する演劇科目、花園クロニクルの歴史から、全部ではないにせよ、かいつまんで説明しないとなんでこれが盗まれたのかわからないからさ。うん、部室狭いけど、ま、座って聞いてよ。うん、椅子。それで花園クロニクルがいつ成立したかってところだね。まずは。あれを書いたのは当時教員の立場であった橘先生の祖父の友達らしいの。この学園のずうっと前の学長さんが演劇部を立ち上げる際に学園の模範となるべき作品を、ということで友達の作家に依頼して、書いたもらったものだってことね。ちょっとややこしいでしょ。そう、大丈夫? じゃあ続けましょう。でもお話って年月と共に古びれていくものじゃない。だから代々演劇部の部長を務める人物がこの台本を読み、演じる人が演じやすいようにと、台本を書き換えることが許されている。もちろん一定程度だけどね、脚色をいじるぐらいだったら全然平気だって私の先輩も言っていた。つまり今手元にあるのは今年の学園祭用に私が書き換えた、翻訳したって言ってもいいかな、その台本なんだ。だから盗まれたのはその一番古典とも言うべき書物で、簡単に言えば、オリジナルがパクられちゃったってこと。だから私たちとしてはとてもとても困るんだ。盗まれるとね。とまあ、ここまでが前提。しかしね、話はまだ続くんだ。
ここまでは真っ当なリアリズムの範疇に収まる話だったんだけど、ここからは違う。完全にファンタジーの世界だと勘違いする人がいるかもしれないけど、何かを信じるという行為がもし正当化されるなら、この話も正当化される話かもしれないね、きっと」
一旦口をつぐんで、本田陽加部長は注意深く、しかし軽やかさも減らさずに花園クロニクルにまつわるおとぎ話を始めた。
「この物語は運命の人に出会うための書物なんだ。バイブルといってもいい。この物語で主演を演じた二人は文字通り運命じみた半生を辿るようになる。時の王子と血園姫は一度愛で結ばれるけど、理由あって離れ離れになる。時の王子は町を出て放浪の旅に出る。その間、血園姫は別の王子と婚約をする。しかし町に偽りの魔女がやってきて、町を混沌へと導き、謎の病気が発現し砂の像になって死んでしまう。その噂を聞きつけ、町に戻る時の王子だが、かつて愛した姫にはパートナーがいて、ショックを受ける。それでも時の王子は偽りの魔女を見つけ出し、刃を刺して倒すことに成功するが、彼も砂になってしまう。あらすじは大体こんなところだ。主役になった二人はそのあとの人生、一度は結婚を約束した相手と出会うけど、何か理由があって別れてしまう。その後別の男性と結ばれるんだ。そして何かのトラブルに巻き込まれ、時の王子に当たる人はトラブルを解決して、死ぬ。これって一つの人生みたいでしょ。まあ統計資料があればいいんだけど、これは一応みんなそうなる道を辿っているのね。うん、信じられないね、だからファンタジーのようなお話なの。そしてこれを盗んだ人がこの物語を再演すれば、願いは叶うことになる。一字一句、体で覚えて吐き出せば言葉は自然と取り付くようになるから、魔力は宿るものだけど」
第三の点についてはどう思う? 思い当たる節はあるかなとぼくは訪ねた。
「さっぱり、かな。うん、さっぱり。というのはどうやって盗んだのかもどうして盗んだのかも私にとってはさっぱり、なのかな。わからないと言っていいと思うけど、盗み出す動機なんてあったとしても盗み出したものに価値があっても、愛とはそもそも幻想じみていると同時にものすごく現実味があるじゃない。どう至ってもね。だからもし盗んだとしてもその人は願いが叶うかもしれないけど、願いが叶った後の人生ってどうなると思う? 愛する人との別れを必ず一度は経験するんだよ。それからまた愛する人と出会うことがいくら運命づけられているからといって、今愛している人をわかった上で犠牲にしにいく精神はちょっと理解できないな。そして再び愛する人と出会った人生は上手くいくかはわからない。本人が未熟なままに、演じて、未熟なままに不釣り合いな願いが叶う。これってやっぱり、うん、やっぱりなのかな、ツケが回ってくるものだよ、きっと。だからこそ、うん、でもね、主役を張った人たちはそれを乗り越えるだけの力があったからこそ、完璧かそれなりかそこそこはさておいて、幸せそうな暮らしをしている。卒業生の写真が何度か送られて私も見たことがあるのだけど、きっぱりそこには幸せが記されていたのね。それがそのまま写真の解像度を示しているくらいにね。まあ犯人が誰かはわからないけど早く見つかった方がいいと思うな。台本を盗んだって話を警察にしてもたぶん動かないかもしれない。コピーと既存価値である台本のオリジナルを釣り合わせている間に、花園クロニクルは不正に運営され、運命の出会いが不当に始まってしまう。不当に始まってしまった運命の出会いは、いつか不当に終わる。止めるのなら本当に今しかないのかもしれない。もしそれを逃してしまったら、その人たちは愛を捨ててしまう。今最愛の人から別れを告げられたらもう愛することなんて止めてしまうかもしれない。そういう人生に妙に歪んだ影を落とすのはちょっと今はめんどくさいな」
「話してくれてありがとう。台本を取り返したら、ぼくたちもその劇を見に行くよ。練習しているところも一度でいいから見てみたい」
「もちろんいいよ。でも実はまだ主役が決まっていないんだ。私としては花園さんに血園姫をやってもらえたらなって考えている。引き受けてみるかい」かえるちゃんはいいと思うと言って頷いた。
「でも相手役はどうするの」
「それはどうしようかな」と本田陽加部長は言った。
「私やってみたい。どうですか先輩?」アキが手を挙げたが、本田陽加部長はその手を見て、見なかったことにしようと言った。アキは凹みながら、一旦部室を出て、出来上がった調書のコピーをぼくら二人に渡した。ぼくらが彼女を怒らせないよう、なだめた時間があったのはもちろん言うまでもない。
3.
部室を出て廊下の突き当たりに向けた視線を遮る視線を感じた。見覚えのある顔。既に知ってしまった顔だ。白永谷さゆは制服姿が嫌というほど似合っていた。洋服のことをよく知っている人間特有の知識も垣間見えるほど、調子よく、それも上品に靴音を鳴らしてこちらへ来た。
すれ違う生徒数人が彼女を見てかわいいと呟くのが聞こえた。しかしその声に振り返ることもせずに、ぼくたちに微笑む。
「そんなに嫌な顔しなくてもいいじゃない。綺麗じゃなくなっちゃうから」
「この事件も、君が仕組んだのか」
「白永谷さん」
「かもしれない。でも一つだけ教えてあげるけど、私はね、火種に火を付けただけ。あの子には元々そういう素質があった。放っておいても、別の問題を起こすってこと。そしてあの子の恋の欲望は普通の悩みとさして変わらない。美しい。だけど、人によっては憎しみにも変わるものじゃない。どういう形であれ、ね」
「台本を盗ませたってことは、実行するつもりなんでしょう」
「あいにく私は台本には興味がないのね、悲しいことに。そしてタイムリミットは今もこうして迫っている。けど、こんなところで無駄話を続けるつもりなの」
「そんなつもりは一つもないよ。依頼人を相手にするなら、確認事項も必要手順だ」
「そう、確認事項ね。ああ、私としたことがね、契約書を用意しておくの忘れちゃったから。後で送っておく。ちゃんと明後日には届けてあげるから。当然、事件が解決してからの話だけどね」
そう言って彼女は階段を降りていった。まるで舞台奥に下がっていくように、静かに、とても自然にこの場を去って行った。
ぼくらは事務所に戻る前に、手分けしてこの学園の見取りを改めて確認しに行った。ルートからして当然とも言うべきか、不審人物が学園に侵入したという形跡もなく、記録も報告も上がってはいない。とすれば内部にいる人間の計画ということで意見の一致を見た。あの子には、という言葉も引っかかった。彼女と共演歴のある人物という線もあったがそれはない。生徒であるから教職員は最初に除外するとして、残るは生徒のうちの誰かしかいないという途中経過となった。ここから一人に絞るにしても、それは限りある労力を途方もなく浪費するに過ぎないことを予告しているようなものだった。
帰って夕食を取りながら、各自の考えを交えることとなった。
人数を圧縮するためには、それなりに検索ワードを分けてかける必要があるとかえるちゃんは言った。
「でもその方法を知りたいんだ。恋の悩みは誰にも持ちうるものだし、一人一人に聞いて回るのはかえって取り越し苦労になる可能性も高い」
「動機は恋の悩み。鍵は掛かり、窓には戸締りはしてあると考えていい。誰かが鍵を手に入れ、台本を盗んで部屋から出ていって鍵を戻す。でも職員室から鍵を持ち出した人はいない」
「鍵のコピーって作れるよね?」
「でもわざわざ台本を盗むために鍵を複製する必要があるかどうか、それにここ数年盗難防止のために教職員の人によって鍵も厳重に管理されて、しかも鍵貸出リストにはきちんと名前が記載されている。そう考えると難しいな」
「それでその犯人の目星ってついているの」
「わからないな。論理的にね。部員の財布を狙ったわけじゃなさそうだ。そして部室が荒らされた形跡もないから、やっぱりここは台本が第一の目的だ」
「つまり白永谷さゆの思惑通りに事は運んでいる」
「そして六旗尊の考えの通りに」
「じゃあさ、あれが魔法の本だっけ。そういう類いのものだとするでしょ。信じているってところをどう見たらいいと思う」
その時ドアホンが鳴った。アキが見に行って、戻ってきたときには六旗朱莉刑事が後ろについてきた。
「食事中だったのか。悪いな。しかしお邪魔させてもらえる。事件が起きた。そう聞いている」折りたたみ式の椅子を見て、それを開いてぼくとかえるちゃんの間に座った。
「ご飯ありますけど、いります」
「いや、構わなくていい。それよりも今度の事件、君たちはどうするつもりだ。今回の件に関して言えば、私や他の警察官の協力は仰げない。それをわかっているの」
「もちろん。しかしそう焦る必要はありません。こちらもちょっと興味があるんですけどね、六旗朱莉刑事の旦那さんってどんな人だったんですか。そしてもう一つ。今、六旗朱莉刑事は恋に落ちたりしていませんか」
「二つ目の質問はイエスでありノー、だな。私はあの人のことを忘れていないんだ。今でも。一日たりともね。なんにせよ、私はあの人の嫁だから。しかしこうして何か突き動かす計画があるのなら、私はもうそこを避けて通るような真似はしない。まあ前回の事件も含めてあの人が関わっているかもしれないんだ。少しぐらい彼のこと、知っておいてもらってもいいのかもしれないな」
「馴れ初めかな」
「そうだ。最初に出会ったのは高校生の時だった。提携校であった彼が交換生徒としてやってきたことが始まりね。約半年間、学園祭も含めた行事、学業の時間を共に過ごした。同じクラスだったし、席は隣同士だったけど、ほとんど口を聞くことはなかった。互いに人見知りだし、二人きりで喋っていると嫉妬を浮かべる人たちも少なくなかったからね。でも彼が孤独に生きる相手だとわかって、みんな恋の相手とみなさなくなった。程なくして学園祭演劇で、私と尊さんは主役を演じた。恋仲はそれからの話だ」
「そして」
「そう。それから私たちは同じ職業を志していることがわかった。同じ警察学校を出ようと勉強も始めた。結果受かって、彼がいなくなるその日まで一人の同僚として、一人の恋人として、一人の妻として、あの人と一緒だった。でも楽だったわけじゃない。仕事が仕事だ。血も泥も涙も見ることはあった。ない日々もあった。そんなところで仕事を共にしていれば恋に落ち続けることはないが、恋とはまた別の種類の情が湧いてくるものだ。でも私と彼はそれも恋だと勘違いしていたんだ。経験不足というものは実に恐ろしいものだ。同僚の子に聞いたらそれは勘違いだと言われた。確かにそれもそうだと思ったが、遅かった。結婚することを真剣に考えたんだ。まあ職場恋愛が禁止されているわけじゃないし、私たちはそれなりに大人だったこともあるし、なんにせよ意見は一致したし、タイミングも良かったと言える。環境からして結婚に反対する人は誰一人としていなかったんだ」
「でも仕事は年々忙しくなる。二人の時間を持てなくなることもある」
「そうだ。勤続年数が続けば当然その分、昇給査定や内部昇格会議みたいなものに誰彼かけられるんだ。噂レベルも含めてね。それで六旗尊は出世した。刑事にね。私は警部補だったけど、おそらく彼が進言でもしたんでしょうね。おかげで彼がいなくなったとき、その遺言なのかはわからないけど、人材の都合上私が彼の仕事を引き継いだ。彼がいなくなった原因はわからないけど、ちょうど一年前の四月にいなくなってしまった。しばらく立ち直れなかった。また仕事に復帰した後、花園さんに会った。そう思ったら、それは旦那が仕組んだかもしれない事件だなんて、馬鹿みたいじゃない」
「確かに馬鹿みたいかもしれないですよ。しかもまだ事件は続くような気がしてなりません。こんなことをして何を成し遂げたいのかわかりませんけど、少なくとも彼はあなたに会うための手段として今回の事件を作り上げている。前回のも含めてね。しかもそれを警察が制御出来ないような微妙な問題を刷り込ませているが故に、動ける人間は特定される。ぼくらや妻である六旗刑事が動かざるを得ない状況を着実に作り上げてきている」
「会ったら、一度張り倒さなきゃいけない。まあそこまでされることだって織り込み済みなのかもしれないけどね。彼にとっては」彼女は席を立って、椅子を再び折りたたむ。
「もう行くんですか」
「ちょっと寄りたかっただけだ」
「あぁ一つだけ聞いてもいいですか」かえるちゃんは彼女に訊ねた。
「なんだ」
「恋に効く薬ってありますか」
「忘れることだな。私は忘れられなかったから」
「わかりました。明日には事件は解決出来るかもしれない」
「かもしれないが多いな。それだけ翻弄される立場なんだな、私たちはお互いに」
「そうかもしれない」そう言ってぼくらの食卓から、彼女は去って行った。
4.
次の日の昼休みの時間を使って、ぼくらは再度考証の余白を探した。考え足りない箇所を理詰めていけば、有り得ない可能性は徐々に減っていき、結果として、最適解なるものが思い当たるはずだ。最終的に思い当たった理論を先に言えば、より具体性を欠いた動機、トリック、アリバイなるもの、より抽象性の高まった、決して犯人ではない唯一他人の行為。これが白永谷さゆの求めた一つの解であり、そしてこれはぼくらの思いついた解でもある。その色は確かに、塗りつぶされたのだ。絵のように、線の連なりから一つの形が今はっきりと見えたのだ。
ぼくらはそれを確かめるべく、演劇部の部長と演劇部部員、そして部長である本田陽加の友達を集めてもらった。
これは犯人が誰か確かめるという単純な行為にして、複雑な手順を一つ一つ、一手ずつ詰めていく、いわばチェスゲームを再現するようなものだった。過去を今現在において再創造するに相応しい、純粋な推理に近づくための行為だった。
5.
「証拠を集めることは正直難しい問題でした。というのは、証拠というのは大抵形のあるものを指しています。したがって形のない証拠というものは立証性が低い以上、形のあるものよりは優先順位は必然的に下げられることになります。しかし一部、物的な、しかも単純なトリックを使えば、それ自体が一番の証拠になるでしょう。いいえ、ここではトリックということさえも控えた方が良さそうだ」
「いい言葉たちだ。これなら君に時の王子役を据えても、きっと上手くいくだろうね」
「ありがとう。でも、その前に一つ確かめたいことがある。この本棚の掃除は最近いつしたのかな」
「うーん、実に答え兼ねるんだけどね、あまり掃除はしていない」部員はおろか、ぼくらもこれには笑う他なかった。
「でもまあ学園祭が終わったらね、うん、綺麗に、もっと綺麗にしようかと考えていたんだよ」
「そうですか。では、今回の台本が盗まれた件と実際に有り得る、鍵を使わずに開けた状態にする方法を検証していきましょう」そう言うと、かえるちゃんがポケットから今日もらったプリントのコピーを手に、それをある形に丸めて、くしゃくしゃと音を立てる。
「鍵のタイプは古いものが使われています。錠に鍵を差し込んでひねるもの。鍵の錠にへこんだところがある、その穴に紙くずなどを丸めて仕込めば、一時的であるけどロックは甘くなる。例え鍵を掛けても、不完全な状態を取り、このように開けられる形を取ります。あとは一人で仕込んだ錠を開いて部室に入り、台本を盗む。出るときには紙くずをまたセットして、今度は外側から外せるようにしておくんです。もし落としたとしても、ゴミが落ちているだけだと認識するのが普通ですし、その方法なら鍵を盗むよりは早いのではないかと言えます」
「でもそれなら誰でも出来るんじゃないかな」
「確かに盗まれているのなら。しかしぼくが問題にしているのはここではありません。もし犯人と思わしき人に、盗んだと問いかけてもこの質問は無効化される可能性を孕んでいます。しらばっくれることも、言い逃れもする必要もない行動を犯人は取っています。いや。犯人と言うことさえ、無効化出来る状態に犯人はいます」
「ややこしい言い方だな。しかしね、それでは犯人が何も盗んでいないことを言っているのに等しいよ」
「正しくそうなのです。ぼくはその人を犯人だと断言することは出来ないのです。彼女は盗む計画を立ててはいるけれど、その下準備としてこの騒動を起こしているに過ぎないのです。つまり彼女はまだ何も盗んでいないんです」
「杏。それって、どういうことなの」アキはそう聞く。周りの人にはまだ説明が足りないと感じる。確かに説明がまだ足りてはいない。かえるちゃんはその限りではないけれど。
「犯人は非常に巧妙な心理を突いてきています。犯人がもし盗んでいないのに、ぼくたちが盗んだと断言すれば、それはぼくたちが良くないということになります。証拠もないのに不当に糾弾した、そう受け取ることが可能です。しかし犯人である以上、そこには明確な動機と計画が存在し、その計画の一つに事件を仕立て上げることがある。犯人はどうあっても、この場を切り抜けることが出来ます。盗んではいないから、証拠はほぼない。探しても犯人の身の回りにはないのだから、白だとみんなに思わせることが出来ます。犯人はこの騒動の後、この部室に隠してある台本を手に入れようとしているのだから、この段階においては、まだ被害が出る前の曖昧な状態なんだ」
「つまりまだ部室内に、台本があるってことなんだね」本田陽加部長はそう訪ねる。探偵事務所三人と部長とで、台本を探し、ややあってそれを見つける。本棚の見えない隙間を利用した場所に台本は隠されていた。あの時見せてもらった古い背表紙。部長もそれが探していたものだと認める。
「確かにこれは部の台本だ。しかしすごいな、いや、話を最後まで聞かずにそういうのは失礼かな。それでもすごいというには変わりない。でもどうやって?」
「それはやはり気持ちの問題になってきます」
「別の厄介な問題を生じさせたくはありません。でも、杏ちゃんはその苦悩を今ここで語ろうとしている、一つそれをみんなに聞いてもらった方がいいかなって思うんです」かえるちゃんは一歩前に出て、みんなを見た。そうだ。
「ここまでそれを誰がやったのか、ぼくは一言も、誰の名前も挙げませんでした。出来ればこの一件は不問となり、うっすらと盗まれた事があったと記憶に残る方が遥かに精神的に、苦痛を負うことはないでしょう。たかが台本だ、そう言う人が出てきたっておかしくはない。でも勘違いしてほしくないのは、ぼくだって盗んだ事をそう簡単に許容しはしないってことです。もちろんぼくは今からその人の名前を言います。明らかに人が作ったものを勝手に、自分の欲望の形に変えてしまう事、その人の懐にこの物語が記されてしまう事、それを許すわけにはいかないから」
それからぼくは木下良香の名前を挙げる。彼女は入口付近に立ち、先程からぼくらの話を聞いてはいたが、その目は何かを探していた。そしてその視線は失った。涙。見るはずだった夢が何処かに溶けていってしまったかのような、悲しい目で。
6.
「記されない名前がある」と木下良香は言った。
「そう。花園クロニクルが君の人生を大きく変えたとして、それはたった一人で達成されるものではない。そこはぼくらだってわかっているはずだ」
「じゃあどうして邪魔をするの。放っておくって選択肢がなかったわけじゃないでしょ」
「もちろん知らなかったわけじゃない。知りたくもなかったよ。君が恋に落ちた相手だってね。それを口にはしない。でも君がこのあと花園クロニクルを手に入れたとしても、君が幸せになれはしない」
「私は幸せになりたいわけじゃない。自分の運命を知ることでいつか誰かと約束するための道を探したいだけ。花園クロニクルにもそう書いてあるように、『本は人生の集約された瞬間、あるいは全体、または部分を手にすることで、人は自分の運命を知る。』とね。だから私はあの人と話す時間が欲しかった。きっとあの人なら、全てを推し量る機会を与えてくれるだろうから」
「彼は立派な先生だと思うけど、でもそれは彼にだって出来ないこと。だから」
「だから私は手に入れようとした。出来ないって思っている。けど、橘先生にも、この本の力が手に入りさえすれば人生を、いや、運命を修正出来るようになる。魔術書みたいなものだってことはここにいる人ならみんな知っている。でも盗もうだなんて考えは誰一人もおこさない。それはなぜかわかる」
「わからないよ。そんなの」
「いい機会だから教えてあげる。それはね、みんな一度はこの本によって書き換えられているから。魔法のような話だけどね、誰一人も、残らず役割が与えられている。だからみんな本音でこうやって話すこともあるし、虚言めいたものはもうとっくにはけ口をなくしてしまったの。あなたが思い当たった推理。私にもそれとなく、想像がつくから言ってあげる。ほんとは本田陽加だって私が何かしていたのをわかっていた。でも何も言わなかった。それは何かしていただろうなってぼんやりと思っていたのかもしれない。けどその時点ではただ台本や資料を取って眺めていただけだって思っていた。放課後になって台本が盗まれていたと知ったら、彼女は真っ先に私を疑った。私は盗んだわけじゃないから、当然知らないと言った。私は手荷物を全部見せた。怒りながらね。だから彼女は私に謝った。疑ってごめんねって。私は許したよ。でもその行動だって把握している。後は盗み出すだけ。橘先生が不本意かは聞いてみないとわからない。もしかしたら彼にだって劣等感みたいなものがあるかもしれない。この本を読めば、少しはその劣等感と上手く付き合えるじゃない。私がやりたいことはそれなの。それ以外には、ない」
「しかしぼくは君に抗うよ。君に運命の修正は行わせない。台本だってもう君に盗めるような手段を取らせはしない。これがどういうことかわかるだろう。違う道を探すしかないってことだ」
「私は正々堂々、どんな手を使ってでも手に入れてみせる。今日は失敗した。けどね、あなたたち三人が白永谷さゆとどういう関係であれ、今日私の邪魔をしたことを後悔するかもしれないよ」その言葉を放ったあと、木下良香は部室を出ていった。ぼくら以外の人たちは唖然としていた。彼女にそんな一面があるなんてと見てはっきりとわかる顔をみんなしていた。本田陽加部長はみんなを帰らせて、ぼくら三人にだけは秘密の話をした。
「台本を預かっていてほしいんだ。それからかえるちゃんだっけ。それから杏ちゃん、アキちゃんも花園クロニクルの舞台に出てもらいたいんだ。この学園で、この手のトラブルを起こすとおとなしいうちの生徒は寄り付かなくなってしまう。今回の事が入部希望の子たちにも良い経験となってくれればいいが、これじゃあね。今は君たちに持っておいてもらう方がいい。もちろん台本の書き換えのときは返してもらうけど」
「そんな大事なものを預けるっていうことは学園に厳重に保管してもらうってことじゃないんですか」とかえるちゃんは訪ねた。
「いや、学園にも保管してもらうよ。もちろん。花園クロニクルは元々二つの書物が一冊になったという経緯があること、忘れていないかな」
「まぁ確かにそうでしたけどね」
「リスクを分散しておきたい。例え二分の一でも」
「じゃあ私たち斧ノ目探偵事務所にお任せください。お安くしておきますよ」
「君たちに任せたよ。台本の半分は」
「あとの半分の台本も、このあと顧問の先生に事情を話して保管してもらうことにするよ」
「それがいい」それからぼくたちは彼女と別れ、家へと向かった。帰りの空模様は宇宙のような色をしていた。
7.
夜に電話が掛かってきた。白永谷さゆからだ。
「お疲れ様。いい推理だった。この調子で事件を解決していってもられば、こちらとしても大変ありがたいことだけど」
「よくわからないな。君たちの狙いが何なのか」
「言っても、たぶんわからないけど」
「もし言っても混乱をきたすということなのかな」
「まあそういうことね。でも次の事件はちょっと難しい。誰かしらの協力が必要だと思う」
「その誰かって」
「それはその時にわかるようになる。ああ、報酬はちゃんと振り込んでおいたから確認はしておいてね」
「それはするけど、君たちの目的に本当にぼくたちは必要なの」
「必要よ。六旗尊もそう言っている。しかしね、彼は想像以上に君たちが目的に適う存在だと考えている。今まで以上に、順当に進んでいるとね」
「それすらも言う気がないんだ」
「ないよ。今のところは。でもいずれは話してもいいかもしれない。だけどね、慣れというものはなんにせよ、必要なんだ。だから今はまだ話せない。もう少し進まないと地図は渡せない」
「ぼくたちにその道を行けってこと」
「少なくともそこは地獄ではないよ。しかし選択の余地はないと思ってもいい」
「選ばざるを得ない」
「選ばざるを得ない」
「わかった」
「じゃあ電話を切ることにしましょう」
「もう変な事件の依頼はしないでくれ。頼むから」
途中で電話が切れた。それからぼくは二人にこの話をしたのだけれど、やはり出来ることと言えば次の事件を律儀にも待っていることだった。その話を聞いた六旗朱莉刑事は次の土曜の夜にここへ来ることを約束した。戦略会議をしましょうと彼女は言った。