1章
「素顔で語れば、人はもっとも本音から遠ざかる。仮面を与えれば、真実を語るだろう」オスカー・ワイルド
「政治の言葉は嘘を本当と思わせ、殺人を立派なものに見せかけ、空虚なものを実質のそなわったものに見せようという意図をもっている」ジョージ・オーウェル
花園学園第57回学園祭 特別演劇科目 花園クロニクルより
血園姫の祈り
もし、あなたとわたしが永遠に結ばれるなら、それは夢の中。
あいしているとあなたはいう。約束されたその場所で。
その瞬間が、ふたりにとってのはじまりの日。
終わりの暗闇がその身に降りかかっても。わたしはあなたとその未来に思いを馳せましょう、身を寄せましょう。
1.
もし君の興味と関心が有り余っているなら、ここは一つぼくらのオフィスを探してみてほしい。この街にあるぼくらの探偵事務所を。
例えば君がかつて泣いていた風景について思い出しそれに囚われているなら、ぼくらの街の誰かが関わる必要がある。誰かに頼まなければ解決出来ないような出来事はこの街にも多少なりともあるのだ。いささか個人の自由を尊重する風潮があるとしても。
それがひとまずぼくらだとしよう。これはその手の話だ。
ぼくらの推理はささやかだけれども、役に立つかもしれない。何か不足を感じたのなら、その時は迷わず電話してほしいってことだ。たったそれだけで成立するものなのだ。ぼくらと君の関係は。
あるいは君がその記憶のクローゼットから美しくもいつしか歪んだ悩ましさを誰かに不当に引き出され、誰かの別のクローゼットにしまい込まれ、困っているかもしれない。悪意を以て君の大切なものが盗まれるかもしれない。それがいつかわからない以上、とりあえずの準備は必要だと思う。費用は最低限に、適用はあなたのクローゼットに仕舞われた、たかがしかし切実に知れた想像力に。これがぼくらの探偵事務所のモットーだ。
そしてこれはその手の保険だ。君を巣食う影の形を教える種類の一つ。その程度だが、ないのと、あるのでは大きく違う。そうは思わないかな?
内情をあまり話すのは気が進まないが、実は前の事件の報酬がまだ手つかずだ。だから君になら二割ほど割り引ける。問題に関する気持ちのケアまでついてくるとすれば、耳寄りだが、大抵の人はまずここにはやってこない。誰も自分のトラブルを進んで話したがらないし、あったとしても自分の中に押し留めるか、ネットに匿名で愚痴を書き込むか、仕事場で誰かに喋るか当たるかして何とかやっていると思い込むのが精一杯ってところなのだ。
だから今ぼくが話しているのは君が偶然夢で見た話で、実際にはないのかもしれない。それぐらいの気持ちで聞いておくと後々後悔しないだろう。
そう。依頼人にとってこの話は俄かに信じがたいかもしれないが、信じられないほどではないのだ。どの時点で夢か現実かがさほど重要ではなくなったのかは、人によってやはり異なる。ここに来るまでの足取りなのか、このオフィスの内装を眺めたからか、電話越しに伝えた自らの声なのか。あるいは依頼料の相談が通ったときか、依頼解決への疑心がこちらの誠実性によって解消された瞬間か。つまり始終どの時間軸でも可能な意見であり、それはもしかすると君の頭の中にこうして既に巡っているのかもしれないってことなのだ。アポイントする以前のその指にすら、その第一歩は宿っているといえる。
依頼人の頭の中にはこれと同時に存在する不完全であやふやな事件の記憶。とんでもないと言うべき誤解で他人を傷つけ、傷つけられた記憶。それこそ誰もがやっていることであり、やられている記憶。その観点から見れば、ぼくもかえるちゃんもアキもかつても今もこれからも誰かを傷つけたし、傷つけ、傷つけるかもしれない。そしてこの不完全さを綺麗さっぱり取り除くのは、難しい。言葉でならいとも簡単に言えるけどね。
そうは言いつつも、ぼくらの仕事を説明すると、もし君がその事件に関わってしまったのなら、君のこの不完全な記憶を忘れるための不完全な手伝いをする。完璧じゃないのは、少々目を瞑ってもらう勇気が必要だけど、君に嫌なことがあったら、それと上手く付き合っていくためのアドバイス、そう受け取ってもらえると話はわかりやすいはずだ。
例えば今夜、自分の笑顔を確認して眠りに就く。それだけでもいいはずだ。知り合いの笑顔でも構わない、自分か誰かの泣くときも知っていれば尚良いはずだ。誰の涙も知らない人はいない。
そうしてぼくらの人生は回り続けている。まだ三人とも十七歳になったかならないかの年齢でも、一応ここまでは知っている。ここから先はまだわからない。ぼくらより先にその道を進んだ誰かですらわからないのだから、これは一つの保留案件ということにして、この依頼をひとまず片付けてしまおう。
いまにして思えばぼくは他の誰のためでもなく、まずぼく自身のためにこの依頼を引き受けたのだろう。しかし同時に考え込むことになったのは、この依頼が実際のところ、いったい誰のために請け負うべきだったのだろうということだ。初めに依頼人がいてこそ、事件は成立する。だが、この事件の背景を踏まえれば、依頼人はあくまで役割の範疇として据えられており、この二つの思索を成立させるための一つの要因、ファクターだった。ファクターということは他にも幾つかの要素があり、その諸々の要素が紙の束みたく重ね合わさり、その思索に費やされた言葉に言葉が重ねられ、ついにその人自身の手から離れて、事件が起こる。
そこに至るまでにいったいどれほどの時間と労力が費やされたのかぼくは知っている。世界大戦後のとある村からのとある人物から物語のほとんど全てが始まっているからだ。それを数えれば、七十年になる。人が生まれて死ぬまでにはおよそ充分な期間。たった一人、いや、世界における世紀を跨ぐ年数とも言うべき人生のサイクル。巡り巡ってぼくにその記憶が引き継がれ、仕事は引き継がれたようなものだ。犯人も同じく、彼の作った歴史を引き継いだ。当然、ぼくとは異なる理由で。そうした世界線の間、犯人と探偵はかくして結ばれ、一種の共謀関係を意味する姿と形を取る。老人と小娘。どこからどうあっても結びつかない人間同士が年代記を通じてここに対面する。
ぼくは今病院にいる。病室には一人の老人がベッドに横たわっている。老人は言葉も喋らず誰の言葉ももう聞けないのだと医師は言う。眼も閉じられ肉体における機能は眠りに就いており、世界へ繋がる手段はほとんど全て絶たれたようなもので、それはごく近しい将来に息を引き取る時間が来るのを待つだけだということを暗に意味している。それでも時々老人の唇が限られた力をもって震える。何かに伝えるように。共振するように。しかし実際は何にも伝えてはいないし共振もしていない。もうその共振は終りを迎え、かつては自分から始まった一連の出来事が、返す波として、自らを震えさせている。もしこの物語で彼を意味付けするなら、ぼくはそう語るだろう。事実そう語る。そうだ。この人物がいつの日か想像した年代記の最後の基点に、ぼくらはいる。巡り会うべき運命の相手と手と手を取り合い、将来を誓い合う。その相手こそが正しくぼくに事件解決を依頼してきた人物にほかならない。
花園緑。彼女はぼくと同じく女性だが、彼女と二人でなら今後何が起ころうとも愛し合えるのだと誓える。彼女がぼくらのいる探偵事務所に電話したのが、去年の十二月二十二日であり、事件の一つを解決したのが十二月二十四日だった。まことに奇妙だと口ずさみながら、この事件は始まる。病室の外では彼女がドアをノックしている。ぼくは彼女を病室に招き入れ、この老人を見据えながら、この物語に関する全てを話し、それが終わるとはじめての愛の言葉を口にする。
2.
事件は去年の十二月二十二日に起こった。
秘書のアキが取った調書はこの日から始まっている。伝え聞いた報道と事件解決を依頼してきた花園緑とその付き添いで来た六旗朱莉刑事の話と照らし合わせるとこれは一致していると見ていい。事件が起きた日はこの日でまず間違いないだろう。
この事件の正式な依頼人は花園緑だった。そしてこれを依頼するよう促したのは、刑事の方だった。彼女は事件の依頼人かつ事件の被害者である。彼女は自分がこの事件を招いたのだと口にするが、とてもそうは思えない。というのも、話の内容からして彼女に何ら責任や非と呼べるものは見当たらないからだ。真偽のほどは、詳細を詰めてみなければ理解は出来ない。しかし少なくとも話を聞く限り、彼女に偽証を与えることなど決して相応しい行為ではないことがわかる。あくまで事件の発端となった人物に焦点を当てていく、その一巡目は探偵が行うことだ。だが、それだけで事件は解決しない。だから今現在、彼女の立場をはっきりさせておくとすれば、それはやはり依頼人として見るべきなのだ。
指定の時間の、指定の場所。探偵事務所近くにある比較的静かで小さなコーヒーショップに彼女たちは入ってきた。依頼人であることは一目で理解できた。関係性が見た目に現れていた。彼女たちは姉妹でも、友達でも、家族でもない格好をしていた。二人を繋いでいる線はどこにもなく、どう見てもちぐはぐだ。共通点を挙げるとすれば、どちらも綺麗な外見だが、そこには一つの厳しさと哀しみが見えたことだ。たとえほんの一瞬であったとしても見逃さない種類のものだ。
彼女たちは一目でぼくらが誰なのかを理解していた。他に客はいない以上、どの席よりもまずこの席に視線は向けられる。同時にこちらも何度か瞬きをした。それが一種の信号にも見え、それをぼくは受け取った。ごく自然と二人は席にかけた。この時点でどの程度かは知らないが、何らかのトラブルに巻き込まれているというのは話通りである。信用出来ると思ってもよかった。本物の依頼人であると見てよかった。それぞれの紹介を終え、飲み物が置かれると電話のやり取りの続きを行った。
「では今回の依頼をお聞きする前に、幾つか確認事項があります。内容を詳しく聞くのはそれからということでいいですね?」
「確認事項ね」六旗朱莉刑事は言った。それから頷き、ホットコーヒーを脇にやり、その場所に肘ごと手を置いた。
「確かにその聞き方は悪くないと思う。でもね、もし私たちからこの話を聞いてしまったら、あなたたちは依頼を引き受けざるを得ないよ。きっと。そうね、その前に私も言っておかなきゃいけないことがある」テーブルの中央、ちょうど両者と等距離の位置に置かれたファイルを指差し、彼女は説明する。
「ここにある書類はね、うちの署で管理しているものなの。つまり私のものではないってこと。だからこれをここに持ってきたことの意味は理解してほしい。見せることはもちろん出来る。そのためにあるものだからね。けれども、この書類を渡すこと、コピーさせることは遠慮してほしい。それは理解してもらえる?」
その言い方には、この役割の第一歩が必然的に含まれていた。依頼人の守秘義務とも言うべきこと。つまり見れば、依頼を前向きに検討しますと口にしているようなものなのだ。もし断ったとしても、ぼくらはなぜ電話で彼女の言葉に耳を傾けたのだろうと自分に聞くことになる。なぜ断らなかったのかと。
「当然、秘密は守りますよ。いや、秘密であったことすら忘れる。それは第一の約束です。ええ、やっぱり見た方がいい」刑事は中央にあった書類のファイルを手元に一旦たぐり寄せて、何か抜け落ちたところがないか確かめた。再び中央それからこちらに一歩進めた形でそれを押した。読んでも構わない、ということだろう。
ファイルリングは大まかに分けて三種類あった。白黒灰色のバインダーノートがタグごとに挟み込まれている。まず一つは花園緑のカルテ。それから事件の調書。そして病院の見取り図である。この三つに目を通せば依頼してきた理由も結論も聞かずともわかる。しかしそうだとしてもやはり本人の口から直接聞かなければならない。
「おおよその事情はわかりました。でもあなたたちからも話を聞いておきたい。具体的に何が起こったのか。どうして我々が必要なのか。もしこれが事故と見られるなら、より適切な引受先を見つけるべきです」六旗朱莉刑事は首を振った。
「詳細は今から話すよ。私とこの子二人で。率直に言えば、私はこれを事件だと感じている。およそ直感だけで言うとそうなる可能性が高いんだ。さて君は直感でここに来た私をどう思う?」
「悪いとは言いません。その点についても後で伺っておきましょう。でもまずは確認事項から聞いておきたかったんです。では、二つ目。こちらの方が実は重要ですね。これがもし事件だとするなら、一体ぼくらに何を求めているのか、ということです」
「簡単に言うと、実に困ったことになっている、としか表現が出来ないな。もちろんこちらの依頼人が求めているのは殺人未遂の犯人を見つけてほしい。私としては立件という形に持っていきたい、だからそのための協力を君たちに仰ぎたいんだ。それ以上望むものは一つもない」
「困ったこと?」秘書のアキがぼくより先に訪ねた。
「というのは今のままだと、この件は事故として処理される可能性があるからだ。証拠不十分、有力な証言、目撃情報もない。そうなればどうなるかわかる?」
「迷宮入り」
「あなたたちの立場から端的に言えばね。私の立場から端的言えば、それは仕事の配置替え。別の部署の別の人間にこの仕事が回される。そうなれば上司の命令がない限り、私は自分からこの事件に関わることは立場上できなくなる。今君たちに会うのだってけっこうぎりぎりな綱を渡っているようなものだ。一警官が探偵に事件解決を依頼するなんて、今時ないことだからね。でも一つ言えることとして、年内までこの件は私に一任されている。これでも人を動かす地位にいるんだ。ただそれも来年のしかるべき時期になれば、別の警察官がこの仕事を管理する。私以外の誰かに一任されるの。現場ではなく、書類データという形を以てね」
「だから初動捜査を担当した人間、つまりあなたがこの一件を解決したい。タイムリミットが来る前に」
「あなたの口から言うとそう思うのが自然ね。本当はもっとストレートに言いたいけど、私の立場から言うことは難しいの。こちらの位置は相当に微妙でね。言葉すら慎重に選ばないと叱責の対象になるから。そしてそれは出世以外のことにも実に響いてくる」
「わかりました。では話を進めましょう。次に内容を改めて教えてください。書類上のものに目を通しましたがやはり本人の口からも聞いておいた方がいいでしょう。客観的な視点も交えてもらえればありがたいですが」
「そう。では話してくれる。花園さん?」先程まで押し黙っていた女の子が用意された書類を読み上げる。おそらくわかりやすく砕いた内容をぼくらに説明してくれる。途中でつっかえるよりかは確かにこの方がいいのかもしれない。アキは彼女の言葉に合わせてひとまず調書を取った。彼女の発言は以下、このような形になる。
「12月22日。時刻は夜でした。その日の天気は穏やかで、予報は吹雪のち曇り。かえるちゃん(=花園緑)は街郊外にある総合病院に入院していた。本人の証言及びカルテから事件の起こる一ヶ月前に右足を骨折していた。入院の経緯は別にあり、この時点で症状は軽症に至る過程にあった。ただ長時間の歩行は難しいので、負担の軽減という名目で電動の車椅子を借りることもあった。その一方で、与えられたリハビリは十分にこなせていた。治療は順調しかし無理は禁物だった。入院の理由は彼女の判断もあった。学校と仕事とレッスン、この三つが彼女の日常生活の多くを占めており、この入院は当初の予定にはなかった。だがレッスンとより効果的な足の治療をこなせる良い病院があると勧められたので入ることにした。事務所関係者からの勧めだ。写真数枚からも見てわかるとおり、ここは普段総合病院として通っている。数年前の業務体系が大きく転換し、今ではタレント専門の塾とスポーツジム、美容クリニック、そして総合的な機器の整った病院として生まれ変わった。当時それなりに報道されたそうだ。ここに入院した彼女は出会ったばかりの同業者(女優、アイドル、モデル、ダンサー、タレントとどれもデビューして数ヶ月から一年あるいはデビュー前の卵とも言うべき若い女の子)たちと数週間を過ごした。十二月の二十日を過ぎると大半の女の子は実家に帰ったり、自分あるいは彼氏の部屋に帰ったりした。仕事の都合がある子もいれば、クリスマスぐらいは学校の友達と過ごすことを選択する子もいた。残った職員は医師や看護師、美容、ジムのティーチングスタッフ。これを除けば、四人だけだった。かえるちゃん、白永谷さゆ、大場かりん、鮎川花菜、これで全員だ。
病棟に残った四人はせっかくだからと自由解放されている食堂の中二階の席で夕食を取った。このフロアの手すりは建築デザイナーの意向により取り除かれ、その代わりにそのフロアは引き伸ばしたように大きく面積が取られている。ピザの耳のような形をした組み木のパーツラインが本来手すりのある場所を埋めている。夏には日が上手く射せば、美しい海岸線が見渡せる作りになっている。珍しい緑のオーロラ光を帯びた灯台が海岸先にある。そして問題の上がった夜、彼女たちはクリスマスパーティーを催した。食事と会話、これらを楽んでいたという。もちろん将来の夢についても。大場かりんから差し入れられたケーキを夕食後に食べたその後だった。白永谷さゆが窓の向こうの景色を覗いて、屋上へ行くことを提案した。星を見ようとみんなを誘ったのだ。でも屋上への扉には鍵がかかっていた。それで戻って冷えた体を再び温めようとみんなで何か飲もうと言った。確かにその夜は特別寒かった。
両親が洋菓子屋だという鮎川花菜の手作りエクレアと調理場を借りて温めたクリームココアで先ほどの寒さを解消した。それからかえるちゃんを始め、みな眠ってしまったそうだ。下のフロアで歓談していたスタッフたちも引き上げ、自分の部屋に戻っていた。残っていた食堂の管理人兼料理栄養士の石田さと美も夜の八時半にここを閉めるためにいた。その時点では調理場の点検をして回り、個室で書類を作成していたという。
それから時刻は八時過ぎ、かえるちゃんは目を覚まして電動車椅子に座っていたことを自分で確認した。しかし記憶は朧ろげだった。誰か自分の隣に立とうとする気配を感じて、最初の言葉は聞こえた。「かえるちゃん」と呼ばれた。数十センチもない距離と感じたそうだ。寝起きでその声が正確に聞こえたとは断言出来ない、本当に名前が呼ばれたのかどうかも覚えていない。何か言われた記憶がうっすらとあるぐらい。それでその相手に一声かける寸前、瞬く間に、電動車椅子は前進し、彼女もろとも落下していった。手すりや柵のない中二階ほどの距離から彼女は放り出されたような形を取った。そしてこれを形容するなら、鍵盤を殴るような、楽譜から和音を引き剥がす不吉さが全てを飲み込んでいった。おそらくそれからみんな目を覚ましたのだと思う」
そうして長々と書かれた文章に淀みはなく、おおよその事情を掴ませていた。彼女は喋り終えると薄口オレンジジュースを半分ほど飲んだ。口元をハンカチで拭き、何かを待った。こちらが喋り始めるのを。
「確かにこれじゃあ事故で片付きそうですね。表向きは。でもそうではない」確認するために、そう言った。六旗朱莉刑事は頷いた。
「かえるちゃん、もとい花園緑はさっき言った通り、中二階のフロアから電動式車椅子に座ったまま、下のフロアへと落下していった。証言者の意見を集めようにも誰も見ていない。現場検証も行ったが、これを事故か事件かの断定するのは難しい。電動式の車椅子は手動、電動どちらでも使用可能なものであり、誰かが押した可能性も充分ありうる。だがそのどちらの力で前進したのか、現状から見てわからないということだ。被害者であり今回の依頼人でもある花園緑は、本来重傷を負ってもおかしくはなかった。しかし見ての通り、彼女は助かっている。奇跡的にと言っていいほど。彼女は健常者と診断された。元々足を骨折していた部分を除いて。そしてここも特に問題はない。歩けるし、症状もほとんど治っている。クリアだ。もちろんその他の部分も。だからここに連れて来られた。カルテのコピーだ。でもこれは後付けのように思えるぐらいだ」
「なるほど。しかしもし奇跡が考えられるとするなら?」
「もし奇跡が考えられるとするなら、あの電動式の車椅子が、上手く彼女の体にかかるはずの衝撃を相殺した。無論車椅子は壊れたが、彼女は無事だった。しかしこれで万事めでたしとはならない。事故であるなら、来年にはフロアに手すりを加えて、それで終わりだ。でも私はそう考えていない。しかしこれを事件と断定するだけの根拠がない以上、正確に言うことは出来ないんだ。刑事という立場からも。そして一個人としてもね」
「でも問題を解決したい?」
「もちろん」
「内容も依頼も理解しました。そちらの事情も伺いました。ただ情報と時間が少な過ぎる。事件のより正確な状況を知るにはそちらに行くしかなさそうです。そして近くにいた三人のことも気にかかる」
「いや、めぼしい人間はいない。残念ながらね。でも事件だと言えるものなら言いたい」
「見たところはね。鮮明な程に、と言っていいほど怪しい人物はいないように見せている」しかし顕微鏡ほどに正確な視点を持つなら、どんな些細な異物微物も目には見えるはずだ。六旗朱莉刑事にも、未来において証拠不十分の事故物件が、今は揺るぎなく事件だと確信する何かがあると考えている。しかしまだ完全な一致を見ていない。答えが過去にある以上、状況を想像で推し量る他ない。
「少し考えたい」
「出来れば即決してほしいものだ」
「夜までには結論を出すよ。今は頭を冷やしたい。それに一度に話しすぎない方がいい。二回に分けた方がいい」
「それも探偵術なのかな?」
「そうかもしれない。とにかく理論を構築するための時間が必要だ。殺人未遂を犯した人間のロジックをこの短時間では解体出来ないと思う。でもやるしかないだろう。おそらくは。そのためにもう少し冷静になりたいんだ」
「わかった。さて話題を変えると実は今日の夜に個人的にあなたたちと食事をしたいと思って、レストランに予約している」しかしと彼女は付け加える。
「これは接待ではない。個人的に依頼したいことがある。そのためのきっかけが欲しいんだ。でもそれはこの一件が片付くまではいいと思っている」彼女にも何か事情がありそうだとは思う。しかしこれも依頼の一部として考えるのなら、話だけでも聞く必要は出てくる。
「時間は?」
「六時ちょうどにこの場所へ」そう言って、彼女の指定した場所をメモする。それからかえるちゃんはぼくらにお辞儀をする。六旗朱莉刑事は伝票を取って、その場を去る。車の音は聞こえない。個人としてここに来ている以上、車両は使えないのだ。職業上、警察官の立場を割いていたとしてもだ。それからドアを開ける古い鈴の音が聞こえて、すぐに止んだ。
「戻ろうか」アキはそう言った。そうだなとぼくは返した。
残ったぼくらも一旦事務所に帰ることにした。
ここから徒歩五分の距離に、ぼくらの探偵事務所がある。三階建てビルの二階だ。三階がバーで、二階が探偵事務所で、一階がぼくらの自宅だった。
バー、といってもぼくらには普段無縁の場所だ。夜に関しては。夜、ここに来る理由はない。この店に通う客の大半が持つ、誰かに振舞うべきものはないし、誰かから振舞われるべきものもないからだ。動機の欠如、そう言っていいだろう。けれどもそれが長く続いていけば孤独になるが二人にはまだ早すぎる。オーナー兼マスターである蓮見昌吉は過去にぼくらに対してその言葉を教えた。
暖かみのある夜がたまにはあってもいいじゃないか。そうとも言った。それ以来、時間を見つけてはここに立ち寄る。昼間にもマスターがいる時もある。だけど当然買い出しに行っていない時もある。ぼくらが買い出しの代わりをすることもある。ぼくらが行った時には、彼はいた。
そこにはいらっしゃいもただいまもおかえりもない。ほとんど全員の客が知らない時間にぼくとアキはいる。この時間だけにしか置かないという特性の安楽椅子があり、ぼくはこの椅子に座り、依頼人の言葉を終始脳内に巡らせることもある。緊張と緩和。この二つが程良く溶け合うことで、上手く頭が働く場合もある。働かない時は調査がまだ足りないか、依頼人が嘘を教えているか、ぼくの頭脳がまだ真相にたどり着いていないかだ。
アキはマスターと話している。自身の服装のことを父親ほどの男性に訪ねるのだ。ぼくの着ている服装は常に一致している。探偵とこの街の人間としての服装。大人と子供。フォーマルとカジュアルのミックスダウンされた装い。しかしアキは違う。ジャンルはあるが、ポリシーがあるかどうか定かではない。加えて、今日着ている服装は明日着ないし、明日着ている服装は明後日着ない。給料の少なからずの額が、洋服につぎ込まれているのは目に見えるが、それでもこの尽きない悩みをぼくに相談してくれたことはない。相談されてもおそらく解決しないので、放っておくのが一番と言えよう。
それより今考えるべきことは、正しく動機の欠如だった。しかしそれはかつて見えていたはずのものであり、今は巧妙に見えない形を取っている。具体的な証拠が挙がらないのもそのせいである。誰かが誰の目にも触れない形で計画を立てる、というのは完全に不可能だが、それでも見せ方によっては誰も気づかずに事を終えるのも可能である。例えば犯人すら犯行の経過を見ずに終われば、その辺りの証言に偽証はなくなる。完全に犯行を把握しているとどうしてもその辺りを気にした行動を取ってしまうものだ。しかし知らない間に遂行されるものだという予想と犯人自身が行動を取らないで犯行を遂行させることは上手くいけば、共存し、噛み合う。証拠も残らないし、証言も裏がきちんと正確に取れる。警察が疑わしき相手の挙動に対する意識を読み取れるかどうかは難しい。勘で、怪しいと思っていても、裏が取れないのであれば、当てずっぽうになってしまうしそれでは面目立たない。
そして確かにそこを読み取った犯人の予想通り、計画は八割方共存し、噛み合った。思惑通りということだ。
だが、犯人は僅かに失策をした。犯行自体は上手くいったが、上手く行き過ぎた。人がやったことと、機械や自然が起こした事故との違いまでは読みきれてはいなかった。そして人の体の中までは制御出来ていなかった。後はその裏が取れるかどうかだ。ぼくは六旗朱莉刑事に連絡を取った。あるものがあるかどうか聞いてほしいとぼくは言った。
「詳細は夕食のときにお話します」
「何か考えがあるってことね。わかった。信じよう。しかしもしそれが見つからなければ?」
「必ず見つかります。消しても見つかるものですからそれは」
「じゃあ夜に逢いましょう」
「夜に」電話を切った。それから蓮見昌吉の作った飲み物を飲んだ。炭酸の舌触り。柑橘系の香りがじんわりと体に残った。そして夜に着ていく服装のことを考えた。アキと二人で事務所に戻った後、それぞれの服装を選び取り、約束の時間に上手く着くことを考えた。
3.
クリスマスイブの前日とはいえ、街は恋人たちの行き交う姿がいつもより多く見られた。きっと地方都市の恋人たちもそこに少なからず混ざっているだろう。そしてここにはいない恋人たちも明日明後日には今日よりも増えている。
雪の影響でいくつかの電車は止まることを余儀なくされる。今日はないが、これからその頻度は増えていき、春先になると減っていく。電車下の交差点は大きな通りだが、ここは上手く交通整理されている印象がある。夜も昼も走行する車が多いからだ。
交差点から北へ二条進んだところに、小さなレストランがある。テナントの並んだホール会場式のショッピングモールの向かいにそのレストランは位置していた。モール付近で営業されている以上、集客という点で上手くいっている店だ。古びれたポイントが見当たらない。もしあったとしてもそれは高価な古家具のように、温かみを人に与える。店の前に着くと中からドアが開いた。かえるちゃんが出迎えてくれた。
「さあ、入って」店内には六旗朱莉刑事もいた。私服姿ではなかった。きっぱりとしたグレーのスーツで向かった席に座っていた。ぼくらも席につき、メニュー表を見た。
「いや、もう頼んである。五分前にね」
「そうですか」
「何頼んだんですか?」メニュー表にあるセットBを指差した。ナスとセロリのチーズグラタン、ミートソースのスパゲティ、ジャガイモとレモンのスープ、チョコレートケーキだ。
「それほどお金持ちじゃないんだ。これで我慢してくれるかな」
「美味しそうですね。全部食いつくします」
「気に入ってくれればいいが」
「食事はありがたくいただきます。それよりもさっきの事、どうなりました?」六旗朱莉刑事は黒革のバッグに手をやる。
「もちろん手に入れたよ。しかしその前に食事を進めたい。喋るには少しお腹が空きすぎている」
「わかりました。話は後で」料理が来るまで店の内装や照明を改めて見回してみた。橙色つまり太陽と同じ色の照明だけど、ガラス製のランプが眩しさを程良く絞っていて、外の風景をも美しく見せている。雪は降っていなかったが、溶け切らず、白く残っていた。ビロード製のような窓ガラスからはそう見えていた。
内装の白い壁はざらつくような紙を貼られてシンプルながらも見飽きない柄だ。テーブルと椅子、それから床は自然から調達してきたような鮮度の高い土と木の色をしていた。後から無理やり埋め込んで作ったのではなく、設計図の時点でもう何を選ぶか決まっていたようだった。テーブル脇の調味料類も丁寧に長く使われてきた印象を持った。これなら恋人たちが二人だけの時間を有意義に過ごす場としては相応しい。しかし振り返れば、そうではない。ここにいる四人全員が、この街の中ではかなり特殊な立場にいる。例えクリスマスということを差し引いても。
個人的な依頼を心にしまい込む刑事と女優が職業の依頼人。そして若く未熟な探偵と若く未熟な探偵秘書という家族や恋人たちの過ごす幸せの一風景にこれほど似つかわしい組み合わせもない。探偵をやっているとこれは珍しくもない状況だが、時期が時期だけにこの日まで仕事をしていると人生の感覚が狂ってしまう。まぁだからこそ六旗刑事は気を利かせてくれたのだろう。クリスマス付近にこんな形で食事に誘うことは普通ないのだから。恋人を持つ女性なら尚更だ。しかしながら現時点では、ぼくらを選んでいる。事情はいずれわかるだろう。そしておそらく彼女にしてみれば、今回の依頼に乗るかどうかを図るチャンスと今後何らかの形で、もちろん依頼人と探偵、刑事と探偵という、極めてオーソドックスでシンプルな関係として協力する姿勢を取るべき相手なのかを考えている。
でもぼくらが今回の依頼を引き受けたのは、他でもないかえるちゃんに興味を持ったからだ。本名か芸名かはわからないが、彼女の名前は花園緑といった。職業はタレント兼女優という触れ込みだった。社会的な位置付けとしては、東京に本社のある大手芸能事務所と業務提携関係にある地方のモデルプロダクションの代表兼女優だ。ウェブページにはそう記載してあった。彼女から名刺をもらうとそれを二度読みした。「瑠川芸能コンサルティング第二芸能部プロダクション代表、かえるちゃん」これが正確な肩書きだ。公式サイトにも同じものが載っているので、そう理解する他ない。
詳しい話を聞いていけばこの点も納得がいくだろうが別に今聞く必要はなかった。税金や税務上の書類整理整頓は、別の人間がこなしているにしても、矢面に立っていたことは間違いなさそうだ。でなければこういった件で直接本人が出向くこともないからだ。逃げることも出来たし、忘れることも選択肢に含まれていた。でもここまで直接探偵に顔を見せて、それも笑顔でいる。なかなか難しいことをやってのけているが、彼女はけろっとしていた。
料理が来て食事を進めたあと、ぼくはそう言った。
「そうかなあ。君だって同じようなものじゃない? そんなかわいい顔して探偵事務所を引っ張っている。決して割のいい仕事じゃないのにも関わらず。そして私の依頼を受けようとしている」グラスのグレープジュースを彼女は飲み干した。
「ぼくは女の子です。かわいい、学校でそういう言葉は聞きます。相手が本気で言っているかどうかは別にして。でも今一つ自分の容姿を検知する客観的な手段を持たないので、ぼくにはわからない。信じないわけじゃないですけど」かえるちゃんは微笑む。
「客観的な手段はあるかもしれない。統計を取れば、そこには一定の基準が出来上がるって学校で習ったし。出来ないわけじゃないと思うよ」ぼくは頷く。アキも。確かにそうでしょう。
「データ上、かわいいと統計が取れるならそれは納得いきます。バイアスが不必要にかかっていない質問による統計処理であるなら、より正確な資料となるでしょう。あるいはかわいいに方程式があってその通りに作っていけばかわいくなれます」かえるちゃんは笑った。短い髪を耳にかけた。
「話し方もかわいい」
「珍しいだけですよ。いや普通なのかもしれない」
「普通じゃない」
「いや、普通です」アキが話に割って入ってくる。
「わ、わたしは可愛い?」
「普通です」ぼくとかえるちゃんは揃って言った。流石に六旗朱莉刑事もみんなに釣られて笑った。あー、もうとアキは途端に機嫌が悪くなり、チョコレートケーキをほぐして口に運ぶ。
「やっぱりあなたに頼んで正解だったのかもしれない。意外とあいつも役に立つものだな」関心した顔で彼女はそう言った。
「あいつ?」誰なのだろう? もしかしたら彼女の中に知っているルートがあり、それが今回の依頼につながったのかもしれない。過去の数少ない依頼人の誰かがここを勧めたのか。しかし彼女の口から出た人物は意外だが、聞けば納得がいった。確かに彼しかいない。
「今泉からだ。君の従兄のね」今泉眞一郎。彼がここの事を彼女に話したのだ。
「そうですか。今泉兄さんは最近仕事が忙しいと聞いています」
「そうらしいな。お盆も忙しくて時期がずれたと言っていた。正月も満足に帰省出来ないともな。でもこないだ電話であいつと話したけど、何だか元気そうだったよ。それと、来年もしかしたらこの街に戻ることになるかもしれない、そう話していた。転勤だそうだ」
「そうですか」
「嬉しくないの?」アキは疑問に感じたらしい。そう聞かれると答えるのに迷う。メールなど通信上のやり取りはしていたが、それも時折、近況報告ぐらいの頻度でしか彼と話していない。だからどうなのだろう。ぼくは彼と会うことになると嬉しく思えるのだろうか?
実際のところ去年も一昨年も会っていないし、最後に会ったのがいつかも正確には思い出せない。上手く彼の顔を思い出せないまま、嬉しいかどうか聞かれると余計そう感じた。思い出しても嬉しいのかわからない。
「わからない。久しぶりだと実感に欠けているんだ」
「そうか。日が近くなったら、どの辺に住むとか聞いておくよ。気になったら会いに行けばいい。しかしところで斧ノ目さん。そろそろ本題に入ろうか? 君の言っていた事も報告しておきたいが、そうなると君はかえるちゃんの依頼を引き受けると理解していいのかな? まっ、一応返事だけでもいいから聞いておきたいんだ。殺人未遂事件の手がかりも薄く、このまま時間が無闇に経ってしまうのは実に惜しいことだ。来年になれば私も捜査についていた警察官も他の業務に回される。そうなれば、もう自分からこの事件に関わることは立場上ほとんどないだろう。それが何を意味するかは、前にも言った。気を悪くさせるつもりで言っているんじゃないんだ。君の推理がまだ私の中で結びついていないだけなんだ。だからはっきりと聞いておきたいんだと考えてもらってほしい」
紙ナプキンで口を拭き、水を飲んだ。答えるべき言葉を探した。もちろんそれはここに来る前から、依頼をされた最初の時点からわかっている言葉だった。
「ここまで話が進んだ以上、引き受けないことはありません。答えはイエスです。しかしぼくらが立ち入ったからといって、必ずしも事件は解決するわけじゃない。解決が何を意味するかによりますけど、そのことは?」六旗朱莉刑事は頷く。
「承知しているよ。隅々までとは言わないけど、大部分については」
「そして事件を暴けば、傷が付く人間は確実に増えます。関わった人間が彼女のような立場だけに必要以上に問題を抱え込むかもしれない。そちらもこちらも。スキャンダルと言うのがこの場合、一番近いニュアンスでしょう。だからそれでもいいかどうかと少し考えていたんです。しかしそうであってもこちらの答えは引き受ける他ありません。それ以外考えられないでしょう。引き受け手がいないのなら、事件は迷宮入りするかもしれない。でも今目の前にその誰かがいるのなら、事件を開くことで見えなかった風景が現れるでしょう。ぼくはそう選んだだけです」
「わかった。じゃあ話は成立ということで。残された時間がない以上、その推理の披露は明日にしてもらう。例の病院でね。迎えはこの子の車が来る。そして動いてもらう。あぁ忘れないうちに、報告しておこう。君の言っていた通り、身体検査、尿及び血液検査等で発見されたよ。睡眠導入剤多投与特有の症状がね」診断書を眺めて、頷く。
「裏付けはこれで取れたようなものです。後は現地で落ち合いましょう」
「最後にもう一度、資料を読み返しておいてほしい」
「おさらいしておきますよ」僅かに彼女は微笑んだ。ようやく見せた余裕の表情だ。
「それじゃあよろしくね。探偵さんたち」夕食代は彼女が支払った。経費ではない、自身のお金で。そしてこれが依頼内容の働きに対する一つの誠実さであると示すためのお金。こうして依頼が半分ほど進んでしまった以上、もう後戻りは出来ない。もしこれがうやむやになるとすれば、それは彼女たち以外の誰かの意思と采配が動いて、チェスゲームの仕切り直しのようにぼくらは初めから盤面上いなかったことにされるだろう。そもそもそんな事件すらなかったと思わされるほどに。しかし今のところ、ぼくらを敵と看做す人間はいない。当然、殺人未遂を計画した人間以外は、という文脈においてだが。
4.
調書と診断書を交互に読み返しながら、アキと一緒に近くのコーヒーショップで朝食を取っていた。トーストにオムレツ、トマトとレタスのサラダ、チーズベーコンにコーヒーとみかん入りのヨーグルト。これが珈琲ショップ三上屋のセットメニューだ。規則正しい生活を送りたければ、いつもぼくらはここで食事を取る。というのは二人とも料理は上手くない。腕前が悪いとあまり良くない辺りにぼくらは位置している。日常生活を二人で暮らしている以上、ここでつまずくのは問題だった。だからほとんどの食事は外で取っている。朝食はいつもの場所で。つまりぼくらはこの店の常連となりつつある。依頼が途切れなければ、ぼくらは規則正しい生活を繰り返すことが出来るのだ。
三上屋の店主の名前はわからない。三上なのかもしれないし、フランチャイズ加盟店としての三上屋であれば店主の名前は違う可能性もある。聞いてみたところ、彼は三上総一朗といった。先代から続くお店だそうだ。二代目の三上屋の店主はやや幼い顔立ちで、迷子のように視線を巡らせている仕草が特徴的だった。しかし調理となると手が早く、無駄は見られない。奥さんの三上理恵がぼくらの注文をいつも取っていた。その動きもまた的確で、完成されている。もしこの二人の立場が逆であったなら、上手くお店が回らないように思えた。段々とこのポジションが例えば野球捕手のように相手の域をカバーするように出来上がったのだと気づく。
料理が来るまで時折店内を見回す。今日座った客席の後ろには町内会の忘年会のポスターが残っていた。日付は一昨日だ。その隣には少年サッカークラブの募集のチラシがあった。日付はないが、春先のものなのだろう、桜の絵柄がプリントされていた。
注文したセットが届いて食事を進めながら、彼女のことについて一通り話していた。かえるちゃんのことだ。調書を見なくても、彼女が裕福な家庭の生まれだということはわかった。事実そうだった。両親が芸能界にいたわけではないが、優良企業の重役を勤めているとある。大手イベント制作会社だそうだ。確かによく広告業界で見かけることの多い名前だし、事実売れていると思う。しかしそこで深まる疑問は、やはりなぜそのように恵まれたと言うべき人物がこの事件に巻き込まれたのかという一点だけだ。他にも気になることはあるが、その点に比べればほとんど瑣末に思えるぐらいだ。
「今まで全然注目していなかったけどね、かえるちゃんって良い子だよねー 昨日部屋で彼女の出ているドラマ見たんだけど演技も上手いし、体もスリムなのに胸大きいし、これなんか見てよ」アキは表紙を飾った雑誌それからページを手繰って見せる。天使のような笑顔で流行のファッションを着こなした写真だ。確かに昨日二度彼女に会ったが、どちらもその魅力を垣間見るぐらいだった。普段はオーラを消し去っているのか、普通の女の子という印象より強くは感じなかった。しかしここにいる彼女はアキが言う通りの女の子だった。愛嬌と笑顔この二つが共感出来るポイントなのだとコラムに書かれていた。それも同意出来る。「天然なんだ」とインタビューで答えていて、質問者も同意していた。裏表を感じさせないところも好かれるきっかけなのだろう。そして謎もまた深まる。
「嘘一つ見当たらないさ。でもだからこそ、今回の事件がどういう経緯で計画されたのか知る必要がある。よっぽどのことがなければあそこまで張り巡らせたりはしない。衝動的とは言い難い」ミルク入りのコーヒーを飲み、メモ用紙一枚に手がかりとなる箇所を抜き出そうと赤いペンをくるっと回した。オムレツをすくって、口につけた後、アキは調書を読み返した。何度も読み返したはずだが、繰り返し読み返すしか今はこの調書には用がない。ぼくも耳を傾け、再び頭に叩き込んでおいた。諳んじるぐらい覚えている必要があったからだ。もし犯人を問い詰めたとき、適当な言葉をうそぶかれても、気づくために。
「何かわかった?」ないよ、とぼくは首を振った。犯人も証拠もわかった今、動機を探さなくてはならなかった。しかしここには何も書いてはいない。診断書も同じだ。昨日思い当たった以上のことはない。
「そこまでぼくは優秀な探偵じゃないさ。けれども、手がかりを集めて総合的な判断を下すことは出来る。今日全てが明らかになるだろうけど、相手も簡単には明かさないはずだ。秘密を暴くには、出来合いの理論ではだめなんだ。淀みのない理論と裏打ちされた証拠と秘密の根底にある感情を見つけ出さなくちゃいけないんだ」
「二つは見つかったでしょ」ぼくは頷く。彼女はかえるちゃんが吹き替えを担当した海賊が主役を取る連続ドラマのページをこちらに見せる。凛々しい女海賊が財宝とドラマティックな出会いと別れを繰り返す物語だ。
「宝探しでいけば、一番海の底に沈んでいるものを見つけなきゃいけない。でもそれが大事なものだとしたら、それは同時に見つけやすいものなんじゃないかな? だってそうでしょ。彼女たちの限られた財産ってたぶん、友達じゃないかな」
「人間関係のトラブルか?」きっとね、と彼女は言った。もしかしたらそうじゃないかと最初から知っていたような言い方だ。
「調べたんだけどね、三人ともかえるちゃん、花園緑とは共演歴があるの」
「白永谷さゆと鮎川花菜と大場かりん、三人とも?」
「四人とも割と有名みたいだよ。全国区のタレントじゃないっていうけどそれでもね。白永谷さゆはカット出身の雑誌モデルで、鮎川花菜は女子高生アイドル。大場かりんは歌手と女優。でもみんなデビューして一年か二年くらいかな」
「かえるちゃんの方が同年代だけど、デビューが先ってことか」プロフィールでは確かに彼女の方が三年ほど先に仕事を始めていた。十三歳から業界に身を置いていることになる。作品履歴を眺めていくと四人が共演したテレビシリーズがある。ミニドラマと括弧付きで書かれている。『クローゼット探偵メロディ=アリス』と。それ以外四人は共演していないが、あの病院では仲が良いという事を聞いた。ここに何かきっかけがあるだろう。そしてぼくはため息を吐いた。やはりこの一件も行き着く先は同じなのだ。詳しくない世界とはいえ、ぼくらが首を突っ込まざるを得ないのは基本的に別の職業の別の人間の世界だ。よく見かける商品やサービス取引、製造に勤めている人間が、よくあるトラブルに巻き込まれ、表面化することを依頼しにくる。
報道を見る限り、彼女たちの言動を見る限り、この一件に関しては必要以上に表立てずに、彼女たちの立場を鑑みれば出来れば内密に調査を進め、解決して欲しいと望んでいるように思えた。提示された依頼料や事件の背景、社会性を含めると、事件関係者の内心に留める程度で今回の事態を収拾したいと思っているようだ。
でもそれは難しいことだ。こと現代においては。ひと昔前という言い方があれば、その時代であるならその口は閉じられていたのかもしれない。多くの人に知られずに上手く済んだのかもしれない。だがそうはいかないのだ。隙あらば、誰かがありもしない嘘をでっち上げて、それが力を持つ時代だ。もしそうならなかったとしても、今この時点でかえるちゃん、花園緑が生き抜いていることで、誰かに語るための口は開かれている。つまり既に犯人の心の内までも、こうして少しずつほぐされてきている。その糸口はたった一人の人間に繋がっているとぼくは思っていた。
その最初の糸がもつれないよう、ゆっくりと手繰っていけば、今日中にその手は届くだろう。相手はただ一人なのだから、それは遅からず、目に見える距離に現れるはずだ。朝食を取り終えて、探偵事務所に戻ると一台の車が目についた。見知らぬ車だ。しかしその中に誰がいるかは教えられている。かえるちゃんが昨日とは別のコートを着て車から出てきた。ぼくたちは支度をしてから行くよと伝えた。思ったよりも早くその時間がぼくらの目の前に来たのだ。車に乗り込むと話は始まった。まず始まったのは、彼女はどうやら犯人が誰かを知っていたところからだ。
5.
車の細かい車種は特定出来るほど見識を持っていない。ぼくら二人とも。しかし今ぼくらが腰掛けているのは一つの高級車だった。小学生でもわかるタイプの車だ。鏡のように磨き上げられた車体には街の一部が映されていた。ぼくらが乗ったときは、ぼくとアキが。そして今は流れるように街の一部が切り取られている。時々誰かの覗き込むような視線は黒いブラインドによって遮られていた。車内は仄かに明るく、空調も利いているので不思議と居心地はいい。
運転手は正しくお抱えと呼ぶに相応しい、後年を迎えた老人だった。白髪、正確に言えば灰色の混じった髪は艶があり、短く切り揃えられている。空調とステレオ機器に伸ばす手は白い手袋に覆われている。顔はドアを開けるとき、一度だけ拝見した。これといって特徴はないが、にこやかに微笑む顔の勧めるまま、車の中に入った。言葉は発しなかったが、ごく自然で尚且丁寧な仕草で迎え入れられた気分になったのだ。さあどうぞ中へお入りくださいと。
後で聞いた話だがかえるちゃんの祖父の代からこの運転手役を勤めているという。何でも彼の古くからのご友人だそうだ。なるほどとぼくは言った。
向かい合うようにぼくらは座った。今日の問題解決に先駆け、話しておきたいことがあった。初めに彼女を殺そうとした相手の名前を挙げてどのような過程をもって、犯行に及んだのかを話しておきたかった。無論彼女自身からそうなった覚えがあれば聞いておきたかった。だがそう告げる前にかえるちゃんはいや、実はと切り出してきた。時折被害者となった人間が、直感か偶然かは判別出来ないが犯行の概要を知ってしまうことはある。その概要の全ては相手の頭の中に描かれていたとしても、自分の立場を理解すれば、相手の立場も自然とどう振舞ってきたのかも理解出来てくる。
「知らない方が良かったのかもしれませんね。でももう遅いらしい。最も私の事を心配してくれた人が最も私を嫌っていた。変な話だと思いませんか?」
「奇妙な事です。でもそれがあなたの出した結論だとするなら、それは妥当です。違いますか?」
「ええ、極めて」
「これは誰かに言いましたか」
「君に言ったのが初めてなんだ。まだあの刑事さんにも言っていない。確証がないからね」
「例え確証がなくとも、本当に何があったのか思い当たることは出来ますよ。それがぼくらの仕事です。ですが、誰にでも出来る事でもあります」
「私に出来たように?」
「そうです」
「私には出来なかったけど」
「アキちゃんには向いていないんだ。得意分野は別にあるじゃないか。調査書作成とか、接客対応とか。全てアキちゃんにしか出来ないことだよ」
「ほんとう?」本当だとぼくは返事をした。頷いてくれたので納得はしてもらえたようだ。それからアキは彼女に訪ねる。
「かえるちゃん。その人のこと、どうするの? 話し合いで決着つけられるような人なの?」
「わからないんだ。まだ何とも言えないよ。彼女は私の事を信頼してくれていた。でも同時に嫌悪していた。そんな子、私の周りにはいないって思っていた」
「でもいたみたいだ」
「うん。だからどうすればいいかわからない。こんな気持ちは今までなかったから。けど話してみようと思う。そして君の推理を聞いてそれから判断しようと思う」
「それでいいと思うよ」ぼくはそう言った。ふと窓を見ると知らない間に車は大きな街の通りから外れ出していた。郊外に当たる道に入っていた。徐々に道路の本数は減っていき、すれ違う車の数は減っていき、やがて進む道はこの車一台と運行バスだけになった。おそらく行き先は同じだろう。
今三つの路線の内の一つにぼくらを乗せた車とバスは通っている。一つはぼくらの住んでいる街へと続いている。もう一つは別の街へと続いている。海岸付近の町だ。そこには一つ大きな観覧車があった。街から出たことのないぼくらにはその風景は珍しかった。もし許せば、窓を開けて詳細を確かめようとしていただろう。でも実際にはしなかった。いつかここに行くことになるだろう。そう思うだけだった。雪がうっすらと積もったその町はすぐに見えなくなった。山と木々並みの道へと入り、それが終わるとトンネルを潜ることになった。時間にして一時間ほどかかった道なりの先に、今回の事件の舞台となった病院があった。海岸、緑園、道路を挟んだ形で病院は位置していた。確かに総合病院と言うほどの大きさはあった。病棟は四階建てで横の広さは短いが、奥行を感じた。
屋内駐車場は空いていたが、何台かの車があった。自家用車が数台。どこに停めてもいいはずだ。しかし運転手である桐山さんはグレーの車の隣に位置づけた。その中にいたのは六旗朱莉刑事だった。まず彼は彼女たちに挨拶を交わした。彼女の後ろには部下が二人いた。似た背広でどちらがどちらか一目ではわからなかった。
「どうぞいってらっしゃいませ」そしてまた彼はにこやかに微笑んだ。彼だけが駐車場に残り、ぼくらは特に互いの紹介もなく、そのままエレベーターに乗っていった。
病棟内は極めて静かだった。ぼくらの歩く音以外ほとんどなにもない。人の気配も当然ないし、暖房も切っている様子だった。おかげで寒さを強く感じた。車内が快適だったが故にだ。日差しは強かったので、不快には思わず、六旗朱莉刑事の進む道の後ろについていく。
「ここだ」両扉を彼女と部下の一人が開けて、ぼくらは中に入る。ここは暖房がついていた。動作音が静かに鳴るが、それ以外ここにも人の気配は感じられなかったが、床を蹴る音が一つ二つあった。人の形を取ったバミリテープの跡が食堂の広場の中央に位置していた。聞いていた通りの場所に、写真通りの場所に、正確にかえるちゃんの落下地点を教えていた。
改めて見ると床には傷がついていることがわかる。しかし血痕は一つも見当たらない。もちろん摂取した後なのだから、ないことは予測出来るが、あからさまなものはない。周囲を観察しても特徴的な事件の余韻は残っていない。この床の傷を除けば。中二階に視線を上げると同じ色のバミリテープがあった。再度目線を下に向けると、おおよその軌道は理解出来た。
「大体はわかりました」そう告げると彼女は頷き、上へ行ってもらえると言った。
「彼女たちもそこにいるから。話はそこで」階段の先には見慣れた顔が三つあった。白永谷さゆ、鮎川花菜、大場かりん。三人とも実際の顔立ちや身なりは写真よりも美しく、聡明さを感じさせた。ぼくら二人とかえるちゃん、そして警察の人間とどういった関係が結ばれ、ここにいるのかまだ彼女たちは理解していなかった。しかし一言で六旗朱莉刑事は説明した。
「彼女たちは探偵です」彼女たちは驚かず、じっとその次の言葉を待っているように思える。
「そして私たちは警察です。詳細は省きますが、今回の一件に関して疑問に感じる点が複数あったため、こちらの探偵事務所に花園緑さんを通じて依頼することになりました。お話する前に、みなさん掛けてください」彼女以外の人間はみんなテーブル席に腰掛けた。座ると同時に彼女は話し始めた。午前の日射しが美しく差し込む時間帯の真ん中で、その光が彼女の付近に注がれていた。
「ここにいる皆さんが集められた理由はお分かりかと思います。先日起こった電動車椅子の落下の一件です。この件で花園緑さんが重傷を負ってもおかしくはなかったのですが、彼女は奇跡的に健康な状態でそちらにいます。私たち警察としてはこの一件を当初事故として処理する可能性を視野に入れていました。誤って車椅子を運転し、手すりのない場所に進み、たまたま落下した、不運な事故だと。しかし私個人としては前後の状況から事故と断定するには至らなかった。書類の手順上、綿密な調査が必要でした。これにより、果たして事故なのか、あるいは事件なのかが変わってきます。前者と後者ではその後の対応も書類の内容も、発表も異なってきます。もし極めて事件性の高いものであるなら、各マスコミにとって、引いては発表された記事の読者にとって、衝撃的という表現の出来事になってしまうでしょう。非常に陳腐な表現ですが、ほとんどそのように記憶されることかもしれません。ただ事件と断定するには、一定の条件が必要になります。殺意それから計画性、衝動的な要因。殺人及び傷害可能性のある行為がどのようにあったのか、そもそもなかったのか。他にも要素がありますが、ざっと挙げればこういったものが必要になってきます。そこで私はそちらにいる探偵の方に、この件に関してのアドバイスをもらうことにしました」
「つまり私たちを疑っている、そう思っていいんですか?」三人の内の一人が声を上げた。鮎川花菜だ。
「あなたの言葉で捉えるなら、そう思われるのもやむを得ません。しかし私たちとしては事件性が少しでも感じられればそのケースも当然視野に入れるのが普通の事になります。事件事故に限らずとも、状況を分析し、周囲の方々に事情を聞く必要性はどんな場合にも出てくるのですから」
「もしそうなら、誰が犯人なの? 事件性があればの話ですけど」
「そこから先は彼女に話してもらうことになります。斧ノ目さん、頼んでいい?」六旗朱莉刑事は一歩引いた。ぼくは一歩前に進んだ。
「ええ、わかりました。まずは自己紹介を。ぼくは斧ノ目杏です。探偵事務所の探偵です。隣にいるのは秘書のアキです。ぼくは先日依頼に来た花園緑さんと六旗朱莉刑事の話を聞き、幾つかの推論を立てました。もしこれが事件で犯人がいるのなら、どのような条件でそれが成立するのかを。皆さん経緯は知っているでしょうから、改めて説明する必要はありません。だからぼくが引っかかった点から一つずつ話していきましょう。まずは車椅子が落下した前後の状況を誰も見ていなかったこと。食堂の管理人は作業していたこともありここは除外します。事件発生前後は誰も見ていない、あるいは誰かに見られてはいたけれども、被害者である彼女の意識が朦朧としていて、事実確認は取れなかった。あるいは正確性に欠けると思わせるようにした。もしくは全員起きていたけれどもやはり意識が鮮明ではない状態であった。だから誰も正確な証言は出来ない。大きく分けると、その三つの可能性があります。次に、車椅子の落下の仕方です。高い地点から物体が進んで落下した場合、大抵は前のめりになるか後ろにもたれるような形を取って落ちる、通常どちらもありえますし、また別の落ち方も見当出来ます。しかし今回は一つしかない。というのは、落下する起点となる箇所の先端には、丸みを帯びたパーツがはめ込まれています。もし何もなければ前後どちらにも傾き得ますが、こういったパーツがあると一旦車椅子は凸物に接触し、プラスの角度に傾き、落下する際にはその角度分、あるいはその角度以上、前のめりになるのです。そしてその車椅子に人が乗っているのなら通常、人が下に敷かれ、その上に車椅子が落下する格好を取ると考えていいでしょう。かえるちゃんはうつ伏せになる。しかし実際はどうだったか。実際には車椅子が下に敷かれ、人が上にいた」この推理をまだ全員理解していなかった。直に、やがて全員それが当たっているかもしれないと理解した。
「ちょっと待て。それは一体どういうこと?」六旗朱莉刑事は立ち上がり、そう訪ねた。
「六旗朱莉刑事。これもきちんと説明します。次の話をしたら、あなたの疑問にお答えます」頷き、椅子に腰掛けてぼくの方を見る。
「最後に、皆さんの事故発生前後の意識が朦朧としていたことについてです。四人の状態を調べてもらったところ、睡眠導入剤の多投与された可能性が高いと診断されました。四人ともです。しかし犯人が自分に注意を向かないための行動と見れば、理屈は通ります。リスクは高いですが、止む得まいと判断すれば、出来たと考えます。以上、三つの点を踏まえてぼくはあなたを犯人だと認めます」
ぼくはその人の名前を挙げた。
6.
白永谷さゆはぼくの目をじっと見つめていた。真意は既に語られたのだから知るべき事を探していた。しかしそれはぼくにはわからない。彼女にしかわからない種類のものだ。端的に言えば、それは犯人の動機とも捉えていいのかもしれない。今はまだ。
「どうして私が犯人だとお思いなんですか? 探偵さん?」冷めかけたココアに口をつけ、そう訪ねた。
「犯人はあなた方三人の内誰かである、ということは最初に気づきました。理由はおよそ単純で、こちらがわからないものは犯人の動機だけでした。それ以外に関しては短時間で思い当たりました。これも順々に説明していきましょう。でもまずは六旗朱莉刑事の疑問に答えましょう。これが一番知らなくてはいけないことですから。先に上がった疑問、なぜ彼女は車椅子の上に乗った形で見つかったのか。それは犯人が落下した車椅子の上に、花園緑さんを乗せたからです」
「わからないな。もっと詳しく話してもらいたい」
「事件発生時、落下したのは彼女ではなく、彼女を乗せている電動の車椅子だけでした。その後彼女を抱えて車椅子の上に乗せた格好を取り、あたかも彼女も落下したのだと思わせることにした。そしてその試みは上手くいった。第一発見者である石田さんは彼女が落下したと警察に伝えた」
「体に傷一つ負わなかったのはそのせいだと言うのか?」
「そうです。奇跡的に彼女が助かったものだと六旗朱莉刑事も看護師の方も口を揃えていいました。友人であるあなたたちにとっても喜ばしいことだったと思います。そして犯人にとっても。というのは犯人の目的それもたった今思い当たりましたけど、それは彼女を殺害するための計画じゃなかった。彼女を殺すことなく、生きたまま、見せかけで落下したと思わせ、警察や探偵をここに召喚するための手はずだったのです」
「ますますわからないな。そんなことのために私たちや探偵であるあなたたちを呼ぶなんて」
「詳しい事情はぼくにはわかりません。しかしこれも上手くいった。警察は事故か事件か断定しづらい局面に出くわした、難解な謎に。これを解決するために誰かに協力を仰ぐ必要が出てくるなら、探偵を呼ぶ。これも白永谷さんの計画の通りです」六旗朱莉刑事は頭を抱え、ため息を吐いた。失望を見たときの顔で俯いていた。
「では、私の疑問にも答えてもらえる?」
「ええ、もちろん。あなたが犯人だと断言出来る理由はあります。手始めに睡眠導入剤の症状を見比べてみましょう。鮎川さんと大場さんこの二人は睡眠導入剤を使用した経験はないと言います。あなたは医師から半月に一度のペースで処方されている。しかし処方されているからと言って、すぐあなたが犯人だと決定付ける理由にはならない。ぼくが注意して見たのは、症状の軽さです。あなただけ症状が軽かったんです。違いますか?」
「私が言った事は嘘だと思うのですか?」
「嘘だとは言っていないですよ、白永谷さん。ぼくが言いたいのは、症状が他の三人にとりわけ重く出てあなたにはいつもより症状が出ていないということです。もし犯人に重く症状があれば次の行動には移せないでしょう。症状がない、あるいは軽度である事が事件発生の前提条件になるから、これは重要なんです。症状の重く出た二人には出来ない事なんです」
「しかし直接的な証拠にはならない」
「そうです。直接の原因をあなたに求められるわけじゃない。しかし他の二人がどこかから睡眠導入剤を持ってくる可能性はより低いし、これも現実的な証拠にはなり得ないでしょう。推理にはなりますが。ただそうは言ってもですね、こうして犯人がいると証明出来る以上、その人が自由に動ける部分と動けない部分を上手く制御していた事は現場から全てわかっています。しかしこのぼくの考えも、犯人の狙いからすれば計画を遂行するための事実になるのです」
「それは認めてもいい考えかもしれないけど」
「ええ、おそらく。では次を話しましょう。なぜ犯人は花園緑さんを抱きかかえて車椅子の上に置いたのか。ここが正に犯人の動機に繋がるポイントです。睡眠導入剤を使ったのも、電動車椅子の落下の仕組みもこの動機には直接関係はありません。これらはあくまで道具立てに過ぎないのです。先も言ったように、犯人は彼女を殺すためにこの計画を立てたわけではありません。警察や探偵といった役割の人間が集まり、議論推論をさせる。その結果を受け、これが一つの事件だと形作るための状況を設定するためです。しかしぼくにはこれ以上踏み込む余地はありません」
「もしあなたの考えが最もだとしたら、私である理由はあるの?」
「それはあなたに入れ知恵した人間に言うべきでしょう。知恵かはわかりませんが。ひとまず知恵だと言いましょう。ですが、あなたの知恵にはもう一つ欠陥がありました。花園緑さんにも、白永谷さんにも、同じ形状の指紋痕跡があったことです。こちらも微妙な問題です。全ての指紋を拭き取ってしまえば、おかしな状況だと思われます。拭き取らなければ、それもまた痕跡を残すことになるでしょう。これまた非常に微妙な問題だ。しかしそれは犯人と被害者の関係が親密ではない場合においてそう考えられます。でも今回は違った。あなたと花園緑さんは友達であり、互いの洋服に触れることもままあるでしょう。そうしたとしても変だとは普通思わない。変だと思われたのはあなたの指紋が彼女の髪、膝の裏、太腿辺りに微量に検出されたことです。これについてどう説明しますか。花園緑さんはそんなところ触られた覚えはないと言っていましたが」白永谷さゆは舞台で立ち回るように、テーブルから離れた。そして彼女は自身の掌を見つめた。
「まさかそんなところから指紋が検出されるとはね。やはり拭き取らない方が良かったのかもしれない」
「それではあなたが犯人だと認めるんですね? こんな直接的で野暮な言い方ですが」
「正しくね」不思議と彼女は微笑んでいる。何かをクリアしたかのように。
「もし彼女からあなたの指紋を検出出来なくとも、床や車椅子についたパターンを鑑みてもあなたに辿り着くことは出来ました。六旗朱莉刑事が気づかなかったのはそれを全て結び付けられなかったからです。この事件の細部においては、彼女の力が不可欠だったのですが」
「あまり嬉しくない褒め方をするのね。でもあなたはどうしてこんなことをしたの?」そんな当然のことを、と白永谷さゆは口火を切る。
「それは全てあなたのためですよ、六旗朱莉刑事。いや、ここは旧姓で呼んだ方がいいですか。津田朱莉さん」はっとした表情で白永谷さゆを見る。そしてとある考えに至り、立ち上がる。
「私のためですって? あの人が、あなたを通じて何を伝えようとしているかはわからないけど、どうして私のためになるの? 殺人未遂を偽装することが」
「そこの探偵さんも仰ったでしょう。刑事と探偵を召喚するために事件を設定したのだと。そして設定は程良く噛み合い、犯人も見つかった。犠牲者は一人も出ていない。あなたたちはステージを一つクリアしたと言っていいんです。これはあなたのためだとあの人は言いました。『万人は仮面を被っているのだ』とも言っていました。私には意味がわかりませんが、これもあなたのためでしょう。後は私があなたに逮捕されて調書を取られ、懲役を食らう。しかし不起訴処分で、私は釈放される手はずです。それでこのプロローグは終了します。少し長かったでしょうが、これからの事を踏まえれば、肩慣らし、準備調整にもなりません。僭越ながら私から一つ言わせてもらうと、あなたは自らのパートナーを本気で探そうとしましたか? 答えはノーです。あなたはそんなこと全く気にもかけていなかった。だからあの人はあなたから離れていった。しかし法律上あなたたちは夫婦です。現実話を聞けば、将来を誓い合った相手です。そんな二人に一度ぐらいチャンスが与えられても、運命だと信じられる立場にあります」
「そんな話信用出来ない」にこやかに彼女は微笑む。それも想定内だと言わんばかりに。
「でも私の話を信用する他ない、そうじゃありませんか? もし信用できなければ、あなたは一生夫である六旗尊に逢えないし、信用し私を逮捕すれば、次の舞台があなたを待っています。少なくとも次に繋がる機会に恵まれる。でもこれはただおいしい話ではありません。労力も伴いますし、精神的にも苦痛を強いられるかもしれません。けど私もあの人も、鬼ではありません。一人で全て立ち向かえなんて、言いはしません。そうです、探偵や花園緑の持つ力を借りる事は出来る。次の舞台では必ずやあなた方の力が役に立つとあの人は考えています」
「なるほど。ぼくらを呼んだのはそのためだったと」
「これも立派な動機になると思う? 探偵さん?」
「なるでしょう。しかし一介の探偵をよくわからないゲームの手駒にされるのはあまりいい気分じゃない。しかもこのゲームはゴールポストにすら罠が張り巡らされているルール、そうじゃないかな」
「いずれにせよ、そうかもしれない」
「だとしても参加せざるを得ないよ。抜ける権利はぼくらには最初からないんだろう」
「断れない状況だと考えてもらって結構だと思う」
「きっとぼくらには知れないリスクなんだろうね」
「この場合、知る、知らないに、大きな差はないですよ」ぼくは六旗朱莉刑事を見た。それから彼女の部下である二人を見た。
「逮捕すべきだ。もしあなたがしないなら、そこの二人が手錠を掛けて警察へ連れて行くべきだ」
「わかりました」一人が腰に当てられた手錠を取り出した。しかし彼女に手錠を掛けたのは、六旗朱莉刑事だった。決心がついたと言うべきなのか。目には涙のようなものが留まっていた。光を浴びてまたさらに強い光を放っていた。けれどもその涙は流れなかったし、拭われなかった。ぼくらの役割は一旦これで終わりだが、当然まだ続きはある。クリスマスの続きだ。
六旗朱莉刑事の夫を探す依頼が近いうち、ここに舞い込んで来るだろう。そのいつか来ると思わしき日のために、ぼくはこの調書を読み返し、今また彼女がぼくらを訪ねるのを待っている。