【朝斗視点】190
父を前にしたら、全く冷静でいられなかった。
花瓶を取りに行くように言われて、あの言い方が気に入らなくて、腹が立っていた俺は、黙って病室を出てナースステーションに向かった。
そして怒りに任せて歩いていて、ふと気が付いた。
(優妃を、病室に置いてきてしまった!!)
心細いだろうに、なんで気が付かなかったんだ!
自分の感情に振り回されて、大切な優妃を…父と二人にしてしまうなんて…。
自分を責めながら、ナースステーションまで早足で向かった。
急いで病室に戻ると、父と優妃は何かを話していたようだった。
優妃の目が、潤んでいるように見えた。
だが、俺が持っていた花瓶を見た優妃はすぐに、それと父の手元にあった花束を手に持ち病室を出て行こうとした。
「じゃあ俺も…「朝斗さん、私は大丈夫ですから、ねっ?」
慌てて優妃の後を追おうとした俺を、振り返った優妃は微笑んで言った。
“大丈夫ですから”が、“私はちゃんと傍にいますから”に聴こえて、俺はピタリとその足を止めた。
“ねっ?”と、微笑んだ優妃の表情には“頑張って下さい”と言っているようだった。
「お前、あの子のことが本当に好きなんだな」
優妃が病室から出ていくと、父が笑いながら言った。それは別に、からかうようなものでは無かった。
(フレンドリーに接したつもりだったのか?)
父の考えていることが分からない俺は、何も言えないでいた。
じとっと、手の平が嫌な汗で湿ってきた。
「・・・もう来ないかと思ってたよ」
父は、自嘲気味に笑った。
―――確かに、二度と行くかと思った。あの時は。
「朝斗、この間はすまなかったな。突然再婚の話をして」
「・・・・」
父は、こんな柔らかい話し方をする人だっただろうか?こんなに長く話をしたのは、いつぶりなのか?いや、初めてかもしれない。
「父さんはずっと仕事ばかりで、お前には苦労かけたとは思っているんだ。だけどお前は何でも出来る子だからと安心していた…」
その言葉に、俺は黙っていられなくなった。
「違うだろ…、そう思っていれば楽だったからだろ?」
自分でも驚くほど、皮肉めいていて苛立ちがこもっていた。
―――こんなこと、言うつもりなんて無かった。
言ったところで何も解決しないのだから。
だからずっと…もう長いこと…諦めていたはずだったのに。
「朝斗・・・」
父が、表情を曇らせた。
「やはり…勘違いしてないか?お前が、俺にとってどんな存在なのかを」
「は…?なんだよ、今さら。俺は要らなかったんだろ?母親を殺したのは俺だって。顔も見たくないって。そう思ってたんだろ?」
小学生にでも戻ったようだ。
こんな事、言うべきじゃない。
そんなのは、頭で考えれば分かるのに。
感情的になったって仕方のない事なのに。
「朝斗、それは全部間違っている。お前は俺の、俺と母さんの…大切な…かけがえのない息子だ。」
父の言葉に、耳を疑った。
(なんだ・・・それ)
間違ってる?どこが?
“大切”?俺が?
“かけがえのない”?俺が?
「確かに俺は…父親として最低だった。家事もできないから他人を雇ったし、そのためにはお金が必要で。だから仕事して、働いて、お金を稼がなくてはならなくて。」
(聞きたくない…)
「夜、仕事を終えて帰ればお前は寝ていたし。学校ではいつも褒められていたから安心していた。
だからお前と話をする時間がなくても、大丈夫だと思っていたんだ。
――――だからどう思っていたのかなんて考えたこともなかったんだ…―――お前が家を出て行くまで。」
(聞きたくなかった…)
「“自分は要らない存在だ”とか。俺に心配かけまいと常に完璧でいようとしていたなんて、ずっと気付かなかった俺は…父親失格だよ。」
(そんな言い訳なんて、聞きたくないんだよっ)
悪者でいてくれた方が良かった。
俺は、この人を憎むことでしか感情を保てなかったから。
なのに、なんだよ。
俺の17年間は、なんだったんだよ…。
自分を偽って、周りを騙して、平気なふりをして。
それは全部、無駄なことだったってことかよ…。
「朝斗。本当にごめんな。これからは、仕事も落ち着くから…」
「ふざけるなっ」
なんだよ、それ。
俺が悪いのか?
勝手に勘違いしてた俺のせいか?
愛なんて欠片も、感じさせなかったくせに。
「今さらだろ…っ」
(だったら…)
もっと小さいときに甘えさせて欲しかった。
寂しくて泣いていた時に、気付いて欲しかった。
「朝斗、ごめんなぁ…本当にごめん。」
父の泣く姿を、今日初めて見た。
こんな風に、憎まれ口しか利けなくなる前に。
“自分”を押し込めてしまう前に。
助けてくれたら良かったのに…手を差し延べてくれても…良かったのに。
「もう一度、やり直したいんだ。“家族”を」
父が、涙を拭いながら言った。
父は、こんなに肩幅が狭かっただろうか?
こんなに…小さかっただろうか?
『やり直したい』
それは、俺も同じだ。
俺は、もう逃げずに向き合うと決めた。
そのために、今日来たんだ。
『知りたいです、朝斗さんのこと』
彼女が、向き合う大切さを教えてくれたから。
彼女のおかげで、気付けたから。
(今はただ…本当の“自分”を取り戻したい―――。)
こんなガキみたいに、駄々を捏ねる自分も。
幼い頃から“人に甘える事”を押し込めていた自分も。
―――…間違いなく、俺の一部だから。
「―――父さんの再婚相手…どんな女性?いつ、結婚するつもり?」
「朝斗・・・?」
俺の言葉に、父は言葉を詰まらせた。
「再婚―――…しても、良いのか?」
「良いも何も、父さんが結婚したいと思ったんだろ?」
俺が目をそらしてそう言うと、父は笑った。
そしてまた泣いた。
―――父が涙もろいなんて、今日初めて知った。




