百五十三個目
「記憶って……どうにかならないッスか!」
頭が真っ白になっていた俺の代わりに聞いたのは、キューンだった。そう、その通りだ。記憶を失ってほしくない。どうにかならないのだろうか? 今までの思い出が全て消えてしまうことには、とても耐えられない。
しかし、老人は首を横へ振った。
「あの子は成長が遅かった。一生妖精かと思っていたが、なにかしら成長する要因があったのでしょう。もうそうなってしまっては、止められない。妖精は心が成長してしまえば、繭となり記憶を失う。かなり他の妖精より遅かったが、色々なことを学んだのでしょう。喜ぶことです」
「いや、姐さんが成長することは喜ばしいッス! そうじゃなくて、記憶の話ッス! 全部、全部忘れちゃうッスか!? 僕たちと過ごした一年を、全部ッスか!?」
「成長に必要なことです。新しい思い出を、育めばいい」
「話にならないッス!」
キューンの言葉は、俺が思っていた全てだった。話にならない。
成長は喜ばしくても、記憶を失うなんて認められなかった。ずっと一緒だったんだ。ずっとずっと、最初から一緒で、苦労をして、笑って、ここまで来た。
なのに、それが全て無に帰してしまう。そして新しい思い出を育む? 昔のことを全て忘れて? そんな悲しい事実、受け入れられるわけがなかった。
「……本当に、なにもないのですか?」
「あなたたちは、あの子をとても大切にしてくださったのですね。とても嬉しいです」
「そうじゃ、なくて……」
「絶対とは言えませんが、可能性はあります」
可能性が、ある。それだけで十分だ。俺は鬱屈とした感情を振り払い、顔を上げた。なにか方法があるのなら、必ずなんとかしてみせる。
老人は一冊の本を手に取り、開く。そしてパラパラとめくった後、あるページで止まった。
「王国にある、賢者の書。そこに、手がかりがあるかもしれません」
「賢者の書……」
「しかし、閲覧は難しいでしょう。なによりも、読めるものがいない。遥か古の言語で書かれていると聞きます」
「行ってから考えます。まずはやれることをやりますから! ありがとうございます」
「ここから王国までは、時間もかかり……」
「それも大丈夫ッス!」
俺はキューンを抱えて家を出た。老人もそれ以上伝えることは無いらしく、黙って俺たちの後を歩く。そして村の入口までたどり着くと、何も言わず頭を下げた。
「良い人に出会えました。あの子のことをお願いします」
「……一つだけ、いいですか?」
「はい?」
「成長できないことは、心が純粋な証拠。決して恥ずべきことではない。人の成長には、差があって当たり前です。それだけは、忘れないでください」
「仰る通りです。必ず忘れないと約束しましょう」
言いたいことはもう無い。セトトルの成長を、純粋な心を認められなかった人たちと、これ以上関わる理由がなかった。
俺は村を出て、キューンを抱えたまま森の中をまた歩き出した。頭の中で、地図を思い浮かべる。ここからアキの町に一度戻るよりも、真っ直ぐに王都へ向かった方が早い。賢者の書を調べてから戻ろう。
今後の行動指針を立てていると、キューンが俺の中で震えた。
「心が純粋な証拠ッスか。これで妖精も変わるかもしれないッスね」
「変わっても変わらなくても、それは彼らが決めることだ。……でも、変わってほしいとは思うよ」
「……ッスね!」
そこで俺は一つ、キューンにだけ伝えようと思った。これからすることが、俺の我儘であることは分かっている。だからこそ、同行者であるキューンにだけは伝えておかないといけない。
もしかしたらそれは、自分の心を軽くする汚い行動だったのかもしれないと思う。だが、それでも言わないといけなかった。
「キューン、俺はセトトルの記憶を守りたい」
「僕もッス!」
「でもそれは、自然の摂理に逆らうことだ。記憶を失うことが当然で、これは俺の我儘でしかない。でも、俺はそれでも……」
「そんなことを考えていたッスか?」
俺は結構思いつめていたのだが、そんなこととあしらわれてしまった。さすがにちょっと傷つく。
だがキューンは、あっけらかんとしていた。くっだらないことを言っているなぁと、言葉にしていないのに震え具合で分かる。ひどい。
「ボスは姐さんが幸せだったと思うッス?」
「思う……そう、信じたい」
「なら、僕が断言してあげるッス。ボスと出会えて一番幸せだったのは、間違いなく姐さんッス」
目が、少しだけ潤んだ。間違っていないと、そう言ってくれているのが嬉しくて、耐えられない。でも、泣いてはいけなかった。俺はまだ、分かっただけでなにも解決させていない。
ぐっと耐えながら上を向き、森の木々から見える星空を見る。大丈夫だ。きっと手がかりは見つかる。だから、セトトルの記憶を守ろう。
森を抜けた俺は、竜と化したキューンにひょいっと摘ままれ背中へ乗せられる。そして俺の返事を待つこともなく、キューンは飛び出した。
いや、別にいいんだけどね……。一応、心構えとかさ?
「キューン、フーさんの記憶って……」
「失われたものは、取り戻せないッス」
「でもなにか方法があるかもしれない」
「……ボス、自分がなんでもできると思っているッスか?」
そんなことは、思っていない。だが、言い返すことはできなかった。
なんとかしてあげたいと思うことは、大事だ。しかし、なんでもできるというわけではない。今、俺たちがしなければならないことはなんなのか? それを忘れてはいけない。
なによりも、俺は今様々な人の力を借りてここにいる。仕事を投げ出し、セトトルを助けたいという思いを他の人に押し付け、話も聞かずに飛び出した。
傲慢だとしか言えないそれを、皆が後押ししてくれたから。それに甘えて、慢心していたのかもしれない。
「ごめん……」
「フーさんも、姐さんと一緒で幸せッス。だからそれでいいッスよ」
幸せ、か。そう思っていてくれるといい。いや、そう思わせてあげたい。俺がしなければならないことは、フーさんにも笑っていてもらうことだ。
記憶のことは、彼女と話してから決めればいい。どうにもならなかったとき、一番ショックを受けるのはフーさんなのだから。
俺が自分の頭をコツンと叩くと、首をこちらへ向けたキューンが言った。
「なら、嫁にもらってやればいいッス。そうすれば幸せッスよ」
「ぶっ……いや、冗談でもそういうことはね?」
「婚約者が三人もいるくせに、往生際が悪いッス」
「あー! 分かってる! そっちもちゃんと考えるから! セトトルを助けた後にね!」
「結婚するッス?」
「分かった! 逃げないでそれも考慮する! それでいいだろ!?」
「ずるい言い方ッスね……」
直面するべき問題を突き付けられ、少しげっそりとしてしまう。だが、それとは裏腹に心は少しだけ平穏を取り戻していた。
もしかしたら、キューンは気を遣って言ってくれたのかもしれない。やれやれ、悪いことをしてしまった……。
「で、結婚するッス?」
「うるさい!」
前言撤回。やっぱりからかっているだけだろう。
そして数時間飛び、空が朝焼けに包まれ出すころ、俺たちは王都へと辿り着いていた。 夜は人に見られる心配もなかったが、日が出て来てしまってはそうはいかないだろう。
俺は王都の近くへ降りるようにキューンへ指示をしようとしたのだが、そのまま王都を通り過ぎる勢いで飛んでいた。
「キュ、キューン? 王都の近くに……」
「賢者の書を探すのに時間がかかるかもしれないッス! 王城の中庭に降りるッス!」
「ちょっと待って!? そうしたら大変なことになるよね!? 誰が言い訳をするの!?」
「ボス頼んだッス!」
「人任せかよおおおおおおおお!」
俺の意見を全て無視し、キューンは朝焼けでオレンジ色に染まりながら、王城の中庭へと降り立った。当然、すぐに大量の兵士が来て、俺たちを取り囲む。
こういう状況は、全く想定していなかったよ……。