百五十二個目
夜遅く、深い森の近くへキューンは降り立った。そしていつも通りの緑色の球体へと戻る。森の中を進む以上、この姿のほうが動きやすいのかもしれない。
「いやー、久々に飛んだから気持ち良かったッス」
「それは良かった。でもこれからが本番だし、帰りもある。頼むよ?」
「余裕ッスよ」
元々キューンと話せた俺には違和感がほとんどない。だが、キュンキュン言っているところが聞けないのも少し寂しいものだ。
それにしても、飛んでいることに最初は驚いてこそいたが、到着前くらいには慣れていた。流れる景色を楽しむ余裕があったのだから、自分も大概のものだと思う。
……さて、そんなことはとりあえず置いておこう。
俺は地図を見直し、キューンを抱えて暗い森の中へと入った。
「暗くて道が分からない……」
「大丈夫ッス、なんとなく感じるッス。このまま進んで、あの木のところを右ッス」
「転ばないかな?」
「それも僕がなんとかしてるッス。森に入った瞬間弱気にならないでほしいッス!」
そう言われても、人間は暗闇に恐怖を感じる生き物なんだよ……。セトトルのためじゃなければ、絶対に入ったりしない。及び腰になっているのに、足を止めないことを褒めてほしいくらいだ。
恐る恐るだが進み続けると、キューンが俺を止めた。
「うーん、もうちょっとッスね。人避けの結界があるッス」
「結界? このまま進んで大丈夫なのかい?」
「僕がなんとかするッス」
なんでもキューンに助けてもらい、おんぶにだっこ状態だ。しかしまぁ、許してもらおう。俺は勇者でもなければ賢者でもない。ただの管理人なんだからね。キューン様様ってところだ。
……キューンに言われたまま進むと、ふっとなにかを超えた違和感を感じた。不思議に思ったのだが、その答えはすぐに分かる。急に森が開け、目の前には光の粒子が漂う空間があった。
「もしかして……」
「着いたみたいッス」
蛍が飛んでいるかのような幻想的な空間。その場所が、妖精の村だった。
とりあえず人影も見つからず、俺はキューンを抱えたまま進んだ。小さな家が木につけられており、妖精が住んでいるのだろうということは分かる。しかし、誰も現れない。
家の数からしても大量の妖精がいるはずなのに、静まり返っている空間。自分たちが異分子だと、空気が教えてくれていた。
困っていると、俺たちの前に歩いてくる人影が目に入る。茶色の髪を背で結んでいる、俺より少し小さい老人だった。
「人間が、どうやってここに?」
「力を借りて、お邪魔させて頂きました。細かいことは省きます。セトトルを助けるために、力を貸してください」
俺がそう言うと、周囲からざわざわとした声が聞こえ出す。「セトトル?」「なぜセトトルの名前が?」「人間が妖精を捕まえに来た?」。声を聞くだけでも、自分たちが歓迎されていないことは分かった。
だが、そんなことには興味が無い。俺に今必要なのは、妖精に好かれる人間になることではなく、セトトルを救う手立てを得ること。その後に嫌われ罵倒されようが、知ったことでは無かった。
「……込み入った事情がありそうだ。素直に帰ってくれるとも思えない。話を聞こう」
「ありがとうございます」
老人へ続いて奥へと進む。その先には、人間が住めるほどの大きさの家があった。そりゃこの老人が、あの小さな家に住むことはできないよね。当然、家だって人間サイズだ。
家の中へ入ると、座るように促される。お茶一つ出さないところからして、早く帰らせたいと思っていることは、見るからに明らかだった。
「で、セトトルがどうしました?」
「高熱を出して倒れました。救う方法が分からず、ここに来ました。薬を頂けませんか?」
「高熱……そんな、まさか今頃……?」
ぶつぶつと、老人はなにかを呟いている。なにか思い当たる節があることは、その態度だけで分かった。なら、助ける方法だってあるはずだ。俺の手には、人知れず力が入っていた。
考えが纏まったのか、老人は俺を見て、渋い顔をしながら話し始めた。
「まず最初に、セトトルはそのままでも死にません」
「死なない……? なら、助かるのですか?」
「助かるというのが、私たちとあなたたちでは認識が違う。あなたたちにとっては、助かってはいないのかもしれない。私たちにとっては、助かります」
遠回しな言い方に、俺は少しだけ苛立つ。種族が違うのだから、考え方の違いがあるのは分かる。だが、この遠回しな言い方はなんだろうか? 少しでも早くセトトルのところへ戻りたい俺は、自分の苛立ちを抑えるので精一杯だった。
しかし老人はぼんやりと天井を眺めている。早く続きを話してほしい。
「あなたは、セトトルのなんですかな?」
「仲間であり、家族です」
「人間が妖精を……? どう思っているのですかな?」
「どう? 助けたいと思っています。いえ、助かるんですよね? 分かりやすく話して頂けないでしょうか?」
「そうですな……」
老人はゆっくりと、言葉を選びながら、俺が焦っていることなど気にもせず話始めた。それは、知られていない妖精の真実。そしてセトトルの過去について……。
「妖精は、ある年齢に達すると繭となります。大人へ成長するために」
「つまり、それで高熱が出たと?」
「そうなります。あの子はその年齢になっても大人になれず、子供のままでした。物覚えも悪く、精神的に弱い。大人になれない妖精は、恥ずべき存在です」
セトトルを馬鹿にされたが、俺は感情をぶつけないように抑えた。なによりも、膝の上にキューンがいたことが幸いする。彼を撫でることで、俺は怒りを抑えていた。
老人は俺の様子に気付いているのか気づいていないのか、淡々と、変わらず話を続ける。
「妖精が大人になるというのはどういうことか。秘匿とされているので知らないでしょう」
「……? 少し大きくなるとか、力が強くなるとかでしょうか?」
「あなたは、大人になった妖精を見たことはありますか? いえ、セトトル以外の妖精でも構いません」
「そりゃ……ない、ですね」
そう、俺は大人になった妖精どころか、セトトル以外の妖精すら見たことがない。そんなことがありえるのだろうか? 妖精は、この村から出てはいけない? セトトルだけが、抜け出して特別だった?
それがどういうことなのか、俺には分からない。嫌なところを飛び出したことが、悪いとは思っていなかった。セトトルは今、笑って過ごしてくれている。それだけでいい。
「妖精は大人になるときに村を出ます。そして高熱を出し、繭となる。結界を張り、人知れず一人で大人になるのです」
「それは分かりました。セトトルが大人になるのですよね? このまま放っておいても、問題ないと?」
「落ち着きなさい。話の核心はこの後です」
そうだ、落ち着け。セトトルが大人になる。助かるのだし、なにも問題はない。だが、老人の話し方で不安が隠せない。なぜここまで勿体ぶった言い方をしているのだろう? 一体、これからなにを言おうとしているのだろうか?
俺は一つ深呼吸をし、僅かながら気持ちを落ち着かせる。大丈夫だ。セトトルが助かるのなら、例え何があったとしても関係ない。
「大人になった妖精は、妖精でなくなります」
「さなぎとなり、蝶になるようにですか?」
「それよりも急速な変化があります。サラマンダー、シルフ、ウンディーネ、ノーム。精霊と呼ばれるものへと、変化するのです。体も大きくなり、人と暮らす者も多いです」
勿体ぶった割に、大した内容ではなかった。つまりフーさんのようになるということだろう。ここまで引っ張るのだから、全く違う姿にでもなるのかと思った。
俺は安心していたのだが、老人の話はまだ終わっていない。むしろ、この後の一言こそが全てだった。
「そして、妖精だったときの記憶を全て失います」
「記憶……を……?」
どくんっと、胸が強く鳴った。俺は気づくべきだったのだろう。
フーさんは、気づいたら森に一人でいたと言っていた。その前のことは覚えておらず、精霊は自然発生するのだと。俺は当然のようにそれを受け入れていたが、そうではなかった。
フーさんは元々妖精で、シルフとなることで全ての記憶を失った。つまり、セトトルも……。
現実を受け入れられず、命が助かると分かっているのに、俺は動揺を隠せなかった。