百四十五個目
ガブリエルって、今言っていたよね? いや、間違いなく言っていたはずだ。そしてこの見た目。もしかして、この狼はガブちゃんの……。
そこまで考えたところで、俺の頭の上側でバンッと音がした。少しだけ視線を上げると、赤いドレスの裾……いけない。慌てて横を向いた。動けないので見えることはないだろうが、下から覗いているような図になってしまう。
ロングのスカートとツナギ姿しか見たことがなかったので、素足がちらりと見えてどきっとしてしまう。俺の頭の上に陣取っていたのは、ハーデトリさんだった。
「お退きなさい」
『下がっていろ小娘。この男に用がある』
「私は退きなさいと言ったのですわ?」
擬音をつけるのなら、ゴゴゴゴと言ったところだろうか。ハーデトリさんと黒い狼が睨み合っているのが分かる。周囲の人は手に武器を持ち、隙を窺っている様子だ。
「突っ込むか?」
「いや、ハーデトリさんが頑張っている」
「やばいと思ったら、数で押して東倉庫の管理人を守るぞ」
俺を助けようとみんながしてくれている。それはとても嬉しいことだ。
しかし、俺は困っていた。恐らくガブちゃんの知り合いであろう狼を傷つけたくはない。いや、今まさに喉元に牙を突きつけられている俺が言うことじゃないんだけどさ……。
とりあえず、穏便に話を済ませたい。そう思っているのだが、口を出すことができない雰囲気になってしまっていた。
「力尽くで退かされたいようですわね?」
『関係の無い人間に、怪我をさせるつもりはない』
「関係ならありますわ! あなたが組み敷いているのは、私の夫ですわよ!」
「け、結婚していませんよね?」
「近いうちにしますわ」
ハーデトリさんは、キリッとした顔で答えていた。普通そういうのって、お互いの気持ちとか同意とか、大事なものがありますよね? あらゆる段階をすっ飛ばそうとしている。というか、やはり昨日のことは夢ではなかったらしい。
三人中三人がこうなのだ。もう現実逃避は許されない。それに、なんというか……。
「やっぱり結婚するのか!」
「美人どころばっかり捕まえやがって……!」
「儂も東倉庫で働こうかのぉ」
おじいさん、うちで働けばもてるわけではありません。後、腰が曲がったおじいさんに倉庫業務は辛いと思いますよ? そうツッコミを入れたいところなのだが、今は自分のことで手一杯だ。周囲の台詞は流しておこう。
さて、とりあえず牙がツンツン当たるのは怖くてしょうがないので、説得をしようかな。現状打破は、難しくないはずだ。誤解があるようだし、ガブちゃんに合わせれば引いてくれるだろう。
問題は、俺を無視して二人が睨み合っていることかな……。
「どうしても退きませんのね?」
『やるというのならば、この男もろとも痛い目にあってもらうぞ』
「ふっ……」
ふぁさっと、ハーデトリさんが髪を手で靡かせた。様になっているが、ポーズをとっている場合じゃないです。ビシッと指を突きつけていますが、それも今は必要ありません。
心の中で俺がツッコミを入れていると、彼女はポーズをとったまま言ってのけた。
「夫を見捨てて逃げるようなこと、このハーデトリがすると思っているのですか? そんなことをするくらいなら、共に死したほうがましですわ!」
『なんと……』
周囲から歓声が上がる。ハーデトリさんの覚悟への、拍手や賛辞だ。俺の上にいる狼すら、頷き歓心している。
だが、当事者の俺を無視して盛り上がるのはどうなのだろうか? ハーデトリさんも、手を振って応えるのは止めてください。
いい加減、この緊張感があるのかないのか分からない状況を終わらせたい。なのに、口出しできない空気。え? 命がかかっているのに、場に流されて殺されたりしないよね? 俺がとてつもなく不安に思っていると、先ほどからなぜか全く関わって来なくて、不思議に思っていた人物の声が聞こえた。
「ボス! 大丈夫!?」
「セ、セトトル……ガブちゃんを」
「大丈夫! オレが連れてきたよ!」
「……どこに?」
「え?」
セトトルはきょろきょろと周りを確認する。俺を見て、黒い狼を見て、ハーデトリさんを見て、周囲を取り囲む人たちを見て、うーんと呻きながら頭を抱えている。
ガ、ガブちゃんはどこにいるのかな?
「えっと……はぐれちゃった?」
「あ、うん……それはしょうがないね」
「う、うん。ごめんねボス」
別にセトトルが悪いわけじゃない。はぐれたガブちゃんが悪いわけでもないし、黒い狼やハーデトリさんが悪いとも思わない。……でもさ? 俺も悪くないよね!? ガブちゃん早く来てくれ!
若干だけれど、牙が当たることにも慣れてきているのが凄く嫌なんだよ! 俺がそう思っていると、バッと人ごみを飛び越えて俺の視界に入る黒い影があった。
『すまない、遅くなった。こやつを倒せば良いのだな!』
「ガブちゃん! 私に力を貸してくださいませ! ナガレを助けますわ! ……な、名前で呼ぶのは恥ずかしいですわね」
「助けるのはいいですが、話し合いでですね……。後、照れてないで早目にお願いします……」
ハーデトリさんが両頬に手を当てて体をくねくねと動かし、ガブちゃんが唸り声をあげる。その時、俺の首元から牙が退けられた。どうやら気付いてくれたらしい、本当に良かったよ。
黒い狼はくるりと後ろにいたガブちゃんを見て、声をかける。
『ガ、ガブリエル……大きくなったな、可愛い息子よ……』
『退くが良いならず者が!』
ガブちゃんの足元から、土が盛り上がり真っ直ぐに棒のように伸びて、俺の上にいた黒い狼へクリーンヒットする。当然、黒い狼は吹き飛ばされた。
キャイーンって鳴き声がしたけれど、やっぱり犬なのだろうか? 非常に悩ましい。……いや、そうじゃない! 俺は慌てて、吹き飛ばされてピクピクと痙攣している黒い狼へ近づいた。
『ボス、もう大丈夫だ』
「ガブちゃんよく見て! 大丈夫ですか! お父さん!」
『誰がお義父さんだ! 息子は嫁にやらん!』
割とぴんぴんしている。すぐにむくりと立ち上がった黒い狼は、俺を睨み付ける。本当に済みません。お宅の息子さんが短慮なばかりに……。
しかしそんなことはどうでもいいらしく、、俺に罵詈雑言を捲し立てた。
『可愛い息子になにをした下等な人間! 殺されたいのか! いや、殺す! ただで済ますと思うなよ!? 四肢を食いちぎり、傷口を焼いた後に木へ吊るしてやる!』
「誤解です! 本当に誤解ですから、物騒なことを言わないでください! 想像しちゃったじゃないですか!」
俺は必死に宥めようとし、ガブちゃんは父親だと気付き慌てて謝罪をし、セトトルとハーデトリさんは俺の心配をする。
周囲の人だかりは「なんだ、やっぱりボスの知り合いか」と、落ち着きを取り戻していた。その厄介ごとは全て俺の知り合いみたいな考えは、ぜひ捨ててください。
そんな中、ヒートアップしているガブちゃんのお父さんが俺へもう一度飛び掛かろうとしたとき、横から土の塊が飛んできて命中する。お父さんは綺麗に横へ吹き飛び、今度こそ動かなくなった。
『夫が失礼をしました』
「え? もう一匹?」
『ガブリエルの母です。夫が暴走したようで……』
「いえ、助かりました。誤解があったようですので、説明させて頂きますお母さん』
『お義母さん!? ガブリエルを嫁にやる気はありません!』
また勝手に誤解をしているもう一匹の黒い狼を宥めつつ、俺は溜息をついた。
ダイアウルフの一族って、凄く面倒くさいね……。後、ガブちゃんはオスだろ。