百四十二個目
飲み潰れた貴族がお供に連れられて店を出る。俺はその様子を、固まったまま見送った。先ほどまで貴族が座っていた向かい合わせの席には、なぜかハーデトリさんが座っている。
彼女はにこにこと俺を見ていた。なぜか釣られて、俺も笑ってしまう。そんな俺の隣の席にダンッと座る人物がいた。
……ウルマーさんだ。ちらりと見ると、目が怖かったので逸らしておいた。
店の中にいた人々も、騒ぐことなく静かになっている。助けを求めるように見たのだが、誰も目を合わせてくれなかった。一体なにが起こっているのか、全く頭がついていかない。
東倉庫の面々も、他の客よりは俺の近くにいるが、それ以上は近づいて来ない。貴族との決闘なんて、目じゃないくらいの威圧感を俺は感じていた。誰か、助けてください……。
静まり返る店内で、最初に口を開いたのはウルマーさんだった。
「ねぇ、ハーデトリ」
「どうかしましたか?」
「助けてくれてありがとう。お陰で、なんとかなりそう」
「貴族だからといって、横暴を許すわけにはいきませんわ。後のことは、任せておいてくださいませ」
……そうか、どうやら俺は聞き違いをしたらしい。二人の穏やかな態度を見て、ほっとした。俺がハーデトリさんの夫なわけがない。夫婦どころか、恋人ですらない。
聞き間違えではないのだとしたら、助けるために言ってくれたのかな? きっとそうだ。いや、気を遣わせてしまったね。ハーデトリさんにお礼をちゃんと言っておこう。
「ハーデトリさん、ありがとうございました。助かりました」
「妻として当然ですわ」
ハーデトリさんは、両手を頬に当てて体を振っていた。可愛らしい態度だが、俺は全身に冷や汗が流れている。こういうときこそ、キューンを体にまとっておくべきだったのではないだろうか?
うん、そうしよう。夕飯は、どこかで買って食べれば今日はいいかな。
俺がそう思い立ち上がった瞬間、ウルマーさんとハーデトリさんに手を掴まれた。
「あの……」
「ボス、座って」
「いえ……」
「座ってくださいませ」
「はい……」
ウルマーさんは、笑顔で俺を座らせた。怖い。
ハーデトリさんも、笑顔で俺を座らせた。やっぱり怖い。
そしてまた誰も話さなくなる。ウルマーさんもハーデトリさんも、にこにこと笑いながら俺を見ていた。ど、どうやら俺がなにか言わないといけないらしい。
助けてもらったお礼は言ったが、誤解は解いておく必要がある。俺はスーハーと深呼吸をし、自分を落ち着かせて話し始めた。
「ハーデトリさん」
「はい、なんでしょうか」
「その、助けて頂いたことは感謝しています。ですが、夫扱いをしてしまうと誤解を受けてしまいます」
「誤解じゃありませんわ? 私たちは婚約していますでしょ?」
「あ、あはは……婚約していましたっけ?」
初耳です。もう手汗はびっしょりだし、どこを見ていいかも分からない。俺は明らかに挙動不審だった。もうどうしたらいいかも分からず、頭も真っ白だ。
婚約したっけ? 婚約……したのかなぁ? いや、していない! ……していないよね? この世界では婚約となる行動を、知らずのうちにとってしまったのだろうか? だとしたら、俺の落ち度だろう。うん、そうだ。その辺りをしっかり……。
「ボス」
「はい!」
「私と婚約したつもりは無かったのですね? 薄々お父様の勘違いだと思っていましたわ」
俺よりも、よっぽどハーデトリさんは冷静だった。そうか、やっぱり誤解があったのか。それにしても、お父様? 俺がハーデトリさんのお父さんに会ったのは、王都にいたときに数回だ。
あの時に、なにかがあっただろうか? ……駄目だ、考えても分からない。だけど、誤解が解けそうだからいいかな。
少しだけ安心していたのだが、ウルマーさんは厳しい目をして俺を見ている。引きつった笑顔を、ウルマーさんには返しておいた。
「分かりましたわ。お父様からは私が連絡をしておきます。婚約のことは忘れてください」
「あの、すみません。何かご迷惑をおかけしてしまったみたいで……」
「構いませんわ」
ハーデトリさんは、にっこりと笑って俺を見た。どうやら本当に怒っていないらしい。そりゃそうだよね、ハーデトリさんだって俺と婚約なんてしたかったとは思えない。
お父様に言われてしょうがなく、と言ったところだろう。婚約したつもりはなかったが、婚約を取りやめる。婚約破棄はお互いのために必要なことだ。いやいや、良かった……。
「では、改めて言わせて頂きますわ」
「はい……はい? えっと、婚約破棄に必要なことが?」
「いえ、違いますわ」
真っ直ぐで熱っぽい瞳、少し赤くなった頬。俺は少しドキリとしながら、ハーデトリさんと視線を合わせていた。目が逸らせない……。
彼女は一切動揺する様子も見せずに、はっきりと俺へ告げた。
「私は、ボスを愛していますわ。結婚いたしましょう」
俺は、完全に固まった。アイシテイル、ケッコンシマショウ。今まで生きてきて、一度も聞いたことがない台詞だった。
しかも付き合いませんか? 婚約しませんか? 結婚しましょう? といった順序でもなければ、疑問形でもない。結婚しよう。そうはっきりと告げられたのだ。
なにも答えられずに俺が俯いていると、ウルマーさんがぼそりと言った。
「駄目……」
「なにが駄目なのかしら?」
「そ、そんないきなり結婚だなんて……駄目!」
ウルマーさんはハーデトリさんに、駄目と言う。それに対しハーデトリさんは、深く溜息をついた。
空気が重い。ピリピリとしていて、自分が立っているのか座っているのかも分からない。明日、出さないといけない荷物は何時に受け渡しの予定だったかな……。
「ウルマー、これは私とボスの話ですわ。あなたに駄目と言われる筋合いはありませんわ」
「……わ、私だって」
「だって?」
ハーデトリさんに聞かれて、ウルマーさんは口を噤んだ。彼女の言っていることは、間違っていない。確かにこれは俺とハーデトリさんの問題だ。ウルマーさんが口を出すべきことではない。
それにしても、どうしよう……。頭の中では、明日の仕事の予定だけがぐるぐると回っていた。
「ボ、ボスは……仕事は真面目だけど! 本音は言わないし! 若干へたれているし! いっつも女に優しいし! 男にも優しいけど! でも、頑張ってて……」
「だから、どうしたのですか?」
ぴしゃりと、ハーデトリさんはウルマーさんの言葉を遮った。ウルマーさんがなぜ必死そうなのかは分からないが、俺はただ俯いていることしかできない。
俺、へたれていたのか……。いや、今へたれているかもしれない。へたれだったのか……。
「……じゃない」
「聞こえませんでしたわ」
「ぐっ……だから、しょうがないじゃない!」
「……それ以上言う気がないのでしたら、引っ込んでいてもらえますかしら?」
めちゃくちゃ怖い。最近にこにことしていたのに、ハーデトリさんがすっごく怖い。俯いているので二人の顔を見ることもできないが、どんな顔をしているのだろう?
あぁ……貴族さん、戻ってきて決闘を申し込んでくれないかな? 決闘や仕事のほうが、気が楽だったよ……。
「あー! もう! 好きなの! どこが好きかって言われたら困るけど、好きなんだからしょうがないじゃない! ハーデトリに譲る気なんてないから!」
ウルマーさんの激白は、俺への告白だった。
はっはっは……え? どういうこと? えっと、俺は今、なにをしているの? 美女二人に告白されて、お腹が減ったから夕食を食べる……?
そうだ、明日も早いんだ。夕食を食べて帰ろう。帰ったらガブちゃんとシャワーでも浴びようかな。
と、俺が完全に現実逃避をしていると、バンッとまた机が叩かれた。ウルマーさん、そんなに机を叩かないほうが……違う。俯いているから手しか見えないが、見覚えのある手だった。
白く少し小さい手。この手は……。
「ボ、ボスは!」
「……ボスがどうかしましたの?」
「ボスは……私と! ずっと一緒にいてくれるって……そう、言ったんです! だ、だから……ボスは私と結婚します!」
フーさんまで、乗り込んできたのだ。
ちなみに俺の頭の中は、これで完全に真っ白になった。