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【ケンジ】ネゴシエーション

 ある日、富沢は様々な対応に追われていた。ライブのチケットは発売すると同時に完売が続くため、主催者から日程の追加依頼や、様々なメディアの取材要請が相次いでいたからだ。


「ああ、可愛いくてスタイルが良くてアシスタントやってくれる娘、どっかにいねえかなぁ」

 電話を掛けながらふと人の気配を感じて入口の方を見ると、古びた木製ドアの上部にはめ込まれた磨りガラスに、人影が映っていた。


 その後、ドアが開いて中に入ってきたのは、椿原だった。


「よぉ、アシスタントに見た目は関係ないんじゃないの?」

 椿原が事務所を訪れたのは、退職してから初めてだった。年季の入った受話器を肩と耳で挟みながらスケジュールの確認をしていた富沢は、その姿を見てほんの少し言葉が途切れたが、またすぐに話し始め、手招きをして迎え入れた。

 

椿原はソファに深く腰をかけ、テーブルの上に置いてある富沢のタバコに火をつけた。大きく吸い込んで煙の輪を作っていると、電話を終えた富沢が向かいのソファに腰を落とし、同じくタバコに火をつけた。


「で、天下のキャニックスさんがわざわざお越し頂いて、何の用だ?」

「わかっているでしょ? もう何度も話しているじゃないですか。今日はそろそろ本気の返事をもらいに、こんな小汚い事務所までわざわざ足を運んで来たんですよ。本当は昔のことを思い出すから、来るのは嫌だったんだけどね」


「説得はしているけど、本人は今のまんまやりたいって言っているからなぁ」

「実はね、トミーさん。この前のライブに、うちのザクトを連れて行ったの。そしたらケンジの事をかなり気に入っちゃって。彼は一度言い出したら聞かないから。だから僕のほうもあまり時間がないんだよ。それにトミーさん、早めに契約金を手に入れといたほうが良いんじゃないの? 借金、けっこう大変なんでしょ?」


「お前に心配されるこっちゃねえさ。大丈夫だ、手は打ってあるよ」

 椿原は鼻から煙を出しながら、半分も吸っていないタバコを灰皿にこすり付けた。


「それってヤマト興和銀行からの融資でしょ? それダメだよ。あそこ方針が変わって、中小や零細への貸し出しは縮小するみたいだよ」

「なんだって!? あそこの融資がなかったら、うちなんかすぐに潰れてしまうぞ!? でも、なぜお前がそんな事を知っているんだ!?」

「支店長とは仲良しなんでね。うちはあの支店の中では最大の取引先だし。だから、ケンジは早めに売ってちょうだいよ。そうすれば口を利いてあげても良いし、何より契約金を手にしたら金なんて借りなくて済むでしょ? こんなボロアパートから引越しも出来るんじゃないの? しかも残りのメンバーも引き取って良いなんて、こんなに良い条件、滅多に出ないよ」


「てめえっ!」


「トミーさん、決断は出来るだけ早いほうが良いよ。だってザクトの気が変わったら、この話は無くなっちゃうから。あ、あと他の銀行を回ってもダメだからね。お宅に金を貸してくれるところなんて、もうヤミ金でもないんじゃないかな」

「くそ! 生意気でどこも雇わなかったお前を育ててやったのに、恩を仇で返すつもりか!」


「あんたに育ててもらった覚えはないけど、それでも感謝してもらいたいくらいだよ。本来ならうちのような大手と、あんたみたいな零細企業は付き合えないんだよ。しかも、破産寸前の状態から救ってやろうって言っているんだから。それでもダメだって言うんなら、俺も顔に泥を塗られたまま、ハイそうですかって引き下がるわけにはいかねえんだよ、わかる?」


「ち、ちょっと待ってくれよ。俺だって一生懸命やっているんだ。お前もうちに来た頃は、純粋に才能のあるアーティストを発掘するこの仕事に魅力を感じていたはずだ。今はちょっと商業的に苦しいだけなんだ。ここを乗り切ったら、何とかなるんだよ」


「トミーさん、諦めな。あんたのやり方は、もう通用しねえよ。才能のあるヤツなんて腐るほどいるし、次から次へと出てくる。要はマーケティングとプロモーション、そしてそれを実行するための金だよ。あんたは人の見る目はあるかも知れないけど、そこはサボったんだ。経営者としては失格だ」


「……」

 富沢は両手で膝を掴み、小刻みに震えていた。椿原はまたタバコに火を付け、煙の輪を富沢に繰り返し吹きかけている。このオファーを断れば、今後この業界で生き残る事が不可能なことは明らかだった。


 椿原がまた半分も吸っていないタバコを灰皿でかき消している横で、富沢は土下座をしていた。


「い、一週間待ってください。必ずケンジを説得します」


「甘い事を言ってんじゃねえよ! 時間がねえって言ってるだろ!?」

 椿原が勢い良く蹴ったテーブルの角が富沢の額にあたり、床に血が滴り落ちた。

「3日やるよ、3日。ダメなら、それまでだ」

 椿原は立ち上がり、富沢の右手を踏みつけた後、部屋を出て行った。


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