終わる者、始まる者
大地を穿つほどの凶悪な威力を備えたその咆吼は、炎と風の攻撃と言うよりもレーザー光線のような無慈悲に強力な一撃だった。
レベッカは、その咆吼がこれまでとはまるで違う異質な攻撃だと瞬時に察した。
大剣フーランルージュで防ぐ事を選択肢から外し、最速最短最効率で身を傾けて紙一重で回避する事に全身全霊を傾ける。
その顔に笑みが浮かぶ。
眼前の巨大なる敵が思っていたよりも強敵だと知った、狂気を含む獰猛な笑みだ。
それを間近で見たフレイムリザード・ワイバーンの背中を、生まれて始めて嫌な汗が流れ悪寒が走る。
旋嵐の亜神ヴァレリの力によって解放された戦撃〈炎嵐の息吹〉が逃げ遅れた焔色の髪だけを焼失させただけに終わるのをフレイムリザード・ワイバーンは目撃する。
間髪入れず爪撃を放った。
以前ならば考えられない行動。
確実に敵の命を奪うだろうと慢心していた時には無かった必殺の連続攻撃に、女戦士は反応しきれない。
如何に素早く動けるとしてもこのタイミングならば致命傷は与えられないまでも腕の一つは奪える。
――そう確信した刹那。
「ちっ」
首の真後ろに生まれた僅かな殺気に、フレイムリザード・ワイバーンは片翼を羽ばたかせ回避行動を取っていた。
「今日は本当についてない。闇斬りの名も地に落ちたな」
流石のフレイムリザード・ワイバーンも、無防備状態の首を攻撃されれば回避しない訳にはいかなかった。
全身は堅い皮膚と鱗で守られてるものの、女戦士が持つ大剣の例もある。
黒衣の襲撃者からの攻撃を回避した事で女戦士の命を刈り取る寸前だった爪牙も外れ、僅かに肉を抉っただけに終わる。
敵が二人に増えたとしてもフレイムリザード・ワイバーンは恐れることなく敵に立ち向かう。
生まれてからずっと弱肉強食の世界に身を置き、常に生と死が隣り合わせにあったその人生に逃走の選択肢は微塵も存在しない。
あるのは勝利の生と、敗北の死のみ。
怒りに心が支配されながらもその奥底では冷静に状況を分析し、勝利するためだけに行動を起こす。
「オオオオオオオオオオッ!」
まずは通常の咆吼による牽制。
新たなる敵の力が読めないままでは、強敵たる女戦士には突撃出来ない。
衝撃波が大気を震わせ、巻き込まれた地を這う生き物達の尽くを吹き飛ばしていく。
幾人かはそれで命を落とす事になったが、3者は気にすることなくぶつかりあった。
咆吼の一撃に耐えきった男が屋根から屋根へと軽快なステップを巧みに刻み、気配を希薄にしながら横へと回り込む。
正面からは獰猛な笑みを浮かべた女戦士が突き向かう。
先の不意打ちを経験したフレイムリザード・ワイバーンが容易く背後を取らせる筈はなく、両翼を羽ばたいて全方位に烈風を巻き起こす。
烈風は鎌鼬を生み、黒と赤の男女2人に容赦なく襲い掛かる。
女戦士は大剣を盾に、身を傷付けられようとも気にする事無く突っ込む。
黒衣の男は両腕を顔の前で交差し、身体を縮めて表面積を減らす行動を取る。
狩るならば後者。
そう判断したフレイムリザード・ワイバーンはもう一度両翼を動かし、女戦士から距離を取りつつ炎のブレスを黒衣の男に向けて放つ。
荒れ狂う紅蓮の炎が周囲一帯を赤く染めながら放射状に広がっていく。
男ももちろん容易く狩られるつもりはなく、視界を覆いながら強襲する炎の海から逃れるために後ろへと跳ぶ。
だが炎の勢いは想定以上に速かった。
一撃離脱の戦法を得意とする男の回避速度では迫り来る炎の群れから逃れる事は叶わず、男の身が灼熱の業火の中に沈む。
否。
身を焼かれながらも屋根から飛び降り、直撃だけは免れる。
全身を黒一色に染めている黒衣の頭巾と装束をすぐに剥ぎ取り、身に纏わり付く炎を身体から引き剥がした。
仕損じた事を理解しつつ一度その男に存在を脳裏の隅に追いやり、本命の敵へとフレイムリザード・ワイバーンは向き直る。
途端に怒りと興奮が倍増し、鋭き爪撃が空間に円弧の軌跡を描く。
攻撃するためでなく迎撃するために、異なる軌跡を描いて振るわれた大剣を爪牙がとらえる。
徐々に加速していく思考の中で、フレイムリザード・ワイバーンは腕の次に身体を捻り反転。
大剣の先にある女戦士の身に向けて、鞭の如くしならせた尾撃を放った。
レベッカは一瞬も躊躇う事無く突き進んだ事が幸いし、尾撃が最も力を発揮する間合いを抜け、手を伸ばせば腕が届く距離にまで接近。
それ以上の進撃は横殴りの一撃により断念せざるを得ず、歯を食いしばり身体に力を込めてその攻撃に備える。
一瞬後、強烈な衝撃とGがその身に降りかかり、そのまま弾かれた先にあった建物に背中から激突。
盛大な破壊音と破片を撒き散らしながら、崩壊する建物の中へと埋もれていった。
「ガァァァァァァァッ!」
間髪入れずフレイムリザード・ワイバーンの口から灼熱の息吹と咆吼が放たれる。
空飛ぶ巨大蜥蜴の口から吐き出された一撃は、地上を焼き払う業火。
上乗せされた咆吼の衝撃は炎の勢いを速め、直撃を受けた建物が破壊されながら炎に包まれていく。
本当ならば戦撃〈炎嵐の息吹〉を使いたかった所だが、旋嵐の亜神ヴァレリの力が宿るその戦技を連続使用するのは心身に負担がかかりすぎるため今回は断念。
代わりに炎の息吹と咆吼の同時使用という経験を積んだ事で新たに閃いた戦技〈灼熱の咆吼〉で敵の体力を奪いさる。
だがその一撃も、崩壊した建物の中から振るわれた一閃によって真っ二つに両断される。
重低音に鳴り響く咆吼に風刃の破壊音が重なり、炎が激しく荒れ、その余波で街の被害を拡大させていく。
「オオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
フレイムリザード・ワイバーンが押し返されるのは許さないとばかりに、肺の中の空気を絞り出す。
連続して繰り出された咆吼の衝撃を受けた灼熱の息吹が勢いを取り戻し、二つに斬り裂かれた炎海の溝を閉じていく。
炎を押し返すために渾身の一撃を放ったばかりの女戦士は、相変わらずに口元を喜びの色を浮かべながら、その閉じ行く焔一色の景色を見ている事しか出来なかった。
「待たせたな」
しかしそのレベッカの眼前に乱入してくるという自殺志願者としか思えない莫迦が現れた。
戦場に身を置くには明らかに不釣り合いな軽装をした見慣れない後ろ姿の男。
両手に柄が中途半端に長い片刃の武器2本を持っている事と、聞き覚えのある声から、すぐにレベッカはその莫迦がいったい誰なのかを知る。
それも束の間、乱入者は両手に持つ武器の柄頭同士を合わせ、1本の武器へと変える。
完成したそれは、男の身長よりやや長い両端に片刃が付いた初めて見るタイプの武器だった。
半柄半刀という小薙刀、それが反対向きに合体した双薙刀――林双薙刀・静巴Ψ陰陽御前が、男の手によって勢いよく回転を始める。
その光景をレベッカは特等席で見物する。
数多の経験から、それが武器を回転させて炎を蹴散らそうとしているのだとすぐに導き出される。
それは正解であり、2メートル長の長柄武器は瞬時に円盾を形成し、目前まで迫っていた炎のブレスを風の幕で蹴散らしていった。
「ふん、どこで油を売ってたんだい?」
やがて炎の津波が消え青い空が姿を表すと、そこには不適な笑みを浮かべた男の横顔があった。
「小腹が空いたんでな。ちょっと腹ごしらえをしてきた」
「はん、この状況でかい」
「この状況だからこそだ。腹が減っては戦は出来ない。あれを殺るには必要な事だ」
「オオオオオオオオオオオオオオオッ!」
仮面を付けた男の乱入に、フレイムリザード・ワイバーンが咆える。
先程と同じように、牽制の咆吼により第三の敵の強さを計ろうとする。
耳を塞ぎたくなるほどの騒音、それを幾度となく真正面から受けてきたレベッカの顔が苦渋に歪む。
身体の芯まで響き渡る重低音は、疲弊している身体には十分に堪える。
加えて、上空から地上に向けて発せられた事で大気が圧され、まるで体重が倍に増えたかのような衝撃まで襲ってくる。
相手に悟られまいとレベッカは必至に抗う。
仮面の男も立っているだけで全く動かない。
咆吼が消え去るまで敵に動きがなかった事で、フレイムリザード・ワイバーンはそこに勝機を見た。
フレイムリザード・ワイバーンの巨大な翼が大きく開かれる。
大空へと一気に舞い上がるためにその両翼に力が込められ、上から下へと羽ばたき降ろされる。
巨体が身体一つ分高度をあげ、次の瞬間には身体を倒し急降下体勢に入る。
再度の羽ばたきと重力を利用し加速、急降下から滑るように上体を起こし軌道修正。
風圧で街を薙ぎ払いながら軌道を上に向け、上昇気流に乗りそのまま雲の上まで駆け上がった。
雲の上に舞い上がったフレイムリザード・ワイバーンの瞳が細められ、標的の位置を再度確認する。
度重なる咆吼による肺と喉の痛み、大火事による大地の酸素不足、それを新鮮で冷たい大気で満たされた雲の上で深呼吸して癒す。
旋嵐の亜神ヴァレリの力を発動。
限界まで大気を吸い、肺を極限まで膨らませていく。
胸が膨張し、ただでさえ巨大な身体が更に巨大となる。
そして、遙か下にある大地で上を見上げている事しか出来ない矮小な者達を嘲笑うかのように、敵の手の届かない高みから全てを薙ぎ払わんばかりの極大な咆吼撃を放った。
「――ォォォォォォォオオオオオオオオオオオオッ!」
街の上空にあった雲を蹴散らしながら降り注いだ衝撃と騒音が街全体を押し潰す。
最初は上空からの咆吼よりも誰かがあげた悲鳴の方が大きかった。
だがすぐに悲鳴は轟音によって掻き消され、続いて上空から叩き付けられた衝撃に建物が瓦解を開始、濛々と土煙を舞い上がらせる。
街全体に渡って世界を赤く染め上げていた炎はその咆吼撃に一時的に火勢を弱めるが、キロスの街にまだ残っていた者達の命の灯火も急激に弱められ、弱い者から順に命が失われていった。
街の周囲で様子を窺っていたモンスター達も一斉に逃げだすという自然災害めいた暴力、その超広範囲攻撃をただ受けるしかなかったレベッカ達はしかし、健在だった。
大剣を大地に突き刺し、両手で耳を塞いだ姿勢で上空を見上げている女戦士の姿。
その隣で同じく両手に持っていた武器を捨て、あまりの五月蠅さに耳を塞いでいる仮面の男。
少し離れた場所で、不意打ちを仕掛けてきた男が崩れてきた建物から逃れるためにその姿を現す。
3者がこの程度の攻撃で倒れる事は無いだろうと確信していたフレイムリザード・ワイバーンが次なる攻撃動作へと移る。
高さは力へと変わる。
腕の力のみで振るう一撃ならば大剣にて撃ち弾く事は出来るだろうが、この高度から放たれる爪撃の軌道を変えられる事は絶対に無い。
そこに旋嵐の亜神ヴァレリの力など必要ない。
純粋で圧倒的な力、それが仮面の男とレベッカの身の両方を軌跡上にとらえて襲い掛かった。
だがその次の瞬間。
高速で飛来した何かによってフレイムリザード・ワイバーンは胴を斜めに斬り裂かれた。
「いくら速くとも、攻撃の軌道が分かってしまえばたわいないもの。汝はこれだけの事をしでかしたのだ。その首を狩られても仕方あるまい」
剣を振り抜いた姿勢でそう呟いたのは、壮年の無精髭の男。
口や頭、耳から血を流しているという見た目でも十分に酷い有様は、端から見れば今すぐにでも倒れるのではと思わざるを得ないほどのダメージ。
だが活力に満ちた戦士独特の表情を浮かべている姿にはレベッカに似た鬼喜とした感情の色が彩っており、その死闘に参加出来る事を心の底から喜んでいる節があった。
「剣聖っ!? その力はいったい……いつ病を克服した。まさかこの街を救うために無理をしてるんじゃないだろうな……」
「セツナか。まだ儂をその名で呼んでくれるか。なに、そう心配するな。ちょっとした天恵を得ただけだ」
「天恵だと? 信仰を捨て剣のみに生きた御前にそんなものが万が一にも訪れるのか?」
「その話は後だ。今はあの仮面の御仁に力を貸して、あやつをこの街から排除するのが先であろう」
「あいつにか? 何を馬鹿な事を言って……」
「ま、見てれば分かる。あれは人じゃねぇ」
確実に敵のどちらか一人は葬り去る予定だった所に飛来した斬撃に、フレイムリザード・ワイバーンは体勢を崩し大地へと激突した。
巨大な物体の直撃を運悪く受けた街一番の富豪が住んでいた屋敷は、約2年の歳月をかけて丁寧に建造し今年になってようやく完成したというのに、僅か一瞬でガラクタ屋敷へと変貌する。
それを愁うのは屋敷の主人ではなく、建てた方の大工達。
屋敷の主人は仮面の男によって既にこの世にはいない。
そんな裏の事情には興味のない4者が距離を詰めるべく疾走する。
崩壊した屋敷が爆発するように瓦礫を飛び散らし、中からフレイムリザード・ワイバーンが姿を現す。
先陣を切って真っ先に近づいてきたのは仮面の男。
自身に歯向かった4者の中でまだ一度も脅威を感じていない存在に向けてフレイムリザード・ワイバーンは灼熱の息吹を浴びせかけると同時に、両翼を羽ばたかせブレスに収束と回転を加える。
如何なる存在といえど容赦はしない。
狩る者から狩られる者となっている事にフレイムリザード・ワイバーンは遅まきながら気付き始めていた。
瓦礫を飲み込みながら大地を水平に荒れ狂い進む巨大な螺旋に渦巻く紅蓮の業火は、進むほど直径を広げ凄まじい音と衝撃を撒き散らす。
飲み込まれればまず間違いなくただではすまない炎と風と瓦礫の奔流。
敵の姿は見えなくとも気配だけで塀の向こう側に仮面の男がいることを察したが故の先制攻撃。
フレイムリザード・ワイバーンからすれば、回避されようとも特に構わなかった。
仮面の男の後ろには女戦士の気配があり、その後ろには更に二人続いている。
口からブレスを吐き続ける限りほとんど拡散する事無く徐々に直径を広げながら被害を拡大させていく炎渦は、距離を稼げば稼ぐほど回避が難しくなっていく。
いつかは威力が落ちて拡散消滅していくが、その時が来るのは今現在最後尾にいる者よりも先に進んだ後の事。
それに、一度に4人を相手にするのは不利以外の何でもない。
4人を同時に攻撃出来るこのチャンスを逃すのは愚策。
そして、その後の展望を思い描く。
仮面の男が回避したなら、その先へ回り込み必殺の爪牙を叩き込む。
その肉を断つ感触を想像しながらフレイムリザード・ワイバーンはブレスを吐き続け、羽根を羽ばたかせ続けた。
だが渦巻く炎が塀に到達したその瞬間、回避以外の対処方法は無い思われたその極悪の炎が如何なる技法によってか塀ごと二つに斬り裂かれ、左右に割れた。
だけでなく、炎を斬り裂いた刃はフレイムリザード・ワイバーンの身まで到達し、その胴に今度こそ巨大な傷を付けた。
無精髭の男性の技では突破する事の出来なかった最も硬い鱗で守られた胴体が、直接攻撃された訳でも無く傷を受ける……それが意味する事にフレイムリザード・ワイバーンは戦慄する。
姿を現した仮面の男が手に持っていた何かを放り捨て、どこからともなく別の武器を取り出す。
仮面の奥では片方の瞳だけが赤く彩っていた。
その瞳を正面から見た次の瞬間、まるで心の奥底に刻まれていた何かが呼び起こされ、理解不能の警笛を鳴らし始めた。
少し前に手に入れたばかりのただ厚く堅いだけの巨大な剣――手入れも全くされておらず斬れ味は皆無だったが、重量を生かし叩き潰すためだけならば機能する、もはや棍棒とも言っても良い骨董品――それを使い強引に戦技〈風の太刀・疾/零式〉を放った仮面の男が距離を詰めるべく再度疾走を開始する。
剣は技に耐えられず砕け散り、取っ手のみが残った。
男の少し後ろには女戦士の姿。
これまで一度も感じた事の無い不可思議な感情に動揺しながらも、フレイムリザード・ワイバーンは迎撃のために大地を蹴る。
たった一度の羽ばたきで速度を倍に変え、一気に距離を詰めながら仮面の男に向けて咆吼すると同時に旋嵐の亜神ヴァレリの力を乗せた腕を振るう。
どのような存在であろうと、咆吼をまともに受ければ一時的に行動不能となる。
例えその硬直時間がほんの一瞬だったとしても、その瞬間に爪牙の切っ先が相手の身を削れば全ては終わる。
強靭な足腰からうまれる圧倒的な速度、それを倍に跳ね上げる羽根の羽ばたき、音速の咆吼、音すらも斬る爪牙。
その全てがあわさった技は、戦技〈瞬天刹・爪牙〉として今この瞬間に生まれ、フレイムリザード・ワイバーンの持つスキル一覧に加えられた。
まさに一瞬で命を絶つ必殺の技。
しかし爪撃は空を斬る。
「今のは流石に危なかった」
フレイムリザード・ワイバーンの思考のみ加速していた世界が元に戻り、腕を振り抜いたところで一切の手応えを感じなかったと悟った刹那、真横から聞こえてきた男の声。
同時に、首の前に存在する鋭利な刃に気付き、フレイムリザード・ワイバーンは全力で首を後ろに傾ける。
それは紙一重で間に合い、急激な動作で首が痛みを訴えるのを代償に、首から上が胴体より切り離されるのを回避。
いったい何が起こったのかを考えるよりも先に尾を動かし、敵に向けて攻撃を叩き込む。
岩さえ破砕する尾の一撃。
だがその尾が掴まれフレイムリザード・ワイバーンの身体が宙に浮く。
驚愕に目を見開いた時には既に投げ飛ばされていた。
理解不能の剛力に、フレイムリザード・ワイバーンの中にあった常識が音を立てて崩れていく。
投げ飛ばされたところで、空はフレイムリザード・ワイバーンの領域。
空中で体勢を整えた矢先に女戦士が大剣を振り降ろしてきたが、難無く受け止め強引に地上へと叩き落とす。
次に地上から振り上げられてきた仮面の男の一撃をフレイムリザード・ワイバーンは高度を利用して全力で迎撃。
しかし巨体のフレイムリザード・ワイバーンの方が力負けし弾き飛ばされるという異常な結末が待ち受けていた。
振るわれたのは金属の塊だった。
刃の付いていない棍棒ですらない四角い金属の棒は、男の腕よりも太く鈍器と言っても差し支えない。
ただ先端には翼が折れた裸体の天使が棒に手足を絡めて艶めかしく巻き付いており、客寄せの為の宣伝像もしくは芸術作品の類である事は明白。
そんな武器ですらない拾い物でフレイムリザード・ワイバーンを殴り飛ばすという光景を間近で見た女戦士は一瞬呆気にとられ、炎の髪が少しだけ勢いを弱める。
鈍器として使われた裸体の天使像にヒビが入り、首と右腕が破砕。
翼を羽ばたかせて体勢を立て直した直後、フレイムリザード・ワイバーンの下顎をその首の無い裸天使の鈍器が掠める。
構わず、降下する男目掛けてブレスを吐く。
しかし横から吹雪いてきた冷たい風に威力を削られ不発に終わった。
フレイムリザード・ワイバーンの放った炎のブレスを無効化したのは、真っ白に豹変した女戦士が手の平を口の前に掲げて口から吐き出した氷のブレスである。
周囲一帯を氷世界に変えてしまう冷気を一点に凝縮し、それを雪女の如く息に乗せて対象を凍らせるレベッカの切り札、戦技〈凍てつく息吹〉。
その威力は感情の温度差が大きいほど強くなる。
レベッカは感情が高ぶると炎の魔剣士に、テンションが下がると氷の魔剣士になるという特技を持っており、その変貌過程における温度変化量を利用したのがその技だった。
但しその代償に大量の魔力を失うため暫くどちらにも変身が不可能となる。
〈凍てつく息吹〉は炎のブレスと一緒にフレイムリザード・ワイバーンの両足を巻き込み凍らせる。
だがすぐに破壊され、フレイムリザード・ワイバーンの動きを一時的に阻害する事も、ダメージを与える事も無い。
直撃を受けたとしても元々体温が高いフレイムリザード・ワイバーンを永久に凍土の中へと閉じ込める事は出来はしなかった。
フレイムリザード・ワイバーンは高度を保ちながら、自身の攻撃を阻害した元凶を憎悪の目で睨む。
切り札を使い仲間を助け、フレイムリザード・ワイバーンの注意を引き付ける事に成功した元凶はしてやったりの笑みを浮かべて、御前の相手は私だと言わんばかりに大剣をこれ見よがしに構える。
怒りや喜びを糧に燃え上がる炎の力もローテンションやクール思考で凍て付く氷の力も失った今のレベッカには、戦いの中で成長し続けるフレイムリザード・ワイバーンを単身で相手取る力はもう残っていない。
炎のブレスを無効化する事も、咆吼に耐えきる事も、凶悪な威力を秘めた爪牙を受け流す事もままならない。
だが何の策も無いまま強敵と化していくフレイムリザード・ワイバーンに剣を向けている訳ではなかった。
最も速く攻撃の届く技、怒りを乗せた威嚇の咆吼をフレイムリザード・ワイバーンが女戦士へと叩き付ける。
定石通り咆吼で動きを止め、その後に炎の息吹によって焼き尽くすか爪で狩るかを選択する。
その行動を取れば、他にいる敵の行動もある程度絞られる。
首の後ろを不意打ちで攻撃してくるか、離れた場所から風の刃が襲ってくるか、それとも眼下に見える仮面の男が何らかの攻撃を仕掛けてくるか。
咆吼をまともに受けた女戦士の様子から、フレイムリザード・ワイバーンが次なる攻撃に戦技〈灼熱の咆吼〉を選択。
攻撃をシフトチェンジする僅かな時間の中、周りがどう反応するか警戒し続ける。
今現在確認している敵の姿3人だけでなく、それ以外の者からの攻撃も想定する。
眼下で動きあり。
他2者は対応が間に合っていない。
それ以外の気配無し。
フレイムリザード・ワイバーンが咆吼を止め、息を吸う。
肺が膨れあがり、次なる動作に向けての準備を在り在りと見せつける。
体内で高温に高められた空気に炎属性の魔力を注ぎ込み、肺を出発。
気道の途中で別器官で生成した発火性の霧を混ぜ、喉に達した所で口を大きく開ける。
口内に満たされた霧状の唾液と、喉から出てきた高温の息がぶつかりあい発火。
紅蓮の炎が発生。
それと同時に喉を鳴らし咆吼する。
怒れるフレイムリザード・ワイバーンが〈灼熱の咆吼〉を吐き出した。
その刹那、真下から飛んできた物体を避けるために両翼を動かし回避行動を取る。
飛来したのは回転する刃の旋風手裏剣。
陽之御前と陰之御前の刀身だけを分離し合体させたほぼ刀身だけのツインブレード、陰陽旋風刀。
高速回転しながら迫ってきたそれはフレイムリザード・ワイバーンの巨体を股から脳天にかけて一刀両断する軌道にあり、自ずと回避する方向は一方向に限られた。
両翼によって生み出される力が最も効率良く使われる方向――真後ろへとフレイムリザード・ワイバーンの身が急速移動する。
同時に〈灼熱の咆吼〉の軌道も大きく変わり威力も一時的に落ちたが、それは後になって修正すればいい。
下方からの攻撃が目の前を通り過ぎ、次なる攻撃の気配も無い事を確認する。
いっそまとめて女戦士と仮面の男を焼き払ってしまうかと考え、それを実行に移そうとしたところ、唐突に後頭部に衝撃を受けて視界が明滅。
それは先程の顎を掠め空へと消えていった首の無い裸天使像の棍棒だった。
あまりにもタイミング良く落下してきた棍棒がフレイムリザード・ワイバーンの脳天に激突し砕け散る。
フレイムリザード・ワイバーンは口を閉じ、頭の痛みを怒りに変えて憎悪を向ける相手を変える。
出口を塞がれた炎が口内で圧縮。
そして吐き出された炎の塊は一瞬で膨張し、直径3メートル大の火炎弾へと急成長し仮面の男へと襲い掛かる。
更にフレイムリザード・ワイバーンは咆吼し、火炎弾を加速。
それだけでは終わらず、火炎弾を追って自身も急降下し、回避行動を取るだろう標的の身を今度こそ斬り裂くべく腕に力を込める。
そうはさせまいと無精髭の男が剣を抜き放ち風の刃を放つ。
男はかつては剣聖と呼ばれるほどの剣の腕の持ち主だった。
齢10歳にして剣の腕のみで日々の糧を稼ぎ、13歳にして闘技祭に優勝。
翌年、翌々年も剣1本で並み居る強豪達を打ち破り、その卓越した剣技は如何なる者も寄せ付けない至高の域に達していた。
闘剣王アストリアは無類の強さを誇る最強の剣士だった。
とはいえどれだけ剣術に優れようと、それだけではどうにもならない相手も存在する。
空を飛ぶ者にはどうする事も出来ないし、遠距離から飽和攻撃を仕掛けられれば屈するしかない。
1対1で闘う事が約束されている闘技祭ならば彼の実力は圧倒的ではあるが、命のやりとりという面では剣1本腕1つではどうにもならない事の方が多い。
しかしアストリアの成長はそこで止まらなかった。
既に敵無しの状態にあっても己が剣技をただひたすらに高め続けたアストリアは、遂に剣1本で遠くにいる敵を攻撃する術を取得。
神の力を借りずその高みに至った事で彼は剣聖と呼ばれ、多くの者から尊敬される事となる。
だがその代償はあまりにも大きかった。
元々身体が弱かったにも関わらず幼少時より無理をし続けてきたためか、程なくしてアストリアは身体を壊し剣の腕を著しく落とす。
そこに幼少時から患っていた病が急激に悪化、力が急速に衰え剣を思うように振るえなくなる。
それでもアストリアは現役を退く事はせず、ただ剣のみに生き続けていた。
かつて人々を魅了し続けた剣技の冴えはもはや何処にも面影が無く、己が力のみで生み出した神懸かり的な奥義、飛ぶ斬撃ももう見る事は叶わない――筈のその技が今また、フレイムリザード・ワイバーンが放った火炎弾を2つに斬り裂いた。
全盛期ほどの斬れ味は無くとも、その風の刃は千度を越える灼熱の業火球を斬り割り、その先にあった見張り塔を斬り壊し、空に浮かぶ白い雲を斬り断つ。
圧縮されていた事で安定していた火炎弾は2つに別れてすぐに小爆発を起こし轟音を轟かせた。
その火炎弾を追って降下していた事でフレイムリザード・ワイバーンは爆発の渦中に飛び込む事になったが、構わず突撃。
業火を抜けた先でまだその場に立ち尽くしていた仮面の男へと向けて、そのまま必殺の爪牙を振るう体勢に入る。
仮面の男は右腕を引き寄せ何かを引っ張っている体勢にあった。
黒く彩る仮面の奥に輝く赤い瞳は微塵も驚いている様子が無く、むしろ不気味なぐらいに落ち着きすぎている。
腰には刀身を失った陽之御前と陰之御前の柄だけがあり、それを抜く事も別の武器を手に取る事もしない。
回避行動すら取らない。
ただ気が付いていないだけなのか、それとも何か策があっての事か。
そう訝しんだ瞬間、フレイムリザード・ワイバーンの脳裏に先程起こった偶然の一撃が浮かび上がる。
絶妙なタイミングで自身の脳天を撃ち抜いた棍棒。
あれは本当に偶然の産物だったのか。
その疑念を持った時には既に遅かった。
重力と翼力で降下していたフレイムリザード・ワイバーンの左の翼を背後から飛来した何かが斬り裂き、無視出来ないダメージをフレイムリザード・ワイバーンに与える。
咄嗟に回避行動を取る事も叶わなかったそれは凄まじい速度で大地に刺さり、すぐに男の手によって回収。
片翼を失いバランスを崩したフレイムリザード・ワイバーンがその場所目掛けて激突し、衝突と破壊の音を撒き散らした。
断ち斬られた左の翼。
激痛に悩まされる暇無く視界に仮面の男が攻撃を繰り出してくる姿が映る。
フレイムリザード・ワイバーンは今一度腕に力を込め、爪牙を振るった。
容易く翼を斬った刃から身を守るために。
だが迫ってきた双刃はフレイムリザード・ワイバーンの剛撃をモノともせず押し返し、その腕ごとフレイムリザード・ワイバーンの身を地面に撃ちつけた。
完全に理外にある仮面の男の力に、フレイムリザード・ワイバーンは恐怖する。
かつて死闘を繰り広げた巨熊も、これほどの剛力は持ち合わせていなかった。
あの小さな身体のどこにこれだけの力を内包しているのか、フレイムリザード・ワイバーンはまるで理解出来ない。
林双頭大薙刀・巴静Ψ陰陽大御前――陽之御前と陰之御前の柄が真っ二つに分かれ、長さが2倍になったその2本を合体させ刀身が2つとなった特殊な薙刀――それが再び頭上へと掲げられ振り降ろされる。
本来ならそのような木製武器ごときの一撃では傷付ける事など出来ない筈だが、実際にその身に受けた経験から導き出される答えに、フレイムリザード・ワイバーンは迷わず回避を選ぶ。
理解出来なくとも現実の結果が物語っているのだから、そう動かざるを得ない。
だからといって回避するだけでは何も解決しない。
どれほどの力を持っていようとも、人という種の身は酷く脆い。
巨体には不釣り合いな俊敏さで薙刀を躱し、反動を利用して死角から尾撃を叩き込む。
並の戦士ならば受けただけで背骨が折れ、内蔵が破壊され、命を落とす強撃。
だが仮面の男は吹き飛ばされた先であまりダメージを受けた様子無く立ち上がった。
受け身を取ったというのは分かったが、まともに攻撃を受けたにも関わらずピンピンしている仮面の男に、フレイムリザード・ワイバーンはもはや考える事を捨て去る。
今この場で倒さねば、いずれその理外なる剛力で強引に押しきられ殺されてしまうだろう。
敵はそれだけの力を有している。
それを認め、フレイムリザード・ワイバーンが形振り構わず戦技〈炎嵐の息吹〉を発動。
身が引き裂かれそうになるほどの負担、激痛を感じながら、それでも仮面の男を消し去るために旋嵐の亜神ヴァレリの力を最大限に解放しレーザー砲の如き超高熱のブレスを吐き出す。
後先の事など考えず、全身全霊全力の一撃を放つ。
直撃すればどのような存在といえども、重大なダメージを負う事は必至。
そうでなくとも余波だけで息吹の周囲一帯は自然発火するほどの高温に熱せられ、大半の生物はまともに生きていられなくなる。
上空から地上に向けて放った時には流石に距離があったため地上に辿り着く頃には威力が削がれ大地を穿つだけに終わったが、この近距離ではまさに滅殺。
ただ、上空にいた時には零下まで冷えた大気の冷却効果の御陰もあり身体の負担は少なかったが、地上ではそれも叶わず。
加えて、地上戦で幾度となく咆吼や息吹を吐いていたためフレイムリザード・ワイバーンの体温はかなり高くなっていた。
必殺、されど捨て身の一撃。
だがしかし。
絶対の自信を持って放った〈炎嵐の息吹〉は、仮面の男に直撃し街を焼き払うどころか、フレイムリザード・ワイバーンの眼前に揺らめき現れた不可思議な空間へと吸い込まれ、虚空の彼方へと消えただけに終わった。
まるで突如奈落の穴が横向きに出現したような、あまりにも不自然な空間の歪みだった。
「切り札は切り札で相殺するに限るな」
手を前につきだした姿勢でそう呟いた存在の赤い瞳をもう一度直視してしまい、遂にフレイムリザード・ワイバーンの心が折れる。
勝ち戦だと思っていた戦いの勝敗は決した。
女戦士とサシで戦っていた間はまさに死闘だったというのに、この仮面の男にしてみればそれは前座の遊戯でしかなかったのか。
体内の血液が沸騰しているのではと思う程の激痛に悩まされながらも、フレイムリザード・ワイバーンは残っている力を振り絞り右翼を羽ばたかせ上空へと舞い上がる。
だが疲労の極みにある上に片翼での飛翔だったため高度はほとんど得られず、フラフラと昇降しながらの逃走劇となった。
それが却って軌道を読みにくくし、無精髭の男が放つ風の刃は一度も当たる事無く、気配を消して背後から奇襲を仕掛けてきた男の攻撃も不発に終わる。
疲労の域にあった女戦士は身体に鞭を打って追いかけてはいたが、空の優位と、重力を味方に付けて次第に速度をあげていくフレイムリザード・ワイバーンには追いつけず、遂に追撃を断念。
最も被害の激しかったほとんど廃墟と化していた街の西側に入った頃には、男2人の追撃も止んだ。
後はこのまま西にある森の中央付近まで飛び、湖の近くにある巣穴へと帰るのみ。
暫く留守にしていたため何者かが巣くっている可能性はあったが、森にいる大半のモンスターは雑魚ばかりなので問題無いだろう。
自身の力に匹敵するサンドキングワームは西の森にはいないし、そもそも森の中には入ってこない。
サンドキングワームはこの街の東側をテリトリーにしているので、このまま荒野を飛んで行っても襲われる心配もない。
むしろ懸念すべきはナンバー3の巨虎、グランドタイガー・エクシリオン。
単体の強さでは上位2者とは比べるべくも無かったが、多くの妻や子供、配下を常に引き連れている彼のモンスターを相手取るのは今の状態ではかなりヤバかった。
大空に逃げられない今、見つかれば間違いなく巣穴まで攻め込んでくる事だろう。
つまりこの付近一帯での安息の地が失われる。
しかし自身と同格もしくは自身以上に凶悪な力を秘めたモンスターが支配する他の土地へと向かう訳にもいかない。
それこそ自殺にも等しい行為。
なれば、グランドタイガー・エクシリオンに見つかった際にはこの圧倒的に不利な状況でも戦わざるを得ない。
覚悟を決める必要があった。
そして天はフレイムリザード・ワイバーンを見放した。
自らを捕らえ見せ物とした街に報復を行った代償に、フレイムリザード・ワイバーンの命運は尽き、恐れていた現実がやってくる。
夕刻の空、茜色に染まる地平線の彼方から立ち上がる土煙。
南から鳴り響いてくる多くの足音と、猛獣達の鳴く声。
風は北から南に吹いていた。
その風に乗ってフレイムリザード・ワイバーンの血の香りが巨虎達に届けられたのだろう。
それが偶然だとはフレイムリザード・ワイバーンは思わなかった。
強敵との遭遇を避けるために普段から風下へと移動する習性を持つ巨虎ならではの必然。
巨虎達は勝機を見出し、傷付いた自らを狩りにやってきたのだ。
もしあのままフレイムリザード・ワイバーンが街で戦いを続けていれば、恐らく街はその巨虎の大群に強襲され完膚無きまでに破壊され尽くしただろう。
一体一体が巨大であり、しかも狂暴で肉食の野獣。
フレイムリザード・ワイバーンをここまで追い詰めた者達でも、そんな強敵の群れに数の暴力で絶え間なく襲い掛かられたら一溜まりもない。
そう考えると、このタイミングでフレイムリザード・ワイバーンが逃亡を謀ったのは街の者達にとっては僥倖だったと言えよう。
空が更け、闇に満たされた夜がやってくる。
暗雲に支配された世界には月の光も星の瞬きはなく、空を飛ぶフレイムリザード・ワイバーンの姿を見つけるのは容易な事ではない。
だが、巨虎の大群はフレイムリザード・ワイバーンの姿を見失う事なく、背後からずっと追いかけていた。
群れのトップでもあるグランドタイガー・エクシリオンの瞳は光が一切無い闇の中にあっても敵の姿を映し出す事が出来る。
加えて風向きが西から東に変わった事で、西へと逃げるフレイムリザード・ワイバーンの追跡もしやすくなっている。
時間と共に巨虎の群れとの距離は確実に狭まっており、そう遠くない未来に戦闘が開始されるのは火を見るよりも明らかだった。
群れを統率する一際大きな巨虎、グランドタイガー・エクシリオンだけならば今すぐにでも追いつく事は出来る。
それをしないのは、確実にフレイムリザード・ワイバーンの首を取るためだ。
森に入れば巨虎達の進軍速度は落ちるだろうが、森に辿り着く前に巨虎達が追いつくのはもはや確実。
それ以前に、隠れる場所や足場が多く存在する森での戦いは、むしろフレイムリザード・ワイバーンの方が不利である。
それでも迎撃を選ばず森へと向かい飛び続けているのは、少しでも体力を回復させるため。
および、巨虎達の体力を消耗させるため。
未だ戦いの主導権はフレイムリザード・ワイバーンの方にある。
だが油断は出来ない。
タイミングを誤れば先制攻撃を仕掛ける前にナンバー3の強敵が飛びかかってくる。
既に両者の戦いは始まっており、どこで仕掛けるか、どう対応するか、その読みあいがずっと続けられていた。
フレイムリザード・ワイバーンが空を飛び、狩人と化した巨虎の群れから逃げ続ける。
グランドタイガーの群れが大地を駆け、逃げる獲物をひたすらに追いかける。
やがて両者の間にあった距離はいつ戦いが始まっても不思議ではない距離にまで縮まっていた。
それはフレイムリザード・ワイバーンが思っていたよりも随分と早かった。
いつ、仕掛けるか。
先制はブレスを吐き敵の数を減らすか、それとも最も手強い群れのボスを真っ先に狙い気勢を削ぐか、もしくはあえてカウンターで仕留めにかかるか。
最も高確率で生き残れる可能性があるのは、どの行動を取った場合か考える。
残り少なくなった時間の中でフレイムリザード・ワイバーンは必至に考える。
どの選択肢を選んでも、生き残れる可能性はほとんど見いだせなかった。
決断出来ないまま、もはや猶予ならない距離にまで巨虎達に差を詰められる。
だが焦らしているのか、それでも飛びかかってくる巨虎はいなかった。
まさか背後を振り返るその瞬間の隙を狙っているのか。
ならば初手はブレスではなく、爪牙のカウンターを選ぶべきか。
大地が闇一色に染まっていようともフレイムリザード・ワイバーンの瞳は巨虎達の群れのトップと同じくその姿を見る事が出来る。
その瞳の端に、眼下に巨虎達の姿を映す。
しかしやはり巨虎達が襲い掛かってくるような事はなかった。
ここにきてようやくフレイムリザード・ワイバーンは何かがおかしいと気付く。
そう言えば、追いかけてきている敵の足音が徐々に減っている気がする。
追いつかれるのが予想よりも遙かに早かったのは、全力疾走を続けていたからなのか。
それ故に群れから脱落した者がいるのかもしれない。
いくら手負いであろうとも激戦は必至、振るいにかけて弱者を追い落とし犠牲を最小限に留めるつもりか。
遂に追い抜かした巨虎の先頭集団は、しかし何故か上空を見上げてこなかった。
いったい何が起こっているのか分からなかった。
巨虎達は自らを狩りに来たのではなかったのか。
全力で大地を駆ける彼等の姿は、狩る側というよりもむしろ狩られる側の様な印象を受けた。
背後を振り返るべきか。
だが、それは敵の罠かもしれない。
眼下の敵にブレスを吐けば、その瞬間に群れのボスが襲い掛かってくるのでは。
進行速度を落とせば、一気に巨虎の群れに囲まれ一斉攻撃を仕掛けられるのでは。
この状況で背後を振り返ると、どのような事態に陥るか分かったものではない。
最初から後の先を狙っていたというのか。
獲物である自らに不安と恐怖を煽るための策ではないのか。
――切っ掛けは、ほんの些細な異音だった。
背後にある大地から微かに聞こえてきた、肉を斬られる音と短く甲高い悲鳴。
フレイムリザード・ワイバーンの背筋に強烈な悪寒が走った。
同時に、まるで考えていなかった状況を思い浮かべてしまう。
そんな事、絶対にあり得ないというのに。
いや、ただ信じたくなかった。
フレイムリザード・ワイバーンが意を決し、細心の注意を払いながら恐る恐る背後を振り返る。
予想していた巨虎達の襲撃はなかった。
いや、残念ながらなかったと言うべきか。
代わりに、ほとんど闇に包まれた大地を駆ける無数の巨虎達の姿と、その後方に揺らめく赤い光が一つ。
赤い光はとても小さかったが、周りがほとんど闇一色に染まっていたため見つけるのは容易かった。
だが、あまりにも不気味な光。
それがゆっくりと前を駆ける巨虎へと近づき……巨虎が突然に失速、遅れて肉を断つ音と短い悲鳴が耳に届けられる。
なんなのだ!
あれはいったいなんなのだ!
思わずフレイムリザード・ワイバーンは心の中でそう叫んでいた。
フレイムリザード・ワイバーンは自らの予想が的中していた事を悟る。
逃げる敵を追いかけていたのは巨虎達だけではなかった。
あの赤い光がこの場に存在する以上、それは疑うべくもない。
恐らく狩人として自らを追いかけていた巨虎達も、背後からやってきたその化け物に対し自らと同じ事を考えているだろう。
また一つ、巨虎の命が消えた。
グランドタイガーの毛皮は決して柔らかくない。
フレイムリザード・ワイバーンの鱗ほどの強度は持ち合わせていないが、分厚い毛皮は鉄の繊維の塊の如き堅さを誇り、そう易々と斬れるものではなかった。
群れのリーダークラスともなるとフレイムリザード・ワイバーンの素の爪撃でもそう簡単には斬り裂く事は出来ない。
ましてや群れのトップであるナンバー3、グランドタイガー・エクシリオンの毛皮ともなると、旋嵐の亜神ヴァレリの力を借りなければ最悪フレイムリザード・ワイバーンの爪の方がダメージを受けてしまうぐらいだった。
そんな堅い毛皮が、次から次へと斬り裂かれていく。
赤い点が巨虎に近づいたかと思うと長大な剣が巨虎の身に押し当てられ、次の瞬間には堅い毛皮とその内にある肉を断ち、その先へと斬り抜ける。
そのたびに命が失われていった。
大地を全力で疾駆する巨虎達は赤い点が近づいてくるのを認識出来ないのか、何ら抵抗する素振りなく次々と斬られていく。
フレイムリザード・ワイバーンも上空から見下ろしているため赤い点には気付く事が出来るが、そこに存在する死神めいた何者かの気配はどう探っても見つける事が出来ない。
まるで実態のない幽霊に襲われ、死神の鎌にて命を絶たれているかのような悪夢の様な光景。
それがそこにはあった。
背後から迫る敵に対してグランドタイガー達は無力だった。
一際巨大な虎グランドタイガー・エクシリオンが咆吼し、この地域一帯を統べる最強者のフレイムリザード・ワイバーンへと助けを求めてくるのをいったい誰が予想しただろうか。
本来は物理的な破壊すら伴うそれが、ただの悲痛な音色となって空に響き渡る。
「我は漆黒を呼ぶ黒瞳灼眼の使徒」
グランドタイガー・エクシリオンの首が宙に飛ぶ。
他の巨虎達と同様に、個体差や格の違いなど微塵も感じられない呆気ない幕引きだった。
断首した剣刃は何ら戦果を誇る素振りもなく、次の標的の身へと当てられる。
「大空を統べし龍神も、大地を守護せし軍神も、悉くこの俺が屠ってくれよう。その力を、俺は手に入れた」
赤い瞳を輝かせしその存在は、巨虎の全力疾走にも匹敵する足を持つ馬に乗って荒野を駆ける。
馬の名はエドガーと言った。
「空飛ぶ火蜥蜴よ……貴様もついでに斬り倒し、俺は更なる高みを目指す」
瞬く間に数を減らしていった巨虎、その最後の灯火が消え去る。
あれほど騒々しかった大地に、ただ一つの蹄音だけが残る。
「弱き力では何も守れず、何も救えなかった。力が……力が必要だった。理不尽すらも打ち砕く……自らが求めるものを、守るための力が! ……力が必要だった、それだけを俺は思い出した」
馬が巨大な岩山を駆け登る。
蹄が岩の頂上を蹴り、飛翔。
どこからどう見ても普通の馬とかしか思えない存在が、仮面の男を背中に乗せて数十メートル上の高みへと到達する。
彼の馬の瞳には、既に常識を捨てた色が彩っていた。
「力の在処などどうでもいい。俺が求めるのは、ただ平穏な日常。それを壊すというのならば俺は修羅となろう。悪鬼羅刹の如き圧倒的な力によって、俺は俺の守りたいものを守り通す。例え世界を敵に回そうとも、そこに正義の心がなくとも、勝利した者だけが求めたものを得られるというのであれば俺は神殺しすらも厭わない」
フレイムリザード・ワイバーンが最後の力を振り絞り、咆吼する。
肺が壊れ喉が潰れ吐血し炎の息吹が口内を焼き尽くそうとも、自らの死を否定するために戦技〈灼熱の咆吼〉を放つ。
その渾身の一撃を、仮面の男は馬の背中を蹴って飛ぶ事で回避した。
フレイムリザード・ワイバーンよりも高く跳んだ仮面の男がその手に持つ大剣をゆっくりと振り上げる。
空を覆っていた暗雲はいつの間にか晴れ、月光が剣を照らす。
大量の血を吸った凶剣フーランルージュの刃が妖艶に輝き、死神の鎌のごとき禍々しさを輝かせる。
「我は漆黒を呼ぶ黒瞳灼眼の使徒、常套無形の時使い、カオス弐式核弾頭サイ・サリス。俺の平穏を邪魔した貴様を倒し、全てを終わらせる。もはや探し人……いや、探しゴブリンは火の海にのまれ生きてはいないだろう。その償いを……受けるがいい」
フレイムリザード・ワイバーンの眼前で、妖しき刃が首筋に当てられる。
無慈悲に振り降ろされるトドメの一撃
「馬翔天駆・断龍剣――〈零の太刀〉!」
その斬撃に、フレイムリザード・ワイバーンは永遠に意識を手放した。




