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「律、どこに行く気だ?」

 帰り際、蒼に問われて俺が脚を止めたのは教室を一歩出て半身を廊下に踏み込ませた瞬間だった。肩に引っ掻けた鞄越しに振り返ってやると蒼も同様に帰り支度を整えていたが、こいつが向かう先は剣道部部室である。我が校の剣道部は去年から躍進と快進撃を続けている。今年の春には全国区と言われるまでになったのは、この『蒼い槍』こと蒼爽架が加入したからだ。本当はもっと都会の強豪からスカウトが来ていたのだが、その全てを蹴ってこいつはこんな田舎の公立校に進学したのである。

 俺は蒼の表情から言わんとするところを察する。この様子だと今日の部活は自主練で、俺に付き合えと言いたいのだろう。そこまで予想できるのはやはり腐れ縁の賜物に他ならない。いいのやら悪いのやら。

 蒼の意を汲んだ俺は果たしてまだ何も言っていない彼女に先んじて言った。

「俺は今から屋上だ。悪いが練習には付き合えない」

 すると蒼は怪訝そうに眉を傾ける。断られたことへの不満や思考を読まれた驚きなどとは全く違うまた別の感情を露にして蒼は、

「屋上は立ち入り禁止だろ? 何をしに行くつもりだ貴様」

 勘繰る視線が刃物の切っ先を思わせる。何か勘違いをしているようだ。

「立ち入り禁止は百も承知だ」

 開き直って俺は言う。

「悪いことをしてるわけじゃないさ。美術部の活動だよ」

「律……美術部なんかに所属していたか?」

 は、と乾いた笑いが出そうだった。呆れているのだ。何よりこんなことを説明しなければならない自分に。いわばこれは自嘲である。

「俺じゃねえよ。おまえと一緒で推薦蹴った天才が美術部にもいるだろ」

「?」

 解っていないみたいな顔をしている蒼に、俺はとうとう名前まで出して説明する羽目になった。

「紗季の創作に付き合ってるんだよ。あいつがうちに進学した理由は知ってるだろ? 早く行ってやらんと夕方が終わっちまう」

 言ってから、やや空白があった。俺は自分のターンを終了したつもりだったのでこれ以上何か言うつもりはなく、発する言葉も見当たらなかったのだが、蒼も同じく何も発言しない。俺の次の句を待っているみたいな様子をじっと観察してみる。蒼はただ呆けたみたいに目を丸くしていた。

「蒼?」

「……」

「おい蒼」

 二度呼んでみると蒼は、あぁ、とか呆けた声を出して目の焦点を俺に合わせた。どうしたのかと問うと、まだ夢見心地のような雰囲気の蒼が妙にたどたどしく言葉を紡ぐ。

「屋上、だったな。その、私もいっしょに……いいか?」

 何を遠慮することがあるのか。狭い場所でもないし一向に構わない。そもそも俺と紗季の間に蒼が加わるだけことを気兼ねするような仲ではないはずだ。どちらも釈然としないままで、俺は了承し蒼は頷く。というか練習はいいのだろうか。まあどうせ、屋上での活動はオレンジボールになった太陽が空にある間だけだ。その後で蒼は俺や紗季を伴って道場に向かうだろう。

「蒼」

「ん。なんだ律?」

「今更だが俺は素人だ。頭への攻撃は加減してくれ」

「……何の話をしているんだおまえは」

 言ったところで、相手を昇天さえさせた過去を持つ蒼の上段が勢いを落とすとは思えないが。だからこれは命乞いみたいなものである。

 そんな終始冗談みたいなやり取りを交えながら俺たちは屋上へ向かった。

 余談であるが、蒼の言った通り屋上は立ち入り禁止である。最上階から屋上へ向かう階段には不要となった机が並べられてバリケードが張られている。が、所詮は警告程度で乗り越えるのは容易い。蒼は助走も付けないで飛び越えたくらいだ。スカートで跳んだりするものだからこっちが萎縮してしまう。階段を登りきると現れる昇降口の扉には南京錠が掛けられているが実はこの錠は一度取り替えられている。入学早々に紗季が破壊したからだ。錆びていた錠にトンカチを一振りで見事に破損させた。それを九ノ瀬が生徒会長に就任した折に新しくしたのだ。鍵の一つは俺が所有している。首尾よく開錠して屋上へ出る。さっきまで窓もない廊下にいた為に突然広がった朱色の光に目を細めた。慣れていない蒼は目を背けたほどだ。

 来る度に思うが季節の移りというものは空を見ていると瞭然だ。特にこの時間は。終業の鐘が鳴った直後の空がここまで赤いのはこの時期くらいのものだ。そして赤い空が継続する時間は冬に近付くにつれてどんどん短くなっていく。今では時間の流れが赤色が去っていく様子で視覚的に窺えた。

 紗季はいつものように給水タンクに凭れて三角に畳んだ膝にスケッチブックを構えて座っていた。写生の授業風景を思い出す。紗季は俺たちに気付くとやはり蒼を伴っていることにも表情一つ変えずに鉛筆を持った手を振ってくる。

「今日は爽架もいっしょなんだ。珍しいね」

 スケッチブックを傍らに置いて紗季が立ち上がった。身長は女子の平均程度である紗季だが、蒼と並ぶと小柄に見える。蒼が長身という訳ではないが、竹刀袋を提げていることや、全国レベルの剣士たる蒼と紗季では存在感に差が出るのだろうか。紗季の存在がやけに希薄に思えた。

「紗季……えっと」

 蒼が紗季に何かを言おうとして言葉に詰まる。なんだろう。似たような経験を俺もつい最近した気がする。

「ちょうどいいや。ねえ爽架、律と並んであっちに立ってよ」

 蒼が口籠っているとやおら紗季がそんなことを言い出した。あっちと指差す先はここから見える街の全貌。つまりどういうことかというと、俺たちにモデルになれということだった。

「おまえ……風景の方は描き終わったのか?」

「さあ」

「さあ、てなんだよ。まさかまだ全く何も描いてないなんてことはないだろうな」

「ぎく」反応がまんねりだ。「そんなことないよ」

 嘘言ってるのが丸解りだった。目は泳いでいるし彼方の空を向いている。こんなにも嘘が吐けない女は珍しい。

「まあいいか……ほら行くぞ蒼」

「ん、ああ。ちょっと待てり――」

 蒼が続きを切ったのは俺が手首を握って引っ張ったその瞬間。ぴたりと動かなくなった蒼に怪訝と俺は振り返る。根っこでも生やしたみたいに動かない蒼は双肩をわなわなと震わせて若干俯いていた。ポニーテールがひくひく揺れる。脊髄反射のように俺は身構えた。次に起こることが想像できてしまったからだ。それは過去幾度となく味わってきた暴力の蹂躙。台風さながらの暴走。

 口火を切ったのは蒼の叫びだった。

「私に……」

 俯いていた顔を上げる。

 きっ、と泣きそうな瞳が俺を睨んだ。途端に、

「触るなあああああああああッ!」

 竹刀袋をそのまま横凪ぎに一閃する。

 本能のまま飛び退いた俺は何とかその一撃を回避することに成功するが、尻餅をついてしまい次の動作が遅れる。迫る第二撃は既に蒼の頭上に振りかぶられ一秒もあれば放たれると見えた。冗談じゃない。さっき加減してくれと頼んでおいたが、奴の一撃はコンクリートさえ砕く勢いだろう。

「ちょ、ま――蒼!」

 聞く耳を持たない。

 というか理性が吹っ飛んでいる。暴走する蒼は涙目で殺人的な一撃を繰り出す。

「ぅわああぁあああ!」

 直前で。

「爽架」

 紗季の声が蒼に制止を掛けた。そして驚くことに今にも落ちてきそうだった竹刀が殺意を消失させる。紗季の一声に正気を取り戻した蒼がゆっくりと紗季に向き直った。

「相変わらずだなー、爽架は。大丈夫だよ、律は男の人だけど怖くないよ」

「え……ああ。うん」

 涙の滲んだ瞳で蒼が頷く。冷静さを取り戻した蒼は目をぱちくりとさせて俺を見下ろした。

「律……何をしてるんだ?」

「ついさっきおまえに殺されそうになってたんだ」

「私に……? なんと失敬な」

「自覚がないだと!?」

 迸る殺気は無自覚だったというなら恐ろしい。

「駄目だよ律。気安く女の子に触っちゃ。無神経。けだものー」

「いや、待てよ」

 俺が悪いのか?

 というかそれ以上に、

「蒼おまえ、それ、治ったんじゃないのか?」

 今朝にも兆候は見えていたが、今のは紛れもない蒼の男性恐怖症だ。昔は今のように無双の強さを誇っていたわけではなく、それが発症した際の暴力などたかが知れていたが今では人を殺しかねない。だが問題はそこではなく――いやそれも十分に問題だが――蒼のそれは剣道を始めてからは改善されていき、今では完全に克服したはずだったのだ。

「すまん、律……何の話だ?」

「だから――」

 待てよ、まさか自覚がないのか?

「律さあ」

 紗季がやれやれと首を振りながら俺に憐れみの視線を送ってくる。

「とりあえず謝りなよ」

「なんでだよ」

「律が悪い。ほら謝れ」

「ごめんなさい」

「わたしじゃなくて爽架」

「……」

 俺たちのそんな会話を蒼は不思議そうに眺めていた。自分のことが話題になっているとは露ほどにも思っていない様子だ。

「何の話かは知らんが……ほら律、向こうに行くんだろ?」

「あ、ああ」

 今度は自分から手を出してくる蒼である。だが俺はその手を取ろうとはしなかった。触れてしまえば、また次は何が起きるか解らなかったからだ。とにかく今は蒼の、もとい紗季の意思に添おう。そうこうしている間にも貴重な時間は過ぎているのだ。夕凪は待ってくれず過ぎていき、早足な夜は直ぐに訪れる。街の果てに見える地平線はもう太陽を飲み込み始めていて西の空は少しずつ青みが掛かっていた。……て。

「残念。今日はここまでか」

「……なあ紗季、おまえの絵、完成する日は来るのか?」

「さあね」

「おまえなあ……」

「大丈夫。完成しなきゃ困るもん。ちゃんと描くよ」

 それが出来るなら、と俺は溜息をつく。夜に飲まれていく空は半分ほどを暗く染めようとしている。三人の中で唯一事情の飲み込めていないらしい蒼はフェンスの前で俺の到着を待っていた。紗季がスケッチブックを閉じたのを見て、

「なんだ紗季、描かないのか?」

「うん。日が沈んだからね。でもまあいいや。律もほら、爽架と並んで」

 ほら早く、と背中を押される随分と急かす様子だが力は薄弱だ。駆け足で俺は蒼に並ぶ。すると紗季は、

「よし。ありがとうもういいよ」

「……何がしたいんだよ」

「イメージだよ」

「さようですか」

 終始付き合わされるだけだった俺と蒼はその後紗季の、

「じゃあ今日は解散」

 という発言で屋上を後にした。

 思えばこれが何もかもが狂っていく予兆の始まりだったのだ。


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