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 昼休みになると、俺は逃げるように生徒会室へと脚を運んだ。

 いつもなら呼ばれなければ自分からこんなところにやってきたりはしないが、今日に限っては例外だ。教室にいると脳が過労で湯気を出しかねない。午前中ずっと考えていたが、やはりあの少女についての記憶は出てこなかった。というのに奴は授業中に消しゴムを貸せだとか(正確には俺に許可を取らずに無断で使用した)シャーペンの芯をよこせだとか(これもまた先に然り)言ってきて、俺の頭を痛ませるのだ。何故こちらは名前さえも解らない相手に、さも当然のように私物を乱用されなくてはならんのか。

 その態度から、可笑しな話だが俺と少女の仲は親しいだろうと予想できる。加えて蒼の件もそうだ。蒼にあんな風に意見できる人間は少ない。さらに奴がすんなりと従うというのもだ。なら、どういうことだ。俺や蒼と妙に親しい、しかし俺の記憶にない人物がいるってのは一体何事なんだろう。

 インチキカウンセラーに罹る気分で、また怪しげな新興宗教の勧誘に乗ってみる感覚で俺は、それらのことを九ノ瀬(ここのせ)に話した。生徒会長であり俺の幼馴染みの一人である九ノ瀬はあっさりと、

「つまりその娘、おまえのこと好きなんじゃねえの」

 話す相手を間違えた。

 九ノ瀬(なぎさ)は能無しカウンセラーでもなければ宗教の教祖でもない。言うなれば結婚詐欺師なのだ。こと女関係の話となればこちらの常識が通用しないのがこの男である。

「そういう風に思考回路が繋がってるから、おまえは女に見境がないんだな」

「いやあ」

「褒めてねえよ」

 一時は八又を掛けていたと噂される男なのだ、九ノ瀬は。九ノ瀬も馬鹿ならば、こんな男に引っ掛かる女の方も馬鹿である。とはいえ本当に悪いのは神様とやらなのかも知れない。何故なら九ノ瀬に女の影が尽きないのはそのおめでたい思考だけが理由ではないのだ。端的に言うならば九ノ瀬はルックスからして単純にモテる。背は百八十ほどの長身であるし、すらっと長い手足はファッション誌にこいつの写真が掲載されていても不思議ではない。柔和で笑顔を絶やさない整った相貌が異性を虜にするのだろう。

「でもよお律、自分のことを好きって言ってくれる女の子を無碍にするのは酷くないか?」

「そういう相手の気持ちを純粋に受け止めてやらないのは、もっと酷いだろ」

「受け止めてるだろ。ただ俺は誰か一人のものにはならないのさ。俺の愛は無償にして無限だ。全ての女は俺に愛され、俺を愛する権利を持って生まれてくる。基本的人権ってやつかな」

 絶対に違う。そしてその理屈だとおまえの言う無限の愛とやらは数にして三十億ほどとなるが。

「細かいことはいいさ。彼女が一人いたって十人いたって同じことだろ」

「何が同じものか」

「だってさ、俺の本当の愛は、一人の女が独占してるんだぜ?」

「知るか」

 閑話休題。

 話題を戻そう。

「――まあ、可能性は二つだわな」

 九ノ瀬は至って真面目な表情をしてそう言った。指を二本立ててピースを作る。右手で作ったそれの人差し指を左手を使って折り曲げて、まず第一に、と前置きをする。

「おまえの記憶が間違っているのか。聞いた感じ、爽架はその子のことを知ってるんだろ? なら律の中からその子に関する記憶だけが消えているのか。突発性の部分的記憶喪失って訳だ。律、最近強く頭を打ったりとかしてないか?」

「おまえそれ、本気で言ってるのか?」

「いいから。あくまで可能性の話だよ」

 これといって思い当たることはない。蒼の練習に付き合って強烈なメンを食らったのは期末テスト前のことだし、それで記憶が飛ぶとは思えない。そもそも俺は第一の可能性自体を否定する。間違っているのは俺ではないのだ。

 なので、俺は九ノ瀬に第二の可能性を述べるよう促した。今度は右手の指を折るだけで九ノ瀬は、

「第二はおまえだけが正しいかだ」

 たとえば、と言って九ノ瀬は続ける。

「おまえではなくて世界が間違ってるんだよ。本来いないはずの一人をおまえ以外の全員が知っていて、おまえだけは知らない。おまえ以外の全員に突然、その子の記憶が植え付けられたんだ。おまえだけが正しい認識を持って取り残されてしまっている、ってのが第二の可能性だ」

 これにも俺はさっきと同じ反応を返したいが、しかし呆れるばかりでもう何も言う気にはなれなかった。どっちにしたって大層なSF理論じゃないか。そんなもんをどうやって信じろというんだ。全て俺の思い違いだった。隣の席の女はずっといたが俺があまりに面識がなかっただけ。で、あの少女が、そこまで仲がいいわけでもない相手から無遠慮に私物を取り上げるような性格なのだ。とかそんな理屈の方が全然納得が出来る。

 ……そんなに深く考えることではないということで、解決でいいんじゃないだろうか。

 九ノ瀬はふざけた例で俺をからかい、それを悟らせようとしたのだ。

 しかし何故だろう。あの少女の顔が頭を過ぎる度に名伏し難いもやもやとした感じが思考を覆う。とはいっても実際、考えたって仕方がないのも事実だ。ならば差し当たってまずは、そうだな、昼飯を済ませよう。

 と、俺が昼食を始めようとしたその時だった。普段なら断りもなく開くことのない生徒会室の扉が無遠慮に大きな音を立てて開け放たれる。俺や九ノ瀬は溜まり場として利用しているために忘れがちであるが本来、この部屋は事務的な意図での使用が主となる場所であり、通常ならばノックの後に許可を待ってから開放されるのが当たり前だ。それをさも私室の扉を開けるかのように憚りなく開け放つなど――と考えて嫌な予感がした。思い当たる人物がいたからだ。そして同時に俺は入ってきた人物がそいつでないことを祈っていたとも言っていい。

 果たして俺の祈りは天に届かず、嫌な予感はうんざりするぐらいに忠実に形を帯びて現実に具現化してしまった。

 勢いよく開いたが為に蝶番が軋みを上げて跳ね返ってきた扉を脚で制した件の少女が口を開く。

「やっぱり。いないと思ったらここだったのね。あのね、忘れてるかもしれないけどここ、生徒会室なのよ。溜まり場じゃないんだからね、律」

 その発言は今俺が見た光景から何の説得力もなかったが、そんなことはどうでもよかった。こいつは今俺の名前を呼んだのだ。絋井(ひろい)律とは確かに俺の名前で間違いない。そして俺のことを名前で呼ぶ女子は非常に少数に限られ、その中にこいつは入っていないはずだ。

 ねえ聞いてる? と面食らう俺に追い討ちをかけるが如く彼女は黒い瞳をずいと寄せてくる。咄嗟にたじろいだ。がた、と音を立てた折り畳み椅子にどうにかこの場での精神崩壊は食い止められる。だが嵐のように頭を掻き乱す何かは依然として健在だ。訳が解らない。どうしてこいつは俺がここにいると解ったんだ。やっぱりて何だ。まるで今までもこんなことがあったみたいな言い方じゃないか。

 混乱する俺を少女はじっと見てから。

「……やっぱ、あんた今日変よ? 風邪でも引いたんじゃないの。顔色も悪いし」

 本気で心配しているようにしか見えない。隣の席の奴が具合悪そうにしていて、保健室への同行を申し出るような社交辞令的親切とはまるで違う。だからこそ解らない。なんでおまえが、そんな顔をするんだよ。自分のことみたいに不安そうなそんな顔を――

「おい律、大丈夫かよ」

 九ノ瀬が肩に手を置いて顔を覗き込んでくる。俺はその手を払って、大丈夫だ、と返答しようとし、九ノ瀬の口から出た次の台詞に言葉を失った。


「こいつ朝からこんな感じなのか、(とも)


 一瞬俺は九ノ瀬が誰に話しかけているのか解らなかった。あるいはその友という言葉が俺を指しているのかもとも思ったが、そんな苦し紛れの思考を断ち切るように黒髪の少女は答えた。

「まあね。朝から何か変なのよ。ほら、強がってないで保健室行きなさいって。あたしもついてって上げるから」

「うるさい!」

 心配そうに、まるで病人にそうするかのように少女は手を差し伸べてくる。俺は右手でそれを払い、左手で顔を覆った。訳が解らない。九ノ瀬はなんでこいつのことを知っているんだ。この分だときっと、蒼も遊季も紗季も知っているだろう。だったらなんだ。俺だけが可笑しいのか。頭痛がして眩暈がした。吐き気にも似た怖気が総身を駆け巡る。

 ――凍えた吐息が熱を帯びて、黒い一面の世界に白い疎らが降り注ぐ。

 そんな、終わりに似た景色の中で――

 脳がショートしてしまったのか幻覚作用まで現れてきやがった。

 そっ、と小さな手に触れられる。頬には確かな温かさがある。俺は顔を覆う手をのけた。いつの間に屈んでいた俺に合わせるように少女、友もまた膝を折っている。同じ高さで覗き込んでくる瞳は気丈で、けれどさっきまでの覇気が薄れて泣きそうに潤んでいた。

「どうしたのよ……ねえ」

 なんて、顔をしているんだろう。

 頬に触れていた手は今は俺の袖口を掴んで力なく引いてくる。その動作と微弱な力に直面してやっと――俺は自分が異常だったことに気がついた。そうだ。何を血迷っていたのだろう。なぜこの少女のことを失念していたのだろう。彼女は――夕凪(ゆうなぎ)友は蒼や九ノ瀬と同じ俺の幼馴染じゃないか。

 理解はあっさりと混乱や頭痛を奪い去っていった。

 吹雪の後の晴天のように思考はすっきりとしている。俺はいつものように友の黒い頭に手を置いてやった。しっとりとした艶のある、綺麗な髪をさらりと撫でると、普段の強気な様とは程遠い表情で友は鼻を啜った。

「悪い悪い。大丈夫だからさ、友」

 上手く笑えたかは解らないが俺はそう言って少女に微笑んでみせる。

 すると大きな瞳を見開いた友は何か言おうとして口を開き、しかし中断してそっぽを向いた。すぐさまフンッと鼻を鳴らすと怒声が槍のように飛んでくる。鼓膜を突き刺すそれも聞き慣れたものだ。俺は咄嗟の危機回避本能が働き、両の耳に手で蓋をした。

「バカじゃないの! あんたあたしをからかって楽しいわけ!? 最低! 謝っても許さないから!」

「悪かったよ」

 謝っても許してくれないそうだが、まあ、一応謝っておこう。

 喚き散らしながら罵詈雑言を放つ装置と化した友が、暴言に加えて的暴力をも行使し始めるのにさほどの時間はなかった。無限小言パンチングマシーン友を制しながら九ノ瀬を見ると、釈然としない表情で奴は俺に、

「もしかして、おまえがさっきまで言ってた子って友のことか?」

 答える気になれなかったのはそれを認めてしまうのが物凄く恥ずかしいからだった。

「……おまえさ、冗談にしては全然笑えねえよ」

「笑わせるつもりなんてなかったからな」

 正しかったのは九ノ瀬の仮説その一だったと認めざるを得ない。

 俺の記憶がなぜか混乱していたのだ。

 夕凪友。

 黒髪で小柄な幼馴染みは思い出すと何の違和感もなく現実に溶け込んだ。

「……まあ、何でもないみたいでよかった」

 ぐすん、と拗ねるような口調で友が言う。その様子は同い年の相手にしてはやけに幼い。夕凪友は背伸びをした子供みたいなところがある。普段は気丈に努めているが一度そのペルソナが剥がれれば相応の姿が現れるのだ。

 俺は小さく頬を膨らます友を視界の端に納めながら、昼休みの予鈴を聞いた。


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