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遊季とはクラスが違うので教室の前で別れた。
教室に入ると何故か俺の席に蒼が座っていて、何をしているのかと思えば日直日誌なんかを広げて蓋のされた筆ペンをくるくるしている。俺は気付かれないように蒼の背後に回り込み、侍のちょんまげを思わせるポニーテールを鷲掴みにして引っ張った。ぐにゃん、と蒼の体が反り返って目が合う。
「律、遅かったな。少々椅子を借りているぞ」
「いやそのまま普通に喋るなよ」
何でされるがままなんだよおまえは。
「ん? 抵抗した方がよかったか? ほっ――」背筋を使って上体を起こす。「――痛たたたた!」
髪を掴まれてる訳だから当然だろう。あほだった。
「律……謀ったな!」
蒼は涙目で抗議してくる。剣道部の女主将が残念な様だな。
「だがこれもまた一計か。ふふふ」
「何に目覚めようとしてるんだおまえは」
俺は蒼のポニーテールを解放してやり、机上に広げられた日誌の中身を覗き込んでみた。今日の日付と出席番号の一、それから蒼の名前と時間割りまでが筆ペンで、そう筆ペンで記入されている。えらい達筆な癖に所々丸みがあるから可笑しい。
ふむ。
蒼が筆を悩ませているのはどうやら最後の欄のようだ。日直の記載コーナーであり世間の情勢だとかニュースなどの話題に触れて論を述べる欄が我がクラスの日直日誌には設けられている。言うまでもなく担任の趣味だ。蒼は朝一でその欄を埋めてしまう派らしい。
「で、なんで俺の席なんだ?」
「私の席だと何も閃かなくてな。だから律の席に座り律の気持ちになれば何か浮かんでくると思ったんだよ――は……! 律!」
がたんと音を立て蒼が立ち上がる。
「なんだよ」
「私が今日身に付けている下着の色は青だ!」
「知るか」
「正確には水色だ!」
「訊いてない」
こいつは俺の席で何を閃いたというのだ。ほら見ろクラスの連中が何事かと注目してるだろ。いいから早く俺の席を明け渡せ。さっき手放したばかりのポニーテールを引っ張って蒼を退散させる。これがまたじたばた抵抗して中々引き剥がせない。
「甘いな律、その程度で私が動じると思っているのか?」
「意味が微妙に違うだろ」いや合ってるのか?「いいからどけって」
流石に髪を引っ張り過ぎて千切れ……たりはしないだろうが、何やら大変なことになっても困るので肩を掴んで蒼のその意外と華奢な体をどかそうと試みるが、不意に手の甲が首筋に触れた途端に、
「ぁひ――ゃん!」
「変な声出すなよ!」
びくっ、としてテコでも動かなかった蒼が飛び退いた。どっからそんな声を出したのだろう。というかタンクトップで早朝にランニングをするような奴が今の程度で過敏過ぎやしないか。
「り、りり、律、不意打ちは卑怯だぞッ!」
「そんなに動揺することかよ」
「律の、手が、わわわ、私に、ふ、触れ……!」
「冷たかったな悪い悪い」
「もうお嫁に行けない!」
「さっきまで下着がどうこう言ってた奴の台詞か!」
うわあ。
真剣に涙目だよこの娘。なに女の子してやがりますか。
「蒼爽架一生の不覚……かくなる上は腹を切る所存も……」
「止めろ早まるな」
「律と共に果てよう!」
「俺もかよ!」
「私を汚した責任は取って貰う」
「な……」
ちょっと触れただけで、かすった程度で、俺は命を差し出さないといけないのか。
どこまで本気なのかは解らないが仕舞いには竹刀まで取り出した蒼を宥めるのにあたふたさせられる。それにしても衆目が痛い。子供みたいに暴れる蒼を押さえていて気付いたがこいつ、とっくに遊び始めていやがる。
「いいから大人しくしろって!」
「ふん。私は暴漢を退治しようとしているだけだ」
「いつからそんな趣旨に――」
「――相変わらず朝から騒々しいわね」
暴れながら戯言を垂れ流す蒼とそれを押さえる俺との間に、凛とした声が割って入った。
「爽架、ほらもういいでしょ席に戻りなよ。ホームルーム始まるわよ」
「む。そうか、もうそんな時間か」
俺の言うことなどまるで聞かなかった蒼が大人しく従って自席に帰っていく。竹刀を肩に載せた侍少女が行く先の人がモーゼの十戒みたいに割れる。なんかあれだ。切り捨て御免を許された武士に道を開ける町人みたいだ。
ふと俺は蒼が日誌を忘れていったことに気付く。これがそもそもの発端だと思うと呆れて溜息が出るのを抑えられない。しかしながらこんな喧騒にも慣れてしまっているから自分が恐ろしいのである。あれでも俺の幼馴染みで十年近い付き合いがあるのだ。俺は開いたまま置きっぱなしの日誌を閉じて蒼に届けようと身を乗り出した。
けれどそれは一歩目で行く手を失い、果たされないままとなる。なぜなら、
「あんたも。ほらさっさと座んなさいよ」
さっき蒼を宥めた声が今度は俺に向けられたからだ。俺はその声、耳に馴染みがあるようで、けれど持ち主に思い至ることが出来ない女の声の方へ顔を向けた。彼女は俺の隣の席に腰を下ろし、髪をぱさりと払い除けた。鋭い目付きが大きな瞳から放たれる眼光を研ぎ澄ます。声と同じで全体的に凛としていて整った風貌の少女がそこにいた。
ところで。
……こいつ、誰だ?
しばし沈黙して彼女を観察してしまっていた俺の視線に少女の黒い瞳が怪訝な色を含む。桃色の唇は一文字に、何やら不機嫌そうな印象を受ける。腕と、それから脚を組んで、
「なによ?」
やはり憤然とした声が問い掛けてくる。
なにと言われても、さすがにクラスメイトに対して「おまえは誰だ?」なんて訊けるはずもない。ましてや隣の席の人間にだ。失礼な上この少女はますます機嫌を損ねるだろう。それにそうなれば悪いのは間違いなく俺の方だ。クラス替えから半年も経つのに同じクラスの生徒の名前を覚えていないなんてどう考えても可笑しい。
名前を覚えていない。
いや違う。
名前どころか俺は、この少女の存在そのものが思い出せない。今この瞬間がまるで初対面のようなそんな感覚だ。……いいやそれも違う。見覚えがまるでないわけでもない。見知った相手のような気はする。彼女の面貌をよく知っている気はするのだが、どうしてか現在目の前にいるクラスメイトが誰かという問題に立ち返れば一向に答えが出ないのだ。
なんと言えばいいのだろう。
記憶に面影はある。
しかしそれは酷く曖昧で、さらに目の前の相手とは別人にしか思えない。性質が悪いのは、俺の頭の中にある霧が掛かった人物像にも眼前の少女にも当てはまる名前が思い付かないことだ。
不機嫌や怪訝を通り越して、少女の表情はこちらを心配するものに変わっていた。
「どうしたの? 具合が悪いんだったら保健室に――」
「すまん。大丈夫だ」
立ち上がろうとする彼女を手で制すると同時に予鈴が鳴って、今日も扉の前で待っていたのだろう担任が教室に入ってきた。「ホームルームを始めます」という声を虚ろに聞き流しながら俺はどうにもすっきりとしない心中のまま窓の外に視線を彷徨わせた。改めて自問する。あるいは世界に問いかける。今、俺の隣の席に座っている女は、一体誰だ?