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いつものように蒼爽架と双色遊季が俺を起こし我が家へやって来た。
とはいえ俺は既に起床済みで二人が来る頃には朝食の準備まで終えて制服に着替えていたのだが。実際のところ二人もその辺りは承知の上であり、ただ昔の真似事ついでに人の朝飯を摘まみ食いする魂胆こそが本命である。俺が一人暮らしにアパートの一室を借り始めてからはこれが日課になっている。
俺はといえばそんな事情を理解しているが為に今日も一匹しか焼いていない魚を半分蒼に差し出すのだった。
白いタンクトップが寒々しい蒼は俺が膳の前で手を合わせる間に箸を奪い取り魚を食していた。なんでタンクトップなんだ、とは今更訊かない。剣道部な蒼は毎朝この寒いのにランニングをしているのだ。ジャージとか着ろよ。見てるこっちまで寒いし目のやり場に困る。いくら幼馴染みだとはいってもだ。
俺は安物の茶を啜りながら、口に放り込んだ魚を咀嚼する蒼を眺めてそんなことを考えていた。やがてそれを嚥下した蒼が箸を返却しながら俺に言う。
「流石は律だ。絶妙な焼き加減のおかげで安物だと言うことも気にならん」
安物とか言うなら食うな。俺の朝飯だぞ。
「鮮度の怪しくなったスーパーの特売品だがこれなら腹を壊さないだろうな」
「腹の心配をするならまずは服装を改めろ。それから人の茶を勝手に飲み干すな」
言うが遅し。
甲高い音を立てて湯飲みがテーブルの上に置かれた。これ以上蒼に構っていても朝の貴重な時間を浪費するだけなので、それに鮭の切り身半分で箸を退いたこともあり蒼は放置することにした。俺は自分の茶を入れ直すついでに用意しておいた別の急須に遊季の分の茶を入れて渡してやる。
「おはよう律」
「おはよう遊季」
渡された急須を両手で持って、薄く湯気の立つ向こうで遊季の口がそう発音した。今更時頃の挨拶というのも変な話だがまだ遊季と口を利いていなかったこともあり、タイミングとしては妥当なのかもしれないとオウム返しする。続いて遊季は茶についての礼と謝辞を告げて急須に口を付けた。となりで正座しながらテレビのリモコンを弄っている無遠慮な女とはえらい違いである。
「熱……っ」
華奢な肩が弾んだ。
「律ー。冷たいのがいいよ」
季節感のない発言だな。まあ昔から遊季は猫舌だからそんなことを言われるかもしれないとは思っていたが。だったら初めから用意しておけということなのだが、俺としてはさっきみたいな反応が見たい反面もあったのだ。アホか。
それに遊季にと注いだ茶は無駄にならない。
「なんだ、律。おかわりとは気が利くな」
この女が飲み干すからだ。
ポニーテールをぴょこんと揺らして卓に向き直った蒼が熱々の茶を飲み干すまでに三秒は必要なかった。しかしマフラーをしっかり締めて防寒対策ばっちりの遊季と、片やタンクトップ姿の蒼とは対照的な二人を眺めているのも妙な気分である。夏みたいな格好をしてる方が熱湯をイッキするのもまた然り。
「おー」
とか遊季は感心しているが何も凄いことじゃない。ほだされて蒼は得意気だ。
「では律、体も温まったところで」んな格好の奴がよく言えたな。「ランニングを再開するぞ。学校まで競走だ」
ええ! とか目を丸くして焦っている遊季を尻目に俺は味噌汁を一口啜る。
「待て待て、俺の朝飯が済んでからにしろ。それから今日のメニューはランニングじゃなくてウォーキングだ。それなら付き合ってやる」
「よし、ならそれで」
何でもいいのかよ。
ほっとする遊季を横目に俺はようやく朝食を開始する。もちろんどれもこれも冷めていたことは言うまでもない。
*
「そういえばおまえ、今日日直じゃなかったか」
という俺の発言の後で蒼は、
「そうだったな、なら走るか」
「断る。おまえ一人で走れ」
「解った。ではな律、また後で」
などというやり取りを挟んでから風になった。疾風のごとく駆けていく蒼の背中は直ぐに見えなくなり、俺と遊季の二人が残される。蒼が残していった旋風が冷たい。そういえばもう冬だな、とか靡くマフラーと手袋の上から息を吐きかけて暖めている遊季を見て思った。
双色遊季の出で立ちは、一見すれば双色紗季と相違ない。そして言うまでもないことであるが二人は双子である。様相において瓜二つと言っても過言ではないが、二人には決定的に違う点が二つある。一つ目は瞳の色だ。紗季の瞳が澄んだ琥珀色ならば、遊季の瞳は紺に近い黒色だ。黒を薄めた琥珀と、黒を深めた紺と言うべきか。もしも今サイドテールに結んでいる髪を下ろしたなら――紗季は常時ストレートを背中に垂らしている――二人を見分ける有力なパーツは瞳の色に限られる。最近になって髪を伸ばし出した遊季の方が僅かに紗季よりも短髪なのは、一見しただけでは解るべくもない。
もう一つの違いについては――
「律ー?」
大きな瞳が覗き込んできて、不意に脚を止めた。突然立ち止まった俺に合わせるように遊季も一歩片足で後ろに跳んで静止する。前屈みになっているせいで上目遣いになったままの遊季は背筋を伸ばし――それでも身長差があるためまだ少し上目遣いだ――手を後ろで組んだ。
「心ここにあらずだけど、考えごと?」
「ああ、いや、なんでも」
「ふうん。そ。僕はてっきりまたお姉ちゃんのことでも考えてるのかと思ったよ」
悪戯な子供みたいに口許をにやりと歪ませて、遊季は目を細める。
「何故そうなる」
「えー、だってさ」
人差し指をぴんと立てた遊季はその先を灰色の空に向けてくるくる回して得意気だ。こういうときだけこいつは実年齢より仕草やら口調が子供っぽくなる。
「律ってば昔からお姉ちゃんのこと特別扱いしてるし」
してない。
「同じ女の子なのに爽架とは扱い方が全然違うもんね」
それは蒼が例外なだけだ。蒼の扱いが特殊なのである。
「それに」
俺は一人で歩くのを再開して遊季を追い越したが、遊季はまだそのことに気付いていない。欠伸をしながら先を行く俺の背中をぽつりと遊季の言葉が追い掛けてきた。
「お姉ちゃんといると律、よく笑う」
何となく脚を止めて首だけ振り返った。
「ほら早く行くぞ、遅刻すんだろ」
本当は予鈴まで余裕があったのだが何となく今の空気に耐えきれなくて遊季を急かした。遊季はそこでようやく俺が前を歩いていることに気付いたらしく、慌てて小走りで追い付いてくる。そんなに距離があったわけではないのでむしろ勢い余った遊季が俺を追い抜いたくらいだった。
「もー、置いてかないでよ」
ぷくぅ、と頬を膨らませる。
「あれ、律、怒ってる?」
「いいや」
「怒ってるでしょ」
「なんでだよ」
「だって顔がつまんなさそう」
「普段からだ」
「あ、そか」
納得すんな。
べし、とでこぴんを食らわせるとそれは遊季にクリティカルヒットしたらしく大袈裟に額を押さえた遊季が喚きながらくるくる回る。朝から騒々しい。
溜息は直ぐに白く曇って消えた。俺は一瞬白くなった視界に思う。――まあ、紗季といるときの自分が少し普段と違うのは否定しない。何せ紗季は俺の恩人なのだ。他と態度が違うのも仕方のないことだろう。とは認めていたが、遊季に対して、他人に対してそれを認める気にはなれなかった。だから俺は頑なに遊季の言葉に首を振り続けたのだ。
「早くー、律ー」
いつの間にかずいぶん離れた所にいる遊季が手を振って俺を急かしていた。はいはい今行きますよ、とよっこら歩き出す。どうやら俺はまた知らない間に立ち止まっていたらしい。