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静寂を裂く大音声の叫び。ぼろぼろと涙が零れ出す。
「蒼――!」
嫌な予感が当たった。最悪の想像が形を得て顕現した。直ぐに蒼を助け起こそうと手を出す。
「あ、い、嫌……あ、ああああああああ」
首をぶるぶると振る。俺の手から逃れるように必死に立ち上がり、覚束ない足取りで走り出す。だがその先には敵の三人がいる。さらに蒼はまだ地に伏したままのピアスに躓いて転んだ。その体が三人の男の前に投げ出される。顔を上げた蒼はその状況を把握してまた絶叫を上げた。耳を塞ぎたくなる。普段の気丈な姿とは掛け離れた泣き声交じりの叫び。
蒼はその場で頭を抱えて丸まってしまう。かつて、いつも公園で苛められていた少女のように――
「ち、くしょう――!」
治ってなんていなかった。
これが、本当の症状だったんだ。
重度の男性恐怖症、男を拒絶する心と体が理性を奪い去り彼女の世界を閉鎖する――。
どうして気付かなかったんだ。今更悔いても仕方がない。どうすればいい。とにかく蒼を助けないと。男の一人がにたりと笑う。その手は蒼の背にした竹刀に伸びた。いつかと同じ。蒼がただ持っているだけの武器を奪われて、そして――
助けないと。
でもどうして?
男を拒絶する蒼に俺が近づいてもどうにも出来ない。
ならどうする?
ここでじっとしているだけ?
それは、そんなことは――
「あんたたち!」
少女の叫びが木霊して時を止める。誰もが声をした方を振り向いた。
夕凪友。黒髪を靡かせ、白い息を吐き、肩を上下させている。走って来たのか。
友は自分に視線を集めると続けて叫ぶ。
「お巡りさーん! こっちです早く!」
見え見えのはったりだ。だが動転した連中にはその判断が瞬時には出来ない。友の手が閃き竹刀を奪い取る。友はそれを両手で握って、一気に振り抜いた。回転しながら竹刀を振る。脚を真っ直ぐ突出し、スライディングに似た姿勢で力一杯。下段の横薙ぎは全員の脚を打ち抜いて雷鳴染みた音を響かせた。
苦悶に歪む表情と苦痛の声。友と目が合う。一瞬のアイコンタクト。俺はそれで友の意図を読み取った。僅かな間機動力と気力を奪うこと。後ろでまだ状況が飲めていない遊季の手を握る。友は自分よりも体格のある蒼を背負った。
「友、蒼は俺に任せろ!」
「馬鹿! 今の爽架をあんたが担げるわけないでしょ! これぐらい、大丈夫だから早く!」
非効率的だが止むを得ない。確かに友が正論で最善だ。
闇夜を駆け抜ける。三つの遁走の足跡が山を下った。
山の麓まで駆け下りて、一度近くの公園で脚を止めた。追いかけてくる気配はない。震える蒼をベンチに座らせ、その両脇に友と遊季がついて介抱していた。蒼の症状が明らかになった今、俺に出来ることは極力近寄らないことしかない。
蒼は九ノ瀬が寄越した護衛だ。ずっと下手くそな尾行をしていたから俺は気付いていたが、遊季は気付かなかったらしい。俺は蒼が後ろにいることにどこか安心していたのだ。それが今になって激しい後悔に変わる。自分でどうにかしようとしていたのなら、蒼の異変に気付いてやれていたなら、こうはならなかったはずなのに。
片鱗はいくらでもあったのに、俺は悉くを見落としていたのだ。自分勝手な憶測で奔走して、そして解決したと勘違いして自己満足に浸った。その結果がこれだ。滑稽なことこの上ない。
舌を打つ。これ以上ここにいても出来ることなんてない。俺に出来ることはせめて、蒼がこんなになってまで守ろうとしたものを守ることだけ。三人には何も言わず、公園を出る。携帯を取り出して電話帳を開いた。掛ける先は決まっている。メールでは返信を待つのがもどかしい。
九ノ瀬は三つほどのコールで応えた。状況を知らないからだろう、相も変わらず呑気な口調だ。おまけに結果はどうだった? なんてことを訊いてくる。それにもはや憤ることさえなかった。今はただ自分の間抜けさ加減が許せないから、誰かに怒ることなんてしている余裕がない。
前置きも挨拶もなく、俺は本題を提示した。
「連中の居場所は解るか?」
『は?』
「前に、ファンクラブの過激派が集まってる場所を知ってる、て言ってたよな?」
『あ、ああ。その話か。それなら解るが……どうかしたのか?』
「教えろ」
『おい律』
「いいから教えろ早く」
『……駅の裏側。あの神社の境内だ。ただし必ずいるとは限らないぞ。今から行っても――』
通話を切る。九ノ瀬の忠告はまだ続くだろう。こちらを心配してのことだとは解るが、今は時間が惜しい。それに今ならまず間違いなく連中はそこにいるはずなのだ。さっきあったこと。何故偶然にもあんなところで出くわしたのか。それは今日も集会があったからだ。なら今も――連中はそこにいる。
携帯をしまう。後はもう直ぐにでも走って目的の場所へ向かおうとする意志だけが残った。
それを友の声が呼び止める。
「何してるのよ」
友はいつからいたのか。だが俺のやろうとしていることは理解したらしい。行かすまいと仁王立ちが立ちふさがった。
「今の電話、渚? あんた何するつもりよ」
「……おまえは蒼と遊季を頼む」
「無茶苦茶ね。あんた一人で何が出来るのよ」
「だったらどうするんだ。このまま何もしないのかよ」
「あんたの考えてることなら解る。でもね、それに何の意味があるのよ。あたしたちがしなくちゃいけないのは、今、爽架の男性恐怖症をどうにかすることでしょ?」
「だから俺は――!」
「あんたが連中相手に喧嘩して、それで爽架は治るの?」
「……っ」
「そうじゃないでしょ。そうじゃないのよ。紗季が、望んでることは」
「紗季……? 紗季が、なんだって?」
友が目を逸らす。調子に乗って余計なことまで話してしまった、という感じだ。
お互いが沈黙する。友は俺と目を合わせようとしない。もしそれをしてしまったら、これ以上は黙秘できないと思っているのだろう。まだ話せない。まだ話したくない。友の姿からはそんな声が聞こえた。
「……ごめん。友、蒼を頼む」
だから何も聞かずに走り出した。一度止められていても、もう今更思い留まることなど出来ない。
友の制止する声を背中で聞く。しかし追いかけてくることはない。友だって今自分がこの場を離れることが危険だと理解している。それを見越した上でと衝動任せの半分ずつで先を急ぐ。
ついさっき走ってきた道程を一人逆走した。
路上に人は見られない。駅に向かうにつれて明かりも減っていき、裏側に回ると街灯さえ数を減らす。自分の息遣いと足音だけが世界の音に感じられた。走り続ける間、どんな言葉で自分を罵ればいいかを考えた。結局何も思い浮かんだりはしなかったが。どんな風に蒼に謝ればいいのかも。




