1/Who is she?
少女の夢は囲われた、遠い願い。
叶った頃には自身は既に無く、
彼方でそれが叶うことを夢に見る。
――それが、いつも彼女の在り方だった。
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――忘れないで。
駆け抜けるように閃いた言葉の意味は解らないまま、意識の奥底に沈んでいった。
気が付くと夕暮れだった。これまで時間が止まっていたみたいに、風が吹いて木々がざわめき始める。二三度瞬きをして辺りを見回した。四方をフェンスで囲われたアスファルト塗りの場所。空がやけに近い。沈んでいく夕日は海の向こうへ。閉じていく朱色はフェンスの枠の形にマスメ取られて世界を染めていた。
ふと、まるで夢から覚めたような心地に襲われる。
授業中に居眠りをしていて眼が覚めたときみたいな気分だ。
だが今の俺は直立した姿勢であり、場所は屋外である上に目もぱっちりと開いている。さすがに立ちながら居眠りなんてしない。だったらこの腑に落ちない気分は何だろう。などと考えながら首を振って挙動不審していると、背後から笑い声に名前を呼ばれる。
「律」
という呼びかけに振り返ると、給水タンクに背凭れた黒くて長い髪の少女が座っていた。
生気がないほどに白い顔は夕日に照らされて赤い。
俺はその姿に何事かを口にしようとして、しかしすぐに何を言おうとしたのか忘れた。本当に寝起きみたいな頭の調子に呆然として、口をぽっかりと開けたままで押し黙ってしまう。俺のそんな姿が面白かったのだろう、紗季はけらけら笑って立ち上がると、スキップみたいな足取りで近寄ってきた。
「どうしたの? なーんか顔色悪いけど――」
と言った時には既に琥珀色の瞳は数センチ先に見える距離を位置取っていて、呼吸音も聞こえる距離で互いの額が重なっていた。こつん。脳裏に転がる軽い音が遅れる。紗季の瞳が遠退いて、
「――熱はないみたいだね。ていうか冷たい」
目を細める。
「あ、顔あかーい」
鼻先を指差されて、それがスイッチを押したみたいに俺の意識はようやくここに回帰した。
改めて。
黒髪の長い、琥珀色の大きな瞳と中性的で端正な顔立ちをした俺の幼馴染、双色紗季が笑っていた。
「それはおまえも同じだ」
夕日のせいである。自然環境とは万人に平等なのだ。
「まあ、夕方だしね」
当たり前のことを言う。
紗季は何が面白いのかくすりと声を漏らして伸びをする。ブレザーの裾とその下に着たクリーム色のカーディガンが少しだけ捲れてブラウスが除いた。白い生地のそれはやはり夕方の色に染まっている。
「寝てたの? なんだがぼーっとしてるけど」
「寝てねえよ」
誰が突っ立ったまま寝るか。
「減点」
何でだよ。てか何の点数。
「ここ、どこだか解ってる?」
紗季の表情は笑っていたが、瞳の奥には微かに不安が滲んでいた。
「屋上」
「なにしにきたんだっけ?」
ぶっきら棒に答えると矢継ぎ早に次の質問。
「絵……」
一瞬言葉に詰まって俺は言った。
「絵を描きに来たんだろ」
ここからだと海も含んで街が一望できるのだと紗季は言った。驚くことなかれ。彼女の高校志願理由はまさにそれのみなのである。本当ならもう少し偏差値の高いところを狙えたはずなのだが。
紗季が語った夢がある。
この街が一望できる場所から、街の全てを背景にして、
“みんなの絵を描くんだ。この街が一番綺麗に見える時間に”
そうだ思い出した――思い出したというのも可笑しな話だが――俺たちがこの屋上に登ったのはそんな紗季の夢を叶えるためなんだ。そうしてその夢を口にした紗季に、俺たちは皆口を揃えていったのだ、その絵が見たい、と。
ちなみにブレザーに衣替えしてから二週間ばかりが過ぎたこの頃は夕日が世界を支配する時間もめっきり短くなり、活動時間は極端に減少している。この調子だと続きはまた冬が過ぎてから、みたいになりかねない。
紗季は「正解」と言って腰の後ろに手を組んだ。やや前屈みになって大きな瞳が若干見上げてくる。
ぴし、と指差したのは俺の背後で、紗季の示す先に視線を向けると空の果てが紺色に変わりはじめていた。つまりどういう意味かというと、今日の活動終了を意味しているのである。
「帰ろうか」
困ったみたいに笑って紗季はそう言った。
「ああ、そうだな」
承諾すると、紗季が長髪を翻す。腰まである髪が歩く度に揺れるのを何の気もなく眺めながら後ろを付いていくと、視界の端っこにさっきまで紗季が座っていた給水タンクが掠める。正確にはその前に無造作に放置されたスケッチブックが意識を捉えたのだが。
「紗季」
呼びかけながら脚を進めて、
「んん?」
と返答する紗季を振り返らずにスケッチブックを拾い上げた。
「忘れ物だ」
閉じたスケッチブックを差し出しながら振り返る。
すると紗季は一瞬だけ笑顔を硬直させて、しかしそれは十年来の付き合いであるからこそ見て取れた微細な表情の機微でしかなかった。その意図が読めない俺の手から紗季はスケッチブックを奪い取る。
奪い取るとして、足元に落っことした。
何をしているんだろうこいつは。
「あ……」
と言いながら紗季がしゃがみ込むのと、やれやれと内心で呟きながら俺が膝を曲げたのは同時だった。そして互いに同じスケッチブックに手を伸ばす。瞬間――夕凪の終わりを告げるみたいな、いっそう足が速くて強い風が吹き抜ける。
この季節にしては、ずいぶんと冷たい夜の始まりの風に背筋が冷たくなる。
わずかに触れた紗季の指先が凍るほど冷たく感じてしまうほどに。
ぱっ、と急いでスケッチブックを拾い上げたのは紗季で、そのまま抱き込むみたいにして胸に押し付けた。直ぐに立ち上がる。対照的に俺はまだ膝を折ったままだから必然、紗季を見上げる形になる。ゆっくりと視線の高低を合わせると、
「まだ見ちゃダメ。完成するまで作品は見せないのが芸術家です」
「そうなのか?」
結構描きかけの絵を見られるものなんじゃないのか、画家ってのは。
まあ、未完成だから見るな、と言われては別に無理に見ようとも思わないのでそれ以上は何も言わなかったのだが。