4/動き出す時間
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人気の絶えた剣道場は薄暗さとの相乗効果で荘厳だった。
普段なら畳を打つ地響きと、竹刀のぶつかり合う雷鳴のような音で満たされているのだが、今日のこの瞬間においては異常なまでの静寂が場に満ちている。蒼爽架という道場の主は静かに、広い畳の中心で正座していた。
しん、とした静謐を切り裂く凛とした声が響く。まるで別世界に踏み込んだ気分で畳の上に上がろうとしたときだった。
「遅かったな。待ち侘びたぞ律」
「悪いな。てかおまえ、何してるんだ?」
「精神統一だ。律が私の稽古に付き合ってくれるというのだから、万全の状態を整えておかなければと思ってな」
「素人相手にそこまでするかよ、全国区が」
いや、全国区の剣士だからこそ、素人相手にも手を抜かないということか。
虎は一匹の鼠を狩るのにも全力を尽くすとは、このことである。
俺は蒼が見せる本気の気構えに気圧されつつ、さらに別のことでも驚かされていた。道場に入ってから俺は、蒼に話しかけられるまで一度も声を出していなかったのだ。目も開いていない蒼が俺の存在を感知したことは十分驚きに値する。剣の道を上り詰め、蒼クラスの剣士ともなればこの道場の中は自己のテリトリーと化すのだろうか。
「ん? 違う違う。それは違うぞ律」
「?」
俺の驚愕を蒼はあっさり否定する。もう目を開けているが、姿勢は正座したまま背筋をしっかり伸ばしている。左手は膝の上なのに、右手をふるふるさせて否定する姿はどこか間抜けだ。
「私は誰かが道場に入ってくる度に同じセリフを繰り返していたのだ」
「おまえ……まさか」
「ふっ、顧問や後輩が入ってきた時には赤っ恥をかいたぞ」
「俺の幼馴染が痛過ぎる!」
「ていうか正座とか疲れる」
「胴着でそんなこと言うなよ!」
キャラが! 蒼の剣道少女キャラが!
聞けば蒼は目を閉じて静かに俺を待ち、現れた俺を気配で察した体を装いたかったらしい。ラスボスっぽくていいだろ、宿命の対決とか、気分が出ると思って、などと言っている。何の話だよ。どうやら俺のモノローグは蒼の思惑にまんまと乗せられた結果であるようだ。何故だろう悔しい。
狙い通りの成果に満足したのか蒼は正座を崩してきゃっきゃ言いながら素振りを始めた。何がそんなに楽しいのだろう。竹刀なんて毎日何千回も振っているだろうのに。そんなやる気まんまんの蒼をあまり待たせるのもよくないと思い、俺は何となくもう少し眺めていたいそんな姿を横目に更衣室へ向かった。
竹刀と胴着は部の備品を借りることにした。さすがは全国区の剣道部で、それらの余りは十分にあるらしく、そこまで考えていなかった俺にとってはありがたいことだった。
畳の上に戻るとまだ蒼は竹刀を振っていた。
やってみれば解ることだが剣道の素振りはかなり体力を使う。俺が着替えている間も続けていたとしたら、蒼の体力には改めて目を見張る。汗も掻いてない。待たせたな、と声をかけて蒼と向き合った。背丈は俺の方がある。体も蒼の方が華奢だ。なのに向き合うと、それだけで血が止まるような緊張を強いられる。自分の何十倍も巨大なものと向き合っているような気分だ。
ふぅ、と長い息を吐く。
蒼の稽古にはよく付き合わされるが、そういえばここ最近はご無沙汰だった気がする。大きな大会も当分ない上に期末テストの期間もあった為か、考えてみれば俺が竹刀を持つのは実に一か月ぶりくらいになる。それでもここに立って自然と構えが出てくるのは、幼少期からこいつと打ち合ってきた結果なのだろう。
「用意はいいか律?」
声は静かに凛と響く。さっきまでの浮いた声ではない。
蒼の構えは上段だ。初めから竹刀を頭上に掲げる珍しいといえば珍しいスタイル。当然素人の俺には真似できないしする気もない。こちらは中段に竹刀を据えた正眼で、彼女の問いに頷く。後はもう、この空間に言葉はない。あるのはただ踏み込んだ脚と踏ん張った脚が起こす響きと竹刀がぶつかり合う稲妻染みた音。気を抜けば――冗談抜きで死の待つ世界とその緊張感。
いつものことではあるが、蒼の稽古に付き合うということは俺がサンドバックになるということだ。次々に繰り出される剣戟を極限の集中力でもって往なし、受け止め、鍔迫り合って弾く、それの繰り返しである。もちろん反撃を試みることもあるがそんなものは当然読み切られ、受け流され、あっさり反撃を食らう。結果から言えば、中学に入って以降の蒼に俺の竹刀は一度も届いたことがない。
際限なく続く打ち合いを終了させるのは毎度のことだが俺だ。握力が手足ともに限界に達したとき、バックステップ――そんな華麗なものではない――で後ろに下がりながら尻餅をつくのだ。それが終了の合図となる。蒼は決して伏した相手に剣を振るうことはない。今の状態だと少し不安はあったが。
面を外して蒼の表情が明らかになった。掻いてもいないのに額の汗を拭う仕草をしたかと思うと、袖の奥から現れた両目は随分と呆れた形をしていた。蒼との稽古に俺が値を上げることはいつものことであるが、こんな目を向けられたことは今までにない。
「だらしないぞ、律」
「無茶言うなよ」
おまけに言葉にしてだらしない、とまで言われる結果だ。目一杯に反論してみるが、相手は女子、全国レベルの剣道少女とはいえこの絵は確かに情けない気がする。息の荒れる俺に、蒼はずい、と顔を寄せてきた。……すり足で近寄るなよ、自然すぎてまるで無警戒だったじゃねえか。
「体力の話をしているんじゃない。なんていうか、律、集中できていないんだよ今日のおまえは」
「集中……?」
そんなわけあるか。
こちとら死なないように必死なんだ。極限の集中力で相手をしていたつもりである。しかし蒼はそんな俺の主張を断固として否と断じた。
「別のことを考えている。……いや、私の剣から何かを図ろうとしていたのか?」
「な……」
畳の上では、その剣筋同様に勘までも鋭い。言われてみれば確かに否定もできないのだ。俺の目的はかつてのように蒼と打ち合うことで蒼の男性恐怖症を取り除くこと。意識していなくても、その余裕がなくても、蒼の様子に変化がないか気にしてしまうのは仕方のないことだ。
一流の剣豪は刃を交えた刹那から、次の相手の挙動を読むという。それは即ち相手の心中を推し量るということだ。俺には当然そんな芸当はできないが、相手が蒼なら全くの不可能ではない。少なくとも剣を振るう心中は感じ取れる。今日の蒼は、いつも通り、水を打ったみたいに静かで波のない心境だったが。
「私と稽古をすることに、何か目的があるみたいだ。律、おまえ何を考えている?」
蒼の瞳が急接近してくる。もう息遣いが直接相手の顔にかかるくらいの距離だ。幼馴染とは言ってもこれはさすがに意識してしまう。俺は距離を取ろうとして、けれど体の疲れは本物であり、俺は腰を上げないまま逃れることができない。鼻先が触れ合う数センチ手前まで近づいた蒼の顔から眼を逸らす。すると今度は胸当てに押し潰されて窮屈そうな膨らみが視界に飛び込んできた。
あー、もう、なんで俺は、蒼相手にこんな気持ちにならなきゃならん。
「と、とにかく離れろよ、おまえ」
蒼の顔に頬を向ける形で首を捻り、両肩を掴んで押し返す。思いの外軽い。
――と、しまった。
俺は急いで両手を上げ、抵抗の意思がないことをアピールする。ここ最近の蒼の症状は体に触れることで表れていた。これは不味い、危険だ、エマージェンシー! 逃げようにも四つん這いの蒼の姿勢はうまい具合に俺を拘束している。飛び退く力は残っていない。
嗚呼。
万事休す。
俺の魂は今まさに天に召されようとしている。
などと、断頭台に立たされた思いで目を固く閉じていると、
「……なにをしているんだ、律?」
「は……?」
蒼のきょとーんとした声に目を開ける。
痛みはない。蒼はぽかんとした顔で自我を保っている。殴りかかってくる様子はない。今までなら、廊下でばったりぶつかってしまっただけでも右ストレートが飛来していたのにもかかわらず、この至近距離で何もしてくる様子がない。
「まさか……治ったのか?」
「何を言っているんだ律。……どうやら深刻な運動不足だな。脳の筋肉がたるんでいる」
今はそんなアホな台詞につっこみを入れているガッツはないので聞き流そう。
まさかこんなに早く効果が出るなんて思ってもいなかった。むしろこんなことに意味があるのかと疑ってさえいたのだ。それがどうだ。これから毎日のように蒼に叩きのめされる覚悟を決めていたが、よもや一日目で終了するなんて。
「本当にどうかしてしまったのか? 私の突きがそんなに強烈だったか?」
どうやら蒼は真剣に俺の脳を心配しだしたみたいだが、無視して俺は蒼の手を握った。
「もしや妙なところに――わきゃッ!」
「やったな蒼! よくやった! これで全くの無問題だ!」
浮かれて手をぶんぶん振る。大袈裟なアメリカンハンドシェイクを繰り返す。
「あ、わ、わ、わ、わ、わ、わ、わ、わ」
蒼は変な慌て方だ。だがどうだ。俺が手を握って、こんなにも大胆にボディタッチをしているのに反撃は繰り出される気配すらない。蒼は俺の場違いなテンションに慌てふためいているがしっかり正常である。この光景こそが回復の証だ。
「あ……ぃや――――!」
俺の手を振り解いて、蒼が後方に飛び退いた。いや、慌てているにしても大袈裟な反応だ。そんなにも驚くことではないだろう。俺自身もさすがに可笑しなテンションになってしまったとは思うが、そのような声を出されることはしていない。ましてや蒼爽架に似つかわしくない、そんな声を。
「はぁ……はぁ…………ん、り、律?」
「なんだよ」
「おま、……おまえ、今、わ、私のて……手に触れて……」
「だから?」
「ふわぁぁぁ……」
激しい稽古では顔色一つ変えなかった蒼が、今度は耳まで真っ赤にして直ぐに顔を伏してしまった。一瞬ちらりと見えたが、涙目になっていたような気もする。……蒼のそんな姿を見て俺は、どうやら自分はとんでもないことをしてしまったらしい、と自覚に至る。
……いや待て。なぜ俺がこのくらいのことで間違いを犯してしまったみたいな気分にならねばならんのか。これはどう考えても蒼の反応が可笑しい。
「……悪かったよ、蒼」
謝る必要があったのかは解らないが一応謝罪して立ち上がった。さすがにもう足腰の震えもない。歩いて帰れるくらいには体力も回復した。道場の壁まで逃げて行った蒼の前まで行き、まだ顔を伏したままの黒髪に言った。
「立てるか。もういいだろ、今日は帰ろう」
手を差し出してやる。すると蒼は俺の手をちらりと見て、
「いい。……大丈夫だ。自分で立てる。取り乱して、ごめん」
言うが早いか、何事もなかったみたいに蒼は立ち上がった。まだ顔は上気している。
「なんていうか、その……びっくりした」
「……」
「律に、手を握られたのは久しぶりだったからな――」
な――。
出かかった言葉を留める。何を言い出すんだこいつは。
潤んだ目で、上目遣いで――これではまるで女子と話しているみたいじゃないか。
「失礼な。私だって女子なんだぞ!」
「ああ、悪い」
「信じられないなら、その体で試してみるがいい!」
「あ」
なんだ。いつもの蒼じゃないか。
「……なんだ?」
「いいや、なんでも」
「何かある顔をしてるぞ、律。隠すな話せ」
「なんでもねえって」
「むー。……まあ、いい。大したことではないんだな」
「ああ。ほら、帰るぞ支度しろ」
「ん。了解した」
ともあれ、一件落着である。
九ノ瀬や遊季が言っていた通り、蒼の症状はそこまで危惧するものではなかったのかもしれない。まあ、懸案事項が減ったということ自体は素直に喜んでもいい筈だ。今日ばかりは自分によく頑張ったという評価を送ってやりたい。
帰り道、俺は浮かれ気味にそんなことを考えていた。
だがこのときはまだ気付いていない。というよりも気付くことができなかったのだ。こんなものが何の解決にもなっていないことに。むしろ、これが問題の始まりだったということになど。




