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「律って胸の大きな女の子がタイプなの?」

「そういう意味じゃねえよ」

 冗談で言っているのだろう、紗季の偏差値は俺たちの中では一番高いのだ。

 だが紗季の不潔なものを見るような目は本気にしか思えず、ああ、こいつはそういえば頭は根本的なところでどこかあほなのだったな、と俺は思い出していた。おまけになんだろう。唇を尖らせて自分の胸に手を押し当てている。しゅんとしているが別に紗季はスタイルが悪いわけではない。ただし比べる相手が悪いのだ。蒼爽架は体だけは無駄に女子女子しているのである。グラビアアイドルも驚くグラマーだ。

「で、どういうつもりなのか聞かせてもらっても、いいよね? もちろん」

「……まあ、簡単な話で単純な発想だよ」

 驚くほどの切り替えの早さはもう見飽きているのでいちいち驚かないが、それでも呆れはする。こいつは冗談と本気の境界線を反復横跳びするのが非常に上手い。

「蒼の男性恐怖症が治ったのは、俺が毎日ぼこぼこにされてたからだ。だから同じ治療法で今回も解決しようってだけの考えだよ」

「へえ、献身的だね律」

 何が献身的なものか。いや、確かにその通りなのだが。

 このままことを放置しておいて死人が出るなんてことになれば大問題だ。俺だって自分の幼馴染が殺人犯になるなんてことは断じて避けたい。だからこの身を削ってことの収束を図っているのだ。剣道という競技の上でなら防具もあるし、蒼はあれで一流の剣士だから峰打ちくらい心得ているだろうさ。あの状態でそんな手心を加えてくれるかというと賭けではあるが。

 紗季は得心した表情でいる。なのに紗季の眼は俺に無言で彼女の心中を伝えてきていた。

 ――それでいいの? 

 含みのある表情。

 本当にそれでいいのかと問いかけるような、そんな心中を投影した影が差す表情で紗季は微笑む。いつものことだ。俺が何かを考え付けば、こいつはもうとっくに答えに先回りしている。そしていつだって、俺はそんな紗季を超えることができない。紗季は、いつも正しすぎるくらいに正しいから。

「なにか言いたげだな、紗季」

「そうかな? まあ、ちょっと疑問に思っただけ」

「どういう意味だよ」

 ふぅん、と吐息するみたいな声。

「昔と同じようにすれば、また爽架の男性恐怖症が収まると思うの?」

 一度施した治療は重ねる度に効果が薄れていくとか、そういう医学的な話だろうか。

 紗季はふるふると首を左右に動かして否定する。

 自分が言いたいのはそんなことではない、と笑顔が訴えてくる。

「あのね、律。爽架は今、自分の症状を自覚してるの?」

「それは……」

 明確に否だ。

 蒼は俺へ暴行を加える度にその自覚がないことを態度ではっきりと示している。

「それに昔は怯えるだけで、暴力なんて振るわなかったよね」

「目に見えなかっただけだろ。拒絶の意思表示として多少のことはしていたさ」

 ただしそれは当時の蒼の力で行使される、暴力とは言い難いただの抵抗だ。目立たなかっただけで、結局あいつは男への恐怖から防衛本能として何らかの暴力を行使していたと言える。

「律はね、何か勘違いしてるんだよ」

「何の話だよ」

「律は、爽架のこと解ってないんだね。きっと律自身が思っているよりずっと」

 給水塔に凭れ掛かっていた紗季が立ち上がり、夕日の沈んでいくフェンスへと歩き出す。かしゃん、と軽い音がした。フェンスの網目に紗季が指をかけた音だ。紗季は顔だけ振り向かせる。けれどその表情は夕日が生み出す逆光に隠されてよくは伺えない。

 だから、その言葉だけが鮮明だった。

「爽架は律が思ってるよりずっと弱い女の子なんだよ」

 そう言って紗季は。

 俺が返答の言葉を検索している目の前で。

 呆気なく、

 儚く、

 散っていく木の葉のように、

 あるいは、

 舞い落ちる粉雪みたいに、

 ふわり、と。

 屋上のアスファルトに、溶けるように崩れ落ちた。

「紗季――!」

 膝から崩れて、ぱさり、と軽い音がする。体重を感じさせない軽過ぎる落下は、思わず危機感を麻痺させた。反射的に出た叫びに体がついてこない。すぐに駈け出そうにも脚がもたつく。寒気がした。背筋が冷たくて鳥肌が立っている。

 わずかに体が気持ちに遅れる。

 跪いている紗季のもとに駆け寄って肩に触れると一瞬、掌が凍りつくほどの冷たさを感じた。だがそれはまやかしだ。すぐに服越しの体温が伝わってくる。顔を上げさせると白い手が俺の手首をつかんだ。はっとして紗季の顔を見ると、そこにはいつも通りの笑顔。嫌になるくらい鮮やかで晴れやかな笑顔が舌を出す。

「あっはは……。立ち眩み。ごめんね、びっくりさせちゃって」

「立ち眩みって、おまえ」

 そんな平凡なものなのだろうか、今のが。

 確かに言われてみれば俺が大袈裟だったのかもしれない。紗季は何でもなかったみたいに俺の助けを振りほどいて立ち上がるし、見た目には何一つ不具合は見当たらない。紗季の言うとおりただの立ち眩みだったのだろう、無理矢理に納得させられた。

「駄目だなー、ずっと座ってるのは。運動不足だよ運動不足。いいなあ、律は。わたしも剣道したいー」

 わがままを捏ねながら流麗にステップして、いつもの定位置に戻る。すとん、と今度は重みを持った動作で腰を落とした。こいつは給水塔の守護霊なのだ。そういわれても違和感がなくなってくるくらい、もうその姿が様になってきた気がする。しかしながら運動不足とは……その歳でいうことか。

 びっ、と呆れ顔であろう俺へと紗季の指が刺される。

 得意げに笑って、それは横から差す夕日にほんのりと赤く色付けされて一枚の絵画みたいに思えた。

「だからわたしの分も頑張るようにっ。しっかり爽架の相手をして上げてね」

 じゃあ、今日はここまで、と威勢よく退散を命じられる。

 下校時間まではまだ時間が残っているが、俺にはこの後蒼との約定が残されているのだ。ぎりぎりまでここにいるわけにはいかない。それは初めに紗季にも話している。あまり待たせるのもよくないし、何より自分の決心が鈍ってしまいそうだ。紗季に従って早々に屋上を退散しよう。

 じゃあな、と言って、また明日、と続ける。

 そんなやり取りはいつものことだ。繰り返す度に、子供のころから習慣づけされている。

 だからそれ以上の言葉は何もなく、後はただ明日に備えて帰るだけ。そんな風に十年間過ごしてきた。いつものように立ち去ろうとする俺の背中が最後に紗季の言葉を聞く。

「頑張ってね、律」

 遠い響きが落日に消えた。

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