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当然のことであるが妙な勘違いを招かないように先に断っておこう。
先の遊季の発言により、俺と九ノ瀬との間にあった友情には亀裂が入り、一人の女子を巡り合って奮闘する熱い友情と青春が繰り広げられるラブコメ的展開は、残念ながら発生しない。理由としてはいくつもあるが、主として、そもそも九ノ瀬が紗季を好きだとしても俺には関係がないのだ。そもそも好きで当然だろう。幼馴染なのだから。俺だって紗季のことは好きだし、紗季だって俺や九ノ瀬が好きだろう。……いやすまん。これはさすがに馬鹿げたモノローグだ。そういう意味の好きではないということは解っている。この場合のそれは恋愛感情に由来する方で間違いない。
けれどだからこそ、俺には関係がないと断じておこう。
そしてもうひとつ。
俺は遊季の言葉を信じきることが出来ていない。
あの九ノ瀬がずっと一人の女に執心したまま今まで一途にその恋慕を貫いてきたなどと。神や仏が信じても俺は信じない。中学時代には『ハチマタの大蛇』や『現代の在原業平』や『浮気源氏』などという称号さえ保有していたのだ。
などということをぐだぐだと考えつつ月曜日。俺は昼休みになるや弁当を竹刀にぶら下げて、嬉々とこちらに駆け寄ってくる蒼から逃れるため、神聖不可侵の絶対領域、もとい生徒会室へと馳せ参じていた。命の危険を感じて教室を退散し、蒼の脅威から完全に離脱できる程度の距離を稼ぐまでは心なし、駆け足になっていたらしい。どうにも息が上がり気味だ。
あの様子だと蒼は、「律、昼食の時間だ。少し汗を流したい。食後の運動がてら稽古に付き合ってくれ」とか事実上の死刑宣告を持ち出してくるに違いない。普段でも嫌だが、現状ではもっと嫌だ。竹刀なんてものを剣道全国区の女に渡せばそれは拳銃も同じだ。人一人の命を奪って余りある。
とはいえ。
遅かれ早かれ俺は、その脅威に立ち向かわなければならないのだがな。
今はまだ心の準備が出来ていない。せめて安穏な昼食を済まさせてほしい。これが俺の最後の昼餉になるやも知れんのだ。
と、溜息で視界を白く濁らせ、扉の前で立ち止まる。『生徒会室』と書かれた表札をわざわざ確認するまでもない。実はここ半年でもう体がルートと到達点を記憶していると言う事実に呆れて嘆息する自分がいた。
ノックは要らない。
ここにいるであろう相手に対して何を憚ることがあるだろう。ここは既に生徒会という組織が事務を行う場所ではなく、九ノ瀬渚の私有空間なのだ。……ならばむしろノックは必要なのだろうか、と考えている間にノブを捻る。軽い扉を引いて、俺はさっきまでの無駄な思案を断ち切りながらあっさりと入室した。
一歩目で立ち止まる。
体の半分はまだ部屋の外だ。俺はノブに手をかけたまま静止する。
室内には二人の人間がいた。この場合、まだ完全に入室していない俺は数に含まないとして、いて当然の生徒会長九ノ瀬渚は言うに及ばずもう一人。見たこともない女子がそこにいた。
「ひっ」
と、体を跳ね上らせる少女。その時にブレザーの校章がこちらを向き、どうやら下級生であるらしいことが解った。その一年生女子は俺の入室に伴った俺の視線に気付くや、まるで浮気現場でも目撃されたかのような怯えを含んだ表情になり、おまけに涙目になってそんな声を上げるのだ。
問おう。
――俺が何をした?
「ご、ごめんなさいすいませんッ!」
額を会議用の長い机にぶつけかねない勢いで腰を折り曲げ、なぜか宛先不明の謝辞を投げ去り、後は一目散に退散していく。しかし扉の位置で棒立ちしている俺は自然と彼女の行く先を阻む結果となり、ろくに前方を見ないまま飛び出した少女の体は見事に俺へタックルを決めた。
「きゃああああああああああああ!」
そしてあろうことか絶叫とともに俺を殴り飛ばし、今度は謝罪もなく廊下を走り去って行ったのだった。
さっき二言謝ったのはこのことへの先払いだったのだろうか。いいやそんなことはどうだっていい。俺は再三神に問い質す。一体全体俺が何をした。昼休みに全く知らない後輩女子から顔面に右ストレートを見舞われるような罪科を背負った覚えはないぞ。
「九ノ瀬おまえ……」
頬を抑えながら立ち上がる。
この状況を生み出した諸悪の根源はへらへらと苦笑していた。そうだ。九ノ瀬の表情は『へらへらと』と『苦笑』という言葉が併用できる極稀なものであり、こんな人類は世界中探してもそう見つからないだろう。
俺が殴られる理由に思い当たることはなくとも、この状況を作り出した犯人が九ノ瀬で、俺が扉を開くまでのことの経緯にも大体は察しが付く。だからこその表情だ。九ノ瀬はネクタイの緩みと襟元の乱れを正しながら軽薄な薄ら笑いで近づいてくる。
「いやあ、悪い律。俺の私情に巻き込んじまって」
立てるか? と差し出してくる手を払いのける。
「生徒会長様が真昼間から学園内で逢瀬とはな」
「誤解だよ律。誤解なんだって」
「何が誤解なものか」
「確かにあの子には悪いことをしたと思う。女に涙を流させたんだから俺は罪な男だ」
「よし解った」
「解ってくれたか」
「一度死んでこい」
こんなのはいつものことだ。九ノ瀬が見知らぬ女子を泣かせているのも、そのとばっちりが俺に向かってくるのも全ては判で押されたみたいにもう定例化している。
「それにしても多いな……もう何人目だよ今週だけで」
「そうだな、ざっと十人は超えてる」
「その内おまえ……この学園の女子全員を敵に回すぞ」
「だとしても、世界中の女性は人口の半分。まだ三十億近い女は俺の味方だ」
世の中の女は全て自分の味方であるとのたまう九ノ瀬である。
「で、なんだ。また浮気がばれたのか」
吐き捨てるように悪辣に言ってやる。九ノ瀬の痴情の縺れになど興味はないが、事情を知らないのなら糾弾のしようがない。詳細な情報の基でこの男を罰しなくては被害者が報われない。無論、俺は公明正大な裁判官ではなく、ただ単に九ノ瀬の性根が気に入らないから罵倒したいだけだが。
言いながら手近な椅子を引いて腰を下ろす。昼飯の肴にするにはどうかと思う話題でもあるが、それでも止める気はなかった。弁当を開きながら視線だけで話を九ノ瀬に促す。
「違う違う、そんなんじゃない」
「だったら何だ。暇潰しにさっきの子を口説いてみたら、なぜか泣かせてしまったなんてオチか?」
「それも違う。むしろ逆だ」
「て、ことはあれか」
さっきの子が九ノ瀬に告白して、見事に玉砕。俺はその後に発生した何とも言えない気まずい空気が漂う中扉を開けてしまい、正に最悪の場面に遭遇してしまったわけか。ふう。癪に障るがどうにも状況としては筋が通っているし納得できる。気に食わないが俺が殴られたことにもある種正当性さえ沸いてくるではないか。だが、と俺はすっくと立ち上がる。
何事かと呆けた顔で俺を見上げる九ノ瀬。その端正な顔目掛けて俺は容赦なく平手打ちを見舞った。
「ぶッ!」
口の中にあった空気が噴き出す音とともに九ノ瀬が椅子から転げ落ちる。
相変わらずリアクションの大きい奴だ。なにしやがる、と反論してくる九ノ瀬に俺は怯まない。拳を固めて傲然と言い放った。
「人の気持ちを弄ぶんじゃねえ!」
「俺の話聞いてた!?」
「うるせえ、女の告白の一つや二つ、受け止められなくて生徒会長が務まるか」
「ちょ、待て律、おまえ言ってることが支離滅裂……てかそのキャラは俺のだろ」
本当は話の全容があまりに面白くなかったが為の八つ当たりみたいなものだった。
少しは気も晴れたのでよしとする。
さて、と俺は仕切り直すように昼食を開始する。未だ床に尻をつけている九ノ瀬は意識の外に追いやった。と、程よく食事に集中し始めた俺であるが、しかし喧騒がすぐさま邪魔をする。上履きがリノリウムを打ち鳴らす音と男たちの声だ。またあれか。定例の『双色姉弟ファンクラブ』の連中か。
「なあ九ノ瀬」
俺は椅子に手をかけて立ち上がろうとしている九ノ瀬に呼びかける。
ふと気になったのだがあのファンクラブは学校側としては公認なのだろうか。こないだの学外活動はご近所で評判になってもおかしくはない。その評判は決していいものではなく、学園への苦情となりえる可能性を孕んでもいるのだ。そんないかがわしい上に危険な団体を放置して見過ごすなど、正気の沙汰とは思えないのだが。
言うと九ノ瀬は一変して何やら真面目な表情に様変わりする。九ノ瀬渚が生徒会長モードにスイッチしたということだろう。纏う空気が大きく変わった。あくまでも肌で感じる雰囲気の話なので見た目に変化はないのだが。けれどこうして真剣な形で九ノ瀬と向き合うと、やはりこいつはルックス通りの迫力が滲み出る。モデルみたいな顔立ちと長身は生徒会長という肩書を持って威圧感に変わるのだ。
「近い内に解体しないといけないとは思ってるんだが、なかなかな。先生方からも処分の要請が出てるのは確かだ」
何せ平気で廊下を全力疾走するような奴らだ。廊下は走らないという原則を完全に無視している。
そういう問題ではないが、あそこまで来るとそれだけで騒音のオーケストラを引き起こすレベルだ。教師側からクレームが来るのも妥当だ。もっと別の倫理的な理由が大きいのだろうが。しかし生徒間の問題だとは言っても処分を生徒会に丸投げとは。それほど信頼されているのか、あるいは学園側の怠慢か。何にしたって学園側が非干渉的過ぎると思う。
「まあな。そろそろ入試の準備とかで忙しいんだよ教務側は」
「生徒会だって同じだろ。どうせまた大量の雑用が待ってるんだから」
「その時は頼むぜ律」
「任せろ。当然お断りだ」
「文法がおかしい!」
九ノ瀬が就任して以来こっち、俺は何だかんだで生徒会のために右往左往させられている。もう庶務程度の肩書は貰ってもいいとさえ思っているくらいだ。いらないけど。だが履歴書に生徒会活動の評価が内申として加算されるならばその点数は九ノ瀬の三倍は頂きたいと思っている。
閑話休題。
件のファンクラブが頭角を現し始めたのは、思えばいつ頃からだろう。俺の記憶では以前の昼休みに遊季が生徒会室に飛び込んできた件と先日の街中で起きたあの暴走の二件くらいしか大々的な活動はなかったと思う。ずいぶんと前から噂の類では『双色遊季ファンクラブ』の存在は囁かれていた。といってもそれは俺を含むその存在を知らない生徒にしてみれば都市伝説みたいなものだ。この間のことで実在を認めざるを得なかったとはいえ、そんなことがなければ俺だって信じられない。存在していたからには何かしらの活動はしていたのだろうが、それも人目にはつかないもので、連中はあくまでも秘密結社みたいなものだったはずだ。
それが一躍生徒会にマークされるような集団にランクアップしたのは、奴らの心中にどういった変化があったというのだろう。頭目とか教祖とかそんな感じの人物が入れ替わって過激派にでもなったのだろうかね。
「なにを」
馬鹿馬鹿しい。
今までだって遊季に告白するキチガイな男子はちらほらいたのだ。紗季に振られた哀れな男は両手の指では足りない。ならばせめて叶わぬ思いならば、それを共有して祀り上げようというのがファンクラブだ。数が増えて過激化してきたのだから、社会的粛清を受けなくてはならない、とこれはたったそれだけの話だ。
なのになんだろうこの不思議な感覚は。
生徒会の仕事が一つ増えただけである。労が増すのは九ノ瀬であって俺ではない。押し付けられる未来を予見しているにしたってそんなものは当然お断りだ。だが、そんなことではない。問題はそんな浅いところではなく、もっと根底に根付いた何か――心の中で予感ではなく、これは俺がしなければならないことなのだと、使命感のような何かが叫んでいる。
実は似たような感覚を俺は知っていた。
それは周囲が全く気にも留めていない問題であるにも関わらず、俺だけが躍起になっていることで――つまるところ蒼の件と同じなのだ。何故だか俺が何とかしなければならないと、もはや強迫観念にも似た心理的な力が働いているとしか言いようがない。
……だからといってすぐにどうこうする気はないのだが。
何せ今はもう一方で手がいっぱいなのだ。俺は明日から日々を生きるのに必死にならなくてはならない。
そんなことを考える俺の心境を知ってか知らずか、九ノ瀬は補足説明を加える。ぴんと立てた人差し指を天井に円を描くようにくるくる回し始めている。トンボの目を回す動作を真上に向けているみたいで間抜けだ。旋回する自身の指先を目で追いながら九ノ瀬は言う。
「例のファンクラブなんだがな、実は派閥が二つあるらしいんだよ」
派閥化までしてるのか。で、内部抗争でもしてるってのか。
冗談で言ってみると九ノ瀬は「ご名答」と行く当てを探していた指先を俺に放った。
「『双色紗季派』と『双色遊季派』だ。なんでも、二つの勢力はいがみ合いの冷戦状態で、まさに一触即発の緊張状態にあるらしい」
「さすがにそれは笑えないな。ギャグにしたって面白くない」
「面白くないから問題になってるんだよ。それこそ生徒会の執行で連中を解体しなけりゃならんほどに」
本当に。
馬鹿ばっかりだ。俺は一先ず降りさせてもらうぜ。
いずれ何らかの形で解体に関わることはあったとしても、今まさしく発生している冷戦に自ら関与するつもりはない。低温火傷なんてしたくないからな。現状では別の事柄を優先させて貰うとする。すると九ノ瀬はなんだよつめてーなー、とあからさまに不服を申し立てたい様子だ。しかし耳を貸してなどやらん。昼飯を済ませるという目的は達したし、昼休みも残りわずかだ。教室に戻ろう。俺はパイプ椅子から腰を上げた。
部屋を出ようと扉に手をかける俺に、それでも九ノ瀬は性懲りもなく話の続きを語ってくる。それはもう悲痛にさえ思えて、俺はならばせめて聞くだけ聞いてやろうと脚を止めて耳を傾けた。が、振り返るまではしない。どうせ面白がってにやけ顔している九ノ瀬を見て、決意を新たに踵を返す選択を選ぶに違いないからだ。
「例の派閥の、それぞれの集会場所までは掴んでるんだ。なあ律――」
「断る」
「いや、律」
「断る断る」
「最後まで聞」
「断る。もう一度言うぞ最後だよく聞け、断る」
「……」
今度は振り向いてやった。嘆息している九ノ瀬が目に浮かんだからだ。
案の定うなだれた二枚目がじと目で俺を睨んでいる。
そんな生徒会長にかける言葉はなかったが、まあ、こんな風にあしらうのも昼食の場所を提供してくれた相手には少々礼を欠きすぎると思いせめてもの謝辞を述べた。
「すまんな九ノ瀬。俺も放課後は忙しいんだよ」
右手の拳と左手の拳を縦に重ねて竹を作る。それを頭の上に構えて振り下ろす動作と、
「今日から俺は剣道部だ。蒼爽架の胸を借りてくるよ」
そんな捨て台詞を吐いた。




