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「わたしも髪を短くしたら、よく男の子と間違えられてたよ」

「そんな頻繁にショートカットにしてないだろおまえは」

 出会った当初はまだここまで髪が長くなかったが、紗季が意図してショートカット頭にしたことはなかったと思う。あまりよく覚えてはいないが、その頃の紗季は確かに美少年然としていた。小学校の低学年では、中性的で整った顔立ちは男女のどちらとも見えるから、紗季や遊季なら服装次第でいくらでも性別は誤魔化せただろう。

 そういえば紗季はよく遊季に自分の服を着せて遊んでいたことがある。遊季の性格があんな風になったのは一種紗季が原因でもあるのだ。それを拒否しなかった遊季のそもそもの性格というのもあるが。

「でも遊季はわたしより人気あるよね。わたしはそんなに大勢の男の子に言い寄られたことなんてないよー。あはは」

 もしかして嫉妬しているのだろうか。

 原因にならなんとなく思い至る。なんというか、そう、遊季の方が紗季に比べて等身大なのだ。紗季は――こんなことは間違っても本人を前に口にできないが――綺麗過ぎる。どこか別次元の相手に思えて手を伸ばす気にならないのだ。神聖にして不可侵な存在。フィルターを一枚隔てたくらいが丁度いい。姉がそんな雰囲気を伴っているからこそ余計に、遊季に男の目が集まるのだろう。勿論、女からの人気も計り知れないと付け加えておこう。

 膝で頬杖をつきながらそんな事を考えて紗季を眺めていた俺の心中を、こいつはいとも簡単に見透かしたようにくすくすと笑った。

「律のえっちー」

「……訳解らん」

 正確には読み取られていなかったらしい。

「んなことよりおまえ、絵の方はどうなんだ? まだ全然進んでないんじゃないのか」

「そんなことないです。結構順調に進んでるんだから」

 むぅ、と小さく頬を膨らせる。

 紗季はぎゅっとスケッチブックを抱いて胸に引き寄せた。

 訝しむ俺の視線が突き刺さるのを感じたのか、紗季は余計に表情の不機嫌指数を上乗せする。

「嘘じゃないよ! なに、律はわたしが信用できないの?」

「あー、悪い悪い。そう怒るなよ」

「怒ってないよ!」

 がー、と両手を挙げて今にも噛み付いてきそうだ。遊季といい紗季といい。姉弟揃ってこんな風に歳不相応な挙動を交えてくるのは反則だと思う。

 宥めながらもまだ内心では自分の言葉を信用しきっていない俺に、紗季は不満を隠さない。よーし、とか言って立ち上がる。左手でスカートを抑えながら、左手ではスケッチブックを俺に突きつけて、

「そんなに信用ならないなら、特別に見せて上げる」

 そう言ってはらり、と表紙を捲った。

「……」

 言葉が出なかったのは単純に驚いたからだ。

 前回見た時はまるで白紙だったスケッチブックに、紗季の背に広がる街の景色が鉛筆の線で写されていた。さらには人物のシルエットまで描かれているのだ。色をつける気があるのかどうかは解らないが、かなりのレベルで完成に近い代物に仕上がっているのには驚いた。

 が、同時に不思議もある。

 実際にここにきたのは蒼だけだ。だから蒼の分のスペースが背景に確保されているのは解る。だが他の連中はまだここに来てはいない。想像だけで描くなんてことはあまりしないのが紗季だと思っていたのだが。

「どうだ。恐れ入ったでしょ」

「悪かった、俺の負けだよ」

 そんな俺が考えていた一切を排除するように紗季は得意げに胸を反らす。そんなことをされると、もうこっちとしては納得してしまうしかない。負けを認めた俺にますます紗季は機嫌をよくする。鼻歌を歌いながら小躍りしそうな勢いだ。

「時に律、今日は律に訊きたいことがあるんだよ」

「なんなりとどうぞ」

 今更そんな風に改まって訊かれることなどない仲だと思うが、あくまで紗季は俺に拒否権を与えた上で何かを質問しようとしてくる。何を訊きたいのかは知らないが、答えられないようなことは実際に数えるほどしかない。

 促した俺に紗季は、うん、と頷いた。


「律は、何かひとつ願い事が叶うとしたら、どんな願いを叶える?」

 それは、御伽噺の本から抜粋したような問いだった。


 果たして俺は呆気にとられた訳でも虚を衝かれたという訳でもないのにそんな風に呆然とする。七夕やクリスマス前の子供でもないのだから、そんな『もしも』や『たられば』の話をここでする必要はないだろう。紗季の意図がまったく読めない俺は多少の困惑を覚えた。

 しかし意図が解らないから答えない、というのもまた違う。

 紗季は平常通りの微笑を絶やさないし、こちらをからかっているようでも裏に何かを抱えている様子もない。他愛もない世間話をする程度の気分で本当に何も考えないで訊いているのだろう。俺は言った。

「世界平和とか」

「あは、律らしいね」

 あはは、と紗季は笑う。笑って、

「この偽善者」

「……おまえさ、俺のことをどうしたいわけ?」

 鼻っ面に人差し指を向けられて、そんな風に罵倒された。

 偽善者、と。

 そんなことは百も承知だ。

「だってさ、律の正義は正義じゃないもん。正義は悪を罰するもの、律は悪を許しちゃうでしょ?」

「濡れ衣だ」

「律は人の痛みを買って、その人を救済しようとするけど、それは優しさであって正義じゃない。喜びも悲しみも、快楽も痛みも本来人が経験しなくちゃいけないことなのに、そのマイナスだけを奪ってしまうのは、そうなってしまう人を見て自分が傷つくのが怖いだけ。だあれも傷つけたくない、っていうのはだから、優しい思いでも正しくはないんだよ」

「何を言い出すんだおまえは急に」

 もう一度紗季に極上の笑顔が咲いた。

「戒めだよ戒め、律が今後迷ってしまわないように」

「進路の話か?」

「そんなこともあるよねー」

 俺と同い年のはずなのに、紗季はいかにも他人事です、と言うように受け流す。

 自分には何の関係もないって態度だった。

「ちなみに律はどんな風に将来のことを考えてるの?」

「別に、そんな先のことは考えてない。とりあえず進学して、その後はまたその時だ」

「ふうん。律らしいね」

「おまえはどうなんだよ紗季」

「何にも考えてないよ」

 即答。

「……いいよな、成績優秀なおまえは。おまけに芸大やら何やらの推薦も取り放題だろ」

 そんな紗季はきっと進路に悩むことなんてこの先ずっと無いような気がする。

 中学のときもそうだ。偏差値でも絵の方でも進学先は引く手数多だったが、こいつは気紛れな猫のように、あそこからいい匂いがする、程度の理由で進路を決めた。この学校の屋上が、たまたま街を一望できるから、それだけの理由で進学を決めたのだ。

 飄々としてはいるが、紗季の人徳は並ではない。

 街を歩けば当たり前のようにすれ違う人が挨拶してくるし、このご時勢に八百屋の店主は野菜の盛り合わせをくれるし、子供はじゃれてくるし、おばさんは意味なくいい噂を井戸端会議で言い触らす。街全体が双色紗季という人間を好いていた。

 閑話休題。

 皮肉に言った俺を紗季は笑いながら、

「そんなことないよ」

 と謙遜して見せ、

「わたしはみんなが幸せなら何でもいいから、自分のことはもう考えてないかな」

「悟りを開いた奴が言うことだなそいつは」

「言い過ぎだよ律。そんないい物は開いてないよ」

 いい物かどうかは知らないが、なんだろう、何か別のものは開いたのだろうか。

 らしいと言えばらしいのは、むしろ紗季の答えだ。

 自分のことよりも他人のことを考えるのは俺たちの中では紗季の専売特許だ。幼馴染みなんていう創作物的な関係が十年近くも続いているのは紗季がいたからとさえ言える。紗季は正しすぎる。その上で、こいつは正しく他者を救済する。

 俺や九ノ瀬や蒼、弟の遊季でさえそれは変わらない。

 例を出すならば蒼が解りやすいだろう。あの極端な男性恐怖症が克服されたのも紗季のおかげだ。

 それでも俺たちが紗季の隣に立っているのは偶然だろう。なぜなら紗季に救われたのはおそらく俺たちだけではないからだ。この街の誰もが紗季の世話になった過去がある。だからこその紗季の人徳なのだ。そしてだからこそ、俺たちの幼馴染みという関係は幸運だと言えた。

「褒めちぎるよね律ってば。煽てても何も出ないよ?」

「人の心を読むな」

「口に出てたよ」

「嘘だろ!?」

 自分でも顔が蒸発するくらい熱くなっているのが解った。夕陽に関係なく顔が真っ赤になっていることだろう。なんてことだ。今すぐにあのフェンスを飛び越えてグランドにダイブしたい。それくらいに恥ずかしい。

「赤くなってる」

 語尾に音符マークがついて然るべき語調と表情で馬鹿にしてくる。

 本当、こういうところは姉弟そっくりだ。

「別に声にはなってなかったよ。でも律の顔はきっとそんなこと考えてるんだろうなー、て」

「謀ったのか……おまえ……!」

「いいじゃん、減るものじゃないんだから」

 色々と減るんだよ、俺の中で。

 こんな風に鎌をかけられることもしばしば。

 蒸発しそうな顔をさらに熱くするのは、そんな俺から一分も視線を外そうとしない紗季の笑顔で、気恥ずかしさやみっともなさなんかが混ざり合って俺が先に顔を逸らした。耳は塞いでいないので声は依然として聞こえてくる。おまえちょっと笑い過ぎ。

「さっきのお返しだよー」

「な、おま、そんなこと……!」

 子供かこいつは! 

 とはいえその子供染みた一面を持つ幼馴染みに俺は手も足も出ないのだった。これが十年以上も続く力関係である。俺はどう足掻いても紗季には敵わないのでした。そんな関係に呆れこそすれど嫌気は差さない。こうして紗季にからかわれるのもとっくに日課になっているからだろうか。

 俺はいつまでも笑いを絶やさない紗季を止めるべく、相変わらず目を逸らしたまま話題を振る。

「おまえはどうなんだよ」

「なにが?」

「願いがどうって話だよ」

「ああ、それね。律も古い話を持ち出したね」

 古いってついさっきのことじゃないのか。

 紗季は先刻までの笑いをすっかりと忘れて真剣な顔で思案を開始する。横目で流し見ると、人差し指を唇に当てて斜め上を向く整った顔を発見した。そんなに真面目に考えることでもないだろうに。質問した俺がそろそろ退屈を感じ始めた頃になってようやく髪の長い幼馴染みは口を開いた。テンプレートな笑顔を張り付けたままで、

「わたしはね、みんなの幸せかなー」

「散々考えた挙句がそれかよ」

 いい人の代名詞みたいな回答が提出された。

 つい先程も似たようなことを言っていたが、こいつは筋金入りのお人好しなのだ。今更そんなことを再確認するまでもないが。

「だってさ、わたしは今更自分に望むものなんて何もないから」

 才色兼備な双色紗季様なら、確かにこれ以上何かを望むようなことはないだろうし、それは周囲から見れば贅沢の部類にさえ入ると俺は思う。しかしだ、しかしながらそれは他人から見た客観だ。どれだけ恵まれた環境、恵まれた才能があっても、人間の欲は尽きることがない。紗季にだって願いの一つや二つがあっても不思議ではないはずだ。いや、ないと不自然なくらいだろう。

 だから、紗季は等身大ではないというのはそういうことだ。

 きっと紗季は、浮かべている笑顔に偽りなんて一切なく、その上で自分自身の為に望むことなんてない、と言っているのだろう。お人好しもここまでくると少し異常だ。

 溜息を吐く。

「で、なんでそんな話を振ってきたんだよ」

「うーん。別に大した理由はないかな。聞いてみたかっただけ」

「おまえなあ……」

 本気で生産性のないことを平気でやる奴である。

 改めてもう一度、俺は肺に溜まった息を吐き出した。何の意味もない問答に時間を費やしてしまったことに後悔ではないがどこか、自分に対する呆れみたいな感情が浮かぶ。こんなことをしているからいつまで経っても――そういえば忘れていたが絵の方は進んでいるのだったか。

 と、そこまで考えて俺の視界は暗くなり始める空を捉えた。

 夕陽の赤色は追いやられるように地平線へ、押し寄せてくる夜の藍色が、そしてそのさらに向こうからは闇色が迫ってきている。それは紗季の求めている空ではなく、つまりどういうことかといえば今日もまた、紗季の筆が動くところを見ることなく活動が終了したということだった。

 流れる雲間に星の明かりが点々と輝く。夜を意識すると肌寒さは思ったよりも厳しく肌を震わせた。

「毎回訊くけどさ、おまえ」

「あるよ」

 質問するより先に答えが返ってきた。そりゃあ毎回同じことを訊いているのだからそろそろそういう先制攻撃が来るかもとは思っていたが。しかし返事だけははっきりとしているが、紗季の行動と発言が一致していない。とはいえ結果が釣り合っているのもまた確かなのだ。知らない間に絵は完成に近づいているのだから。

 紗季はにこやかにスケッチブックを抱くと、フェンスの方へ歩いていく。網に指をかけると小さくがしゃん、と音がした。冬の冷たく張った空気が鋭敏にその音を伝播する。

「だから律も頑張ってね」

「頑張るって何を」

「頑張って協力してね」

「だから何を」

 紗季はそれ以上を言わなかった。

 それ以上を言わずにただ黙ってこっちを見ていた。

 俺はその様子に何故だろう、唐突に別の光景を重ねてしまう。フェンスの前に立って、雪の降る街を見下ろす、黒髪の長い少女の後ろ姿。星明りは弱弱しく、街の明かりでさえ遠く、世界を照らす輝きは彼女だけだとさえ感じた。

 ――それは、なんだろう。

 冷たく、熱い吐息も白く蒸発して冷え込む夜の屋上を、白昼夢を見るような心地で思い出した。

「律」

 紗季の声が俺の意識を引き戻す。

 いつの間にか完全に日は暮れて、紗季の後ろに広がる街はイルミネーションのように煌めいていた。

「また明日ね」

 そう言った彼女を見て、また、あれが過った。

 ――――忘れないで。


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