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ヴァレンタイン・ギフト  作者: まきの・えり


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 好きにならずにいられない   CAN'T HELP FALLING IN LOVE

 好きにならずにいられない   CAN'T HELP FALLING IN LOVE

 部屋の真ん中に座って瞑想するのが習慣になっていた。

 足を組み、てのひらを上に。静かに目を閉じて、呼吸を整える。

 様々な考えが、想念が、風景のように通り過ぎていく。

 次第に心がなぎ、何もない空白な時間が流れていく。

 自分が空になり、無になっていく。

 時間が無限に延びていき、時間と空間と自分自身の境界がおぼろになる。

 私は、大気であり、山であり、緑の草であり、地をはう虫だった。

 私は、宇宙全体であり、目に見えない神経細胞の一つでもあった。


 その時、何かが形をとろうとしているのが、わかった。

 一人の男が、中空に浮かんでいる。

 神なのか、仏なのか。

 天使なのか悪魔なのか。

 よく顔を見ようという雑念が生じたとたん、私は、自分の部屋の自分自身に戻っていた。

 長いようで短かった不幸な結婚生活に終止符を打って、私は生まれて初めての一人暮らしをしているのだった。

 私は、夫からボロ布のように捨てられた女だった。

 子供もなく、帰るべき家もなく、私は、僅かばかりの慰謝料で、アパートを借り、身の周りのものを整え、これからどうするあてもなく、飢えて死ぬ日を待っているのだった。

 私は臆病で依存性が強く、こんな淋しい生活の中で、自分を見失いかけているのだ。

 わざわざ部屋の真ん中に座って瞑想をしなくても、生活そのものが瞑想のようなものだった。

 わずかばかりの食料品を買うのに、まるで宇宙空間を漂っているような心持ちで市場やスーパーを歩いている。

 私が私ではないような気分が、ずっとつきまとっていた。

 私は、一生を共にしようとした人間から、人格のすべてを否定されたのだ。

 私のすることなすこと、容姿から性格、表情の一つ一つ、箸の上げ下ろしから立居振舞まで、私の何もかもが気にいらないと言われたのだった。

 私以外に好きな女性ができたとたんに、私は、相手にとってゴミ以下の人間になったのだった。そして、私自身も、そう思い込んでしまった。

 全面的に信頼していた人に、全身で寄り掛かっていた人に、ゴミみたいに扱われたとたん、自分でもそうだと確信してしまった。

 私は、汚れたボロ布で、捨てるしかないゴミなのだった。

 生きていても仕方のないクズみたいな人間なのだ。

 だから、お金が底をついて、瞑想しながら飢えて死ぬ日を、ただジッと待っているのだった。

 神様でも仏様でもいい、悪魔だって宇宙人だっていい、誰かが私を迎えにきてくれるのを、ただただ待っているのだ。

 何をすることも思い浮かばず、ひたすら『その時』を待っているのだった。



 チクショウ、とオレは思った。

「好きよ」と言われた時、オレは本当に嬉しかった。

 これまでの人生で一度も、誰かから本当に愛されたことのなかったオレだから、やっとオレにも、人生の春がめぐってきたのだと思ったものだ。

 それが何だ。

「他に好きな人ができたの」

 ふざけるな、バカヤロウ!

 オレを何だと思ってるんだ。

 クリスマスだの誕生日だのと散々オレを振り回しておいて。

 そんなことなら、最初から好きになんかなるな。

 何を思っても、虚しいばかりだった。

 オレは、一体何なんだ。

 オレは、何のために生まれてきたんだ。

 オレが生きている理由なんて、どこにもないじゃないか。

 ええい、死んでやる!

 とオレは思った。

 死んで、世界中のヤツラに復讐してやる。

 オレの方を一度も見なかった親父や、オレそのものなんか一度も愛したことのなかったおふくろや、オレを虐待した姉や、オレを邪魔者扱いにした教師達や、オレをバカにしたオレに出会ったすべてのヤツラに復讐してやる。

 オレが死んだら、後悔しろ。

 後悔しないヤツのところには、化けて出てやるから覚えておけ。

 そして、オレは、半分冗談みたいなつもりで、マンションの5階から飛び下りた。

 オレは飛べるんだぞ!

 と空中を落下しながら、オレは世界中に向かって、アカンベエをしてやった。

 見ろ、オレは飛べるんだ。

 覚えているのは、コンクリートの地面を割って生えていた一本の草の姿だった。



 ある日、とうとう、お金が底をついたのがわかった。

 家賃はもう滞納したままだったし、お米も無くなってしまった。

 商店街のおにぎり屋さんで、おにぎりを買った100円玉が、私に残された最後のお金だった。

 結婚相手にだけ頼って生活していた私には、困った時に相談する友達も、帰っていくべき家も、何も無かった。

 両手でおにぎりを握り締めて、一粒一粒を味わいながら食べた。

 多分、これが生きているうちで食べる最後の食事だと思いながら。

 なぜか、目の端からは涙が流れてきた。

 本当においしいおにぎりで、握った人の顔まで思い浮かぶような気がした。

 そうだ。死ぬまでの間、このおにぎり屋さんのそばを通ってみよう。

 その優しいおばさんかお姉さんの顔を、毎日眺めてみよう。

 最後の食事をすませた後、瞑想の中の男の人の姿は、ますます鮮明になっていった。

 もうハッキリ見ようとは思わなかった。

 ただ浮かんでいる姿を眺めているだけだ。

 不思議なことに、それは、私の頼りきっていた元の夫ではなく、まるで見知らぬ男性だった。

 多分、神様の化身なのだ、と私は思った。

 私を迎えに来てくれる人。

 私が行くまで待っていてくれる人。

 朝と昼と夜の瞑想の合間に、私は、おにぎり屋さんのそばを通った。

 数人の女性が店先と店の中にいて、忙しそうに立ち働いている。

 皆、優しそうな人ばかりだった。

 道行く人達も、皆優しい幸せな人達に思えた。

 どの店のどの人も、皆一様に優しい姿をしている。

 私は、もう、半分あの世に行きかけているのかもしれなかった。



 オレは、まだ飛んでいた。

 コイツは不思議だ。

 オレは、もう地面に激突して死んでいるんだと思い込んでいた。

 とすると、コレはあの世ってもんかもしれない。

 ほほお。

 あの世ってのは、本当にあったんだ。

 しかしまあ、こいつはややこしい世界だ。

 暗いのか明るいのかもハッキリしないし、何が何だかわからない。

 これは、目が暗闇に慣れるのに時間がかかるのと一緒で、あの世に身体が慣れるのに、時間がかかるのかもしれない。

 オレにとっては、別に、この世であろうが、あの世であろうが、大した違いはない。

 けど、何となくだまされたような気がしないでもない。

 この世というのにオサラバしてセイセイするかと思ったら、第二関門のあの世が待っていた。

 ふざけた話じゃないか。

 冗談半分の気持ちで飛んだのもよくなかったのかもしれない。

 どうせ死ぬんだったら、もっと真剣に、一生懸命に死ぬべきだった。

 あの世、というか、今ではこの世と呼ぶべきか、ここに来る直前に、何で草なんかが目に飛び込んできたんだろう。

 あの草を見た瞬間、何となくだけれど、あ、しまった、と思ったのはなぜだったんだろうか。

 と考えているうちに、身体がこの世に慣れてきたらしく、何となくオレの輪郭がハッキリしてきた。

 オレの周囲は、まだ明るかったり暗かったり、軽かったり重かったり、延びたり縮んだりして、イライラするけれど、遠くの方は、よく見える。

 よく見えると言っても、何が見えているのかわからない。

 ええい、イライラする。

 こんなにイライラするのなら、元いた世界と一緒じゃないか。

 そうか。

 オレというのは、一人っきりでも、こんなにイライラする人間だったのか。

 オレがイライラするのは、周囲の人間のせいだとばかり思っていたけれど、一人でも、結構イライラできるもんだ。

 なるほど。

 大したもんだ。

 死んでからもイライラできるなんて、多分、世界中の誰一人として知ってるヤツはいないだろう。

 やーい、知らないだろう。

 ざまあみろ。

 死ぬ前には、自分の今までの人生がソウマトウ(何のことだ)のように見えるとかいう話を聞いたことがあるけれど、オレはここに誓って言うけれど、そんなものは全然見えなかった。

 ゼーンゼンだ。

 その代わりに、コンクリートの地面を割って生えている草が見えた。

 そのことに何か意味があるのかどうか考えようかと思ったが、面倒だからやめた。

 そういうことは生きている人間が考えればいいことで、死んでしまったオレが今更考えたって、オレの人生の足しにはならない。

 ヘでもない。

 人生とは何かなんて考えるのは、考えることが、人生の足しになるからだろうけれど、もう人生の無いオレにとっては、本当にヘだ。

 待てよ、とオレは思った。

 オレの輪郭が、ハッキリしてくるということは、オレはまた人間の身体を持つということだろうか。

 死んだ後でも、生きていた時の身体を持つのだろうか。

 オレは、マジマジと自分の手(だと思う)を眺めてみたが、よくわからない。

 目があるのかどうかも、よくわからない。

 目のあたりと思えるところを、手だと思えるもので触ってみようと思ったけれど、これもよくわからない。

 ばかばかしい。

 何でそんなことをする必要がある。

 ほっとけばいい、ほっとけば。

 もう死んでるんだから、そんな余計なことをする必要はない。

 いいじゃないか、もう。

 目があったって無くたって、手があったって無くたって。

 そんなことはどうでもいいことだ。

 おいおい。

 しかし、こういう状態が永遠に続くんだろうか。

 たまったもんじゃないなあ。

 退屈で死んでしまいそうだ。

 あ、そうか。もう死んでるんだった。

 オレもバカなことをしたもんだ。

 こんな世界に来るぐらいだったら、もっと色々なことをしておけばよかった。

 あの女をブン殴ってやったってよかったし、親父を殴ってやったってよかったし、おふくろに、オレは生きてるだけで偉いんだ! と言ってやればよかった。

 そうだぞ。

 生きてるだけで偉いんだぞ。

 死んでしまってみろ。こんな目に合うんだからな。

 こんな明るいのか暗いのか重いのか軽いのか上なのか下なのか、目なのか手なのか、何もかもわからない世界に来てしまうんだぞ。

 こんな世界にいてみろ。

 することがないから、考えてしまうんだぞ、つまらんことを。

 考えてもみろよな。

 一回死んでしまったら、二度とは死ねないんだぞ。

 こんな世界とオサラバしたいと思っても、どうすることもできないんだぞ。

 メシも食えない、寝ることもできない、それでいて起きてるのか起きてないのかもわからないんだぞ。

 今まで、悲しくて死んでしまいたい、とか死ぬほど腹が立つとか平気で言ってきたけど、そんなことばは、二度と使えなくなるから、そう思え。

 ああ、誰かに会いたい。

 虫でも草でも何でもいい。

 生きている誰かに会いたい。



 2日目の朝の瞑想の時、男性の姿が小さな山ほどに大きくなった。

 私の目の前で、あんまり大きく成長してしまったので、もう顔も身体も判別できないほどだった。

 その男性は、大きくふくらんだまま、身体全体で笑ったような感じがした。

 私に向かって微笑んだような気がした。

 それは、ピカッと光るような笑みで、私の全身は、幸せな黄金色の光に包まれた。

 光の波に全身を洗われるような気持ちだ。

 私は、光の海に浮かんでおり、たゆたゆと漂っている。

 それほど幸せだったことは、それまでに無かったように思えた。

 いつまでもその光の波に身を浸していたいと思いながらも、私は瞑想から覚めてしまった。

 空腹は全然感じなかった。

 私は、昨日のように、同じ道を通って、おにぎり屋さんの店の中を眺め、道行く人達を眺め、草木や犬や猫と挨拶を交わし、アパートに戻った。

 死ぬことは全然怖くはなかった。

 待っていてくれる人がいるというのは、安心なものだった。それも、私のようなゴミのような人間を、あれほど優しい瞳で見つめてくれる人が待っているのだ。

 何を怖がることがあるだろうか。

 瞑想の度に、男の人の姿は大きくなり小さくなりしながらもハッキリしてくる。

 そのように優しい目をした人には、今までに出会ったことがなかった。



 オレは何となく誰かの視線を感じていた。

 いやいや。

 バカなことを言ってはいけない。

 視線を感じるなんて言っても、一体、どこでどう感じるというんだ。

 この無重力のようでいて重かったり、小さいようでいて大きかったり、延びたり縮んだりする世界で、何をどう感じればいいのかわからない。

 いや。やはりこれは視線だ。

 誰かがオレを見ているのだ。

 そうか。わかったぞ。誰かの視線が、オレを作っているのだ。

 誰かの意識といってもいい。

 これは、オレの意識ではない。

 それはわかるぞ。

 オレはオレだからな、オレ以外の意識とオレの意識を区別することぐらいはできる。

 と思いながら、全然自信がなかったりする。

 オレは、実体がない。

 オレがオレの意識だと思っているものも、同じように実体がないのかもしれない。

 やめよう。

 ややこしいことを考えるのは。

 そうでなくてもややこしい世界が、ますますややこしくなってしまう。

 そうだよ。

 オレは、何にもわからないよ。

 オレは、元々頭がよくないんだ。

 考えるのは嫌いだし、今までに何かを本当にわかったなんてことは、ただの一度もない。そのオレが本当にわからないんだから、仕方がないだろうが。

 オレの思っていることだって、本当にオレが思っているのかどうかなんて、オレにわかるわけがないだろう。

 死んでしまった人間を混乱させるのはやめてくれ。

 また、イライラしてきた。

 オレは、一人っきりでイライラできる天才だあ。

 何となく、自分の身体がふくらんでしまったような気がする。

 一体、誰がオレを見ているんだ。

 そいつの頭の構造は、オレよりひどい。

 オレのことを、山か何かと間違えているんじゃないか。

 オレを思い切りでかくすると、刀のような光でオレを切り刻んだ。

 痛くはないさ。

 死んでるんだから。

 しかし、乱暴な話だ。

 オレにどんな恨みがあるのか知らないが、火炎放射みたいな光で焼かれる身にもなってみろ。

 熱くもかゆくもないよ。

 熱くも痛くもかゆくもないけれど、それは死者に対する冒涜ってもんじゃないのか?

 バチが当たるぞ、そんなことを死んだ人間にしたら。

 ああ、そうか。

 もしかしたら、今、オレの生前の肉体が焼かれている最中なのかもしれない。

 そう思ったら、涙が出そうになったけれど、考えてみれば、涙の出るべき場所もないんだった。

 全身で見ているという感じしかない。いや、感じているといった方がいいのかな。

 もし生前の肉体が焼かれてしまったら、やっぱり戻れないんだよな、元の世界には。

 ま、焼かれなくても、死んでしまえば一緒か。

 哀れな一生だった。

 何の楽しいこともなく、誰の役に立つでもなく、いや、待てよ。

 小さい時に、親父と遊んだことがある。あれは楽しかったような気がする。

 オレが泣かされて帰ってきたら、親父は下着姿のまま、いじめたヤツラを追い掛けて行った。

 そうか。親父は、オレのために怒ったのか。

 おふくろは、料理の嫌いな女だったけれど、毎日料理を作ってくれた。あれも愛情と思えば、愛情か。

 姉には随分いじめられたけれど、大学を全部落ちた時、黙って肩を叩いてくれたっけ。

 オレを振った女を随分憎んでいたけれど、死んでしまった今となったら、あの女がいなければ、オレは恋人の一人もできずに死んだことになったんだ。

 そうは言っても、あの女がいなかったら、オレは死のうなんて思わずに、今でもピンピン生きていて、ガールフレンドの100人や200人は、一生の間にできたかもしれない。

 ……一生か。

 もう終わったのか。

 呆気ないもんだ。

 ガールフレンドの100人は無理としても、一人や二人、三人や四人、その中には本当にありのままのオレを好きになってくれる人だっていたかもしれない。

 ああ、これを後の祭りというんだな。本当に惜しいことをした。



 3日目になると、男の人と一緒に、空中に浮かぶことができるようになった。

 私自身も黄金色の光を全身から放っているように思える。

 私達は、共に黄金色の空に浮かび、飽きることなく、お互いを見つめ合っていた。

 私達のコミュニケーションは、光と共にあり、光の波と渦で、他愛のない会話を交わしていた。

 私は訴えているのだった。

『私は、今ほど幸せに感じたことがありません。私は、自分はずっと不幸だと思ってきたのですけれど、そうではなかったことがわかりました。この今の幸せを味わうために、私は、これまでの人生を送ってきたのだろうと思います。もし、私の悲しい過去がなければ、これほどの幸せを感じることはできなかったかもしれません。また、こうして、あなたのような人に巡り合うこともなく、また、巡り合ったとしても、そうとは気付かなかったかもしれません。私は、小さい時に母を失い、父の愛情にも恵まれませんでした。親戚の間を転々として、いつも邪魔者扱いにされていました。私は、お情けで生かしてもらっているのだと、いつも考えていたものです。いつも、身を縮め、周囲に迷惑がかからないように、誰の邪魔にもならないようにと、そればかりを考えて生きてきたのです』

 彼は答えるのだった。

 光の波動で、優しく私を包むように答えるのだった。

『それは可哀相だった。けれど、誰を恨んでもいけない。それが、あなたに課せられた人生なのだから。あなたは、それを素直に受け入れればいいだけだ』

『最後には私を捨ててしまったけれど、離婚した夫に巡り合った時、私は本当に、やっと心を安らがせる場所ができたと思ったものでした。これが自分の家庭だと思える場所。これが自分の家族だと思える人。だから、私は、全身で夫に寄り掛かってしまったのかもしれません』

『では、あなたの結婚生活は、随分幸せなものだったということだ』

『はい。自分では、本当に幸せだと思っていました。私達は、仲のいい夫婦だと思ってきました。幸せな家族だと思ってきたのです。子供ができなくても、私は夫がいるだけで充分でした。心ない人達は、子供のいないことで何かと私に辛くあたりましたが、私には愛する夫がいる、これが幸せな家庭なのだと思うと、そう辛いことも悲しいこともありませんでした。けれど、私は、私がいるだけでは、夫は幸せではないということに、全然気がつきませんでした。私は、夫の気持ちが全然わかっていなかったのかもしれません。理解し合っていると思い込んでいただけで、全然相手のことを理解していなかったのかもしれません』

『人間は、自分のことさえ充分に理解できないのだから、夫を理解しなかったことで、自分を責めることはない。誰だって、誰のことをだって、本当に理解することなどできないのだから。あなたは、たまたま、縁のない人間と結ばれただけで、それは、あなたの責任ではない』

 それは、多分、私の責任ではないのかもしれない、と私は思った。

『けれど、私は、ゴミみたいな人間なのです。だから、いらないゴミみたいに捨てられてしまった。私が、人間のクズでなければ、どうして、夫に私を捨てることができたのでしょうか』

『人間は、神に似せて作られたものだ。あなたも神に似せて作られた人間だ。ゴミのように作られた人間もいなければ、クズのように作られた人間もいない。あなたは、自分で、ゴミのようになる道を、クズのようになる道を選んでしまっただけだ』

『私が選んだ道ならば、やはり私はゴミであり、クズであるのではないでしょうか』

 ゴミであり、クズである私への嫌悪感が強くなり、私は、その幸せな時間を、自分から放棄してしまっていた。

 瞑想から、幸福な幻想から覚めた私は、ただただ、自分を哀れんで泣くしかなかった。

 泣き腫らした私の目に、世の中の幸せな人達の心の中にある悩みや悲しみが、透けて見えるような気持ちがした。

 昨日までと同じ道を歩いていても、昨日までは、あれほど優しく幸せそうだった人達も、幸せに輝いているような人達も、幸せそうな衣服をまとった不幸で孤独な人達なのだと思うようになった。



 どこかで誰かが泣いているような気がするけど、気のせいだろうか。

 誰でもいいから会いたいというオレの作り出した幻想だろうか。

 それとも、オレ自身が誰かが作り出した幻影なのだろうか。

 こういう時空間に漂っていると、今この状態こそが真実で、生きていたと思っていたオレの状態の方が幻だったようにも思えてくる。

 確かに誰かが泣いている。

 そりゃあ、オレがここにいるんだから、同じように誰かがここにいたって不思議はない。

 オレがこういう状態なんだから、同じような状態の人間(と呼べるのか?)がいたって、別に驚きはしない。

 驚くどころか、おお、お前も同じか、オレも同じだ、と言って同病合い哀れむことができるかもしれない。

 今となっては、あの地面に直撃する瞬間に見た一本の草にさえ会いたくなってくる。

 アイツは、確かに生きていた。

 ええ?

 それもコンクリートの地面だぜ。

 あんな場所で、芽を出して葉を繁らせるなんて芸当をやってのけたんだ。

 そうだ、そうだ。

 確かに目(だと思う)に浮かんでくる。

 コンクリートの地面を突き破るようにして生えていた。

 アイツは、環境に負けていない。

 オレとは、大変な違いだ。

 アイツは健気で律儀だ。

 文句一つ言わない。

 炭酸同化作用っていうんだっけ?

 何かそんな芸をして、太陽と空気と水で成長していくんだ。

 何て偉大なヤツなんだ。

 アイツは、あの場所を動くことができない。

 アイツは、自分で環境を変えることができない。

 それでも、アイツは、あの場所で一生懸命に生きていたんだ。

 何てこった。何で、こんなにあの草に執着しなければならないんだ。

 泣いているのは、あの草なのか?

 もしかすると、オレはあの草を押し潰してしまったのかもしれない。

 落ちていく時に、あの草はオレの下敷きになってしまったのかもしれない。

 許してくれ。もし、そうだったら許してくれ。

 オレが中途半端に死んだもんで、草も中途半端に死んでしまったのかもしれない。

 オレは、何てことをしてしまったんだ。

 何て罪なことをしてしまったんだ。

 偉大な草を巻き添えにしてまで、オレは死のうとは思わなかった。

 おい、泣いているのは草なのか?

 オレと同じように、自分が草以外のものになって、何が何だかわからないのか?

 答えてくれ。

 もし、お前が草であったって、オレとお前は同じような状態なのだ。

 だから、同じように感じたり考えたりすることができるかもしれない。

 いや。やはり、草には草の考え方、草には草の感じ方、草には草の生き方があるのかもしれない。

 こんな世界にあったって、生前の状態に支配されているのかもしれない。

 ああ、何て孤独なんだ。

 泣いているのは、案外オレなのかもしれない。

 意識がもうろうとしてきた。

 いや。元々もうろうとしているんだ。

 せめて夢でも見ることができたら、どれほど幸福だろうか。が、寝ることもできないオレの状態では、夢さえ見ることはできない。

 夢を見ることが、それほど幸せなことだとは、今まで思ったこともなかった。

 太陽もなければ、月も星もない。

 何にもない世界だ。

 オレは、変幻自在の輪郭にすぎない。

 変幻自在といったって、オレの意志で姿形を変えられるわけでもない。

 神様というのは、実はこんなものなのかもしれない。

 オレは神か。

 そうだ。

 オレは神だと思えば神にもなれる。

 仏だと思えば仏にもなれる。

 もっとも、世間では、死んだ人間を仏さんと言ったりするんだが。

 空気だと思えば空気のような気がしないでもない。

 草だと思えば草だと思えないこともない。

 思うのはオレの自由だ。

 幸せだと思おうと思えば思えないでもない。また、不幸だと思えば思えないでもない。

 何とでも思える。

 生きていると思えば生きているような気がするし、死んでいると思えばやっぱり死んでいるのかとも思える。

 オレは、元いた世界でいう永遠に生きている存在なのかもしれないし、単なる死人なのかもしれない。

 もし誰かがオレを見て、その人間がオレは鳥だと思えば鳥になり、魚だと思えば魚になるそういった存在なのかもしれない。

 泣くのは、やめろ。

 泣いても仕方がない。

 幸福にも不幸にも思えるのだったら、幸福だと思った方がいい。

 生きている時だって、もしかすると、同じことだったのかもしれない。

 人間は、自分の考え一つで、幸福にも不幸にもなってしまうのかもしれない。

 それなら、幸福にならなければ、損じゃないか。

 誰か知らないが、泣くのはやめろ。



 4日目になると、私達のコミュニケーションは、もう光を通して語る必要のないほど、密になり、男の人は実在する人間のように、私の手に触れられるほどになった。

 私は、光うずまく空間に浮かびながら、ほうき星の尾のように延びていく自分の輝く腕で、男の人の髪の毛に触れた。

 その髪の毛は、堅くて尖っていて、実体がないかのように見えながらも、私の手に刺さるほどだった。

 頬に触れ、額に触れ、その手に触れ、私は祈るように、両手でその手を握りしめた。

『愛しています』と私は、自分の手で語った。

 なぜ、そんなことが語れるのか、また、伝えられるのか、私にはわからなかった。けれど、私の手は、生まれて初めて、自分の意志で、自分の愛を自分以外のものに伝えたのだった。

 そして、男の人の手も、私に同じことを語っていた。

 男の人の目から、サラサラと金色の砂のような涙が流れ、男の人の手が、私の髪に触れた。

 私の髪の毛の1本1本が生きているかのように、白金色の喜びに震えていた。

 私達は、もう二人ではなく、一つの実体のようなものになっていた。

 男の人は融けて、金色の砂のようなものになり、私も白い気体になっていった。

 私達は、広がったり縮んだり、絡み合ったり離れたりしていた。

 どちらがどちらの肉体か、または実体かもわからなくなった時、その至福の瞬間、どこからか大きな声が轟いてきた。


「生きなさい」


 その声は、生きている私の身体の中から聞こえてきたようにも、また、瞑想の中の混沌とした光と霧の中から聞こえてきたようにも、どちらにも思えた。

 私は、驚いて、周囲を見た。

 そのとたんに、瞑想から覚めてしまった。

 どういうことだろうか、と私は思った。

 どういうことだろうか、と思いながら、私はいつもの道を歩いていた。

 心が初めて乱れるのを感じた。

 あの男の人は、私が行くのを待ってくれていたのではなかったのだろうか。

 あの安らぎと幸せに満ちた世界に私を導いてくれるのではなかったのだろうか。

 この世では、ゴミのような私でも、天国に連れて行ってくれるのではなかったのか。

 あんまり心が乱れたので、私は、誰の顔も見えなかった。何度も、人にぶつかり、何度も無意識のうちに「ごめんなさい」を繰り返していた。

 おにぎり屋さんの中をのぞくことも忘れ、草木を見ることも、犬や猫に挨拶することも忘れて、私は、また、アパートに戻ってきた。

 何も考えることができなかった。

 瞑想をしようとしたけれど、いつもの状態に入ることができなかった。身体は衰弱していたけれど、頭は冴えわたっていた。

 私は、自分が腹を立てているのに気がついた。

 何に腹を立てているのか。

 彼の、あの男の人の裏切りに腹を立てているのだった。

 私は、神様にだまされたのだ、と思った。いかにも優しい顔をして、いかにも私を愛している瞳をして、私を待っている振りをして、これほど弱り切った時に、「生きなさい」と言うなんて。

 あんまりじゃないの。

 私は、拳骨で枕を殴った。何度も何度も。涙を流しながら、枕を殴った。

 私の両手には、まだ驚くほどの力が残っていた。



 誰かが死んでいこうとしているのが、オレにはわかった。どうしてわかったのかはわからないけれど、オレも一度は(一度以上は無理だが)死のうと思って死んだ人間だ。

 阿呆な誰かが死んでしまおうとしているのがわかった。

 おい、わかってんのか?

 ここは、こんな世界なんだぞ。

 オレのいるところに来るのなら歓迎してやってもいいけれど、全然別口のこれと全く同じような世界に行ってしまう場合だってあるんだぞ。

 この世界に、オレ以外のものが、オレのものかオレのものでないか判断つかない意識ぐらいしか無いのを見たって、別口の方に行ってしまう可能性の方が高いんだぞ。

 おい。オレは親身になって忠告してやってるんだ。

 バカなことはするな。

 バカなことは考えるな。

 生きろよ。

 何があったか知らないが、どうせ女に振られたとか、受験に失敗したとか、仕事でヘマをやったとかいう些細な理由でしかないだろうが。それとも、どうして生きているのかわからないってヤツか?

 生きてるから生きてるんだよ。

 それがわからんのか。

 ま、一度死んでみないことにはわからんだろうな、オレの気持ちなんか。

 おお。

 信じられない。

 これこそ幻覚というヤツだ。

 女だ。

 それもかなりの美人じゃないか。

 それが、驚いたことに、オレの方向をジッと見ているじゃないか。

 驚いた。

 オレを、オレそのものを見ているんだ。

 何だかわからないけれど、こいつは大したことだ。

 コイツは奇跡だ。ミラクルだ。

 ええとな。何か勘違いしているようだが、オレはそんな風に見てもらうような存在じゃないんだ。

 わかるだろう?

 オレには実体がないんだ。

 オレは、バカなことに、マンションから冗談半分に飛び下りて、もしかすると、道端で健気に生きていた草まで道連れにしてしまったかもしれない人間なんだ。

 まあ、いいさ。そんな風に見たいんなら見てくれたって。オレは、全然かまわないんだ。

 何しろ、もう死んでしまっているんだからな。

 そうか。泣いていたのは、あんただったのか。

 オレを見ていたのは、あんただったのか。

 オレの実体を変えていたのは、あんただったのか。

 でもな。あんたの考えは間違ってる。

 本当のオレをよく見てみろよ。

 本当のオレなんかどこにもないんだから。

 本当のオレは、今時分、焼却炉で焼かれてしまって跡かたもないんだ。

 あんたは生きてるじゃないか。

 どんな辛いことがあったか知らないけれど、きちんとした生身の身体を持って、ちゃんとした存在として生きているじゃないか。

 オレだって、あんたのような存在が、オレと一緒にいてくれるなら、ずっとこのままでもいいさ。けどな、そうならない可能性の方が高いんだぜ。

 オレは、今、あんたがオレだけを見てくれているというだけで、幸せなんだ。もうそれだけで充分だよ。

 その思い出だけで、充分に、永遠に続くかもしれないこの世界で存在していけるかもしれない。

 な、オレの分まで生きてくれよ。

 オレが、今、ここにこうやっていることが、あんたのためになるんなら、永遠にこうやっているさ。



 神様にさえ見放された私は、どこに行けばいいんだろう。

「生きなさい」というのは、どういうことなのだろうか。

 ああ、もう瞑想状態にも入れない。

 私は、私だけの安らぎの場所からさえ拒絶されてしまった。

 フラフラと外に出た私は、いつもと同じコースをたどっている。

 もう何も見えない。何も聞こえない。もう何もかもどうでもいい。

 その時、近くでドサッという物音が聞こえた。

 人々がその音の方に近づいていく。

「飛び下りだ」

「まだ、息があるぞ」

「救急車を」

 私は、まだ若いその男をジッと見つめていた。男の傍らには、今、芽を吹いたばかりの小さな草が生えている。

『生きなさい』という声が心の奥底から聞こえてくる。

 そうか。

 死んでいくとは、こういうことなのか、と私は、徐々に死んでいこうとしているその男を見つめて思った。

 その男は、一瞬、目を開いて、私の方を見たのかもしれないが、私には関係がなかった。


 私は、『求人募集』と書かれたポスターの方に、自分の関心を奪われていった。



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