一人ぼっちのバラード I NEED SOMEBODY TO LEAN ON
一人ぼっちのバラード I NEED SOMEBODY TO LEAN ON
誘うのは、いつも私。
泣いているのも、いつも私。
男なんて星の数ほどいるはずなのに、私には、一人しか見えない。
時々私は、心がなくなってしまえばいいと思う。
そうすれば、こんな悲しい思いや、淋しい思いをしなくてもすむのだから。
そして、これは、私の心の問題なのだから。
相手には、何の責任もない。
「何、考えてるの?」
「何も」
「さっきから黙ったままやけど」
「何にも考えてへーん」と私は、おどけて笑う。
「エッチなこと、考えてたんやろ」
「そ、そんなこと」
実は、考えていた。
「考えてへんわ」
「ふーん」
「ふーん、て何よ。考えてへんて言うてるでしょ」
「ま、いいや。出よう」
彼は、まだ、お姉さんのことを思っているのだろうか。
彼を捨てたお姉さんのことを思っているのなら、その妹の私は、やはり疎ましい存在なのだろうか。
お姉さんには、もう子供が二人。
でも、てっちゃんは、まだ独身のままだ。
「てっちゃん」と昔通りの呼び方を、何年も続けている私。
「まだ、結婚せえへんの?」
「てっちゃんて呼ぶの、いい加減にやめてえや」
「あ、ごめん」
「ま、いいけど」
あの後、何年間も、これと同じやりとりがあった。
その間に、私は、短大に入学し、卒業し、OLになった。
「もうじき30やんか。30いうたら、おっさんや」
「ほっといてくれ。今は、男が余ってるんじゃ。そういう時代に生まれたオレが不運やったんや」
「男が余ってる時代なん?」
そうか。まだ余ってるんか。
よかった。
「それこそ、自分の方はどないやねん。今は二十歳や21や言うて余裕やろけど、すぐにクリスマス・イブが来るでえ。それから先は早いんやぞお、女が歳とるん」
「てっちゃんが結婚するまで、心配で心配で」
「何や、それ」と彼は笑ったが、目は笑っていなかった。
「そやかて」と私は、胸をドキドキさせながら言った。
「唯一のガールフレンドがいなくなるやんか」
「何や、こいつ。一人前にガールフレンドのつもりなんか」
てっちゃんに頭を撫でてもらうのは、気持ちがいい。
「子供扱いせんといてよ」
「おお、おお。一人前の口きいて、ハナタレが」
「お酒かて飲めるし、煙草かて吸えるし、それに、結婚かてできるんやからね」
言った!
言ってやった。
「そら、親の許可さえあったら、16から結婚ぐらいできる」
「ええ! 16から?」
「そうや」
「知らんかった」
16というたら、初めててっちゃんに会った頃。
そうか。
こうなることがわかっていたら、お姉さんが、あんなことをするとわかっていたら、てっちゃんをお姉さんに譲ったりなんかしなかった。
「ほんまに飲めるんやったら、飲みに連れて行ってやろか」
「うわ。嬉し」
「たまには、お子様ランチのお守りもいいか」
「何やの、お子様ランチって」
「深い意味はない。由香里ちゃん見てたら、リボンやらフリルやらつけてるから、何となく連想してしまうんや」
「似合わへん?」
「似合う。似合う」
「フン。口先ばっかり」
「さてと、お子様ランチ、連れて行って安全な店は、と」
「失礼ね。どんな店かて大丈夫よ」
「夜でもサングラスかけた怖いおじさん、腕から入れ墨のはみ出ているお兄さん、ズボンに鰐皮のベルト」
「そんなん、何が怖いのん」
「オレ、言うとくけど、喧嘩弱いねんで。由香里ちゃんみたいなリボンつけた女の子を見たら、怖いおじさんらがさらっていくかもしれへん」
「てっちゃん、助けてくれへんの?」
「助けたいけど、もうその時は、オレ、ナイフで胸刺されて虫の息や」
「そんなんアカン。てっちゃんが死んだら、イヤ」
「な、そうやろ? そやから、どこ行くか考えてるんやんか」
お姉さんやったら、てっちゃんは、死んでも守ったんやろか。
「飲みすぎるなよ」とカフェバーの明るい照明の下で、てっちゃんは言った。
「酔うても送っていかへんで」
「てっちゃん、何で飲まへんの?」
てっちゃんは、真面目な顔をして、オレンジジュースを飲んでいる。
「オレ、酒やめてんねん」
「嘘」
「ほんと。今度酒飲んだら死ぬて、医者に言われてんねん」
「何で?」
「何でも」
「身体、悪いの?」
「身体は健康」
「どこがアカンの?」
「ここ」とてっちゃんは、胸をおさえた。
「てっちゃん、心臓が悪かったん? いつから?」
「まあ、ええやんか。いつからでも」
また、てっちゃんの目が、どこか遠くを見つめている。
私を見ていても、その目が私そのものを見ているのではないことは、よくわかっていた。
私とお姉さんは、よく似ている。
だから、私は、お姉さんなら絶対に着なかったピンクの服を着て、可愛いリボンを結ぶ。
顔なんか似ていなければよかったのに。
今では、子供を二人生んだお姉さんは、太って別人のようになり、コロコロ太っていた私は、あの頃のお姉さんソックリにスマートになってしまっていた。
働いている時の私を見たら、多分、てっちゃんは、余りにお姉さんに似ているのでビックリするだろう。
お姉さんみたいになりたいという私の強い願いは、こういう皮肉な形でかなえられてしまったのだった。
あの頃のことは、一度も話題にのぼったことがない。
私は私で脅えているし、てっちゃんは、すぐに遠くを見てしまう。
何年間もの間、お互いによく知っている仲なのに、私とてっちゃんの間には、深くて暗い溝があり、その溝をはさんだ私達は、この世の誰よりも、遠く隔たった存在なのだった。
「やめとけ。もう5杯目や」とてっちゃんが言った。
「多分、それぐらいが限度やろ」
「何で?」と私は、かすみのかかった目で、てっちゃんを見上げる。
「何でも」
お姉さんも、5杯が限度やったん?
「さ、帰ろうか」
「もう1杯飲んでから」
「アカン。もう1杯頼むんやったら、それ、オレが飲むからな」
『いいよ』と言いかけて、ハッとして止めた。
『今度飲んだら死ぬ』ということばが、頭の中でガンガンと鳴り響いた。
「もう遅いから、途中まで送っていくわ」
「うん」
てっちゃんは、絶対に、家の前までは送ってこない。
駅からトボトボと、家の方向に歩いて行く。
「おい、大丈夫か?」と言いながら、てっちゃんは手を貸してもくれない。
「無理して飲んだんやろ」
「お酒なんか飲み慣れてるもーん」
「慣れた飲み方と違うやろ。ガブガブ水みたいにカクテル飲んで」
「私、アルコールに強いんやもん。お父さんも、お兄さんも……強いもん」
やっぱり、『お姉さんも』とは言えなかった。
「おい、おい。どこ歩いてるねん」
いや、えらいことや、と私は思った。
顔が青くなっていくのがわかる。
本当のことを言えば、5杯も飲んだのは生まれて初めて。
飲んでいる時は何ともなかったのに、歩いているうちに、辺りの風景が奇妙な具合に歪んできた。
「しまった」と言うてっちゃんの声が聞こえてくる。
「5杯まで大丈夫や、思たのが間違いやった」
「大丈夫、大丈夫」と言っているつもりだったのに、「らいりょうぶ、らいりょうび」という声になっている。
これはいかん、きちんとしなければ、と思ったとたん、足がヘナヒナと折れてしまった。
「由香里ちゃん」というてっちゃんの声を聞いたのが、意識のあった最後のことだった。
後で、両親から、てっちゃんが送ってくれたことを聞いた。
それも、おんぶして送ってくれたらしい。
わあ恥ずかしい。
けど、わあ残念。
全然、記憶にない。
「由香里」と翌朝、頭のガンガンしている私に母が言った。
頼むから、今は、大きな声を出さないでちょうだい。
「どういうつもりやの」
「何が?」と私はとぼけた。
「かりにも森川さんは、京子と付き合ってた人でしょうが」
「それがどうしたん?」
「お母さんは、森川さんには会わせる顔がないのに」
「たまたま同じとこで飲んでいて、私が飲みすぎてたから送ってきてくれただけやないの」
「誰と飲んでたの?」
「同じ課の人達」
「今までそんなことなかったやないの」
「そうや。そやから私、付き合い悪いて言われてたんやないの。たまには顔出そう思ったら、飲みすぎたんやないの」
「ほんまに、飲みすぎたんが偉いみたいに」
「今まで飲んだことないもん、どれぐらい飲んだら酔うかなんか、わからへんやない」
「女は、ほどほどにしとかな」
「ああ、もう遅れる」
「由香里、森川さんには、お礼言うといたけど、ほんまに、姉妹そろって迷惑かけるやなんて、お母さん、穴があったら入りたいわ」
「勝手に穴掘って入ったら? じゃ、行ってきます」
「由香里、ごはんは?」
「いらない。会社に遅れるから」
マニッシュなブラウスにタイトなスカート。
出勤する時の私は、昨夜の私とは別人なのだった。
たまには別人になるのも悪くない。
入社早々、新入女子社員には、二つのタイプがあることに気がついた。
若いということを武器にして、可愛さを売りものに、「私、よくわかりませーん」と男に媚を売るタイプ。
または、お茶くみを馬鹿にして、知識と熱意で仕事に燃えようというタイプ。
しかし、どちらにしても、周囲との摩擦は避けられないように見えた。
男に保護され同性の反感を買うか、周囲全体の反感を買うかしかない。
仕事に燃えようにも、女子に大きな仕事や大事な仕事は回ってはこない。 ましてや、右も左もわからない新入社員だ。
私が今の会社を選んだ最大の理由。それは……
わあ恥ずかしい。
てっちゃんの会社の近くだったからだ。
だから、お茶くみ、どんどんやってしまいます。
コピー取り、おまかせください。
雑用、私用、何でも来なさい。
他の男なんか目に入りません。
だって、このビルの窓からは、てっちゃんの働いているところが、よく見えるのだった。
てっちゃんの働いているビルの四方八方にある会社中に面接に行き、ここだ! と思ったから決めたのだ。
職種なんてどうでもいい。
仕事なんかどうでもいい。
雰囲気なんか最悪だってかまわない。
「私は、どうしてもこの会社で働きたいのです! お茶くみ、雑用、何だってやります! この会社に骨を埋めます。会社の生き字引になってみせます!」
世はあまねく求人難だった……
まして、名もない中企業は深刻だ。
私の熱意に、社長は椅子から転げ落ちるようにして、握手を求めにやってきた。
もともと就職率100パーセントを誇る我が短大の秘書養成コース出身の私が、一般事務職に応募したのだ。
その場で、採用が決定した。
「わあ、偶然」と退社時間にてっちゃんの会社の周りを張っていた私、仕事できます! というメイクをぼかし、ダークスーツをフリルのついたワンピースに着替え、荷物はコイーロッカーに放り込んで、『偶然』の再会を果たしたのだった。
「あれ、由香里ちゃん?」
「そう。就職したの」
「へえ。でも、よく由香里ちゃんに勤まる仕事があったもんや」
「コネ、コネ」
「やっぱりな」
顔は似ていても、私とお姉さんとは決定的に違うところがある。
性格だ。
お姉さんは、頭がよくて器用で何でもよくできるように見えるけれど、その実、頭は悪く、計画性はなく、非常に不器用な人間だった。
私は、頭が悪く不器用で計画性ゼロの人間、甘えんぼうで人に頼らなければ生きていけないように見えるけれど、実際は、その反対。
就職活動で実証済み。
けれど、てっちゃんは、見かけの私を信じている。
見かけのお姉さんを信じていたように。
だから、私は、自分をてっちゃんのイメージに合わせたのだった。
「わあ、てっちゃん、また偶然」
自分でも愚かなことをしているのは、よくわかっている。
満員電車で貧血を起こした高校生の私を、会社を遅刻してまで家に送り届けてくれた親切な人。
その家で、バッタリ出会った一見インテリ風の姉。
好きになったのは、私の方が先なのに、不器用な恋心にオロオロしている姉を見ているうちに、いつの間にか応援する側に回っていた。
「由香里ちゃん、髪の毛切ったの?」とてっちゃんが言った時、あやうく泣きそうになる心を抑えて言ったものだ。
「そう。彼が、ショートが好きやて言うたから」
「ませてんな、高校生のくせに」
てっちゃんは、笑って私の頭をクシャクシャにした。
「やめてよ、まだ、彼にも触らせてへん頭やのに」
「そら、光栄やった」
少なくとも、当時の私は冷静だったと思う。
てっちゃんとお姉さんが、家の前で親しそうに話していても、お姉さんが無断で外泊しても、ふーん、そうか、とかなり冷静な気持ちでいられたのだと思う。
「由香里、赤ちゃんができてしもた」
その時、私は、かなり激しいショックを受けた。
どこでどうやって、そう思い込んだのかは知らないが、赤ちゃんというのは、結婚してからできるものだと思い込んでいたからかもしれない。
「お姉さん、どうするの」
「私、どうしていいかわからへん」
「てっちゃんに言わなアカンわ」と私は口走っていた。
「そんなん……森川さんの子と違うもん」
お姉さんのそのことばは、多分、私がそれまでの人生で聞いたうちで、一番のショックだった、と今は思う。
「え? てっちゃんの子供と違う?」
「だって、森川さんとは何にもないもん」
「それやったら、それやったら」と私は、興奮しすぎて、ことばが続かなかった。
「多分、酒井さんの子供やわ」
「多分、て何やの、お姉さん」
「そやかて、わからへんもん」
「わからへんことないでしょうが、わからへんことは!」
「そやかて、部長さんともあったし、課長さんともあったし、酒井さんとも清原さんともあったし。確かなんは、森川さんの子供やないていうだけ」
何やの、それは! と私は思った。
私が、私が、どんな思いをして、てっちゃんを忘れよう、諦めようとしたと思ってんの!
「てっちゃんのこと、好きやなかったん!」
「好きやったけど、何にもそんなことせえへんかったもん。それに、一番優しかっただけやもん」
わああ、とお姉さんは泣き崩れた。
本当に泣きたいのは、私の方だった。
多少の紆余曲折はあったものの、お姉さんは、『多分』の酒井さんと、周囲の圧力もあって、慌てて結婚した。
そして、今では、二児の母。
幸せを絵に描いたような結婚生活で、ブクブクと太ってしまっていた。
残されたのは、失意のてっちゃんと、呆然とした私だけだった。
「わあ、偶然」
余りに白々しい偶然と、以前と変わりなく見えるてっちゃんと私。
そやかて、てっちゃんは、私の恩人やもん。
私の初恋の相手やもん。
「この前、大丈夫やったんか?」
「え? この前て、何?」
「覚えてなかったら、それでええわ」
「ええ? 私、あの時、何か言うた? 何かした?」
半分とぼけながら、半分不安だったりする。
私は、あの間のことを、何も覚えていないのだから。
「別に」とてっちゃんは、相変わらずクール。
「また、飲みに連れてって」
「もう、イヤや。あんな思いするんは」
「今度は、5杯も飲まへんから」
「もう5杯も飲まれてたまるか。今度飲みに行く時は、オレも飲むからな」
そう言われてしまえば、私は黙るしかない。
「食事ぐらいやったら、付き合ってやってもいい」
「ほんと?」
「ほんと。自分は、残酷な女やな」
てっちゃんのことばは、グサリと私の胸に突き刺さった。
突き刺さるだけでなく、私の心をえぐった。
「へへへ」
「笑って誤魔化すな」
「けど、笑うしかないもん」
実は、私は、心臓から血を流し、もう涙も流れない目から、愛を流して笑っているのだった。
「ヘヘヘ」
へへへ。
へへへ。
へへへ。
「もうほんまに子供の世話は大変。こんなんやったら、子供なんか生むんやなかったわ」と言いながら、お姉さんは、明るく楽しそうに笑っている。
年子で生まれた男の子二人は、家中をところ狭しと走り回っている。
「お姉さん、幸せそう」
「なーんが幸せなん。結婚したとたんに子供が生まれてよ、夜中におっぱいやらなアカンわ、毎日何十枚もオシメ洗濯せなあかんわ、旦那の帰りは遅いわ、しんどくても相手はせなあかんわ、もう目茶苦茶大変なんやから」
「ふーん」
「こんなんやったら、子供なんかおろして、森川君とでも遊んでたらよかった、思うわ」
私は、思わず、お姉さんを平手で殴っていた。
殴るつもりなんかなかった。
大好きなお姉さんなんやから。
「何するのよ、この子は!」とお姉さんは、突然、ヒステリーを起こした。
そして、私の両方の頬をバシバシと平手で殴った。
子供二人を生んで育てているお姉さんの力は、私の想像をはるかに越えていた。
うう、うう、と私は、余りの痛さに、唸りながら泣いた。
「あんたが勝手に諦めたんでしょうが」とお姉さんは、思ってもみないことを言った。
「私は、そら、好きは好きやったんやけど、失恋した森川君を慰めただけなんやからね」
「え?」
「あんたは、自分のこと、頭がいいとか、何でもわかってるて思ってるんやろけど、何にもわかってへんやないの」
「え?」
「え? やないわ。そら、私は、森川君のこと好きやったけど、森川君は、いつも遠くの方ばっかり見てたし、私を見てても、私のこと見てるんと違ういうんは、わかってたわ。森川君は、あんたのことを好きやったんやないの。とまあ、そういうことがわかったんは、結婚してからやけど」
「嘘」
「嘘やと思うんやったら、直接聞いてみたら? アホらしい。あんたは、私のこと、不器用な人間やて思ってるでしょ? けど、私は、今思うたら、一番好きな男と結婚してん。ありとあらゆる手を使ってね。嫉妬させたり失望させたり、ドキドキさせたりショック与えたりして。あんたも、それぐらいやってみたらいいわ。それでも、結婚なんかしたら、これだけ後悔するんやから。同じ思い、味あわせてやりたいわ」
「嘘や。そんなん嘘や」
「あんたが、嘘にしてるだけやないの。そんなん、何にも私の責任違うわ」
「また、偶然か」とてっちゃんが言った。
頭の中でシナリオは完璧にできていたはずなのに、いざ、てっちゃんに会うと、ことばがうまく出てこなかった。
「へへへ」と私は、習慣的に笑った。
「何や、気色悪い。また、男にでも振られたんか」
「男になんか振られたことないわ」と私は、強がりを言った。
「てっちゃん、また、飲みに連れてってよ」
「もう二度とアカンて言うたやろ」
「てっちゃん」とシナリオは完全に崩れた。
崩れてしまった。
私は、てっちゃんにしがみついていた。
「ア、アホなことをすな。人が見てるやろ」
「見てたかて、かまへんもん。ね、飲みに連れてってよ」
「自分は……どれだけ残酷なことしてるか、ほんまにわかってるんか」
私の頭は、シャンとしていた。
「わかってるつもりよ」
「オレは、もう知らんからな」
「私かて、知らんもん」
今度連れて行ってくれた店は、照明の暗い店だった。
てっちゃんは、黙って、水割りを頼んだ。
二人分。
「てっちゃん、私が2杯飲むわ」と私は、本気で慌てた。
「黙れ」とてっちゃんが言った。
「そやかて、てっちゃん、お酒飲んだらアカンやんか」と私は、オロオロするばかりだった。
「もうかまへんねん」
「オレンジジュース」と私は、バーテンに言った。
「自分には、それが似合いや」とてっちゃんが言う。
「いつまでたっても、残酷な子供のままの自分には」
私は、黙った。
どう言えばいいのかわからない。
確かに、私は何も知らない子供だった。
でも、16の時からずっと、てっちゃんのことばかり見つめてきた。
私は、自分の人生のほとんどを、てっちゃんのことに使ってきた。
「ひどいわ、てっちゃん」
「何がひどい」
私は、てっちゃんが、水割りを一息に飲むのを、心が割れるような思いで見た。
「飲んだら、イヤ」
「何でや」
「そやかて、てっちゃんが死んでしまうもん」
「いいか?」とてっちゃんは言った。
「オレは、もうずっと前に死んだんや」
「嘘や、嘘」
「オレはな、ほんまに情け無い男なんや。ほんまに好きな女がいたのに、その苦しさから逃げるために、他の女を利用しようとした、ほんまに情け無い男やねん。逃げようとした時に、オレは死んだんや。そやからな、ここにおるのは、オレの脱け殻や」
「脱け殻でもいい」と私は言った。
「脱け殻でも、てっちゃんやったらいい」
「髪も触らせへんかった好きな男は、どないしてん」
「へへへ」と私は笑った。
「どこかに行った」
「オレは、そんな器用なことはできへん」
「私も、そんな器用なことはできへん」
「えい、クソ!」とてっちゃんは、もう一杯水割りを頼んだ。
私達の間には、行き場を失ったオレンジジュースが、氷を解かしている。
「てっちゃん」と私は、恐々、てっちゃんの腕に手を触れた。
「触るな、アホ」とてっちゃんは、私の手を振り払った。
私の手は、行き場を失って、オレンジジュースになった。
「オレが、どんな思いをして、酒飲まへんかったか、自分なんかにわかるか」
私には、それが、お姉さんとのことを指しているのか、それともそうではないのかが、どうしてもわからなかった。
「ヘヘヘ」と私は笑った。
他にすることがなかったから。
「出ようか」とてっちゃんが言った。
「うん」と私は答える。
私のシナリオでは、私が今までどれだけ、てっちゃんのことを好きだったか、てっちゃんのためにどれだけ沢山のものを諦めて、どれだけ沢山泣いてきたか、どれだけ……というのを言うつもりだった。
「ハハハ」と私は笑った。
もう、何もかもどうでもいいわ。
「自分だけは、いつまでも」とてっちゃんは言った。
「そうやって、幸せそうに笑っていてくれたらいい」
そして、てっちゃんは、私の頭を撫でる。
う、う、と私は、心の中で泣く。
そうやない、それは違う、そうやないのに、と思いながら、表面は、「へへへ」と笑ってしまう。
「てっちゃん、私ね、一回もラブホテルいうのに行ったことないねん」
「アホか。そんなこと、他の男に言うなよ。誘てると思われるぞ」
「うん」
誘てるんやけど。
「言わへん」
「お姉さん、幸せにしたはるか?」
「うん」と平静に言いながら、初めてお姉さんの話題が出たことに、私はショックを受けていた。
「そうか」とてっちゃんの目は、また遠い方を見る。
「ラブホテル、行ってみよか」と私は、おどける。
「お子様ランチと、そんなとこに行けるか」
「お姉さんとやったら、行けた?」
てっちゃんは、黙ったまま、横を向いた。
「オレは、禁欲主義者や。好きな女とかて、そんなとこ行けるか。それより、もう頼むから、オレのこと、かまわんといてくれ」
「私のこと、嫌い?」
「オレは、今日、5年ぶりに酒飲んだ。前、酒飲んだら心が楽になるか思うて、散々飲んだら、余計辛くなった。そやから、酒は止めた」
「私のこと、嫌い?」
「オレは、今日、酒飲んだんや。理性なんかどっか行ってしまうぞ。ここまで来るのに、どれだけの時間がかかったと思ってんねん。それを、クソッ!」
「何やの、情け無い。言いたいことがあるんやったら、ハッキリ言うたらいいやないの。私は、てっちゃんが好き。高校の時からずっと好き。お姉さんと付き合ってた時も、ずっと好き。今の会社に就職したのも、てっちゃんの会社の近くやから。こんなガキッぽい恰好してるのも、てっちゃんにお姉さんのこと、思い出させたくなかったからやないの」
「ちょっと待て」とてっちゃんが言った。
「何よ」
「話が違う。自分は、他に好きなヤツがおって、そやから、オレは諦めて……」
「てっちゃんがお姉さんを好きやと思ったから、そやから、私は諦めたんやないの。けど、もう諦めへん」
「ああ」とてっちゃんが言った。
「オレの人生、一体何やったんや」
何となくシナリオ通りになってきた。
「私の人生、これから」
「なんや、気、抜けた。こんなことやったら、もっとヤケになって、大酒飲んで、遊び回ったったら良かった」
「そんなん、全部邪魔してやる」
「あかん。身体中の力が抜けてしもた。ほんまやったら、もっと喜びたいとこやけど、今までのダメージが大きすぎて、立ち直れへん。急に、酔いが回ってきた。5年ぶりの酒はきつい。頭が全然働かへん。アホになってしもた」
てっちゃんが、立ったまま、涙をポタポタ落として泣くのを見るのは、かなりカンドーものだった。
お姉さんの言ったことは、本当だったんだ。
「てっちゃんにプレゼント」と私は、てっちゃんにキスした。
「私のファースト・キス」
「オレかって、初めてやわ」
「嘘!」
「どの女見たかて、そんな気になれるか」
てっちゃんは、私に抱きついて、今度はオイオイと声をあげて泣いた。
こんな日が本当に来るなんて、夢に見たことはあっても、思ってもみなかった。
「オレ、生きてて、ほんまに良かった」
「私も」
今度は、私の方が、声をあげて泣く番だった。
随分と回り道をしたけれど、その分、私達の幸せが増したような気がする。
「ああ、アホらし」と、その話を聞いたお姉さんが言った。




