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ヴァレンタイン・ギフト  作者: まきの・えり


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 恋にいのちを FAME AND FORTUNE

  恋にいのちを FAME AND FORTUNE

 彼、ピーターは24才、私、メアリーは36才だった。

 ピーターとは、とあるサロンで知り合ったのだった。

 態度物腰が折り目正しく、落ち付いた話し方。

 一目で好感を持った。

「最近、不眠で悩んでるんですよ」とピーターは言った。

 私も、不眠で悩んだ経験があり、人ごととは思えなかった。

 その頃、私は、7年越しの恋人と気まずくなり始めていて、何か気晴らしが欲しかった。

「眠れないと仕事にも身が入らへんのです。それで、ボスと話し合った結果、家でも仕事をするいうことで、会社に3時間ほど出たらいいことになったんです」

「それは大変ね」と私は心から同情した。

「それで、突然でぶしつけなんですが、どこかで軽く食事でもしながら、飲みませんか?」

「OK。いいわよ」

 私と恋人とは、最近では会ってもセックスする以外、何の話題もなくなっていた。

 セックス自体も、最初の頃に比べれば、惰性に近く、お互いに既に情熱が冷めきっていることは自覚していたけれど、あえて別れる気にもなれなかった。

 彼は、まだまだいいパートナーだったし、時には、最初に会った頃の気持ちに戻ることもあった。

 もっとも、最近では、それはまれなことだったけれど。

 だから、ピーターと我を忘れて話していると、つい時間の経つのも忘れてしまっていた。

 私は、心の底から大声で笑い、ピーターの目の中を見つめていた。

「私は、相手の心の中がわかるのよ」と私は言った。

「そう言ったら、大抵の人は目をそらすわ。本当に心の中なんかわかるわけはないのに」

「ボクは、今、目をそらしましたか?」とピーターが尋ねた。

「いいえ。そう言えば、そう」

「相手の心の中の読める人というのは、どんな人なのか、と好奇心がわきました」

「そうね。そういう人がいたら、私でも、そう思って見つめるかもしれない」

 私達は、話しては笑い、笑っては話し、お互いの目の中を見つめ合っていた。

「ちょっと飲み過ぎたわ」と私は言った。

「私の部屋で、コーヒーでも飲む?」

「ええ」

 誘ってしまった、と私は思っていた。

 ほんの気まぐれに、年下の男を誘ってしまった。

 恋人の顔が脳裏に浮かぶ。

『あなたが悪いのよ』と私は、心の中で言い訳をした。

「ちょっと待っててね。何かまずいものがあったらいけないから」

 ピーターが部屋の外で待っている間、私は恋人のスリッパとガウンを隠した。別に隠す必要もないのに、と心の中で思いながら。

「どうぞ。ちらかってるけど」

 ピーターが部屋に入ってくると、私はかなり緊張した。

 軽はずみなことをしたのではないだろうか。

 尻軽な女と思われたのではないか。

 コーヒーを沸かしながら、私は様々な場面を思い描いていた。

 自分から誘っておいて。

 私達は、ソファにもたれて、他愛のないことをしゃべりながら、コーヒーを飲んだ。

「ボクは、今日中にしなければならない仕事があるので、これで失礼します」とピーターは立ち上がった。

 あら、と私は思った。

 彼は、ゲイなのかしら。

「企画を考えるの、得意ですか?」とピーターは突然言った。

「明後日、ボクの誕生日なんです」

「企画は得意やないけど、アイディアならいくらでもあるわ」

「じゃ、明後日」

 ウーン。

 企画。

 私は、かなり悩んだ。

 ゲイでもかまわない。

 彼と話すのは、本当に楽しい。

 いい友達になれると思う。

 二日二晩悩んだ結果、私はピーターに女装させてやろうと考えた。もし、彼がゲイなら喜んでくれるかもしれないし、ゲイでなくても、ピーターに女装させるのは、楽しい気晴らしになるだろう。


 当日、私は大きな荷物、つまり衣装に靴、かつらにメイキャップ道具一式、それから大きな眠り心地のよさそうな枕の入った袋を抱えて、約束の場所に向かった。

 時々、自分がひどく場違いなことをしているのではないか、という気になった。

 折しも、雨が降ってきて、企画の中止が正解だと告げているような気がしたものだ。

「あなたの部屋に行って、この荷物を置きましょう」

 ピーターは、この間と同じ調子で話そうとしていたが、私はピーターの顔をジロジロと観察し、時にクスクス笑うので、勝手が違う様子だった。

「ボクは、何かの扮装をするの?」とピーターは尋ねた。

「そう」

 アンタは鋭い! と私は思った。

「まさか、女装させるんやないやろね」

「さあ」と私はクスクス笑いながら、自分の想像を楽しんだ。

 ピーターのアパートは思ったよりも綺麗だった。

「さ、服を着替えて、街に出るのよ」

「それよりも、ゆっくりして、ビールでも飲もう」

「だめ。折角企画して、ここまで準備したんだから、やるの。ここまで準備してもらって、ラッキーやと思いなさい」

「誰が思うか」とピーターは抵抗した。

「今日は、アンハッピー・バースデイや。それよりも、ワインでも飲もう」

 私の意志は鋼鉄よりも固く、とうとうピーターは諦めた。

「ボクだけ女装するんは、アンフェアや。自分も男装しろ」

「イヤよ。今日は、あなたの誕生日よ」

「そんなアンフェアな仮装はできない」

「わかったわ。やればいいんでしょ。さ、どれを着ればいいの?」

 ピーターは、自分の服を点検しているようだった。

「アレがいい」と私は花柄のシャツを指差した。

「これやったら、女でも着る」

「ばれたか」と私は舌を出した。

「これとこれ」とピーターは、白いシャツと黒のパンツを出してきた。

「OK」

 私は、スカートの下にパンツをはき、スカートを脱いだ。それから、着ていたメイド・イン・インディアのシャツを脱ぐと、白いシャツを着た。

「色々服を用意してきたけど、この服が一番ルーズで、あなたに似合うと思う」と私は、自分の着ていた服をピーターに渡した。

「このストッキングは、新しいものやないけど、一番ルーズなやつ」

 女装したピーターは、やはりかなり不気味に見えた。

「待ってね」と私は、かつらを取り出すと、うまくピーターの髪に合わせようとした。

『髪の質が違う』と私は思った。

 ピーターの髪は硬い。

 かつらの髪は柔らかい。

「OK。これでいいわ。後はメイキャップ」

 私は、乳液を手につけて、ピーターの顔に塗ろうとしたが、彼はそれだけは頑強に拒んだ。

 仕方無く、私は「動いたらダメよ」とピーターの唇に口紅をひくだけにした。

「うーん」と私は、四方八方からピーターの顔を子細に点検した。

 やはり、男の顔だ。

「歩き方が悪い!」と私はピーターの脚をピシャッと叩いた。

 まだ、「ワインを飲む? サケ・ワインもある」と未練がましいピーターを叱咤激励して、私達は、外に出た。

 夏の終わりで、まだ外気は暖かく、しばらく歩くと汗が滲み出してきた。

「カップルの場合、男は女を見て、女は女を見る」とピーターが言った。

「そう? 私は、どっちも見ないけど」と私は言う。

 誰か人が通り掛かる度に、私とピーターとは、今の男または、女がどちらを見たかを、話した。

 私達は、長い間、黙々と歩いた。

 ピーターの歩き方は、女性のそれになってきており、後ろから見ると、ちょっと長身だけれど、中々の美女に見えた。

「前を歩いて」とピーターが言った。

 私は、ピーターの前を歩いた。

「ようそれだけ、男みたいに手を振って歩けるわ」

 途中でおなかがすいてきたのに、気がついたけれど、結局、またピーターのアパートに帰るまで、かなりの距離を黙々と歩いていた。

 アパートに帰ったとたん、ピーターは、「ああ!」と叫んで、床に倒れた。

 ピーターのスカートからは、ストッキングに包まれた脚が見えた。

 私は、その時、自分が男の目でピーターを見ているのに、気がついた。

 スカートの中に手を入れ、ピーターを押し倒したい衝動にかられた。

 鉄の自制心だ、と私は自分のセルフ・コントロール能力を思った。

「鏡を見てごらん。ほら、完全に女の顔になっている」と私は言った。

 ピーターは、本物の美女だった。

「男の目をしてる」とピーターは、私に言った。

 残念なことに、ピーターは服を着替え、私は、「これは、私の責任だから」とピーターの口紅をクレンジング・クリームで落とした。

「キスしていい?」とまだ男の気分の残っていた私は尋ねた。

 ピーターは、内気な女みたいに、微かにうなずいた。

 キスする時、ピーターの唇が震えているのがわかった。

 だから、私は、処女を扱う中年男みたいに、軽く唇に唇を触れた。

「送っていく」とピーターは言った。

 オー、ノー! とまたも、私は思った。

 彼は、本物のゲイになってしまったのかもしれない。

 ピーターは、律儀に、私を私のアパートまで送ると、「じゃ」と言って帰って行った。

 一体、何を考えているのかわからなかった。

 私の企画は失敗だった、と私は一人で爪を噛みながら思った。

 あの楽しい雰囲気を、見事にぶち壊してしまったのだから。


 恋人のポールからの連絡は、相変わらず無かった。

 彼は、いつも居場所のわからないフリーのコレスポンデントだった。

 私は、いつも一方的に待つだけの存在だった。

 ポールへの情熱が続いていた間は、待つだけの存在でも、私はそれなりに幸せだった。

 ポールは、トーキョーから、シンガポールから、サイゴンから、パリからニューヨークから、電話をくれた。

「ダーリン、愛してるで」というポールの声を聞くだけで、満たされてもいた。

 けれど、今の状態で、もう愛のかけらの残りもわずかな恋人からの連絡を待つだけの生活は、私には、耐えられなかった。


「ハイ、メアリー」とピーターから電話がかかってきた。

「昨日は、随分歩いたから、倒れているんやないか、と心配で」

「嬉しい」と私は答えていた。

「心配してくれたんやね」

「そら、心配や」

 そして、ピーターは、私の部屋に来ることになった。

 最初にポールが部屋に来るようになった日のように、私はイソイソとして、ステーキとサラダ、バターコーン、ええとそれからそれからと材料を整えていた。

 自分を愚かだとは思った。

 ウィミンズ・リブ、または、フェミニズムの運動に反対するような行動だ。

 私は、保守的な地域の出身だったし、頭では、そういう思想に共鳴していても、つい母のような祖母のような行動を取ってしまうのだった。

「メアリー、ごめん。ちょっと遅れる」とピーターは電話をかけてきた。

 ポールなら、決してしない行為だ。

「うー」と私は、不満の表明にうなった。

「ごめん、ごめん」とピーターは謝る。

 また電話のベルが鳴る。

「メアリー、ごめん。もう少し遅れる」

「うー」とまた私はうなったけれど、ピーターを責めているわけではなかった。

 刻々と電話をくれるピーターに、温かい気持ちを抱いていたのだ。

 ポールとの間では、決して無かったことだ。

 ポールの電話は、いつも一方的で、いつも私が待っている方が悪いという言い方だった。

「ポール、今日来るの? 来ないの?」と尋ねる私に、「それだけ言われたら、もう行く気が無くなるわ」と平気で来ない恋人だった。

「どうやって、トーキョーから、今、君のところに行けると思うんや?」

「トーキョーにいるの?」

「そんなことぐらい、わかってると思ったんやけどね」

「ごめんなさいね」といつも私は、謝っていた。

 だから、ピーターが遅れてきた時、私は、ピーターを蹴るジェスチャーをした。

 これは、ずっと長い間、私がポールにしてやりたいと思っていた行為だった。

「ごめん、ごめん、ごめん」とピーターは謝り、「うう、もう」と私はうなった。

 私は、ピーターにステーキを焼き、サラダを出し、バター・コーンを作った。ベーコンと豆のソテーは、遅れた罰に出さなかった。

 私は、この何日かの間、ピーターのことばかり考えていた自分を思った。

 ピーターは、この日、元気がなかった。

「恋人がいるのかな?」と仮装の日、私は軽い気持ちで尋ねた。

「いや、おらへん」と答えるピーターの声に、軽い戸惑いの色があった。

 ふーん、とその時の私は思った。

 別に、ピーターに恋人がいてもおかしくはない。

「また、振られてしまった。これで、3回目や」とピーターが言った。

 今日のピーターは、いつものピーターではなかった。

 もっとも、いつものピーターなんて、私は知らないのだけれど。

「どういうこと?」と私は尋ねた。

 ピーターには、前の年から結婚を約束した恋人がいたことを知った。

 その女は、ピーターの会社の隣の席の女だという。しかし、ピーターは、すぐに振られてしまった。

 その理由というのも他愛のないことだった。

 もしも、そういう理由で恋人でなくなるなら、私とポールなんて、恋人でも何でもないのだった。

「最初の女やったしな」とピーターは言った。

 その女が、忘れた頃に、ピーターの貸している本を黙って返してくるのだと言う。そして、その度に、ピーターは、ひどいショックを受ける

 オー・ノー! とまた私は思った。

 彼は、ゲイではなかったけれど、自分を捨てた恋人を忘れられないでいる男だったのだ。

 恋人だった女は、ピーターが煙草を吸うのが気にいらない。

 ピーターが、自分の思う通りに動かないのが気にいらない。

 ピーターと自分の価値観が違うのが気にいらない。

「価値観が違うから面白いのやないの」と私は、ポールとの仲を考えながら言った。

 しかし、そうだろうか、とも私は思った。

 私も、ポールとの価値観や人生観の違いで、随分と苦しんできた。

「何やの、その女!」と私は叫んだ。

「私は、男を捨てたことだってあるけれど、それほど意地の悪いことなんかしたことがない」

 私は、ピーターの目を追っていた。

 彼の目は、本当に悲しそうに見えた。

 その目は、私の心を掻き乱した。

 こういう目は、今までに見たことがない、と私は思った。

 ピーターは、傷心のまま、私の部屋から帰って行った。

 どうすればいいのだろうか。


 私は、ピーターのオフィスに電話をかけることに決めた。

 考えてみれば、私は、今まで自分の方から男に電話をかけたことがないように思った。

 私は、いつも、『待つ女』だった。

 いつも、ひたすら、相手からの電話のあるのを待っていたのだった。

 自分の方から連絡を取るなどという方法があるなんて、ピーターとのことがあるまで考えてみることもなかった。

「ハイ、ピーター」と私は、半ば脅えながら電話をかけた。

「ハイ」とピーターは答えた。

「ね、仕事の場に電話をかけてくるな、って言って」

「え?」とピーターは戸惑った。

「私、昨日は、悲しくて泣いていたの。ねえ、愛してるって、言って」

 これは、私の本当の気持ちだった。

 その女のいる前で、『愛している』と言って欲しかった。

「そんなこと、言えるか」とピーターは言った。

「もう!」と私は、悲しい気持ちを抱きながら言った。

「それじゃ、アカン。もっと本気でシナリオを考えて、練習しなくちゃ」

 私は、自分の心が乱れているのがわかっていた。

 ポールとの間では、待つのが普通だった。でも、そんなことは、私の本当の欲望ではないということに気がついた。

「ハイ、メアリー」とピーターから、その日のうちに、電話があった。

「シナリオを煮詰めて、練習しよう」

「シナリオて何の?」と別のことを考えていた私は尋ねた。

「ほら、今日言うてた」

「ああ。そうね」と私は、波立ち騒ぐ自分の心を抑えながら言った。

「だから、仕事中に電話をするな! って、強い声で言って。それから、愛しているって言って」

「男は、そんなこと、仕事の場では言わへん。」とピーターは言い張った。

 で、ピーターの言う通り、ピーターの台詞は、

『オフィスに電話するなて言うてるやろ』

『何で泣いてるんや』

『後で電話するから』に決まった。

「私は、その間、エイ・ビー・シーて言うてるからね。」


 その日、私は、自分の心と身体が二つに引き裂かれるような気分を味わった。

 ポールとの間では、こんなことは日常茶飯事で、それほど心を悩ますことでもなかったけれど。

 なぜ、私の心は、これだけ乱れるのだろうか。

 食事は喉を通らず、夜は一睡もできず、体重は減り続け、身体中の力が抜けていく。

「ハイ、メアリー」ピーターの元気な声を聞くのが辛い。

「一度、リハーサルをした方がいいと思って」

「リハーサルね」と私の声は震えた。

「アカンわ、本気になってしまった。何か、気分が悪いの」

「大丈夫か? 明日にしようか?」

「大丈夫よ。明日まで持ち越したら、もっと気分が悪くなるわ」と私達は、リハーサルをすませた。

「じゃ、電話、待ってるから」とピーターは、電話を切った。

 私は、ソファに横になった。

 起き上がれないくらい、自分が参っているのがわかった。

 電話のベルが鳴る。

 電話に出るのも億劫だ。

「ハイ、メアリー」

 ピーターだった。

「ハイ」

「もうやめよう」とピーターが言った。

「電話なんかせんでいいから」

「本当にいいの?」

「うん」

「ああ、ホッとした」

 やはり、電話の一件が、私の気分を滅入らせていたのだ。

 なぜだろう。

 たかが、電話をかけるだけではないか。

 この胸の痛みは、一体何なのだろう。

 この胸の苦しさは。

 なぜ、夜毎にピロウを濡らすのか。

 なぜ、ピーターに『愛している』と言わせたいのだろう。

 ピーターは、一度も『好き』だとも『愛している』とも言ってはいないのに。

 それどころか、『また会いたい』とも『チャーミングだ』とも何も言ってはいないのだ。

 まるで、ジャパニーズのプライム・ミニスターみたいに、肝心なことは何も言わない。

 そのくせ、密かにアメリカを買い占めてしまう。

 彼はジャパニーズで、私はアメリカだわ、と私は思った。

 OK。

 それならそれでいい。

 私は、買い占められたアメリカになってやる。

「ハイ、ピーター」と私は、ピーターのオフィスに電話をかけた。

「声が聞きたかったのよ」

「ハイ、メアリー」

「隣の席の女はいるの?」

「うん」

「じゃ、ものはついでやわ。リハーサル通りにやりましょう。はい、『オフィスに電話をするなて言うたやろう。』から」

「オ、オフィスに電話するなて言うたやろう」

「だって、ピーターの声が聞きたかったんやもん」

「……」

「『何を泣いてるねん』」

「今、どこにおるんや?」

「ここ。台詞が違うでしょ?」

「泣くことないやないか」

「ねえ、愛してるて言うて?」

「また、電話するから」

「台詞を抜かした。じゃ」

 終わった。

 ピーターの失恋の雪辱戦。

 愚かな私の胸の痛みを残して。

 ピーターの恋人は、またピーターのところに戻るだろうか。

 いいわ。

 もう私には関係ないわ。


「ハイ、メアリー」とポールから電話があった。

「愛してるで。やっと戻ってきた。愛しのホーム・タウンに。さあ、どこに行こう?」

「ポール。会いたいわ」

「わしかて、そうや。いつもメアリーのことばっかり考えてたで」

「本当? 嬉しいわ」

 まるで、離れていた間に何もなかったかのように、ついさっき別れたばかりのように、ポールが戻ってくる。

「ずっといられるの?」

「アカン、アカン。ずっとなんかいられるかい。メアリーに会いたいだけで戻ってきてんで。早、顔よう見せてくれ」

 今は、ポールのことだけ考えよう、と私は思う。

 ポールはセカセカと食事をし、ガブガブとワインを飲み、唾を飛ばしながら、世界中のニュースを話してくれる。

 合間合間に「愛してる』と『今日も美人や』『世界一チャーミングや』ということばをはさみながら。

「何や、メアリー、聞いてへんのかいな」

「え?」と私は、我に返った。

 ピーターのことを、自分がボンヤリと考えていたことに気がついた。

「今日は、大事な話をしに帰って来てんで」

「大事な話?」

「そうや。ポール・ワードプロフェサーいう署名記事が、世界中の新聞に載る」

「まあ、ほんと? ステキね」

「わしは、トーキョーに定住することに決めた」

「まあ、トーキョーに」

「そやから、ここはもう引き払って」

「待って、ポール。どういうこと?」

「プロポーズしてるんやないか。メアリー・ワードプロフェサーになってくれて言うて」

「まあ、ポール。あんまり急な話だから……」

「何や。メアリーの喜ぶ顔が楽しみで帰ってきたのに。わしを愛してる言うてたんは、嘘やったのか」

「嘘じゃないわ、ポール。でも、今、自分でも自分がよくわからないの」

「ガッデム。わしが世界中を飛び回ってたのは、この日のためやったのに!」

「そうだったの?」

「当たり前やないか。そんなこともわからんかったんか」

「わからなかったわ。言われないことは、わからないわ」

「ジャパニーズの女みたいにスマートになれよ」

「私は、ジャパニーズに征服されたアメリカよ」

「何をわけのわからんこと言うてんねん。もう出るぞ」

 ポールとは、当然のようにセックスをする。

 当然のようにエクスタシーに達する。

「メアリーのおるところが、わしのホーム・タウンや」

 遅かったわ、ポール。

 メアリーは、待ちくたびれたの。


「ええか。よう考えとけよ」と言いおいて、ポールはどこかの国のどこかの大使館を目指して飛んで行ってしまった。

 もう、そんなことはどうでもいい。

 何もかも、どうでもいい。

 私は、もう若くはない。

 何の才能があるわけでもなく、長年愛し合ってきたポールと結婚するのが、一番私に相応しい道なのだろう。

 でも、今は、もうそんなこと、考えたくもない。

「ハイ、メアリー」とピーターから電話があった。

「ハイ、声が聞けて嬉しいわ」

「どうしたの? 元気がないみたいやけど」

「元気よ、ピーター。一度、あなたを殴ってやりたいわ。いや、一度では足りへんわ。三度殴ってやる」

「かまへんで。殴らしてやるわ。今から、そっち行こうか?」

「来てくれるの?」

「うん。そやから、殴る練習しとき。腰入れてワン・ツー・スリーで殴るんやで」

「教えてくれる?」

「いいけど、ボクより強くなられたら困る。じゃ」

 ピーター、ピーター、と私は思った。

 何でそんなに優しいの。

 会いたくなかったわ。

 しかし、私は思い直した。

 やっぱり会いたかった。

 ね、ピーター、私は長い間の恋人と別れるの。

 あなたのせいよ、ピーター。

 でも、私は、あなたを縛るつもりはないから、安心して。

 私は、自分の心だけを大事にするわ。

 あなたに何も望まないわ。

「メアリー、ごめん、ごめん。遅くなった」

「もう」と私は、口をとがらせた。

 私は、ピーターに甘えている。

「ちょっと待ってな。殴られる準備するから。ちゃんと練習したか?」

「汗ビッショリになるまで、2時間、ミッチリ練習したわ」

「さ、殴ってもいいで」

「やっぱり無防備の人間は殴れへんわ。ピーターも構えて」

「アカン。反射的に殴ってしまったら、殺してしまうかもしれへん」

 ワン。ツー。

「よし。腰が入ってる」

「やっぱり、無防備な人間を殴るのは、イヤやわ」

 構えたピーターを、私は思い切り殴った。

「今ので、精一杯か?」

「そうよ。もうアカンわ」

「女にしたら、いいパンチしてる。女相手の喧嘩やったら負けへんで」

「そんなことで褒められても、嬉しくないわ」

「けど、おかしいな。殴られるような覚えはないけどな。殴る相手は、ボクでないとアカンかったのか?」

「そうよ。誰かれなく殴ってたら、私は、まるで歩く凶器やないの」

「そうか」

「ジャパニーズごっこをしているみたい。ジャパニーズみたいに、あなたの手を読んであげましょうか」

「うん」

「ピーター、あなたは出世しない」

「うん」

「ピーター、あなたには芸術的才能がない」

「うん」

「ピーター、あなたは長生きできない」

「そうやろな」

「綺麗な手ね、ピーター」

「小さな手やろ」

「綺麗な手だわ、ピーター」

 私は、両手で祈るようにピーターの手を握った。

 こんな風に、人の手を握ったのは生まれて初めてだった。

 ピーター、愛している、と私は思った。

 愛されなくてもかまわない。

 私は、ピーターを愛している。

 理由なんて何もない。

 ポールには、多分、世界中から富と名声が集まるかもしれないけれど、ピーターには何もない。

「そんな風に、女の人に手を握られたのは初めてや」とピーターは言った。

「ピーター、キスしていい?」

「アカン」

「どうして? ジャパニーズみたいに、コッソリと」

「今はアカン。帰る時に、キスしてあげる。ジャパニーズみたいに」

「じゃ、こことここに」

 私は、ピーターの頬と額にキスをした。

 何で、こんなに可愛いのだろうか、と私は思った。

 

「メアリー、愛してるで。考えてくれたか?」

 ポールからの国際電話。

「こっちは、もう準備OKや。トーキョーの物価は高いから、鶏小屋みたいなアパートを借りた。これを、ジャパンではマンションていうのやそうや」

「そう。マンションね」

「いつ迎えに行ったらいい?」

「ポール、あのね、私……」

「ピーターたらいう若い男のことかいな」

「そう。知ってるの?」

「ジョンが知らせてくれたわ。わしは、一回や二回ファックしたぐらい、何とも思ってないわ」

「してないのよ、ポール」

「それやったら、何のための若い男やねん」

「愛するための男」

「しょうもな。若い男と付き合うて、頭までガキになったんかい。メアリー、自分に必要なのは、休息や。ずっと言うとった温かい穏やかな生活や。わしほど、自分のこと考えて、わしほど愛している男がどこにいてる?」

「その通りだわ、ポール」

「さ、アホなこと言うてんと、いつ迎えに行ったらええか言うてくれ」

「迎えには来ないで」

「ええか。よう考えてみい。その男が30になった時、自分は何才になるねん」

「よく考えたわ。41になる」

「男は、39や」

「私は、50」

「それでようわかったやろ。メアリーが50になった時、優しい夫のポールは、58。世界中の富と名声を掻き集めた頃や。ポールの傍らには、いつもメアリーがいる。それから、可愛い子供達。その頃、その若い男は、同じように若い女と結婚する」

「それも考えたわ」

「それで?」

「私は、一人で泣くことにしたの」

「メアリー、自分は病気や」

「そうよ」

「これほど頭の悪い女とは思わんかった」

「私は、バカなアメリカよ。金のチョップスティックスでライスをつまむ、小さな口の女とは違うわ」

「メアリー、トーキョーに来てみたら、わかる。メアリーの方が、本物よりももっとジャパニーズや」

「そう?」

「アカン。時間や。また電話する」


 午前6時。

 外は雨。

 ピーターからの連絡は、まだない。

『ピーター、会いたい!』と私は、思う。

 けれど、若いピーターは、仕事に趣味に、そして、ガールハントに精を出しているのかもしれない。

 外は、暴風雨。

 ハリケーンが暴れている。

『ピーター、会いたい』

 けれど、無情な雨と風は、私の心を吹き飛ばしていく。

「ハイ、メアリー、愛してるで」

 ポールからの国際電話がかかる。

 私の心は揺れる。

 まるで、ハリケーンに揺れる草木のように。

「準備OKや、メアリー」


 ピーター。


 会いに来て。






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