表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴァレンタイン・ギフト  作者: まきの・えり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/8

 フィーバー FEVER

  フィーバー FEVER

 しまった、と私は思った。

 それは、私が考えていたようなことではなかった。

 男は、長い間モタモタした末に、私の衣服をはがし、私の身体に手を触れ、奇妙な醜い動きを始めた。

 しまった、と思ったのは、その時だった。

 それは、もっと簡単で、もっと単純で、もっと面白いものだろうと考えていた。

 もっと美しいものではないか、とさえ考えていたのだった。

 額に降りかかる男の汗が厭わしい。

 身体中を探る男の手が厭わしい。

 もっとイヤだったのは、私の唇を探す男の唇だった。

 私は、首を横に向け、男の唇が、私の頬に触れるのを、ゾッとする思いで我慢していた。

 何て愚かなことを考えたのだろうか、と私は思った。

 一度、男と寝てみようだなんて。

「君は変わった女だね」

 何もかもが終わった後、顔をそむけている私に、男は言った。

 顔を斜めに傾けると、男は手にしたライターで、口にくわえた煙草に火をつけた。

「吸う?」

 私は、首を横に振った。

 何が起こったのか、ゆっくり考えてみないといけないと思った。

 私の心の内側に起こるだろう変化の質と量を見極めて、整理してしまわなければならない。

 私は、天井を見つめたまま、しばらくジッと待っていた。

「帰ろうか?」と男はソワソワしながら言った。

「待って」と私は言った。

「もう少し」

「動けないのか?」と眉に縦じわを寄せて、男は不安そうに尋ねた。

 すんでしまったことは仕方がない、と私は思った。

「君が誘ったんだぜ」と相手は、自信のなさそうな声でつぶやいた。

「そうね」と答えたその時に、私の身体の中央から、不思議な喜びが、さざなみのように広がっていき、両方の手足にまで届いた。

『私は、男と寝たんだわ』

 私は、心の中でニヤリと笑いながら、わざとらしく思ってみるのだった。


 気分が不思議に浮き立っている。

 男と寝たせいだわ、と私は思った。

 そう思おうとした。

 しかし、私の頭と心には、ほんの少しのズレがあった。

 私の頭は、新しい経験に有頂天になろうと努力していたが、私の心は、頭で思おうとしているほど喜んでいるわけではなかった。

 つまらないことをしてしまった。

 心は奥の奥の方で、私の頭に気付かれないように、ほんの少しの後悔をしている。

 一日経ってみると、男と、それも顔も名前も知っている男と、初めての経験を共有したということが荷厄介にも感じられる。

 どうせ同じことをするのなら、見知らぬ行きずりの男の方がよかったのかもしれない。

 それなのに、気分だけが浮いている。

『講義は受けなくちゃ』

 私は、自分のベッドからノロノロと起き上がった。

 変化と刺激が欲しかったのは確かだけれど、それはこんなものではなかった、と気がついていた。

 フランス語の教授の醜く鼻を鳴らす音と、ゼミの教授の皮肉っぽい顔が、妙に懐かしい。

 それも、思えば奇妙なことだ。


「ハーイ」と彼女が呼びかけた。クラスメイトの中井綾子だ。

「こんにちは」と私もいつものように答える。

 何となく、彼女の顔が眩しく見える。

「あたしのおじさまがね、今日来るのよお」と彼女は、屈託なく笑った。

 彼女は、有名な作家であるおじさまと、優秀な成績でT大に入学したいとこと、医者の卵から1カラットのダイヤモンドの婚約指輪をもらったお姉さんが自慢だった。

「随分、久しぶりね」と私は言った。

 平静さを装いはしたが、心にさざなみが立っているのがわかっていた。

「そういえば、そう。お正月以来よ。何ヵ月ぶりかしら。ねえ、あなた、今度こそ遊びにきてみたらあ。紹介してあげるから」

「ええ、ありがとう。でも、ちょっと考えさせて」

「親友のあなただから、紹介してあげるのにい」

 私は、いつの間にか、彼女の親友ということになっていた。

『親友の瀬川さん』『親友の瀬川さん』と彼女が誰かれかまわずに『親友』を連発する時、私は、『親友』の大安売りだ、と内心考えていた。

「有名人だから、緊張してしまうんでしょ。みんな緊張するみたいだけど、でも、おじさまは、全然怖くないわよお」

「そうでしょうね」

 確かに彼女のおじさまは、かなり名の通った作家だった。

『大作家』と呼ぶ人達もいる。

 私の友人達は、『エロ作家』と呼んで、彼を馬鹿にしていたが、私は、そのどちらでもなかった。

 私は、ずっと彼を知っていたのだ。もちろん、一方的に。

 彼の作品は、すべて読んでいた。それも隠れて密かにコッソリと、誰にも知られないように読んでいたのだ。

 私は、作品を通して、『彼』を読んでいた。

 ある時は、イライラしながら書きなぐり、ある時は、かんしゃく玉を破裂させる。

 一つの作品を仕上げるのに、何日も何日もかけている時もあれば、一気に書いてしまった時もある。

 悲しい日には楽しげに、嬉しい日には淋しげに。

 または、喜びの気持ちをを喜びのままに、孤独な気分をを孤独なままに書いてしまう時もある。

 ある時は、自己嫌悪にかられながら、ある時はイヤイヤながら書いている。

 私は、新しい本を読む度に、彼のことを心配したり、彼と一緒に悲しんだり、彼の幸せを喜び、彼の孤独を共有したりしてきたのだった。

 多分、彼のファン達は、みんな、同じ気持ちになるのだろう。

 そんなことは重々知ってはいるのだけれど、私だけが、彼の唯一の理解者で、唯一の読者なのだという夢想は、誰にも知られたくはないものだった。

 公にされている文章から、自分だけの喜びを盗み出して悪いわけではないけれど、それと、実物の彼に会う、というのは、また別の問題だった。

 本当のことを言えば、私は、彼を見たくはなかった。

 自分の夢を壊したくはなかった。

 会って失望するのが怖かった。

 それなのに、彼が、よりによって、中井綾子のおじさまだなんて。


「おじさまあ」と中井綾子は、いつもの甘えた声を出していた。

「こちらが、私の一番の親友の瀬川啓子さん」

「やあ、はじめまして。アーヤのお守りは大変でしょう」と彼が言った。

「こんにちは」と私は言った。

 一瞬、彼は値踏みするような視線を私に向けた。

 私は、内心、ムッとした。だから、来るのではなかったのだ。

「瀬川さんはね、おじさま、おじさまの大ファンなのよ」

 私は、ギョッとした。

 なぜ、彼女がそんなことを知っているのだろうか。

「瀬川さんの本棚の奥の方に、おじさまの本が隠してあるの、見たんだもの。だから、絶対に、おじさまに会わせてあげようと思っていたのよ」

「ほお。それは、光栄ですね」と彼は、私に微笑んだ。

 私は、呆然としたまま、彼の微笑の下のウンザリした表情を眺めていた。

 こんなことは、本当によくあることに違いない。

 ファンだという人達が、それこそウンザリするほど、彼を悩ませにくるのだろう。

 私も、その一人だと思われているのだった。

「先生の最新作、拝読いたしましたわ」と私は、彼の顔を見ずに言った。

 色々な書評で褒めてあった作品だ。

『軽妙なタッチの佳作』ということだ。

 しかし、私は、彼が額に汗を滲ませながら、一字一字彫りつけるように書いていたのを知っていた。

 一行を書いてから、何日も書く作業から離れ、また一行を刻む。そうして出来上がった作品なのだった。

「すらすらと簡単に文章をお書きになれるなんて、羨ましいことですわ。軽いタッチのステキな作品でしたわ。都会的なセンスとエスプリにあふれていて。透明感の漂う、冴えた筆の運びでしたわね。私、読んでいて、カンドーしてしまいました」

 私は、軽薄に、書評で拾い読んだことをしゃべりちらしていた。

「それは光栄ですね」と彼は言った。

「あなたのように陽だまりと土の香りのする人に、そう言っていただけるなんて」

 私は、ハッとして彼を見た。

 髪に何本かの白髪の混じった中年の貧弱に痩せた男を。

 ハッハッハッハ、と彼は愉快そうに大きな口を開け、虫歯を見せて笑った。

『この男だわ』と私は、ゆっくりと観察しながら、実物の彼を味わっていた。

 私がずっと見てきたのは、まさにこの男だわ。

「おじさまって、トンチンカンねえ。瀬川さんは、都会の人なのよ」と彼女は、すねたように、唇をとがらせた。

「アーヤには、わからないよ」と彼が言い、私の目を、まるで心の中を見るようにのぞきこんでいた。

「そうでしょう、瀬川さん?」

 私は、彼に見られている間、身動きがとれなかった。

 彼の視線が、彼女に戻った時、やっと息を吐くことができたぐらいだ。

 中井邸を後にした時、私は自分が、ひどく動揺していることに気がついた。

 頭と心の95パーセントが、彼のことで占められている。

 いや、それよりもっとひどい。

 ほとんど100パーセント、彼のことばかりを考えているのだった。


「ねえ、あなた」と中井綾子が言った。

「沖田君、あなたの方ばっかり見てるじゃない」

 そして、ウットリとした顔で、目を細めた。

「きっと、あなたのこと、愛しているんだわ」

「そう? でも、それよりも、中井さん」と私は言った。

「本当は、あなたの方を見ているんじゃないの?」

 そういうことは、私には、全然関心のないことだった。

 私は、私の心は、一人の男に占められているのだから。

「まあ、そうかしら。私、困ってしまうわ」

「あなたって、本当にチャーミングだもの。高田君も、岸本君も、加藤君も、いつもあなたの方を見てるわよ」

「まあ、どうしましょう。それでは、私、人気者ってわけね」

「そうよ、人気者なのよ」

 私は、実は、彼女といると、心が安らいだ。

 彼女は、実際に頭が悪いわけではないのに、『白痴的な美人』と思われているところがあった。

 街を歩いていても、よく声をかけられた。

 感受性が内にこもらず、四方八方に放散してしまうたちなのだろう。

 同性からは、わけのわからない反発と侮りを受けてはいたが、異性には抜群の人気があった。

 どこに行っても、必ず幾人かの男達が、阿呆のように口を開けて、よだれを垂らさんばかりに、彼女の姿を追っていた。

 それなのに、彼女ときたら、いつも私の後を追い、私と終始一緒にいるのだった。

 だからよく、私達は、『レズ』ではないか、と陰口をきかれたものだった。

「瀬川さん。」

 声の方に振り返ると、沖田君がいた。

 端正な容姿のクラスメイトだ。

 私は、彼女が、ほんの少し揺らめくのを感じていた。

「こんにちは」と私は言った。

 私は、この冷たくてよそよそしいことばが大好きだった。

「あの……」と沖田君は、口ごもった。

「あの、瀬川さん、ゼミに出る?」

「あ、わかったあ!」と彼女が叫んだ。

「いいわ、私達に、まかせておいて」

 沖田君の顔が、徐々に赤みを帯びてきた。

「代返?」と私は、わざと尋ねた。

「でも、教授は、あなたがいないの、わかると思うけど」

 彼は、私の目をジッと見つめた。彼の端正な顔が、少し歪んで見える。

 私の心の中に炎を送り込もうとするかのように、彼は、数分間、私を見つめ続けた。そして、私は、無関心に、その炎をはじき飛ばした。

「じゃあ、お願いします」と彼は、ついに言った。そして、グイと右手を突き出した。

 自分の手を自分の意のままに動かせないといったぎこちない動作だった。

「今日のゼミのノート、ここに届けてください」

 私の手の中には、長い長い間、手の内で揉みしだかれてクシャクシャになった紙切れが残った。もう、彼は走り去っていた。

 ああ、こんなことは沢山だ、と私は思う。

「やっぱり、沖田君、あなたが好きなのね」

 私は、彼女のベソをかいたような顔を、まるで夢の中の出来事のように見つめていた。

 それっきり、私達は、ゼミが終わるまで、一言も口をきかなかった。


「ねえ、絶対に胸のバッジを見なきゃダメ。K大以外の人とは踊ってはダメよ」と彼女は、何度も何度も念を押した。

 K大主催のダンス・パーティー。

 私は、こんな場面には、本当に場違いな存在だった。

 K大? T大?

 あいにく、私は目が悪く、バッジの模様まで判別できない。でも、彼女の熱の入った話し方に、幾分気押されてもいた。

 私は、曖昧にうなずいた。

 パーティー用のドレスを着た彼女は、抜群の光りようだった。気付いていないのは、本人だけだ。

 各方向から、様々な視線が、彼女目がけて飛んでいる。

「あら、全然、もてないわ」と彼女は、唇をとがらせていたが、本当は、そうではないのだった。

 相互牽制の視線が、各方向から飛び交っていたのだ。

 ようやく、勇気ある一番打者が現れて、周囲の緊張は、一時緩んだかに見えた。

 猫の首に鈴をつける人間が現れたのだ。

 誰かが、私の隣に立ったのが、わかった。

「一曲、踊っていただけませんか、お嬢さん」

 相手の視線が、身体中をなめまわすのを感じた。

「ごめんなさい」と私は、相手の顔を見ずに言った。

 心臓は、早鐘のように鳴っている。

「K大の人以外とは、踊ってはいけないことになってますの」

「おやおや。大したお嬢さんだ」と相手の溜め息の音が聞こえる。

「ボクは、正真正銘のK大ですよ。もっとも、OBですがね」

「では、お相手しますわ」

 驚いたことに、というか、当然のように、彼はチーク・ダンスを始めた。

「ダンスをご存じじゃないのかしら」と言いながら、私は、胸苦しくなっていた。

「私の大ファンのお嬢さん、このまま、ホテルへでも、お誘いしたら失礼ですか?」

「失望させないと約束してくださるなら」

 私は、呆然として、立ちすくんでいた。

 彼は、人前もはばからず、大きな口を開け、腹を抱えて笑っていたのだ。

 私は、屈辱のあまり、全身がカタカタと震えていた。

「いや、失礼」と彼は、虫歯を引っ込めて、真面目な顔になった。

 その表情の変化に、私は屈辱も忘れ、今度は、自分のおなかの辺りが、小刻みに震えるのを感じた。

「もう一曲だけ、お相手願えますか、お嬢さん」

「ええ」

 私達は、つまらないことを大声でしゃべり散らしながら、たえず他の人達の足を踏んでいた。

 話すこと、話したことの意味を考えることなく、純粋に会話を楽しんだのは、生まれて初めてのことだった。

「あ」と彼は、私の楽しみを中断した。

「ちょっと、失礼」

 私は、一人きりで、広いフロアに取り残されていた。

 私は、彼の進む方向を、ボンヤリと眺めていた。

 彼の進む先には、彼女がいた。

 何人かの男達が、険悪な表情で睨み合っている。

 私は、何か物忘れをしたような、空白な気持ちを抱えたまま、彼の後ろ姿を見送っていた。

 私は、何人かの男性と無関心に何曲か踊り、身体だけが、ダンスのリズムを楽しんでいた。

「そうか」と私は、当然最初に思うべきことを、最後になって思った。


『彼は、彼女を守るためにやってきたのだ』と。


「ハーイ」と彼女は、屈託なく言う。

「ハーイ」と私も、同じように答える。

 私は、少し赤面し、わけもなく、彼女の視線を避けた。

「ねえ、瀬川さん、聞いて」

 私は、彼女の求めるまま、喫茶店の片隅の席に、腰をおろした。

「とうとう、なの」

「え? とうとうって?」

「そうなの。あの例のK大の男の子。医学部なのよ。お家もお医者さんの家系で。ねえ、絶対に、おじさまには内緒よ」

 私は、彼女の語る『一部始終』を聞いていた。

「ほーんと、親友のあなたにだけ言うんだから。本当の本当に、絶対の秘密だわ。私って、悪い女なのかしら。でも、おじさまって、本当にうるさいのよ。うちの父以上。それに、このところ、本当に、よくうちに来るの。それで、男の子と付き合う時は、とか、今に、アーヤにはいい結婚相手を見つけてやるとか、ゴチャゴチャゴチャゴチャ言うの。私、おじさまには言わないけれど、本当に、アタマにくるの。まったく、あの男の子に会えたのだって、奇跡に近いわ。だって、おじさまが、ダンス・パーティーの会場に来るなんて、誰に考えることができるの? あの時だって、怒って家に連れて帰るんだもの」

 私は、私で、あの時のわびしい気持ちを思い出していた。

 もしも、男の子の群れに囲まれていたのが、もしも私なら、彼は、怒って連れて帰ってくれただろうか。

「それにね、おじさまって、ほんとにエッチなんだから。アーヤが姪でなかったら、とっくの昔に女にしてやったのに、とか。あなたは、瀬川さんは、絶対に処女じゃないとか。あ、ごめんなさい。でも、他の男の子も言ってたわよ。あなたは、相当遊んでいるって」

「ええ、そうよ」と私は言った。

「私は、遊んでいるのよ」

「あら」と彼女は、驚いたような表情を見せた。

「あなたが遊んでないのは、私が一番よく知っているわ。だって、いつも一緒にいるじゃない。それに、あなたって、案外、おかたいんだもの」

「それは、あなたと同じ。私は、とっくに処女じゃないし、相当、遊んでいるのよ」

「嘘お! じゃあ、瀬川さんも、誰かと愛し合っているわけなのね。私と大垣君みたいに。毎日でも会いたいわ。私、大垣君のことを考えると、ウットリとしてしまうの」

「未来のお医者さまの奥さま」

「そう、そうよ、そうなの。ステキでしょ。お姉さんと同じ。K大医学部で、その上、あんなにステキで優しいんだもの。私、本当に、とてもステキでいい気持ちだったわ」

 私は、本当に悲しくて、目の端に涙が滲んだ。何が、それだけ悲しいのかわからない。

『親友』と呼んでくれる友と一緒に雑踏の中にいて、宇宙空間に一人で投げ出されたみたいに、一人ぼっちで孤独だった。


『啓子さん』

『よくわかるのね、私のいるところが』

『君のいるところなら、霊感でわかる』

『また、ホテルにでも誘ってくださる?』

『君を失望させない自信ができたらね』

『待っていたら、お婆さんになってしまいそう』

『君は、いつも思いっきりネジを巻いているんだね。今度、ネジで手を叩くお猿のお人形を買ってあげよう』

『嬉しいわ。あなたの代わりに、そのお猿さんと一緒に寝るわ。そのお猿さんと一緒に暮らすわ』

「はい。プレゼント」

 白日夢の続きが、現実に現れるとは思わなかった。

「ありがとう」

 私は、少し顔を赤らめて、彼の手から、ネジで動くお猿のお人形を受け取った。

「おやおや。投げつけられるかと思ったら。本当に、そのお猿さんに恋しているんだね」

「そうよ。毎日、ここを通るたびに見つめてきたのよ。世界中で一番大切なお猿さんなのよ」

「何だか嫉妬でムカムカしてきた。君の彼氏の前で失礼だけれど、お嬢さん、ホテルにでも行かない?」

「いいわよ」

「よし、決まった」

「あなたは、このお猿さんの代わり。そして、私は、彼女の代わりよ」

「ボクは、そのお猿さんに嫉妬し、君は彼女に嫉妬しながら、アムールを楽しむわけだ」

「そうよ。さぞ、楽しいでしょうね」

 そして、走りまわり、笑いさざめき、しゃべり散らし、お酒を飲み、踊り回った後、私達は、沈黙した。

 本当に楽しかったのだ。

「君を失望させてしまったかな」と彼は、おどけた。

 私は、彼の背中に両手を回した。

「お猿さんより、愛しているわ」

 彼の目は、ゼンマイ仕掛けのお猿さんより悲しい。

 そして、私の目は、もっと、きっともっと悲しい。


 空高く浮遊する。

 両腕で雲をつかむ。

 太陽に口づけを。

 地球は、はるかはるか彼方に見える。

 足の下に雲が走る。

 心に斜めに稲妻が走る。

 頭の中に雷鳴が轟く。

 私は、誰?


「あなた達、いい加減にしなさいよ」という声が、遠くから聞こえてくる。

 まるで、自分の声ではないかのように。

 私は、なぜ、こんなところにいるのだろうか。

「いいの、瀬川さん。わたし、今日は、飲みたいんだから。もっとついでよ」と彼女が言っている。

「瀬川夫人、ご主人が睨んでますよ」という男子学生の声も聞こえてくる。

「いやーね。彼女は、私の親友よ。だから、私のこと、心配してくれてるんじゃないの。高田君、加藤君、もっとついでよ」

 二次会にまで出るのではなかった、と後悔が走る。

「バカ!いい加減にしろ」と沖田君が怒鳴った。

 彼女は、驚いたように沖田君の方を見、涙が信じられないほどの大きな粒になって流れ落ちた。

 彼女は、沖田君にしがみつき、涙で濡れた目で彼を見上げた。

 映画のワン・シーンのように二人は唇を合わせ、周りの皆は、一瞬酔いも醒めたかのように、ポカンと口を開けたまま、二人を見つめていた。

 白々とした雰囲気のうちに、ゼミのコンパは二次会で散会した。

 酔いつぶれた彼女は、すーすーと心地よさそうな寝息をたてて、沖田君の腕の中で眠っていた。

「沖田君、送ってあげて」

 タクシーのドアを開け、二人が乗り込むのを見届けてから、私は言った。

「待てよ」と沖田君は、私の腕をつかんだ。

「一緒に乗れよ」

 私は、黙って乗り込んだ。

 腕が痛かった。

 彼女を家まで送り届けると、私達は再び、タクシーに乗った。

「降りろよ」と沖田君は、途中でタクシーを止めた。

 私達は、黙って、夜の河原を歩いた。

「わかってて黙ってるんだろう」と沖田君は、私を睨みながら言った。

「残酷な女だな」

「そうよ」

「しめ殺してやりたいよ」

 私は、顔をそむけた。

 彼の真っ直ぐな視線が怖かった。

「抱きたいなら、抱いてもいいのよ」

「いいよ、もう」と彼は、力なく言った。

 彼は、私の前にひざまずき、大きな両方のてのひらで私の両手を包み込んだ。そして、その上に軽く唇を触れた。

「やめなさいよ」

 涙を流すまいとして、私は横を向いた。

 何て温かい手なんだろう。

 何て、意味のない温かさなのだろう。


「この間ね、例の大垣君にバッタリ出会ったの。私って、まるで悲劇のヒロインみたい。何だか慌てて逃げようとするのよ。彼、本当は、K大の医学部じゃなかったの。私を愛するあまり、嘘をついたのね。でも、K大でなくても、医学部でなくてもかまわない。だって、愛しているのだもの。でも、彼、両親の言いつけでしばらくアメリカに行かなければならないから、もう会えないって言うの。待っているわ、って言おうと思ったけれど、先のことはわからないし、まるで、ロミオとジュリエットみたい。でも、よく考えたら、私、大垣君より沖田君の方が好きなのかもしれない。だって、ハンサムなんだもの。ポーッと見惚れてしまうわ。何かショッキングなことが沢山続いて、頭がうまく動かないのよ。大垣君のことでしょ、沖田君のことでしょ、それから、おじさまのこと」

 私は、ドキッとした。

 上の空で聞いていた彼女の話が、急にトーンが上がったかのように、耳にピシピシと入ってくる。

「それに、街でアメリカに行ったはずの大垣君にバッタリ出会ったら、沖田君は、大垣君を殴ってしまうし、もう何が何だかわからない」

「おじさま、どうかなさったの?」と私は、ついでのように尋ねた。

「そうよ。おじさまのことでもショックなのよ。おじさま、恋人がいるのよ。自分でそう言ったもの。結婚を考えているんですって。ショックもいいところ」

「おじさまは、あなたの崇拝者だったものね」と私は、他のことを考えながら言った。

「そうなの。世界中で一番アーヤを愛しているって言ってたくせに。

 愛って、はかないものなのね」


『お嬢さん、踊っていただけませんか?』

『啓子さん、待っていますよ』

『愛してますよ、啓子さん』

「もう、やめてよ!」と思わず、口に出してしまっていた。

「瀬川君、夢でも見とるのかね。」と教授が言い、クラス中の皆が笑った。

「夜更しは、よくないと思うよ。」

 私は、ムッとした。

「すみません。あんまり講義が退屈だったものですから」

『これで、英文学は不可』と思いながら、私は席を立った。

 自分でも、自分が何にイライラしているのか、理解できなかった。

「お嬢さん、お待ちしていましたよ」

 彼が深々と頭を下げた。

 キャンパス内の教職員の駐車場に、見慣れた車が止めてある。

 私は、知らん顔をして、通り過ぎようとした。

 一体、何の冗談なのだろうか。

 それとも、白日夢の続きなのか。

 胸が苦しいほど、ドキドキしている。

 悪趣味もいいところだ。

「高橋君、お久しぶり」と私はわざと大声を出した。

 例の初体験の相手が、おあつらえむきにキャンパスを歩いてくるところだった。

 彼は、あれ以来、ぎこちなく私を避けようとしている。私と視線を合わせまいとしていた。それでいて、陰で私と寝たこととか、私が大変なプレイガールで、あちこちに男がいるなんていう噂を流しているのも、この男だった。

「アレ以来、どうしてたの?」と私は『アレ』を強調した。

 逃げ腰の相手を追い詰めるのは、その時の私には快感だった。

「お茶でも飲みに行きましょうよ」と無理に腕を組む。

 彼の車は、ソロソロと走り始めていた。

 ピタリと私達の跡をつけてくるつもりらしかった。

 私は、わざと小さな小路や歩行者専用の道を選んで、高橋君を引き回した。すると、相手は行く先々に現れて、ついには、歩道に乗りあげてきた。

「ねえ、そこのお嬢さん、お茶でもしようよ。彼氏も一緒でいいからさあ」

 私は吹き出し、高橋君は、相手がヤクザだと思ったのか、一目散に逃げ出した。

「大した恋人だね、お嬢さん」

 私達は、裏通りの居酒屋で、冷酒を飲んだ。

「大したお茶ね、おじさま」

「ちょっと待った。酔っぱらいの狼になる前に、言っておくことがある」

「なーに、おじさま?」といつもより早く酔いの回った私は、人前かまわず、彼の頬に手を触れた。

「きゃ、おじさまのほっぺた、冷たい!」

「実はね、結婚するんだよ。この歳で生まれて初めて」

「それは、おめでとう」

「ありがとう、見知らぬお嬢さん。おじさまの話を聞いてくれるかな?」

「いいわよ、見知らぬおじさま」

「おじさまのマドンナは、ずっとアーヤだったんだ、お嬢さんも知ってるね。今までずっと独身を通したのは、多分、そのせいもある。ところが、驚いたことに、そのアーヤに瓜二つの女性を見つけてしまった。話し方までソックリで、最初、アーヤがいたずらしてるんじゃないか、と思ったほどだった。会話のあちこちにアーヤの引っかかりそうな罠をしかけてみたけれど、本当に別人。恐る恐るホテルにお誘いしたら、アーヤと同じで有名人が好きなのか、ホイホイとついてきた。しかし、さすがの私も手が出せない。ホテルに入って、手も握らなかったなんて、生まれて初めての経験さ」

「それは、そうでしょうね」

「そして、一昨日のことなんだ。よし今度こそと、その気になって迫ったら、『結婚してくれなきゃイヤ』と言うんだよ。もうこうなりゃ成り行きで、『よし、結婚しよう』と言ってしまった。後悔が無いといえば嘘だけれど、晴れて独身貴族とオサラバさ。さすがにアーヤは、いい顔しなかったけどね。おや、お嬢さん、どうかしたの?」

「お話に感動しすぎて、胸が一杯になったのよ。今日は、これで失礼しますわ」

 頭の中が真っ白だ。

 店を出る前に、何度かつまずいた。

 きっと冷酒が悪いのだ。

 飲んでいなければ、もっと平静に笑って別れることができただろう。

「お嬢さん、送りますよ、ホテルまで」

「また、今度にしてくださらない」

「まあ、乗りなさい」

 思ったよりも強い力で、彼は、私を車内に引っ張りこんだ。

「帰してよ。一人にしてよ」

「まあ、涙をふいて、お嬢さん」

 思った通りの汚いハンカチ。

 ハンカチで顔を覆うと、顔中に彼の匂いが広がった。

「あなたなんか愛しているわけでも何でもないわ。私は、誰とでも寝る淫乱な女よ。さっきの男だって、私の男の一人なのよ」

 私は、涙を流し、鼻をすすりあげながら、次から次に悪態をついた。

「ま、それだけ悪口を言えば、気もすんだでしょう。ホテルにでも行きましょうよ」

「イヤよ、絶対にイヤ! ホテルになんか連れて行ったら、殺してやる。舌をかんで死んでやる」

 私が、一人でわめいている間、彼は静かに運転していた。

 時折、煙草をくゆらせて。

「一本吸うかい、お嬢さん?」

「いただくわ」

「じゃ、生まれて初めての経験といくか」

「バカにしないでよ、煙草ぐらい吸ったことあるわよ」と最後まで言えないぐらいに、煙にむせかえってしまった。

「こんな醜態、生まれて初めてだわ!」

「でも、充分チャーミングだよ、お嬢さん」

 彼は、車を止め、ぎこちなく右の手を延ばし、私の腕をつかんだ。

 彼の手には電気でも流れているかのように、私の身体中が感電する。

 彼に似合わないぎこちなさで、彼は、私を抱き寄せた。

「やめて」

 これ以上、私を苦しめないで。

「やめない。絶対にやめない。美しいお嬢さん、おじさまの思い通りにおなり。おじさまの情婦におなり。おじさまの言うことをお聞き」

 彼のことばは、何かの呪文のように、私の身体中をはいまわった。

 私は、あえぎ、呪縛を逃れようと、首を左右に振った。

「やめて、放して」

 彼は、放さずに、私の両手を開いて、私の指を一本また一本と口に含み始めた。

 もうだめ。そう思ったとたん、私の意識は途絶えた。


「啓子、啓子」と遠くで呼ぶ声が聞こえていた。

 一瞬彼の心配そうな顔を見たように思った。

『もう、いいわ』と私は思った。

「いいわ」と私は口に出して言った。

「抱いてちょうだい、あなたが飽きるまで。情婦にしてちょうだい。私を好きなように扱って。私は」

 思いがけないことだった。思ってもみない強い力で、彼は私を抱擁した。

「許してくれ」と彼は言った。


 ウエディング・ベルが、呆気なく鳴った。

「何てロマンチック。ステキ。でも、おじさまの嘘つき」と彼女が唇をとがらせた。

「おめでとう」と沖田君が、私にキスをした。

 最初で最後の彼のキス。

 二人きりになった時、おじさまは、私の頬にキスをした。

「きれいだよ、お嬢さん。まるで夢みたいにね」

「彼女にソックリな、あなたの婚約者の話を聞かなくては」と私は、彼女の真似をして、唇をとがらせた。

「ボクの次の小説を楽しみにね」

 私は、思いっきり、彼の頬を殴った。

「何よ、何よ、それは何よ」

「その本は、美しいお嬢さんに捧げる。一目で好きになったけれど、この年寄りを愛してくれるかどうかわからなかった美しいお嬢さんにね」

 もう一度殴ろうとした手を、彼は止め、私を慈しむように、その胸に抱いた。

「愛してますよ、啓子さん」

 もう少し何かを言おうとした私の口を、彼は、冷たくて熱い唇で覆った。


 私の心にあった疑問も不平も、アッという間に溶けてしまい、私の心を幸せが占領し始めていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ