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ヴァレンタイン・ギフト  作者: まきの・えり


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 ただ一人の男 I WAS THE ONE

  ただ一人の男 I WAS THE ONE

 「10月6日、午後3時出発」と里美が歌うような調子で言った。

「もう何言うてんのよ。まるでお祭みたいに」

「そやかて、お祭みたいなもんやないの。一人の男と二人の女が、同じ部屋に泊まるなんて」

「そやかて、聞いてみいへんとわかれへんのよ。サトミも一緒に行っていいかどうか」

「あかんかったら諦めるもん」

「何か変なの」

 里美は、私の友人で作家志望の変な女だった。

 一緒に泊まる男も、私の友人で自分で自分のことをヨガの行者だと言っている変な男だった。

 里美は、恋愛小説を書きたいと言っているし、男の方は、今恋愛についての書物を完成させたいと言っている。

 私と男ヨギの間には、何の恋愛感情もなかったし、長年の友人でもあったので、私は、男と一晩同じ部屋に泊まってみて、恋愛について語ることをOKしていた。

 どんなことでも、たとえば、今、私が熱愛している男のことについても話せる得難い男友達の一人だったのだ。

 私は、フリーのコピー・ライターで、企画や編集も専門にしている。

 10年ほど前に、婚約を解消してから、男の友人知人は多かったけれど、一度として恋愛らしい恋愛に発展したことはなかった。

「私は、女としての魅力がないんやろか」と昔からの友人だった里美に言ってみる。

 里美は、私と違って、惚れっぽくて冷めやすいところがあった。

「多分、奈美が男を必要としてへんからやわ」と里美は言った。

「私は、ほんの三日でも自分の男なしにはいられへん。どんな男かっていい。私の男やったら」

「フーン。私、そんなんわからへん。仕事してる時と仕事の話してる時が、一番の幸せ」

「ハハハ」と里美は笑う。

「あなたは、仕事と恋愛してるんやんか。それは、世の中一般の男と同じ」

「ふーん。それやったら、私は男やいうわけ?」

「多分ね」

 複雑な気持ちだった。

 私は、男?

 そういえば、小さい時から、私は男になりたいと思っていた。

 女なんて、自分の母親で充分。

 婚約を解消しようと思ったのも、相手が私に『妻』『母』『主婦』しか求めてはいないのがわかったから。

 『人間』としての私なんて、全然求めてはいなかった。

 多分、その時は、『女』としての私を求めてはいたのだろうけれど。

 『女』としての私も、相手の求める『女』以外の部分、つまり『妻』とか『母』とかいう機能の部分が、気にいらなかったのだと思う。


「里美は、何で恋愛するん」

 何で、恋愛できるん?

「私?」と里美は、ちょっと考えてから言った。

「多分、自分に自信がないから」

「ええ!」と私は驚いた。

「多分ね」

「ちょっと待ってよ。自分に自信がなかったら、何で男と恋愛なんかできるんよ」

「自信がないから、男に自信を与えてもらうんやないの。そうでなかったら、何のための私の男なんよ」

「ふーん」とわかったような気になりながら、私には、どうしてもわからなかった。

「奈美は、自分に自信があるから、男なしでも平気なんよ」

「そうかな」

「そうやと思う」

 ふーん。ふーん。ふーん。とその時の私は思った。

 まだ、その時には、今の熱愛の相手は現れてはいなかったわけだし、そういわれればそうか、という部分が残ってもいた。


 地域のミニコミ誌のインタビューだった。

 自慢ではないけれど、私のインタビュアーとしての腕は確かで、今まで失敗したことは一度もなかったと言える。たとえ、相手が有名な歌手や俳優であろうが、今をときめく超流行作家であろうが、私は対等に接することができた。

 だって、それは仕事やもん。

 その日は、朝から気分が非常に悪かった。

 前日の仕事の打ち合わせが不調に終わったこととか、自分の兄夫婦の破局を聞いてしまったこととか、以前からイラストを頼んでいた友人との仲が最悪になったこととか、また、生理前でもあって、精神的に不安定な状態だった。

 習慣にしていたジョギングも仕事の多忙のため、しばらくご無沙汰していた。

 頭の中に、いつにないモヤモヤを抱えながら、私は、インタビューの予定になっている公園に向かっていた。

 イヤな予感がした。

 今までになかったことだ。

 ミニコミ誌の編集長は、いつも通り、ピタリと約束の時間に現れたけれど、インタビューの相手が現れなかった。

「多分、仕事でしょ」と編集長は、いつもの通り悠長に構えていたけれど、私のはらわたは煮えくり返っていた。

『私が仕事なら、オノレも仕事やろが』と私は思った。

『約束を破るなんか、幼稚園児以下や』

 だから、約束の相手が現れた時には、私は既に逆上の一歩手前にいた。

「やあ、すみません。約束の時間に遅れちゃったかな?」

 なに! 

 と私は思った。

『約束の時間に、遅れ、ちゃったかな!』

「では、早速インタビューをさせていただきます!」

「おやおや」と相手は悠長に言った。

 オノレは、そういう性格なんか!

「あなた、虫歯があるよ」

「え?」

「前歯が危ない」

「え?」

「そのままだったら、歯槽膿漏になるよ」

「え?」

 嘘!

 あの噂に聞いていた歯槽膿漏!

「ちょっと遠いけど、来てくれる?」

 後は、完全に相手のペース。私は、歯医者は嫌いなの、小さい時から。

 そやかて、アホみたいに大きな口開けなアカンし、あのギイギイいう音聞いてるだけで、頭と心と身体が変になる。

「歯垢がたまってるね。これは、随分長い間、歯医者に行かなかった証拠だ」

「わ、私は、歯医者さんが、嫌いなんで……」フガフガ。

 ギイイ、ガアア、グイイイ。

 本当に、歯医者さんは嫌い。

「もう一度いらっしゃい」

「あ、あのう、インタビューは?」

「ああ、そうか。これは職業病」

 で、ようやく、歯ではない! 気を取り直して聞く。

 はあ。お祖父さんもお父さんも歯医者……はああ……で、それが専門になってしまった。

「けどね、ボクはね、この仕事、好きじゃないんだよ」

「この仕事、好きじゃない……こんなこと書いてもいいんですか?」

「いいよ。本当のことだから」

「で、では、何が好きなんですか?」

「そうだなあ。ボクの前で、安心して大きな口を開ける女の人かな?」

「そ、それは、患者さんのことですか?」

「ま、患者さんのこともある」

「で、先生がお仕事を始められた動機ですが」と私は、いつものようにインタビューを始めたつもりだったけれど、どこかに重い重い澱のようなものが、喉と心の間に引っ掛かっていた。

『ボクは、この仕事、好きじゃないんだ』

『ボクの好きなのは、ボクの前で安心して大きな口を開ける女』

 確かに、私は、安心して、でもないけれど……大きな口を開けた。

「どうも、お忙しい中、ありがとうございました」といつものようにニコヤカに笑いながら、形容不可能な複雑な感情を抱えてしまった私だった。


「さ、これで終了」

「ありがとうございました」

 歯医者さんから解放されて、ホッとしたような残念なような気分を感じる。

「竹下さん、自転車に乗れる?」と歯医者さんが尋ねた。

 私は、ムッとした。

 人をバカにしとんのか、オノレは!

「乗れますよ、自転車ぐらい」

「じゃ、今度、一緒にサイクリングしようか」

「ええ。いいですね」

「コースはボクが考えておくから、竹下さんは自転車の手入れでもしておいて」

「先生の方から連絡くださるんですか?」

「あの名刺の電話でいいんだろう?」

「ええ。こちらから連絡がある時は?」

「ボクの方から連絡する」

「わかりました。じゃあ、ありがとうございました」

 いつものように、私はニコッと笑ったけれど、笑ったのは顔だけだった。

 そうか、と私は思っていたのだった。

 仕事場では看護婦さんや患者さんの目や耳があるし、家庭はくつろぎの場なのだ。

 いつの間にか、自分の心の中に先生が居座っている。

 仕事の場以外で、初めて女性として扱われたからだろうか。

 いや、仕事の場でだって、女として見られたことなどなかった。

『患者やから、先生は優しかったんやわ』と自分に言い聞かせてみる。

 すると、もう一人の私が言う。

『患者をサイクリングに誘うやろか?』


「サトミイ」と私は、里美に電話をかける。

「ねえ、自分の嫌いな人間をサイクリングに誘ったりする?」

「突然、何のことよ」と里美には事情がわからない。

「嫌いな人間を誘ったりすることある?」

「そら、あるでしょ」

「ある? ほんとにある?」

「もう、何のこと言うてるのよ」

「自分でも、何かわからへんねん。けどね、先生のこと考えると胸が痛くて苦しくなる」

「何やの、それ。夜中にわけのわからん電話せんとってね」

「ねえ、サトミ、男を好きになった時、どうなる?」

「どうなるて、好きやな、て思うだけ」

「胸が痛くて苦しくならへん?」

「ああ、男の話か。そんな胸が痛いの苦しいのは、最初のうちだけ。すぐ冷める」

「嘘!」

「大体二週間もしたら冷める」

「けど、もう一ヵ月以上続いている」

「それは長いなあ。キスした? ベッド・インした?」

「そ、そんなことしてへんわ」

「何やの、それ。まるで中学生か高校生の恋愛ごっこやないの」

「恋愛ごっこかあ」

「すること早してしまわへんと、いつまでも持ち越すよ。そうか。ナミは、男に免疫ないからなあ。前言うてた婚約者とは寝たんでしょ?」

「まあ、そら、何回かは」

「そんなもんか。そらアカンわ。そら中学生以下や。ナミのは、男の頭と女の肉体ね。今度、小説のネタにしよう。さて、心は男か、女か。どっちやと思う?」

「女」

「ハハハ」

「何を笑うのよ。人が真剣に悩んでるのに」

「何を悩むの。好きなものは好きで仕方がないやないの」

「うーん」

「何でそこで考え込むの。男なんか掃いて捨てるほどいてるんやから、好きは好き、嫌いは嫌いでいいやないの。ただ一人の男やあるまいし」

「そやね」と言いながら、『ただ一人の男かもしれない』と考えていたりする。

 

「今日は、待たせなかったでしょう」と言って、先生が約束の場所に現れた。

「先生、今日は感じが違いますね」

「こんな恰好してるからかな? けど、白衣着て自転車に乗るわけいかんし」

「私も、こんな恰好してるけど」

「竹下さんも感じが違いますよ。けど、ボクより年上とはカルテ見るまで、思わんかったな」

「保険証なんか出さへんかったらよかった」

「いや。けど、独身やてわかって嬉しかった」

「けど、先生、結婚してはるんでしょう?」

「そうですよ。絵に描いたような幸せな家庭生活ですよ。もう十年になりますけど、年月を経るほど、お互いの理解が深くなっていくような気がする」

「それは、お幸せですね」

 私達は、お互いに黙ってしまった。

「じゃ、行きましょうか」と先生は、気分を変えるように言った。

「山越えのコースですから、暗くなるまでに帰りたい」

 ええ、山越え! と私は思った。

 そんなん生まれて初めて。

 無事についていけるかどうか。

 ええい、なるようになれ!

 走っている間は、何も考える余裕がなかった。

 とにかく先生についていくだけで精一杯。

 先生は、立ち止まらない。

 私が、後ろからついていくのを見越しているように、ドンドン山を登って行く。

 待って、待って、待って。

 私も行くから待って。

「ちょっときつかったですか?」

「かなりきつかったです」

 山頂で、私達はお弁当を食べた。

「ちゃんと後ろについてきてたんで、ビックリしました」

「ついてこなかったら、どうするつもりやったんですか?」

「さあ。そこまで考えてなかったな。きっと竹下さんなら、ついてこれると思ってた」

「それやったら、何でビックリするんですか」

「追求が厳しいなあ。そのおにぎり、もらっていいですか?」

「え? いいですけど」

 私は、ドキドキしながら、先生が私の食べかけのおにぎりをおいしそうに食べるのを見ていた。

「竹下さんが握ったんでしょ?」

「はい」

「竹下さんの味がした」

 自分の顔が赤くなるのがわかった。

「いややわ、そんなこと言われたら、困ります」

「確かめてみようか?」

 先生は、強い力で私の手を握ると、てのひらに唇をつけた。

「ほら、同じ味がする」

「やめましょう、そんなこと」

「やめない。これは、ボクが始めたことだから、ボクが責任を取る。ボクは、竹下さんが好きだ」

「やめて、やめて」と私の口が、どこか遠くで話している。

 先生の唇が、私の一人ごとを封じてしまう。

 先生の腕が、私の身体を強い力で抱き締める。

 私の腕も先生の背中に回る。

 ああ、頭が変になってしまいそう。

 サトミが、前、こんな状態を『はかなくなってしまいそう』と言っていた意味がわかった。

 もう何もかもどうなってもいい。

「さ、理性のカケラが残っているうちに、山を下りましょう」と先生が耳のそばで言った。

「はい」と答えたけれど、私には、もう理性のカケラなんか、どこにも残ってはいなかった。

「髪の毛を乱してしまった」と先生が、私の髪を整える。

 まるで、診察室で患者を診ているような冷静な目で。

「ありがとうございました」とつい習慣で、お礼を言ってしまった。

「ボクは、悪いことをしたとは思っていない。だから、謝らない。さ、山を下りよう」

「はい」

 下りは楽だったけれど、心は空っぽだった。

 飛び過ぎて行く風景。

 目に入っては逃げていく道路。

「また、連絡する」

「はい」

 私は、去っていく先生の背中を黙って見送っていた。

『好き』だと言われたのに、こんなに心が空虚なのは、なぜなんだろうか、と思いながら。


「へえ、やったね、ナミ」と私の話を聞いた里美が言った。

「コーヒーでも入れようか」

「私、コーヒー嫌いやて言うてるでしょ」

「たまには飲んでみたら? コレ、私の男が言うててんけど、コーヒーて『セックス』のことなんやて」

「また、そんなアホな知識仕入れて」

「コーヒーでも飲んで、今度こそ先生とやってしまい」

「何で、そう露骨なことを言うの。せっかくのロマンチックなムードが台無しやわ」

「しかし、ナミが不倫か。私、そんなややこしいこと、ようせんわ」

「不倫やなんて、イヤなことば」

「そうや。恋愛は自由やのに、結婚外の恋愛関係を差別するためのことばやないの。人の心に蓋はできない」

「人の心に蓋はできない、か。いいことばやわ」

「そう? メモっておこう」

「里美は、何で仕事しないの?」

「私は、物書きやもん」

「けど、収入はない」

「親のくれたお金があるし、世の中には貢ぐのが好きな男もいてる」

「私、イヤやわ。男に貢がせるなんて」

「価値観の相違。それに、私が貢がせてるんと違って、向こうが勝手に貢いでくる」

「へえ」

「男って、顔とスタイルに弱いんやわ。そやから、顔とスタイルには気をつけてる」

「私、そんなこと気にしたことない」

「気にせんでも、ナミは毎日みたいに走ってるし、童顔やから、歳より若く見えるから得やわ」

「そうかな」

「そうや。前から羨ましい、思ってたわ。私なんか、かなりお金かけてるのに、ナミの健康的な若さにはかなわへんな、て」

「健康的な若さか。けど、もう5過ぎてしまった。四十に手が届きそう」

「まだまだ。女の盛りは四十やて、この前週刊誌に書いてあった」

「それ書いた人、四十過ぎた女の人と違う?」

「ハハハ。それは言えてる」

「先生、私より3才も若い」

「何、言うてんの。私の今の男なんか、二十歳やで、二十歳」

「嘘!」

「けど、歳のことなんか考えたことないわ。若さを失った分、得たものも多いから、差し引きはゼロ」

「そうか。差し引きゼロか」

「そう。人生は、うまく釣り合うようにできてると思う」

「サトミ、ありがとう」

 私は、里美を抱擁し、面食らった顔の里美を残して、自分のアパートに戻る。

 今まで一度も淋しいなんて思ったことはなかったのに。

 一人の食事が淋しい。

 一人で寝るのが淋しい。

 一人で暮らすのが淋しい。


 夕暮れの河原をヨギと散歩する。

 私は、とりとめもない話をしている。

 ヨギと話していると心が穏やかで安らいでくる。

「突然、電話してごめんなさいね」

「いや。竹下さんの突然には慣れてるから」

「私ね、好きな男ができたんですよ」

「へえ。竹下さんに好きな男ですか」

「朝起きてから、夜寝るまで、その男のことばっかり考えている。ね、変でしょう?」

「いや。多分、好きになればそうなるでしょう」

「それで、また毎日走ることにしたの。走っている間だけ、頭が空っぽになるでしょう。ドンドン距離が延びていくのが嬉しいんです。男を好きな分、走る距離が延びていく」

「それは、いい恋愛じゃありませんか」

「けど、走ってない時の私は、いつもいつも、その男のことを考えている」

「仕事している時もですか?」

「情け無い話やけど、そう」

「竹下さんが、仕事中に、男のことを考えるなんて、想像できないな。いつも、はつらつとして仕事してたでしょ」

「考えてないようで、頭の95パーセントは、男が占めてる。残りの5パーセントで生活したり、仕事をしたりしている気がする」

「けれど、走っている時は忘れている」

「そうね。そやから走るのね」

「それでドンドン距離が延びる」

「そう。私、今まで5キロしか走れなかったのに、この間、10キロ走れて、自分でもビックリしたの」

「ボクもね、今、二人の女性から求愛されてるんですよ。どちらも嫌いではないけれど、好きでもない。いや。好きは好きですよ。人間は、みんな好きですが、それは竹下さんの言うような恋愛感情ではない」

「もててるんですね」

「女の人は、ボクの話すことや本を読んで、ボク自身とは違うイメージをボクに対して抱きやすい。ボクなら、自分のすべてをわかってくれるのではないか、いいところも悪いところも含めて受け入れてくれるのではないか、と期待するんでしょうね。そして、そういう信仰に近いような気持ちで、ボクを愛しているようなつもりになる。でも、それは、愛とは呼べないとボクは思うんですよ」

「じゃあ、愛って何なんですか?」

「ボクは、今、恋愛について、本を書こうと思っているんですが、これがかなり難しい。自分で自分を受け入れないで、他人を受け入れることはできないんですよ。自分を愛することができなければ、他人を愛することなんかできない。何となく抽象的ですが。まず、自分を知ることから始めないと、何も始まらないと思う」

「それ、答えになってません」

「竹下さんには、負けるな。そう。自分でも、よくわからないんですよ。ボクの考えている愛というのは、もっと深くて広いような気がする。何でも受け入れて、何でも許してしまえるようなね。穏やかで優しいものです。他人から与えられたり、どこかから奪ってくるようなものではない。存在するだけで喜びであるようなそんなものなんです」

「そんなん、ただの理想やわ。ただの愛のイメージやと思う。私は、淋しくて、胸が痛くて悲しくて、こんな苦しい思いをするぐらいなら、相手となんか出会わなかったらよかった、と思う」

「それは、相手の責任じゃありませんよ。竹下さんの心の問題だと思う。愛することから喜びだけを選び出すことだってできるのに、淋しさや悲しさを、あなた自身が選び出している」

「私が選んでいるて言うんですか?」

「そうですよ。人間は選択できるんです。心の安らぎを選ぶこともできるし、一瞬一瞬の喜びだけを選ぶこともできる。それなのに、なぜか人間は、喜びや幸せよりも、悲しみや不幸や不安を選ぶ傾向がある。おかしなことだと思いませんか?」

「でも、それは、現実に悲しかったり、不安だったりするからでしょう?」

「本当にそうですか? たとえば、一人の人間が癌の末期で、もう死ぬしかない状態だとしましょう。ボクは、実際に知っているんですが、そういう健康な人間から見たら、苦痛と絶望しかないような状況で、誰かのために何かをする喜びや、今の一瞬一瞬を生きている楽しさを選びとっていたんです。彼は、幸福のまま死にました。痛みは痛みとして、痛みのない時は痛みを忘れる。幸せは幸せとして、幸せの最中に不幸な期待を持たない。現実に何の悪いことも起こっていないのに、不安になるのも、人間が選んでいるんです。幸福よりは不安を」

「そっか。まだ起こってもいない不幸を想像しても、仕方がないということか」

「そう。要約したら、言われた通りです。今度、一緒に旅行に行きませんか? 竹下さんとなら、そういう男だの女だのという意識なしに、旅行できると思うんですよ。でも、異性ですから、ボクとしても得るものは大きいのではないか、と思う」

「いいですよ、ヨギとだったら。私も、自分の考えをまとめたいし」

「じゃ、決まりですね」

 それから、私とヨギは、菜食主義と肉食について、精神と肉体について、とりとめのない話を続けた。


 先生は、電話で、今度130キロのロング・マラソンに出ると言ってきた。

 奥さんや子供も一緒に行くそうだ。

 ヨギと話してから、私は、幸せだけを選ぼうと決めていた。

「帰ってきたら電話します。多分、その後1週間ぐらいは、起き上がれないと思うから、その後にでも」

「気をつけて、頑張ってきてください」

「ありがとう。奈美さんも、仕事、頑張ってください」

 いつの間にか、竹下さんが『奈美さん』になっている。

 あ、幸せだ。

 けれど、ロードレースの日を過ぎて、1週間経ち、2週間経っても、先生からの連絡はなかった。

 もしかすると倒れて寝込んでいるのではないか。

 病気になったのではないか、と私は心配した。

 思い余って、私は、自転車を飛ばして、先生の病院のそばまで行った。

 休日でもなく、きちんと仕事はしているようだ。

 じゃあ、先生は元気なんだ。

 電話くらいくれればいいのに、と思いかけたけれど、『よかった』と思うことにした。

 自転車で、先生の病院の周囲をグルグルと回る。

 この円の中に先生がいる。

 この私の作る円の中に先生がいる、と思うと幸せで胸が一杯になった。

 帰りかけると、誰かが自転車で走っていこうとしている所だった。

 すぐに、先生だとわかった。

「先生」と私は声をかけた。

「やあ」と先生は、本当に驚いたような顔をした。

 内心、迷惑に思っているのが、顔の表情に現れている。

「この近くに用事があって、そしたら、先生の姿が見えたものだから。よかった。元気そうで」

「心配してくれてたんですか?」

「はい」

「今から家に帰るところだから、また電話します」

「ええ。身体に気をつけてくださいね」

「奈美さんも」

「はい、気をつけます」

 ハハハハハ、と先生は、白い綺麗な歯を見せて笑いながら、私に背中を向けた。

 私も先生に背中を向けて、自分のアパートに向かって出発した。

 言いたいことは沢山あるけれど、今は先生に偶然会えたことに感謝しよう。

 帰りの道端で、数本のすすきを摘んだ。

 今日は、一人でお月見をしよう。

 お月様と一緒に、先生の話をしよう。


「10月6日、午後3時出発」と里美が、また歌うような調子で言った。

「もう、やめてよ。そんなにはしゃぐのは。まだ、行けるかどうかわからへんねんから」

「二人の男の間で、ナミは引き裂かれている」

「何のことよ、それは」

「先生とヨギ」

「何言うてんの。ヨギとは、そういう仲と違うわ」

「でも、ヨギといると、心が穏やかになる」

「そうよ。長い付き合いやもん」

「先生といると、心が乱れる」

「そうや。だって好きなんやもん」

「ナミが求めているのは、先生の肉体をしたヨギの心。または、ヨギの心を持った先生」

 私は、ことばを失った。

 確かに、その通りだった。

 今の私は、心の安らぎを何よりも求めている。

 それなのに、愛しているのはヨギではなくて、先生の方なのだった。

「頭と身体は、先生を。心は、ヨギを愛している」

「また、小説のネタになるて言いたいんでしょ」

「そう。だから、10月6日が楽しみなの。いっそのこと、先生とやる前に、ヨギと練習してみたらいいのに」

「もう、サトミは!」


 私の目の前には、すすきの咲き乱れる広い野原が広がっている。

 その先に一人の男が後ろを向いて立っている。


 あなたは、一体、誰なんだろう。

 そう思うと、私の目からは、ホロホロとひとりでに、さらさらした砂のような涙がこぼれてくるのだった。

「コイツは重症だ」という里美の声も、どこか遠い遠い世界から聞こえてくるような気がしていた。


 あなたは、一体、誰なんだろう。



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