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ヴァレンタイン・ギフト  作者: まきの・えり


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3/3

 ラブ・レター-LOVE LETTERS


 今日、知らせを受け取りました。あなたが死んだ、という知らせです。

 あなたは、どのようにして、ご両親に私への通知を書かせられたのでしょうか。私には、想像もできません。

 知らせは簡素でしたが、不思議にも私への好意が感じられて、びっくりしたものです。

 あなたの死が、ご両親の私に対するお怒りを、やわらげたのだと考えてもいいものでしょうか。

 先程、奥様からお電話がありました。喪服のような黒いお声で、あなたの形見があるから取りに来るように、いえ、取りに来てくださるように、とおっしゃっていました。

 奥様のお怒りや悲しみの量も、私には計ることができません。

 私の周りの色々なものが、あなたの新しく手に入れられた境遇、『死』を、私に知らせようとしています。

 ほんの3日ほど前、あなたは、あんなにお元気に笑っていらしたのに、もう死んでしまわれたなんて、私には、なかなか信じることができません。

 あっけないというより、何かだまされているような気がします。

 けれど、これが1週間たち、2週間たち、1ヵ月もたった頃には、私にも、ようやくあなたの死が実感できることでしょう。

 私は、日々の生活の中でしか、ある人の不在を確かめることのできない人間ですから。

 でも、今は、また急にあなたが、「やあ、お前。」などと言って、あの窓の下に懐かしいお顔をのぞかせるのではないか、などと考えてしまいます。

「オレが死んだら。」

 と3日前のあなたは、いつになく、しんみりした真面目な声で、こんなことをおっしゃっていました。

「オレの魂を、お前にやろう。」

 私は、ただ笑って、あなたの魂が私のものになってしまうのなら、あなたが死んでも別に差し支えはないだろうなあ、などと考えておりました。

 でも、肉体のないあなた、表情のないあなた、声のないあなた。やはり、あなたには、肉体や表情や声が必要なのです。

 あなたの魂だけが、私のそばにあっても、私には、どうあなたに応対していいのかわかりませんもの。

 赤い雲のようなパトス。

 確か、あなたはそうおっしゃっていましたね。

「それなら、電灯がいらなくて便利ね。」

 と私はふざけておりましたが、本当にそんなことになってしまうのでしょうか。

 いいえ。

 今では、本当にそんなことになってしまったのでしょうか、と言うべきですね。

 あなたは、もう死んでしまわれたのだから。


 今日、奥様にお会いしました。

 何度もお会いしているはずなのに、いつも目をつむって、お顔を思い出そうとしてもダメなのです。それで、もし、今日、奥様を見間違えでもしたらどうしようなどと、奥様に似た顔をした何十人の女の人ばかりに囲まれてテストでも受けるような心持ちになり、不安で不安で仕方がありませんでした。 私は、なるたけうつむいていて、奥様の方に見つけていただくことにしようなどと、勝手な一人決めをしてでかけたものでした。

 でも、実際にお約束の喫茶店に出かけてみますと、お互いに「あら。」とかいう表情であっけなく認め合ってしまいました。これは、奥様の方でも、同じ悩みをお持ちだったのではないかと、一人心楽しく思っておりました。

 白のワンピース姿の私に対し、奥様はやはり喪に服しておられました。

「主人からお渡しするようにと言われておりましたので。」

 奥様は、伏目がちに、小さな包みを私の方に差し出されました。

「中をお改めください。」

 包みには、封がしてありましたし、私は、そのままバッグにしまいこむつもりでおりました。が、奥様の視線が、熱く重く、その包みに注がれているのを感じましたので、何だかしまってしまうのも後ろめたく、封を開けたものでした。

 中からは、分厚い紙の束と一緒に、あの、あなたが一時も肌から離そうとしなかった銀の十字架が出てまいりまして、奥様も私も、ハッと息を飲んでしまいました。

 奥様は、すぐに何も見なかったような顔をなさり、私は、その表情のない顔の前で、十字架を封筒にしまいこむのに、冷汗を流す思いがいたしました。

「主人が生前、何かとお世話になりまして。」と深く頭をお下げになりました。 私には、とても真似のできないことです。

 以前にも言いましたが、あなたには過ぎた方だと、改めて思いました。

「いいえ、私の方こそ、ご迷惑ばかりかけて。」

 私のニコやかさは、どうやら場違いのようでした。奥様は、つとふところからハンカチを出され、目頭を押さえておられます。

 私には、そういった気持ちが理解できませんので、つい、「でも、あの方は、いつもそばにいてくれるんですもの。」と言って笑ってしまいました。

「あなたは、それでいいのかもしれませんね。」と奥様がおっしゃいます。「幸せな方ですね。羨ましいと何度も思いました。」

 そう無表情におっしゃいます。

 私は、ただ笑っておりました。

 あなたは奥様に心配をおかけしていたのでしょうか、魔法使いさん。

 奥様を幸せにしている、愛していると自慢していらしたくせに。

 あなたのいらっしゃる限り、奥様は、お幸せなのだと信じておりましたのに。

「それでは、これで失礼いたします。これから先、何かお困りのことでもあれば、何でもおっしゃってくださいませ。主人も、あなたのことを、とても・・・」

 奥様は、またハンカチを出され、今度はそれがグッショリと濡れるくらい、涙をこぼされました。

 私も奥様のことが、少し心配になってきまして、人の視線の多いこの店を出て、夕暮れ時の河原を、奥様と二人、あてもなく歩いていたのでした。

「ご迷惑をおかけして・・・」

 奥様は、早く平静を保とうと努めていらしたようですが、それでも一筋か二筋の涙が、いつも頬を濡らしているのです。

 奥様も、あなたを愛していらしたのでしょうね。

 あなたのおられない淋しさに、一人で耐えようとしておられるのでしょうね。

 オレがいなくても生きていける強い女だと、いつもあなたはおっしゃっていましたけれど、あなただけを頼りにされた、どこか傷つきやすく弱い方のように、この日は思えたものでした。

 家までお送りするのも心苦しく思い、駅のプラットホームでお別れしたのでしたが、奥様の控え目な愛情深い瞳が、なぜか心に残りまして、一体これから先どうなさるのだろうか、と出すぎた心配までしてしまったものです。


 日毎に涼しくなっていきます。汗かきのあなたには、過ごしやすい季節になりましたね。

 今日、杉原さんが訪ねて来られ、奥様が睡眠薬を飲まれたという話を伺いました。

 とても親切な優しい方で、あなたがスッカリ心を許しておられたのが、よくわかります。

「奥様にお会いしたい。」

 私が、そう言いますと、すぐに病院まで送ってくださいました。

 病室に入って、私は驚いてしまいました。

 奥様は、まるで幽霊のような青白い顔で横たわっておられ、ほんの1週間くらいの間に、随分とお痩せになったように見えました。

 奥様は、とてもお辛かったのだ、と私は初めて杉原さんから伺いました。 あなたが、よく私のところにいらしたので、あなたの生前にも、ご家族の方々、ご両親や妹さんが何かと不足をおっしゃっていたということでした。

 奥様は、お里にも帰られず、どこだったか、広い海と大きな夕日の見える旅館で薬を飲まれ、危ういところを、宿の方に助けられたということです。

「来てくだすったのね。」

 まるで私が、奥様の実の姉か妹にでもなった気がするほど、ホッとした声でおっしゃいました。

「よくおなりになったら、私の家にいらっしゃいませんか?」

 何となく、こんなことばが、自然に口から泳ぎ出してしまいました。

 私の住んでいるところは、両親や弟の家とは別ですし、私が、例の、あなたにもよくお話した婚約者と結婚する時のために建てられたところですので、普通の家と同じように、暮らしていけるだけのものは、揃えてあります。

「一人では、淋しいのですもの。」

 私は、また、自分の言ったことばがおかしくて、一人で笑ってしまいました。

 奥様も、困ったお顔はなさっていますが、笑っておられます。

「ね、そうなさってください。お願いします。」

 ふと泳ぎだしたことばではありましたけれど、何だかそれは、私の本当の願いのような気がいたしました。

 ぜひ、奥様と一緒に暮らしたいと、心の底から思ったものでした。


 日に日に感じてしまいます。

 特に、一人でボンヤリと、もう消えていこうとするあなたの匂いの残っているこの部屋にいると。

 あなたが、魂だけに、赤い雲だけになってしまわれたことを。

 あの身体が、あの表情が、あの笑顔が、優しさが欲しいと思います。

 私、悲しいとは思わないのですが、淋しくなったものだと思います。

 毎日私を苦しめ続けられたあなたが、もう、どこにもいないなんて。

 あなたの存在は、不在は、とても大きなものでしたので、私、一日でもあなたの姿を見なかったり、声を聞かなかったりしますと、もうたまらなく淋しくて苦しくて、我慢できませんでしたの。

 それが、もう10日以上も続いております。

 あなたがわざと意地悪をなさって、私から離れておられるような、そんな幻も抱いてしまいます。

 私、毎日、病院に通っていますのよ。

 あなたが持っていってしまわれた空白を、何かで埋めようとでもしているように。

 奥様は、もうじき退院なさいますし、その時には、どうしても、私の家に来ていただきたいと思って。

 あなたのご両親は、あわてて駆けつけて来られた奥様の親戚の方に、奥様を押しつけるようにして帰ってしまわれましたし、親戚の方も何か困ったご様子でした。

 奥様も、悲しそうな匂いを漂わせておられます。

 私と同じように、あなたがおられない淋しさを抱えておられるのでしょうね。

 奥様のお気持ちが傾いてきそうな気がいたします。

 私だって、心の張りを失ってしまったようなのですもの。

 何度でも、奥様にお願いしてみましょう。

 きっと来てくださるような気がいたしますもの。

 あなたはヒドイ方ですわ。以前より、私をお苦しめですわ。

 魂だけが、思わせぶりに、私の周りに漂っておられるのだから。

 どうか、お声を、あの表情をと、バカな私は、欲張って無いものねだりでも、せずにはいられないのですもの。


 とうとう、奥様が、私の家にいらっしゃいました。

「ご両親にご挨拶を。」などとおっしゃるのを私が笑いますと、怪訝そうなお顔です。

「もうずっと、両親の顔、見ていませんのよ。」と申しますと、ますます不思議そうなお顔をなさいます。

 読みかけの本や、脱ぎっ放しの衣服で荒れはてた私の部屋、あなたと私とで『城』と呼んでいましたね、をご覧になった時には、もう開いた口がふさがらないという風に見えました。

 時々は、沼とか田畑にしか生息しないような生物が姿を現すこともあって、あなたと二人で笑い合ったものでした。

 冬に飛んでいる足の長い蚊、『あはれ蚊』を叩こうとした私の手を止められたこともありましたね。

「どうぞ、ご自分の家だと思って、お好きになさってください。」

 私は、滅多に自分では料理を作りませんの。特に、あなたがおられなくなってからは。

 外で食事をとってもいいし、家に運んでもらってもいい。もし、奥様がお料理がお好きなら、ご自分で作られてもいいだろうなどと、私は勝手に考えておりました。

 奥様は、何となく手持ち無沙汰のご様子。

「本当に自由な方なのね。想像もつきませんでしたわ。」とおっしゃいます。「私、あの人のことを、ほとんど知っていなかったような気がいたしますの。知りたいと思っておりました。何もかも。私、自分では精一杯、私の力のギリギリまで知ろうと努力はしたのですけれど・・・」とまた、涙を流されます。

 私にしたところで、ただ色々な時をあなたと共有したという以外、何も知ってはいなかったに違いありませんのに。

 でも、私、それで別に不満はありませんでしたのよ。

 私は、あなたといる時が好きでしたし、あなたの愛し方、いじめ方、嘘のつき方、いばり方、そして、泣き方まで、そういったものが全部好きだっただけなのです。

 そう申し上げると、奥様は、ホーッと溜め息をつかれました。

 私、いつもボンヤリと何かを思っているのです。

 時には、あなたのことだったり、また別の誰か、何かのことだったり。

 これから先だって、また誰かと愛し合うかもしれません。

 あなたのいらした時だって、その前だって、私はいつも、ふと気がついてみると、誰かと愛し合っていましたもの。

 奥様は、それをお聞きになって、怖い顔をなさいました。

 それは、あなたに対する『裏切り』だとおっしゃるのです。

「私は一生、もうどなたとも愛し合うつもりはありません。」

「でも、誰をも愛さずに生きていくというのは、死んでいく以上に難しいことに思えます。私がまた誰かを愛するようになったとしても、私があの方を愛したというのは、本当のことです。私には、『裏切る』ということが、何だかわかりそうにありません。」

 奥様は、また溜め息をつかれました。

「そういった大切なことを教えてくださる方が、どなたもいらっしゃらなかったのね。裏切りとか罪とか道徳といった大切なことを。それは、不幸なことです。」

 私は、なんだか恥ずかしい気がいたしました。あなたは、ご存じでしたわね。『不幸』ということも、私にはよくわからなかったことを。

「どうなさるおつもりでしたの?」

 私は、ハッとしました。奥様の瞳が、あまりにも強い光を放っていましたので。

「もし、子供が・・・できたら。」

 もう平静なお顔に戻っておられます。

「産んで育てるしかありませんでしたわ。でも、どうして子供が生まれないのだろうって、あの方と不思議がっていましたのよ。」

 私の笑顔は、奥様をご不快にしたのかもしれません。厳しいお声でした。

「あなたに育てられますか。籍にも入れられない私生児を産んで、きちんとした教育ができますか。」

「でも、喜んでくださったでしょうに。」

 その時、私は、奥様のお顔のかげりから、杉本さんに伺った話を思い出したのでした。

 奥様は、一度流産なさったということを。

 あなたと私が、初めて愛し合った翌日に。


 奥様も、段々とここの生活に慣れていかれるようです。

 休む暇もなく、洗濯や掃除、縫い物や編み物、繕い物をなさっています。 お料理の美味しさと手際のよさには感嘆してしまいます。

 私は、珍しそうに、奥様の動かれるのを眺めながら、あなたがいつもキチンとしてらしたのは、奥様のお蔭でしょうね、などと考えたりいたします。

 もっとも、あなたは、このお城では、本当にだらしのないお殿様でしたけれど。

 あなたは、本当に、ご家庭では本を書いておられたのですね。

 あなたは、いつもふざけておっしゃるので、私は、ほとんど信じてなんかおりませんでしたのに。

「机に向かうと、それは怖い顔をしておりましたよ。食事もとりませんの。持っていっても気づきませんのよ。それでいて、一段落つくと、時間をかまわずに、『お茶!』とか『メシ!』って怒鳴るんですの。」

 あなたの怖いお顔。私には、想像もできません。そして、あなたのお家でのご様子も。

 あなたは、よく怖い顔をなさり、私も怖がってはみせましたけれど、知っていましたのよ、奥からあの優しいお顔がのぞいていることは。

 でもよく、こんな素晴らしい奥様を一人きりにできましたもの。

 あなたの気まぐれには感心してしまいますわ。

 その気まぐれのお蔭で、私のところにいらしたの?

 また、あなたは含み笑いでもなさっているのでしょう?

 赤い雲のようにおなりになった今でも。

 魔法使いさん。


 こんな夕焼けの日でしたね。あなたが初めて、私の家にいらしたのは。

 この窓の外で、あなたの笑い声を聞いて、私、本当にビックリしてしまいました。そして、私、こういうことの起こるのを、ずっと昔から待ち望んできたような気がいたしました。

 誰かが、私の驚きを、喜びと共に導きだしてくれるような。

「かまいませんか?」

 奥様が、私の部屋の入口に立っておられました。

 奥様は、眠れない、眠れない、とおっしゃるのです。それで今日から、私の部屋で一緒に眠りましょう、とお誘いしたのです。

 夜中にカエルでも出はしまいか、カエルならまだいいのですが、あの例のタランチュラ君が這い出してきて、奥様を驚かせるのではないか、と私は内心冷汗をかいておりますが。

 奥様が手を触れられるごとに、私の部屋の様子が変わっていきます。何だか私を気づかうように、衣服や本やゴミを手早く片づけておられます。まるで、魔法をかけたみたいに、自分の部屋の様子が変わっていくのを眺めるのは、本当に嬉しいことです。多少、くすぐったくはありますけれど。

 私の衣服の下から、あなたの髪の毛、確かにそうだと奥様はおっしゃいます、とか、いつかなくされたくしが出てまいりました。

 嬉しい見つけ物で、奥様と二人で大喜びです。

 何やかやしているうちに、くたびれてしまって眠ることにいたしました。

 奥様は、私のベッドの横に、ふとんを運びこまれました。

 部屋が暗くなってから、しばらくの時が流れ、「一緒に眠ってもかまいませんか?」という声を聞きました。

 私、女の方と一緒のおふとんで休んだことがありませんので、内心困りましたが、お断りする理由もないので、「どうぞ。」と申し上げました。

 身体の大きなあなたとでも、楽に眠れたベッドですから、多分、もっと楽に眠れるだろうと思いました。

 奥様の体温は、とても温か。気持ちまで温かになってしまいます。

 私の身体を、あなたが冷たい、冷たい、とおっしゃったのは、そういう比較できる方がいらしたからなのでしょうね。

 しばらくウトウトしておりますと、夢の中に細い声が聞こえ、次いでポッカリと夢が破れて、奥様が泣いていらっしゃるのに気がつきました。

「どうなさったのですか?」

「私、抑えていましたの。今でも、抑えようとしているんですの。」とおっしゃるのです。

 鼻をスルスルと言わせながら、咳でもするように笑われました。

「本当は、憎くてたまりませんの、あなた達が。私の心を目茶苦茶になさったわ。ご存じないでしょう? 嫉妬とか憎しみとか恨みとか、おわかりになる? ならないわよねえ。」

 奥様は、また、笑いながら涙を流されます。

「殺そうと思いましたのよ。あれと一緒に殺してしまって、私も死んでしまおうと。死んだ方が、まだましでしたでしょうね。オホホホホ。でも、お気の毒。憎しみを知らずに、人を愛することなんてできませんのよ。」

「どうしてですか? 愛してくだすったわ。」

「動物的に愛したのですわ。このあなたの冷たさ。男は、冷たい女に惹かれるものだと言いますわ。身体だけじゃなく・・・」

「でも、あの方は、あなたを愛しておられましたのよ。あなたは素晴らしい方で、何でもおできになるって、いつもおっしゃってましたわ。愛していらしたのよ。」

「いいえ、いいえ、我慢できません。我慢できないわ、あなた達には・・・」

 奥様は、今度は激しく泣き出されました。私にしがみついて泣かれるのです。

 私も困りまして、ちょうどあなたが泣き出された時のように、髪の毛を慰めたり、少し強く抱いてさしあげたりいたしました。

「あの人はね。」と奥様はおっしゃるのです。

「私には、何一つ弱いところを見せませんでしたのよ。でも、あなたには・・・涙を見せたのね、きっと。でも、私の前では、一度も、ただの一度も、そんなことはありませんでしたのよ。優しい人でしたわ。いつも私のことを気づかってくれて。でも、でも、一度も、本当に愛しては・・・」

「どうして、そんなに悲しんでいらっしゃるのです。」

「ああ。」

 奥様は、私を激しく揺さぶられました。

 私の首はガクガクと肩から離れそうに揺れています。

 そして、窓から入ってくる月の光で、奥様の顔が青白くかすんで見えました。

 お気の毒に思いました。

 あなたは、どうしてもっと奥様を信じさせておあげにならなかったの?

 あんなに奥様を愛していらしたくせに、どうしてそれを教えてさしあげなかったの?

 私に思わせてくださったように、奥様にも同じように思わせてあげられたら、こんなに悲しまれはしなかったでしょうに。

「お悲しみになることはないわ。あの方は、すぐそばにいらっしゃいますもの。」

 私は、ついそう言ってしまいました。

 あなたを、赤い雲のようなあなたの魂を、奥様にもお知らせしたかったのです。

「あの人が、ここに?」

 奥様の声が変わったのに、気がつきました。

「ええ。声もお姿もないんですけれど、でも、いらっしゃるんです。私は、ずっと苦しめられていますのよ。あの方ご自身がおられないのに、魂だけが思わせぶりにあるなんて。あの方らしいやり方。」

 奥様は、私のことばを聞いてはいらっしゃらないように見えました。あなたの姿を捜しておられるかのように、キョロキョロと辺りを見回されるのです。

「ここに?」と少女のような声でおっしゃいます。

「早く言ってくださればいいのに。」

 澄んだ、とても若くて美しいお声でした。

「あなた、あなた、やっぱり驚いていらっしゃるのね。私にはわからないとお思いだったのでしょう? あなたのことなら何だってわかりますのよ。いつここにいらして、いつお帰りになるかも。ね、怖い顔をなさるわ。私にも見せてくださってもいいでしょう? あなた達が、愛し合うのを。お互いの影の中に隠れ合うのを。私から逃げようとなさるのね。いつもそう。でも、この方、あなたを裏切るって、おっしゃるのよ。まあ、あなたまで、同じことを言われるのね。ああ、ダメダメ。またお逃げになる。私が邪魔なのね。邪魔なのね。行っておしまいになる。ああ、イヤイヤ、行ってしまわれては。」

 奥様は、急にグッタリなされ、お休みになったようでした。スヤスヤと軽い寝息が聞こえています。

 あなたは、一体、私に内緒で何をおっしゃったの?

 また、私をお苦しめになるのね、そんな風にして。


 今日、奥様を病院にお送りしました。杉原さんがご一緒でした。

 この間、杉原さんが見えられたの、あなたもご存じでしたわね。

 奥様をご覧になって、とても驚かれたのを。そして、さっさと手続きをとられて、今日、奥様をお送りすることになってしまいましたの。

「奥様がいらしたら、淋しくなくていいのですけれど。」

「あなたを殺そうとしていたじゃないですか。」

 奥様が、本当にあどけないお顔で、ナイフやハサミや包丁を隠して、ふすまやドアの隙間から、私の方を伺っていらっしゃるのを見て、そう言われるのです。

 奥様も私も、それで結構楽しんでおりますのに。

 奥様は、すぐに何でも忘れておしまいになって、掃除を始められたり、縫い物をなさって、「ハサミがありませんよ。」とおっしゃったりするのです。

 いつも、お湯をわかしておられて、沸騰すると水をつぎたしておられます。 この頃は、お風呂がいつも熱湯で、私に入らせようとなさるのです。

「熱すぎますわ。」と申しますと、「あなたは、身体が冷たいから、それくらいがちょうどいいのよ。」と言われるのです。

 けれど、奥様はもう、あなたと自由にお話をなさいますし、以前のように泣かれることもありません。

 私も、奥様がお話なさっているのを聞いていると、あなたのお声が聞こえ

るようで、とても嬉しいのです。

 そのことも、お医者様や杉原さんに申し上げたのですが、お二人とも、首を振られるばかりです。お話を聞いてもくださいません。

 奥様を看護婦さんにおまかせして、車で家まで帰る途中、つくづく淋しくなったと思いました。

「淋しくなりますわ。」と杉原さんに申しますと、「私がいます。」とおっしゃいます。

 まるで、あなたが前におっしゃったような優しいおことばです。

 杉原さんの目や表情の中に、時々あなたが現れるので、ハッといたします。

 あなたが私と愛し合うようになる前に言ってくださったようなことばが、次々と杉原さんの口から流れ出てくるのを、まるで、魔法を見ているような不思議な気持ちで眺めておりました。

「あなた達が愛し合っているのは、知っていました。私も彼が好きでした。そして、彼を愛していたあなたを。」

 運転手さんが笑っているのが、ミラーに写っていました。

 杉原さんが、私の唇をふさいでしまわれたのです。

 ちょうど、初めてあなたがなさったように。

 でも、杉原さんの舌は、あなたより厚い。

 魔法使いさん。

 あなたの魂が、杉原さんの肉体を借りられたのでしょうか。

 それとも、杉原さんの身体の中には、あなたとは別の魂がすんでいるのでしょうか。

 あなたのことを忘れてしまいそうです、魔法使いさん。

 本当に、忘れてしまうかもしれません。


 でも、いつか、あなたと私は愛し合った。

 あなたと私は愛し合った。

 それは、永遠に変わらないことでしょう。

 さようなら。

 赤い雲のような、赤い雲のような魂を持った、私の魔法使いさん。


 さようなら。


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