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ヴァレンタイン・ギフト  作者: まきの・えり


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 明日は遠く-TOMORROW IS A LONG TIME

        明日は遠く-TOMORROW IS A LONG TIME


 私は、早く大人になります。

 大急ぎで大人になります。

 だから、待っていてください。

 私が大人になるのを。


「絵利香は、本当にベッピンさんやなあ。おじさんが、大きくなったら、きっとお嫁にもらってやるからな。早く、大きくなるんやぞ。」

「本当?」

「ほんま、ほんま。」

「絶対に?」

「おお、絶対や。」

「じゃあ、お約束。おじさま、お約束破ったら、針千本飲ませるから。」

「へえ、絵利香は針千本も持ってるのか。」

 小学校の一年生だった私は、本当に困った。

「お家中捜したら、10本はある。けど、おじさま、10本でも、針を飲むと痛いわよ。」

「そうや。それやったら、約束破ったら、針10本や。」

 

 あのおじさまは誰だったのだろうか。

 顔も思い出せないし、名前も知らない。それなのに、私は慌てて大人になろうといつも焦っていた。

 早く、おじさまに追いつくように。

 それに、私は、おじさまが言ったように美人になった。

 私自身はわからないけれど、私の名前の前には、いつも『美人の』という

形容詞がついてくる。それがどういうことなのか、よくわからない。沢山の手紙をもらうことだったり、人々が振り返ることだったり、人づてにデートの申し込みが来ることだったりするけれど、それが、私の人生にどういう意味があるのかわからない。

「あ、あのう・・・」と男の子達が、私の目の前で赤面し、汗をかき、一言も話せずに走って逃げていく。まるで、私が世にも恐ろしい生き物ででもあるかのように。

「いやーね、美人だと思ってお高くとまって。」という女の子達の声が、聞こえよがしに耳に入ってきたりする。

 私は私だ。いつもバッグの中に、10本の針を入れて歩いている人間だ。 その針も、今ではもう何の意味も持っていないかもしれないのに、早く大人になろうとして焦りすぎた私は、もうその針を捨てることも、忘れることもできない。

「また会いたいな。」と見知らぬ男が言う。

 私が黙っていると、男は急に慌て始める。

「電話番号を教えてよ。」

 私は、何も話さない。黙って、脱いだ洋服を身につけて、黙ってホテルの部屋から出て行く。

「待てよ。」

 男も慌てて衣服を身につけて、後を追ってくる。そういう時の男の姿は無様だ。

「どういうつもりなんだ。」

 私が黙ったまま、男の目を中をのぞくと、男は急に逃げ腰になる。財布の中をのぞいて、慌ててお金を握らせようとしたりする。私は、無表情に男に背を向ける。

 やはり違った。

 おじさまじゃない。

 自分でも、自分が何をしているのかわからない。どこにいても、私は場違いな存在で、クラスのコンパに出ても、ゼミの授業に出ても、一人浮き上がっているように思う。

 そういえば、友人と呼べるような存在も、今までにできたことがない。

「あんたは、何を考えているのかわからない。」と母は、いつも嘆く。

 私が、母の目の中をのぞきこむと、母も必ず私から目をそらす。

「今日の晩は、何にしようか。」と話題を変える。

 父も、私を避けている。

 いや、私の方が父を避けている。

 私と目が合うと、父はいつもドギマギした困った様子をするのだから。

 誰も彼もが、同じ態度を取る。

 私が、毛虫か怪獣ででもあるように、皆コソコソと視線をそらす。

 私は、よく一人で鏡を眺めてみる。

 私は、自分の笑った顔を思い出せない。

 これが、皆が美人だという顔なのだろうか。

 おじさま、とそんな時、私は思う。

 優しい瞳で私を見つめてくれたおじさま。

 顔も姿も覚えていないけれど、あの時、私は微笑んでいたように思う。

 笑っていたように思う。

 心の底から幸せだったように思う。

 おじさまの言ったように、大人になって美人になったのに、私は、いつも一人ぼっちだ。

 この10本の針は、おじさまのものだ。

 鏡の中の私の顔が歪む。

 何て暗くて醜い顔。

 この世で一番不幸な顔。

 

「お人形さんみたいに綺麗やな。」

 酒臭い見知らぬ男に抱かれている私。

 やはり違う。

「しかし、ほんまに人形みたいな女やな。」

 私は、抵抗しない。男の好きなようにさせている。

 自分に対しても、自分の身体に対しても、何の感情も起こらない。

 かすかに覚えていた関西なまり。

 でも、おじさまではなかった。

「しょうもな。」と見知らぬ男は言った。

「何ぼ払ったら、ええんや。」

「100万円。」と私は微かに笑う。

 男の目の中を見ていると、男が脅えているのがわかる。

「かんにんしたりいや。」

 私は、またいつものように黙って衣服を身につけて、男に背を向ける。

 背後からは、ホッとした安堵の溜め息が聞こえてくる。

 自分の胸に10本の針を突き刺したような気分になる。

 おじさまの分を、自分で自分の胸に突き刺して、私は、おじさまになる。


「山本さん。話があるんやけど。」

 同じクラスの岸本君だった。彼が、いつも遠くから私を見ているのは知っていた。

「話って?」

 私が、彼の目の中をのぞくと、彼も私の目の中をのぞいた。

 彼の目の中には、私の知らない悲しみがあり、私は、自分の目の中にあるものを隠すために、思わず目をそらした。

「ここでは何やから、向こうのサテンに行こ。あそこやったら、学校のヤツラ行かへんから。」

 あ、いつもと同じだ、と私は思う。いつものように、私は、男の後についていく。

 薄暗い喫茶店で向かい合うと、私達はお互いの目を見つめ合った。

 私は、どうしたのだろうか、と思う。

 この男は、どうして他の人達のように目をそらさないんだろうか。

 またも、先に目をそらしたのは、私の方だった。

 自分の目の中の色を相手に見られたくなかった。

「何で、目をそらす。」

 いつも私が、自分以外の人に心の中で言っていることばを言われてしまった。

「オレは信じてないけど、同じ下宿のヤツラが、山本さんは、いつも中年の男と、ホテルに出入りしているて、噂しとった。山本さん、何で、クラスの誰とも親しくせえへんのや。そやから、そんな根も葉もない噂をたてられるんやろ。」

「私は・・・」と言いかけたが、やめた。人と話すことには、慣れていなかった。

「オレは、そんなことを言うヤツは、ハジから殴ってやった。山本さんが、そんなことするわけないやないか。山本さんみたいな・・・」

『美人が?』と私は、心の中で呟いた。

「心の綺麗な人が。」と岸本君は言った。

「私? 私の?」

 こころ?

「そうや。目の綺麗な人は、心も綺麗やて言うやろ。山本さんの目は、澄んでいて綺麗や。そやから・・・そんな・・・」

「そんな、何?」

「そんなことをするわけがない。」

「そんなことって、何?」

「つまり、そんな・・・中年の男なんかと・・・」

 私は、ボンヤリと岸本君の目を見ていた。

 岸本君は、私の目の中をのぞいている。

 怖い。

 自分の目の中をのぞかれるのは、とても怖い。でも、私は、相手の目から、自分の目を引き離すことができなかった。

「私は、おじさまを捜しているの。」と私は言った。誰にもわかってもらえるとは思わなかった。きっと、私のことをどこかおかしい女だと思うだろう。

「そうか。」と岸本君は答えた。

「おじさまを捜しているのか。」

 あ、と私はパニックに陥りそうになった。

 どうしよう。

 どうすればいいんだろうか。

 私の手が、身体が震えている。

 私の手は、無意識のうちに、バッグの中の針を捜そうとしていた。

 10本の針を飲んでしまおう。

 飲んで、楽になってしまおう。

 こんな恐ろしい目に合うくらいなら、私は、私は、死んでしまった方がいい。

 針を捜して震えている手を、岸本君がつかんだ。

「大丈夫。大丈夫や。オレが、一緒に捜すから。オレが一緒に捜してやるから。」

「本当?」

「うん。約束や。」

「約束を破ったら・・・」

 私は、口ごもった。

「針でも何でも飲んでやる。」

 どうして知っているのだろうか、と私は思う。それとも、知らずに言ったのだろうか。

 私は、岸本君の目の中をのぞきこむ。でも、彼は、目をそらさない。

 私達は、長い間、相手の目の中をのぞきこんでいた。

 お互いの目の中から相手の心の中に入り込み、自分と相手との境界がなくなってしまうまで、私達は、お互いを見つめ合っていた。

 私は、いつも岸本君と一緒にいるようになった。


「どうしたの、これ?」

 岸本君は、いつも目を腫らしたり、手を怪我していたりした。

「いや。何でもない、何でもない。オレな、ようこけたり、階段から落ちたりするんや。」

「危ないわ。」

「そやねん。ほんまに危ないねん。」

「気をつけてね。」

「う、うん。」

 岸本君は優しい。朝早く、私の家の前で待っていて、一緒の講義に出て、お昼を一緒に食べて、違う講義や講座をとっている時は、終わるまで教室の前で待っていてくれる。

 それから、喫茶店で話して、私の家の前まで送ってきてくれる。

「私、こんなに誰かと話をしたのは、生まれて初めて。」

「オレ、一回生の時からズッと見てたけど、山本さんておとなしいもんな。」

「おとなしいって言うより、皆が私を避けているような気がして。」

「ああ、それは、外見にだまされてるんや。」

「外見に?」

「そや。山本さんて、美人顔やから近寄ったらアカンみたいな感じがするんやろ。」

「どうして?」

「どうしてて言われても困るけど、ま、貧乏人から見たら、1億円が大金みたいなもんやろな。ええと、つまりやな、1000円か1万円やったら、または、10万円ぐらいやったら、ようしちょっと働いて手に入れたろか、と思うやろ。けど、1億円やったら、自分には無理やと思って、最初から諦めてしまう。」

「私は、1億円なの?」

「そう思う。」

「岸本君も、そう思うの?」

「うーん。正直に言うて、そう思った。けど、オレ、金には1000円やとか1億やとかあるかもしれへんけど、人間には、そんな区別ないと思ってるから。けど、オレなんか、金に換算したら、500円ぐらいやで。」

「どうして?」

「背、高くないし、金持ってないし、男前違うし、けど、オレはオレやから、それほど気にしてるわけやないけどな。」

「私もそう思う。」

「な、そう思うやろ? オレ、山本さんとは絶対に気が合うて、思うたんや。」

「本当?」

「ほんと。ほんま言うたら、一目惚れ。山本さんの背中に惚れたん。わあ、恥ずかしい。」

「私の背中?」

「うん。うまいこと言えへんねんけど、いつやったかな、山本さんが一人で帰る時、小さな可愛らしい背中やな、て思ったら、胸がドキドキした。」

「岸本君は、自分の思っていることを、うまく話せる。」

「そら、オレ、小さい時からしゃべりやもん。よう口から生まれたんやて言われたわ。」

「私は、あんまり話したことがないから、自分が何を思っているか、うまく話せない。」

「そんなん、練習練習。ちゃんと、おじさまを捜しているて、オレに話せたやないか。」

「でも、顔も覚えていないのよ。」

「けど、捜したいんやろ? オレ、人間、自分の本当に欲しいものは、絶対天から与えられるて思てんねん。そやから、山本さんのおじさんも、絶対見つかる。もし、本当に、山本さんが見つけたいて思てるんやったら。」

「よくわからない。私は、いつもおじさまを捜していた。おじさまのために、早く大人になろうと思った。」

「そうか・・・よっぽど好きなおじさんやってんな。」

「そう。多分。」

「やあ、みっともな。オレ、焼き餅焼いてるわ。けど、何で、お父さんかお母さんに聞いてみいへんねん。きっと、お父さんかお母さんの知ってる人やろが。」

「そうかしら? でもね、私、両親ともあんまり話したことがないの。」

「ええ! 自分の親と?」

「そう。変でしょ?」

「うーん。ようわからんけど、まあ、世の中には色々な親子がいてるから、別にかまへんいうたらかまへんことやけどな。あ、もう帰らんと、両親、心配しはんな。送っていくわ。」

「うん。でも、いつも遠いのに。」

「オレ、山本さんといてると、心がウキウキするから、ちょっとでも長い間いたいねん。」

「私も、岸本君といると、何となく嬉しい。」

「今度な、ゼミのコンパあるから、一緒に行こう。オレとしゃべったから、大分しゃべるん平気になったやろ?」

「けど。」

「練習練習。何でも練習せえへんと上手にはなられへん。おじさま捜すんかて、一人よりも二人、二人より三人、三人より100人の方が広く捜せるんやで。変なヤツが寄ってきたら、オレが守ったるし、意地悪するヤツがおったら、オレがやっつけたる。オレ、ほんまに鍛えられてるから、少々やられても大丈夫や。」

「うん。」

 鏡と話すことが少なくなった。

 鏡の中の私は、時々ソッと微笑んでいる。

 おじさまに微笑んだように?

 おじさまだけがいた心の中に、岸本君が入り込んできた。

 私の目を見つめ返す初めての人。

 おじさまと同じ関西アクセントで話す人。

 時々、私は、何もかも忘れて笑ってしまう。

 おじさまのことさえ忘れて、岸本君の目の中で笑いころげてしまう。

 おじさま、怒ってはいませんか?


「岸本、この野郎。」

「岸本、このスケベ。」

 私は、コンパに出て初めて笑った。

「やめてくれ。頼むからやめてくれ。」と岸本君が、クラスの男子に殴られたり蹴られたりしている。

 岸本君の怪我の原因がわかった。

「山本さん、岸本君、可哀相でしょ?」と顔は知っていても、一度も話したことのない女子が話し掛けてくる。誰も目をそらしてはいない。

「山本さんのファンの男子は多かったから、山本さんのいない時、いつも散々な目に合ってるのよ。」

「ひどいわ。」

「でも、山本さんも普通の女の子だとわかって、ホッとした。」

「え?」

「だって、いつも一人でツンとしているように見えたもん。岸本君、面白いから友達多いけど、最近、山本さんの家来みたいだもんね。」

「岸本君は、私の大事な友達よ。」

「えええ! 嘘!」

「何? 何?」と女子が集まってくる。

「山本さん、岸本君のこと、好きなんだって。」

「あ、私、そんなこと・・・」言っていない。

 でも、そうかもしれない。

「うっそお!」と女子が大袈裟な声をあげ、「何だ、何だ。」と男子が集まってくる。

 岸本君は、全身泥だらけになっている。

「山本さん、岸本君のことが好きなんだって。」

 岸本君のことが好きなんだって・・・という声が、耳の周りを回っている。

「岸本、殺してやる!」と男子の一人が、岸本君を追い掛け始めた。

「ま、待ってくれ。話せばわかる、話せば。」

 あ、岸本君がなぐられる。

「やめて!」と私は、叫んだ。

「岸本君をいじめないで!」

 辺りの景色が、一瞬、灰色になる。ストップ・モーションをかけたように、私はゆっくりと、岸本君の方に歩いて行く。本当は、走っているはずなのに、私の目には自分がひどくゆっくりと動いているように見える。

「岸本君をいじめたらイヤ!」

 私は、岸本君を抱き締める。

 まるで、自分で自分を抱くように。

「大丈夫やて、大丈夫。皆、本気やないんやから。」

 止めようとしても、涙が止まらない。

「そんなことしたら、服が汚れるやろ。本気で殴ってるんやないんやから、泣くことないのに。」

「クソオ! 今夜はヤケ酒だあ!」と男子の一人が叫ぶ。

「岸本、呪ってやるからな。」

「岸本君、幸せ。」と女子の声が聞こえる。

「何か、羨ましい。」

「私もヤケ酒飲んでやろう。」

 岸本君は、ポケットからハンカチを出す。

「岸本君、痛そう。」

「見掛けだけやて。全然痛いことない。山本さんの方が、殴られたみたいやで。」

 ポロポロと流れる涙を、岸本君の大きなハンカチが吸い取ってくれる。

「私、知らなかった。ごめんね。」

「山本さんの責任ちゃうて。あ、オレ、山本さん、送ってくるわ。」

「待て、岸本。送り狼になるなよお。」

「なるか、そんなもん。オレは紳士じゃ。」

「短足の岸本のどこがいいんだ。」

「ほっといてくれ。足短かっても、誰にも迷惑かけたことないわ。オレ、足は短くても、走るん速いんじゃ。」

「岸本のブス。」

「ほっとけ。人間、一皮むいたら骸骨じゃ。山本さん、ほっといて帰ろう。」

 私と岸本君の後ろから、「覚えておけ、岸本!」とか「世の中、間違ってる!」という声に混じって、「山本さん、頑張って。」という声が聞こえてきた。

 私は、後ろを振り向いた。女子の何人かが私に手を振っていた。

「ありがとう。」と私も手を振った。

「な、行ってよかったやろ?」と岸本君が言った。

「うん。でも、岸本君がなぐられた。」

「いいねん、いいねん。皆、それだけ山本さんのことが好きやねんから、仕方がない。」

「岸本君は?」と私は尋ねた。

「アホなこと聞くな。この傷見たらわかるやろが。」

「わからない。」

「好きでなかったら、黙って殴られたりせえへんわ。」

「そうなの?」

「当たり前やないか。オレなんか、人間サンドバックや。階段から突き落とすヤツおるしな、気つけてへんと。」

「危ないわ。」

「ほんまに、ちょっと危ない。暗い道一人で歩くん、ほんま怖い時あるわ。」

「今度は、私が守ってあげる。」

「・・・おお。今日は守ってもろたようなもんや。アイツ、ほんまに殺意あったもんな。オレがもうちょっといい男やったら、せめて1万円ぐらいやったら、よかったな。」

「岸本君は、100億円あっても買えない。」

「500円から100億か。オレも出世したな。」

「私、今日わかったの。私、岸本君が好き。」

「オレ・・・もう誰に殺されてもええわ。」

 私達は、しばらく黙って道を歩いていた。胸がチクチクと痛む。この痛みは、一体何なんだろう。

 胸に針を刺されたみたいに、胸が痛い。

 電車に乗っても、電車を降りても、また家への道を歩いていても、胸の痛みは続いていた。

「岸本君、私、胸が痛い。」

「どないしたんや? どこが痛い?」

「ここ。」と私は、自分の心臓を手で抑えた。

「大丈夫か? どこかで休んでいくか? 泣いたんが悪かったんやろか。やっぱり、コンパなんか出ん方がよかったんかな。もうすぐ家やけど、おんぶしたろか?」

「うん。」

「さ、いいで。」

 何かを思い出すような気がする。

 岸本君の思ったよりも大きな背中。

「大丈夫か? ほんまに凄く痛かったら言うんやで。」

「うん。」

 何となく眠ってしまいそうなユラユラユラユラした気分。

「着いたけど、どないする? 立てるか? このまま、家の人に会おうか?」

「うん。」

 何だかわからないどこか遠くの広い広い海に漂っているような気持ち。

 ピンポーンとインタフォンが、遠くで聞こえている。

「はい。」と母の声。

「あ、夜分、すみません。同じクラスの岸本ですけど、山本さんを送ってきたら、ちょっと気分が悪く・・・」

 ガタンとドアの開く音がした。

「まあ、絵利香。どうしたんですか?」

「コンパの帰りなんですけど、お酒はほとんど飲んでないんですけど、あの、途中で。」と岸本君は、シドロモドロだ。

「もし何やったら、このまま病院まで運んで行っても・・・」

 母が当惑しているのがわかる。

「まあ、そこでは何ですから、ちょっと中へ。お父さん、お父さん。」

 もう寝てしまってもいいような気がする。

 家の中に入る気配。

 家の中で、バタバタと布団を敷く音。

 いや。この背中から離れたくない。

「何があったんですか。」という父の声。

「いえ、何もないんですけど、途中で胸が痛いて言わはるから、心配で背負ってきたんです。」

「絵利香、絵利香、大丈夫なのか?」という父の声。

 ずっと昔にも、同じ声を聞いたような気がする。

「とにかく、布団を敷きましたから、そこに寝かせてください。どうしたのかしら。」

 ああ、とうとう岸本君の背中から離されてしまった。

「山本さん、大丈夫か?」

「うん。大丈夫。」

「ほんまに大丈夫か? 胸の痛いの治ったんか?」

「うん。もう治った。」

「ほんまか?」

「本当。ちょっとだけ胸がチクチクしただけ。」

「ほんまやな? オレ、帰るけど、明日迎えに来るからな。もし、夜中でも痛かったら、オレに電話してや。すぐ来るからな。」

「心配かけてごめんね。」

「そんなんかまへん。何やったら、明日病院について行こうか?」

「ううん。本当に大丈夫。」

 岸本君は、両親に何度も何度もしつこく質問され、何度も何度も同じ説明を繰り返し、そしてまた、何度も何度も私に「大丈夫か?」と念を押した。

 岸本君が帰った後、両親は私に聞こえないように、何かヒソヒソと話をしていた。

 服を着替えようと思いながら、私はそのまま眠ってしまった。


 沢山の手が私に触れる。

 私の頬や髪に、手や足に。

 100本も200本もの手が、私の身体中に触れる。

 その手は優しかったり優しくなかったりする。

 大きかったり小さかったりする。

 私は眠っていて、その手が何をしているのか知らない。

 私は何もわからない。

 そのうちの手の一つが、それだけはよく覚えているけれど、そのとても痛い手が、とてもひどい手が、私の知らないところに触れる。

 そこは触れてはいけないところ。

 そこは、そんなに痛くしたりひどくしてはいけない場所。

 そこは、お父さんやお母さんも知らないところ。

 私は、声にならない叫び声をあげる。

 そこだけはダメ、おじさま。

 とても痛くて、涙が出てくる。

 おじさまは大好きだけど、そんなことをするおじさまは嫌い。

 いや、いや、大嫌い。


 怖い夢を見た。

 いつの間にか、着替えさせられていたパジャマが、汗でビッショリ濡れている。

 あの夢は、一体何だったのだろうか。

「おはよう。」

 岸本君の顔を見ると、また胸がチクチクと痛む。

「大丈夫か?」

「うん。」

「このまま病院行こか?」

「ううん。」

「けど、どっか悪いんかもしれへんし。」

 私は、今、岸本君の顔をまともに見られない。

 どうしてなんだろう。

「もう、胸は痛いことないんか?」

「うん。」と私は嘘をついた。

「オレ、心配で寝られへんかった。」

「そう。」

 私達は、一緒に登校し、「岸本、この野郎!」「岸本、死ね!」というクラスの男の子達に岸本君が殴られるのをかばい、「山本さん、おはよう。」という女子に挨拶をし、淡々と講義を受け、待ってくれている、相変わらず生傷にたえない岸本君と一緒にキャンパスを後にした。

「山本さん、やっぱりどっか悪いんと違うか?」

 岸本君の目を、私はまともに見られない。

「やめて。」と私は言った。

「私を見ないで。」

「何でやねん。」

「私、おじさまに会ったの。」

「いつ?」

「昨日。」

「そやかて、昨日、山本さんは、家に帰って・・・」

「その後で、会ったの。」

「家に来たんか。」

「そう。」

「それで・・・それで、山本さんの捜してたおじさまやったのか。」

「そうよ。」

「そんなん、嘘や。」

「嘘じゃないわ。ちゃんとおじさまに会ったわ。私は、おじさまのために早く大人になったのよ。本当に早く、大人になったのよ。」

「昨日、好きやと言うてくれた。」

「昨日は昨日。今日は今日よ。」

「そんな、アホな。ほんまに、昨日、捜してたおじさまに会うたんか。」

「ええ。」と私は、心の底から笑った。

 会ったわ、おじさまに。

 ずっと捜していたおじさまに。

「どうやって。」

 アハハハハ、と私は笑った。

 私の捜していたおじさまは、いつも私の会っていたおじさまだった。

 岸本君の知らない私が、いつもいつも会っていたおじさまだった。

「ほら、アレが私のおじさまよ。」と私は、近くを通りかかった中年の男を指差した。

「アレも、アレも。全部、私のおじさまなの。」

「山本さん。」

「あなたも、私のおじさまになる?」

 岸本君は、私の視線を跳ね返さなかった。

「なる。」

「私は高いわよ。100万円。」

「オレの方が、もっと高いわ、100億円や。オレは、昨日一日で500円から100億になった男や。」

「そうだったわね。」と私は泣いた。

「何がおじさまやねん。オレかって、あと20年もしたら、立派なおじさまや。」

「20年待つの?」

「待たんでいい。今日から、オレが山本さんのおじさまや。」

 どうしようか、と私は思った。

 どうしようか。

「もう少し、時間をちょうだい。」

「かまへん。何年でも待ってる。10年でも20年でも。」

「本当に?」

「ほんまや。」


 おじさま、あなたを忘れていいですか?

 おじさま、もう大人にならなくてもいいですか?

 おじさま。

        

「岸本君。」

「うん。」

 私は、バッグの中から、10本の針を取り出すと、岸本君に渡した。

「どこにでもいいから、これを思いっきり投げて。」

「おお、わかった。」

 岸本君が、力一杯投げた針は、キラキラと輝きながら、私の目には、どこか別の世界に飛んで行ったように見えた。

「さよなら、おじさま」


「これでええんか?」

「うん。」

 これでいい。

 私は、岸本君に抱きついていた。


「大好き。」






 




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