1.どうしようもない体質と性格
教室の窓から見える景色が不穏な色に包まれていくことに、僕は焦っていた。
西の空は青から紫へと光度を下げ始めている。グラウンドにある葉桜になった木々の影もさっきよりも濃くなった。夕暮れが近い。数時間もすれば、辺りは暗くなってしまう。
急いで帰らなくては。僕は机の上にあった筆箱を鞄に入れながら、唇をぐっと嚙み締めた。
本来なら、こんな時間まで学校に留まることはしない。
僕は帰宅部で、放課後はすぐに学校を後にするのがいつものこと。だが、僕のどうしようもない性格のせいで、こんな時間になっていた。
この教室にはもう誰もいない。
だが、この教室がある西館二階には生徒が何人か残っているようだ。廊下を走ってくる足音が聞こえる。軽やかな足取りで教室に滑り込んできた東条隼人は、教室に残っていた僕を見て、驚いた。
「あれ?結人、まだ居たのか」
「うん。でも、もう終わった」
「そっか、結構時間が掛かっちゃったんだな。手伝えなくてごめんな。大会が近いから、休むわけにもいかなくてよ」
テニスウェアを着ている隼人は申し訳なさそうに手のひらを合わせる。隼人が春休みの間ずっと、部活に精を出していたのを僕は知っていた。それがゴールデンウィーク明けに行われるテニス大会のためだっていうことも。
「隼人は関係ないよ。僕が引き受けちゃったことなんだし」
「結人は人が良過ぎるんだよ。断ったって、誰も責めなかったと思うけど。だって……」
それは僕自身も分かっていた。自分の性格の不器用さを。
隼人はまだ話を続けたかったようだけど、僕はそれよりも早く帰りたかった。教室から見える山はオレンジの光を背負い始めている。
「ごめん。そろそろ日が暮れるし、帰るよ」
僕は隼人の話を区切る。
机の上の鞄のチャックを閉め、肩に背負う。真っ暗になる前に、早く退散したい。
「見えちゃうからか?」
隼人が聞いてくる。
「そんなわけないだろう」
僕は苦笑いして、教室を後にした。
校舎を出て、夕暮れの道を足早に歩き始める。完全に真っ暗になるまでには少し時間がある。活気あふれる高校生なら、その数時間でもまっすぐ家に帰らず遊びたいだろう。
学校を出てすぐの分かれ道。北側には駅ビルや飲食店、ゲームセンターなどがある商店街につながっていた。横目にそちらを見ると、同じ制服の生徒が楽しそうに話しながら、歩いていた。多くの高校生は放課後、たいがいそちらに足を延ばすだろう。だけど、僕は迷わず、東へと進む。
学校の東側には住宅街が広がっていた。背の高いマンションが並ぶような都会ではないし、田畑が広がるような田舎でもない。大通りや小通りがある平地。大きな河川敷に繋がる川もある。住宅が固まっている地帯もあれば、まだらなところもあって、犬の散歩をしている人や自転車で走り抜けていく人など、ちらほらと人通りもある。種星町。平均並みな町だ。
しばらく歩くと、通路の左側にブロック塀が見え始めた。前方の曲がり角から、下を向きながら、青年が歩いてくる。彼は下を見ているせいで、おそらく僕に気付いていない。このままではぶつかるだろうと思い、僕は彼に当たらないように、そっと彼に道を譲ったはずだった。
それなのに、彼は僕の真横でビクっと身体を大きくのけぞって、派手にこけた。
「だ、大丈夫ですか⁉」
僕は驚いて、地面に倒れている彼に近づき声をかける。
しかし彼は僕の声など聞こえないとでも言うように、何も反応せず、自分の頭をなでていた。そして、どこか一点を見つめて、こちらに目もくれない。
僕はハッとして、彼の姿をじっと見た。
彼の身体は薄く透けていて、夕暮れの光を通していた。彼の身体の向こうに周囲の景色が写り込む。彼の完全な肉体はそこに存在していなかった。
倒れていた彼が勢いよく立ち上がり、僕の方にぶつかってくる。
僕は慌てて身構えたが、衝撃はまるでない。彼はあっさりと僕の身体をすり抜けて、何事もなかったかのように、歩き出して去っていく。
その様子を目で追い、立ち尽くしていた僕は、彼とは違う視線を感じて、我に返った。その視線の方へと振り向くと、気味悪そうに僕を見ていた親子と目が合った。
ああ……。だから嫌なんだ。
僕は慌ててその親子と目をそらし、足早にその場を離れた。
さっきよりも急ぎ足で、僕は自宅へとひたすらに向かう。目の前にある曲がり角を曲がれば、もう自宅はすぐだ。
曲がり角には、電柱がある。その電柱の陰からは、すっと音も立てずに老婦人が現れた。僕はもうそれには驚かない。この老婦人はこれまでに何度も見ているからだ。
彼女の身体も夕日に透けている。そして老婦人は僕の目の前を通り過ぎ、向かいにあるブロック塀をすり抜けて消えていくのだ。
僕はできるだけ周囲に目を向けないようにさらに歩き続けた。
「ただいま」
四棟ある二階建てアパートの下の階。左側の玄関戸を開けて、中に入る。
「おかえり、結人」
台所から聞こえる母の声に、僕の心は少し安らぐ。
洗面所に向かい、手を洗い、顔を洗う。そして鏡に映った僕を見た。
いつ見ても、本当につまらない表情をしている。この顔が喜びや活気、また楽しさを映し出していたのはいつのことだろう。
僕は濡れた顔をタオルで拭き、放課後から引きずってきていた気持ちを切り替えようと試みる。
台所があるダイニングに入ると、テーブルには夕飯が並べられつつあった。
「母さん、ただいま」
「お腹すいたでしょう? 座って待ってて」
そう言う母の声に従い、僕のお茶碗や箸が置かれた席に座る。僕の向かいの席には母のものがある。
そして右側の席には食器は並べられていないが、眼鏡をかけた初老の男性が座っていた。
僕は小さく母に気付かれないように溜息をつく。
彼は特別だ。いや、もう慣れるしかなかったというほかにないのかもしれない。
彼はゆったりと椅子に腰をかけて、お茶を飲むような動きをする。手には何も持っていない。その仕草がそう見えるというだけだ。
僕がその様子をじっと見ていると、僕に振り返った母が「あら? 眼鏡さんはまたお茶タイム?」と聞いてきた。僕はただ頷く。
「眼鏡さん」。それが僕たちの彼の呼び名だった。
僕がじっと見ていても、彼は僕の視線に気付くことはない。
視線が合ったことはこれまで一度もなかった。触ったこともある。でも実体はない。だから幻覚かもしれないと、自分の頭を疑うこともある。
「今日は、何を飲んでいらっしゃるのかしらね」
母には彼が見えていない。僕にしか見えていないけれど、母は僕に合わせて、言ったのだ。
僕は物心がついたころから、母とこのアパートの一階に住んでいる。部屋の間取りは3DK。母の部屋、僕の部屋、今居る食卓のあるダイニングキッチン、そして今は物置になっている部屋がある。
眼鏡さんは、引っ越してきた時から、このアパートに住んでいた。
見たものを正直に言うことしかできなかった当時の幼い僕は、この眼鏡さんの存在にはだいぶ悩まされていた。今では気にせず共に生活しているし、眼鏡さんに合わせて、食卓も移動しているくらいだ。もし食卓が無かったら、彼は宙に浮かんで座っているように見えるのだ。
母は僕のその体質を最初から否定しないで受け止めてくれている。
母の性格はちょっと人よりズレているというか、抜けているというか、言わば天然なところがある。
そのおかげで、僕は母と今でも疎遠になっていないともいえるかもしれない。
周りの子とは違う不気味な子が自分の子だと受け止められない親もいるだろう。
僕には最初から父はいなかった。母に父がいないことを聞いた時、母は「お父さんは他界したのよ」と説明してくれた。だから、母とずっと二人で暮らしてきた。
僕は眼鏡さんを見る。
いや、この人を入れたら、三人暮らしなのだろうか。
眼鏡さんがどういう思いで、このアパートの部屋に住み着いているのか分からない。
僕は、みんなには見えないものが見えてしまう。
人がいるはずがない場所に、人が浮くように見えたり、突然現れて、消えたりする。そして、それは昼間よりも夜の方が多く見えるようになる。
だから僕は、このどうしようもない体質のせいで、暗くなったらできるだけ、外出したくなかった。また見知らぬ土地に行くのも怖かった。
長年住み続けていれば、帰り道であった老婦人や自宅にいる眼鏡さんのように、いつも同じ場所で見える存在に対しては対処できる。だから、出来るだけ慣れて、勝手の分かる地域から出たくない。
そんな理由で地元の高校を選ぶくらい、僕は臆病でもあった。
眼鏡さんや老婦人のような彼らは、触れてもすり抜けてしまうし、実体がないので、普通の人間ではないのは確かだと思う。幽霊なのか。妖怪なのか。それとも僕の頭がおかしいだけの幻覚なのか。
他の人が見えないものが見えてしまうことによって、どうしたって周囲から変な目でみられるのは避けられなかった。驚けば身体はビクっとしてしまうし、見えてしまうものを完全に見ない振りができるほど器用でもない。
彼らが僕に危害を加えてきたことは一度もない。だけど彼らの存在があることで、僕は周りから気持ち悪がられる。変な奴だと笑われる。僕はそれが本当に嫌だった。
「今日は珍しく、帰りが遅かったわね。何かあったの?」
食事を食べている最中、母にそう聞かれて、僕の箸を持っていた手が止まる。
思ったよりも動揺した。
気持ちを切り替えたと思ったけれど、そう簡単にはいかなかったようだ。
今日の放課後、僕はどうしても居たたまれなくなってしまって、勝手に身体が動いていた。あの教室の空気は今思い出すだけでも、胸が詰まる。
「……放課後、雑用を引き受けちゃったんだ。それで、終わるまで帰れなくて遅くなった」
「そうだったのね。 じゃあ、大変だったわね」
母は僕の動揺に気付かなかったらしく、ただ微笑んで労ってくれた。
母に余計な心配をかけずに済んだのなら、それが一番だと思いつつ、母の言葉をキッカケにして、放課後に起きたこと、そして僕がしてしまったことを思い出してしまった。
今日の放課後に起きたこと。それは、ある男子生徒が、ある女子生徒をターゲットにして、締め切り間近の作業を押し付けて、責任もなすりつけようとしたのだ。
僕はその男子生徒の発言を聞いた瞬間、教室に放たれた攻撃性のある火種を見た気がした。
そして、彼の発言に反論したり、止めたりする生徒が居なかったから、その攻撃性のある火種を許してしまう空気がクラス全体に出来上がって、あっという間に炎で燃え広がってしまうビジョンが僕を支配した。
その男子生徒は単にふざけ半分で言った可能性はある。
僕が敏感に感じすぎてしまっただけかもしれない。
だけど僕は思わず、身体が反射的に、誰も静かに黙っていた教室で、一人、ガタンと音を立てて、立ち上がってしまったのだ。
男子生徒が「なんだよ」と、今度は僕をターゲットにして、「柏木、お前がやるのか?」っと僕を名指しした。
正直、身体が動いてしまったのは、僕の真意ではなかった。
突然向かってきた車に驚いて、ビクンと跳ねて固まった不運の猫のように。
近づいてくる熊に気付いて身を潜めたのに、恐怖に耐えきれなくて、飛び出してしまった不運な兎のように。
僕はその教室の暗雲立ち込めそうな空気が苦しくて仕方なかっただけなのだ。
隼人が言うように、僕は雑用を断ることができたし、僕がやらなくても良かったものだ。
その男子生徒に突き返してやれば済むものでもあった。だけど僕は臆病で、それが出来なかった。
結局、その男子生徒は、その悪行をすぐに先生にチクられて、他の作業を自分でする羽目になっていた。僕にも謝ってきて、大きな問題には発展しなかったけれど、僕は引き受けてしまった手前、その手を下げることはできなかった。
僕がもっと器用に立ち振る舞えていたら、違ったのにと思ってしまう。
だから僕は自分のどうしようもない体質と性格が、本当に嫌だった。