第八話 -意思は弱く堕落は一途-
今すぐ「帰っていいですか?」と、聞いて返事が何であろうと飛び出していきたい気分である。
だけれど、賑やかであった酒場が打って変って静寂どころか音が何もないのではないのかと聞きたくなる不思議というより不可思議な空間になってしまっている原因である女性とそれの取り巻きの様な配置の人々を見るとそうも言えなかった。
寧ろ言ってしまうと、所謂K.Yとやらになりかねない雰囲気である。
幸いにも俺は空気を読めるのでその場で立ち去ることはせずに周囲の人々の様に立ちつくすことにした。
下手に動けばK.Yの称号を欲しいままにしかねないだけでなく、この騒動に巻き込まれるというとても望ましくない状態になってしまう可能性があった。
寧ろ、そうならない可能性の方が低いと思える。
そう立ちつくすだけで自身の心音が聞こえてしまうのではないかという静寂を耐える事大凡10秒。
これが数分以上続くのであれば、不名誉の称号など気にせずに窓から飛び出していた。
そんな阿呆みたいであり地味に現実で選択しかねない選択肢を考えつつ生命維持以外の余計な事をせず、学校などの劇で木の役になったつもりで突っ立っているとついに動きが見えた。
マスターは相変わらず壁から生えている。
殴られたらしい男は未だに動かず電池が切れているらしい。
動いたのは周囲にいた男の一人の口である。
「テメェ! いきなり何しやがる!」
男が鎧の女性の肩を掴むが、女性は眉ひとつ動かさずその手を払い眉間にしわを寄せる。
「貴方達が不埒にも許可なく女性の触れてはならない部分に触れるからでしょう」
よく見ると女性の装備である鎧は、鎧と言う程の重装備ではなく、胸当て程度の軽い装備であった。
周囲の男の何人かはそれに隠された二つの夢と希望の丘に目が行っている訳だが、女性に気づかれていると気が付いていないのだろうか。
気が付いているのなら相当の猛者である。
俺はもちろん猛者ではないので目をそむけるまでに至るまでも無く、そこに視線を向ける事さえせず無難に周囲の状況を伺い続けた。
周囲の人々の中の数人の男は女性に向ける敵意の目線から吹っ飛ばされて糸の切れた操り人形の様に動かない男の知り合いか仲間かは知らないが男の味方をするつもりらしい。
女性は複数の男に取り囲まれるように囲まれ睨まれているが気にもしていない。
寧ろ、侮蔑の目線を向けている。
「グッタはお前に話しかけただけだろ!」
と、男の一人が先の台詞に反論してみせ、他の男達は続く様に、そうだそうだと言っている。
仕上がりの悪い劇の村人的なモブですかこいつらは。
そんな男達の台詞を聞いて更に顔を険しくする女性。
だが、彼女の表情に恐怖は感じられない。
俺ならあれ程の男達に囲まれて睨まれれば居心地の悪さに目をそむける程度はするだろう。
そう思い感心していると男が女性の体に不用意に触れようとしているのが見えた。
ふむふむ、女性の発言に信憑性が見いだせる。
よくあるパターン――言う所のテンプレであればこのまま女性に助力してそこからイベントを起こしていくのだろうけれど、生憎と俺はテンプレに従うつもりは無いし興味も関心も何抱けていない赤の他人を助ける酔狂な趣味を持ってもいないのである。
つまりはどうするか。
それは酷く簡潔で簡単である。
隙あらば即行でこの場を後にしたい。会計はこのままカウンターに置いておくか壁から生えているマスターが着こんでいる服のポケットに突っ込んでおくかは悩みどころであったが女性と取り囲む男達が何やら言い合い、その後に外へと出て行ったので俺もすぐさまこの場を去ろう。
気が変わって再びここへ舞い戻られてはたまったものではないからだ。
騒動というか寧ろ静寂であったが、それの原因が去ったのですぐさま酒場は元の活気を取り戻していた。
ああ、だけれどマスターにまだエドルにもらったカードに刻まれた文字の内容を聞いていない。
それにカードはマスターに渡したままだ。
マスターは壁から生えているけれど、その衝撃でカードが目も当てられない事態になっていないか心配に思った。
カードの文字については他の誰かに聞けばいいのだろうけれど先程の騒動を見た直後となると何かに巻き込まれる気がして誰かに聞く気分になれない。
仕方が無いからマスターが目覚めるまで待つ――なんて程俺は気長で無いし余裕もあまりない。
「よっせい!」
特に必要もない掛け声を上げつつマスターを突く、概ね全力で。
するとマスターは更に壁へとめり込んだがピクリと動くとすぐにそこから飛び出てきた。
「何が起きたんだ……」
「いやそんな事はどうでもいいじゃん。金の請求はそこで倒れている野郎から請求すればいい。少なくとも事件の原因に噛んでいるから」
ふむ、と唸った後に考えても仕方ないな、と考えていると誰が見てもわかるような表情で何も無かったかのように話を続け始めた。
とんだ猛者である。
「ああ、それでこのカードに書かれている文字だけどな、ここを出て右に曲がって道なりに進んでいけばある石造りのまるで城の様な大きな建物が有るんだが、そこに行ってこのカードを見せてアリアリナ・ベヒスに会えと書いてある――ッ!?」
マスターの顔色が急によろしくなくなった。
壁から身体をはやした反動などの弊害が発生したのであろうか。
「どうしたんだ?」
先程、反動が何やらと考えたが、実際、嫌な予感がすごくするのでそう聞き返す。
俺は運が悪いというよりも悪運が良いと表現した方がいい程に碌でもない運であるのだ。
カウンターに乗り出して聞こうとしたが、食せばお歯黒よろしくお歯緑にでもなりかねないトーストらしきミートスパゲッティに肘を突っ込みそうだったのでその動作を諦めつつ危険物は脇へと追いやる事にした。
美味しいのだけれど文字通り目に毒であるのでなるべく関わりあいを持ちたくない料理である。
「アリアリナ・ベヒスってのはな、言いにくいんだが会わない方がいい人物の筆頭と言って良い人物だ。俺はあった事が無いし知り合いも無いが、流れる噂は肩が当たっただけで相手が吹き飛んだとか過去に単騎でというか酔った勢いで砦を消したとか最悪な噂しか流れていない」
予想以上である。
肩が当たっただけで吹き飛ぶとかオカシイだろどう考えても!
そして、そんな人物に会えというエドルはもっとオカシイ!
気が狂っとる!
今の俺は自分でも自身の顔が真っ青で酷いモノであると理解出来る程度に酷い顔をしていた。
それを押し隠す余裕さえ無い。
まあ、でもエドルが会えっていう人物だし流石に人間なのだから人間の範疇を超える事は無いだろう。
――そういや、エドルの時点で人間疑問に思う程オカシかったよな。
その人も人間の範疇を超えているような気がすごくする。
「アリアリナ・ベヒスは、二つ名が『黄金色の断裂』で、おまけにエルフの血をひく人間らしい」
ああ、生物学的で既に人間の範疇を超えていましたか。
いやはや、折角エドルが会えと言ってくれているのだけれど残念ながら会えないねこれ。
人間には限界が有るんだよ、いや有ってほしいよ!
エルフって事は魔法が強力なんだろうなぁ、なんて明後日の方向を向いて考えているとマスターにカードを渡された。
俺はトリップを止め、マスターを見るとマスターはどん☆まい、と言いかねない笑みを俺に向けている。
すごく強面なのでその表情は非常に不愉快という意味で無い気持ち悪さ――簡単に言うと嘔吐感を伴いかねない方である――に耐えつつカードを受け取った。
「……とりあえず、その悪魔的な噂しかないヤツとは会わないようにするよ。エドルには悪いけれどね」
とりあえずアリアリナ・ベヒスの俺内イメージはムッキムキの悪魔である。
これは本人がどれ程払拭しようと当分は変わりようのない強固なイメージとなりそうだ。
「ああ、その方が賢明だろう。まあ、噂で大体想像できると思うが、実力は相当なもので勇者より強いんじゃないかって言われてるぐらいだから、相応の地位が与えられているらしいから敢えて会いに行かない限りは会えないような人物だろうし安心したらいいさ」
つまり、トチ狂うか極め付けに運が悪くない限りは会わないで済ませられるという事か。
うん、大丈夫だろう、後者の理由以外は。
運悪く出会いそうな気がしてならないのだが、生まれついての運の悪さ故の不安であると考えて気にしない事にしよう。
気にしていればそれだけ通常とは行動が異なり、それ故によろしくない出来事が発生しそうだからである。
まあ、筋肉ムキムキのヤバイヤツを見かけたら急いで逃げればいいだけだ。
「うん、まあありがとう。その悪魔みたいなヤツには注意するよ。どうせ悪魔みたいなやつだろうし」
鬼の形相なんて赤ん坊の様な言葉に聞こえる存在なんじゃないかな。
「ん? ああ、気にするな。エドルの知り合いは無下には出来んさ」
エドルは相当マスターに好かれているらしい。
あの性格を考えればそれは十分に頷けるものであるのだが、どうやら俺もエドルを予想以上に好いているらしく、俺はその評価を知り自分の事の様に喜んでいた。
以前の俺にはそんな存在はいなかったので何だかんだ言ってもこの世界に来れて良かったかもしれない。
相当面倒なのは喜べるところではないけれども。
「あ、そうだ。この辺で道場みたいな修行場みたいな場所ない? 出来るだけ金がかからない方向で」
「それならここから右に行った所にある坂の上のラクランって名前の道場が良いよ。そこは月謝が安い。…無料で一か所あるけど、そこは相当腕が無いと通う事さえ許されないよ。それに危険な訓練をしているのか、年に何人か死亡しているらしいし」
なら、金は無いからそこら辺で魔物と戦うなりすれば良いか。
俺の場合、とりあえずブランクをどうにかしたいだけだから何とかなるだろう。
よくある漫画よろしく近くの山なり渓谷なりに籠れって修行すれば良いんじゃないだろうか。
「わかった、ありがとう」
と、手を振り俺は酒場を後にした。
緑の何かは一口齧っただけで済んだので精神的ダメージは少なくなって何か言い表せない安堵感を原因が分からない幸福感を感じ噛み締めた。
そこいらで野性的で経済的な修行を行う為にも良い立地の場所を探さなければならない。
この辺りに強力な魔物の気配は感じないので戦闘での修業は度外視し、地形での修業に良い場所を探すとしよう。
魔道書を使って周囲を即座に探査すればいいのだろうけれど、魔道書はあまり使う気になれないし歩いて探す事も修行だと考え町の外へ出る事にする。
綺麗に舗装されている場所は街ぐらいで、あとは土がむき出しの野生満開で一歩間違えれば獣道なんていう具合であるので、丁度良さそうな場所はすぐに見つかった。
切り立った崖やその底で広がる足を滑らせそうなゴツゴツとした岩場。
おまけに少し離れた場所に川は有るし、上流までいけば泉が有る。
魔物という名の野生動物もよく見かけるので相当生息しているようだ。
ただし、兎もどきや狐もどきばかりなので戦闘訓練は望めそうにない。
最初から無理だろうと考えていたので別段気落ちもせずにとりあえず食料を確保する為に足を動かす。
周囲を散策してみるがやはり、ウサギもどきやら狐もどきといった小動物系の魔物しかうろついていなかった。
大凡10分程で兎もどき一匹と川に居た魚を数匹捉えることにした。
そこで俺は刃物を所持していないので獲物を食材へと昇華させる為に必須となる解体という作業を行えないことに気がついた。
今日は仕方が無い。
男料理にしてしまおう。
周囲の気配を探り、誰も居ないことを確認した後に、更に念のために誰にも見られないようにちょっとした洞窟のような場所に入り、魔道書を展開し火を通すことにした。
展開を終了しても経験は残るので、下位術の火の魔法ならば次からは行使する程度であれば魔道書の補助は必要ないだろう。
そう思いつつ魔力を魔法の形へと循環させ火を通す。
上手く火を通すことが出来た。
この世界の魚は初めて食べてみたけれど正直味気ないな。
簡潔に言えばあんまり美味しくない。
調味料とか取れないからな。
川はあるけれどあとは少しの森と肌色というか黄色のような水気が完全に無い岩場や崖だけなのである。
訓練っぽい事をするのには少し便利だけれど人が全く住んでいない地域らしくそういう辺りは不便の極みである。
刃物の調達もしておきたい。
石器を作るにも、それに適した石が見当たらないのでどうしようもないし、能力で作成するにしても材料が足りなかった。
「今日は腹もいっぱいになったしブランク解消に努めるか……」
と、俺は立ち上がりかけるが、少し停止してから再び胡坐をかいた。
「そういやブランク解消って何すれば良いんだろう。ただ身体を動かせば良いってもんでも無いだろうし」
昔の修行の内容を覚えていればよかったんだろうけれど残念ながら俺の海馬は職務怠慢をしているらしくそれに関する記憶が発掘されることは無い。
発掘の見込みは零といっても良い。
寧ろ逆の方向へとメーターが振り切っていそうである。
時間はあまり無いので慌ててしまいそうであったが、慌てても良い考えは寧ろ浮かばない。
敢えて落ち着きを取り戻すためにエドルに教えられた魔力の流動練習を行う。
体の局所へと順々と魔力を移動させていく。
この練習をしてから魔力を少しは認識できる様になった。
それまでは、気配といった勘に近い何かを感じ取っていた訳だが、この世界で強いものは大半魔力を内包しているのでこの技術は役に立つだろう。
「ん?」
危うく手段が目的になってしまう所であることに気がついた。
俺はエドルに恩を返すというか、職務を全うする為に強くなりたいのだ。
それが目的であった。
なのに今はなんだろうか。
ブランクの解消はできずとも、強くなれば良いのだ。
魔力の流動を練習すれば良いのではないだろうか。
身体を動かすような魔力の流動の練習になりそうなことをすれば良いのではないかと思える。
身体を動かしていれば少しはブランクが解消できる気がするからだ。
先も言ったとおり、身体を動かすことだけではブランクの解消は望めないが、他にしようが思いつかないので仕方が無い。
目的を魔力流動にし、副産物的にブランク解消とすれば良いだろう。
なら、もっと合理的に行こう。
「まずは、雨風を凌がないとな」
今俺のいる場所は川付近の岩場である。
火を起こす際に使用した洞窟のような場所は、洞窟というより窪みであったので雨風を防ぐ機能は持ち合わせていないのである。
川は、崖と崖の間――崖の底であるが、それを沿うように走っている。
洞窟は川を挟むように聳え立つ崖のひとつの根元付近に存在する。
ここに拠点を構えれば高所へと移動して漆黒と仲良くならなくて済むだろう。
今日は、魔力流動を意識しながらこの窪みを洞窟へと昇華する事をしてみようか。
この世界と以前の世界。
その差は魔力の有無である。
つまり、そこに存在する物質は同じものがあれば基本的に耐久値は変わらない。
そうなるのであれば、今目の前にある崖を構成するカピッカピの岩は以前の世界にあった岩と変わらないのだろうか。
一応、予想以上に硬かった時の為に心構えだけはしておくし、手の骨が手の骨として機能しなくなることが無い様に力加減の調整も怠らない。
作業を開始する前に魔力流動をお浚いしてみる。
壁を抉るのであれば衝突する寸前に魔力が手に集まるように流れさせれば良い。
最初はゆっくりでも徐々に早くしていく。
俺は小心者であるので最初は大凡5秒かけて岩へと衝突させてみるが、岩など無いと言わんばかりに手はそのまま進んでいった。
無論、手が岩をすり抜けた、とか岩が実は岩でなくすり抜ける何か、であったりなどではない。
手には岩のかけらがあるのですり抜けたわけではなく、耐久性を視る限り岩と同じ成分であった。
「これ、なんだ? 本当に」
自分でやって何だけれど自分でも理解できないし説明も出来ない。
以前の世界で素手で一人用一方通行トンネルを作成する際にもこれ程楽という意味で手ごたえが無いものではなかった。
何かに比喩するのであれば、以前は輪ゴムを千切る様なもので、今は水にチョップをかました時のような抵抗である。
比喩を使わず簡潔に表現するのであれば、俺の動作を阻害するという意味で岩なんてあっても無くても変わらないということだ。
ただし、それから飛び降りるならば大いに意味はあるだろうけれど。
「うーむ」
神の恩恵による魔力が凄まじい事は理解した。いや、薄々どころか無理やり表すなら濃々と感じていたけれど。
何せ、魔力流動だけでなく魔力そのものをまともな師事もせずほぼ独学で学んでいるにもかかわらずコレなのだから。
もしかすると、魔力を扱える人間全員がこんなことをやっとのけられるのかもしれないが、もしそうであるなら俺は人間不信になりかねないぞ。
人間が不信というより第三の恐怖症に人間を認定してしまう勢いで人間が怖いと考えてしまうかもしれない。
だけれど、人間よりも魔力に特化した種族であるだろう魔族があれであったのでやはり神の恩恵が酷いものであるのだろう。
以前以上に加減が難しくなりそうであったが何とかなるだろう。
洞窟作りなんてすぐに飽きて苦行の何ものでない事を考えて若干心していたのだけれど、面白いように岩が削れていく様を見ると案外面白く感じ没頭してしまった。
少々大きめに洞窟を作ることによって閉所恐怖症が発動しないように考慮され、更に横に倉庫的な洞窟まで作成してしまうまで一心不乱に掘り続けたという没頭振りであった。
先ほどの食事の残りは倉庫的な場所に保存しておこう。
そのまま地べたに置くことは憚られたし、気温も良い気温であったので腐らないか不安に感じたので氷を置くことにした。
氷は川の水を持ってきて魔法で凍らせたものである。
稀に流れない寿司屋さんがネタを置く場所に用いるような立方体の氷である。
良い感じである。うむうむ。
腕を組んで頷いていると、そろそろブランク解消からも魔力流動練習からもかけ離れた事になりつつあることに気がついた。
うーむ。しかしそうは言っても何をすれば良いのか皆目見当がつかないのである。
魔力流動を意識して金トレでもすれば良いのだろうか。
だけれど、脱獄を繰り返す為に筋肉は落ちていないのである。
体力はそれに在らずだけれど。
刃物や調味料といったこの場所ではどうしようもないものは明日調達することにしよう。
今の目的はなにやら強くなることを主体としているのでサバイバルが目的ではないし、趣味でもないのだ。
コレだけであるなら正直の所、ここに停滞する意味は無いのではないかという考えも出てきていなくも無い。
当初の予想を大幅にずれて目的が方法が変わってしまっているからである。
ブランク解消ならばこの崖が使えそうだけれど残念ながらそれは現状ついで扱いであるのだ。
そうなっても国と国の移動時間を考えると調味料やらは必須であるし、刃物等の汎用性に長けた武器も魔物や魔族を考えると必須だろう。
幾ら魔力が高性能であると証明されても素手であれと戦う気になれない。
あの時は妙に戦闘に当てられてテンションが素晴らしかったので垣間見せなかったが、あのガーゴイルと表現せざるを得ない形状を思い出すと背筋がぞくりとするものだ。
ガーゴイルそっくりの体つきはまあ大丈夫なのだけれど、ガーゴイルそっくりの顔で、ガーゴイルそっくりの鋭利な歯でこちらへと大口開けて襲い掛かってくる姿を思い出すと目が回りそうな恐怖に襲われる。
テレビから髪の長い女性が出てくることを売りにしている様な映画を始めてみた際よりも怖い。多分、それに実際に遭遇してしまってもあれ異常ではないだろう。
妖怪といった精神的な恐怖ではなく、アレは本能的な恐怖を感じるのである。
あれから別段どうすれば良いか思いつくはずも無かったので、魔力を使用しながら腕立て腹筋背筋を数千回やっていると日が落ち始めていた。
「慣れない事はやるもんじゃないというのは正しいことなのだろうなぁ」
やけに疲労感が大きい。
この感じから明日筋肉痛になりかねない。
朝飯にありつけないなんて事になってしまえば腹の住民はもれなく一揆を勃発させて、更に同盟軍として筋肉痛から増援が来るに違いない。
最悪のパターンに見舞われ悶絶する俺を幻視した所で俺は落ち着いてられる状況じゃなくなってきたので当面の分の食料の確保へと勤しむ事にした。
ついでに言えば、文字通り手ごたえが無い作業であったのだけれど慣れない事であったそれを行った後のすきっ腹は先の残り物では賄いきれないと判断したから余計に動かざるを得なかったのである。
牢が家であった時は俺の両足は生まれたばかりの鹿の如く足が反抗期になり、あらゆる作業をやりたくないとアピールしていたが、今の俺の足はそんな時期なんて無い、過去は振り返らないと言っているように聞こえそうであった。
蔦のようなもので籠を作成し、一度により多くの獲物を持ち運ぶ。
今日の作業が効果を表したのか、魔力を使用して狩りを行ってみた所以前よりも早く、そしてより多く獲物を確保することに成功した。
食べきれない分は倉庫に放り込んでおけば良いだろう。
氷が配備されているので冷蔵庫の機能があるその洞窟に入れておけば長い間持つだろう。
焚き火をするために、近くの森から木屑やらやたらめったら大きい葉っぱを持ってきて火の魔法で発火する。
火が点った時点で辺りは既に暗くなっていた。
「火、通れや」
魔力を使用する際に、より強固なイメージを持って流動させてみると、通常よりも上手くいったので、詠唱とも呼べない詠唱を――ただ、目的を述べただけなのだけれど――唱えて魔法を使用してみると、上手くコントロールが出来た。
やはり、経験が残っているので一度魔道書で使用したものは後に自力で扱えるようである。
焼け具合は魔道書使用時程ではないが中々であった。
大分豪勢に食べたが、まだまだ食料は残っていた。
森に食べられそうな木の実もあったのでそれも相まってだろう。
まあ、良い。
「うむうむ。疲労ここに極めり」
お休みグンナイ。
俺は別段、恐怖症によって暗黒へと落ちる以外の方法で暗闇に身を任せる事に成功した。
起きると危惧していた筋肉痛は無かったが、全身を襲う妙な虚脱感が感じられた。
いってしまえば体が重い。
魔力の流動と初歩の魔法数発だけと言っても消費魔力はある訳で、特に流動は半日ずっと行っていたと言っても過言で無い密度で行っていたのでそれに伴うものなのかもしれない。
感覚的に魔力が底をついたというわけではなく、寧ろ全回復している。
なので、よくあるパターンとして始めて魔力を長時間使用したとか、やたらと魔力を消費したからとかそういう理由を掲げて俺に重力以外の重力を超える圧力が襲いかかっているのだろう。
特筆して気にすることでもないと判断したので、朝飯を平らげてから町へと向かうとしよう。
町は朝早いにもかかわらず活気に満ち溢れていた。
朝は他の町や国へと向かう商人が多いのか、商人の格好の人間が多かった。
慌てているのか猛スピードで走る乗り物に数回轢かれ掛けつつ調味料を探した。
現状、済崩しにエドルから貰ったというか貸して貰っている金に手はつけたくなかったので手持ちの心ともない金だけで何とかしなくてはならない。
という訳で武器の方は諦めないといけないかもしれない。
前の国と物価はそう変わらなさそうなのである。
調味料は予想以上に安かった。
どうも、一般的に料理をするという習慣はあまりないらしい。
特に、一人暮らしの男は酒場で皆で騒いで飲み食いするらしいので余計にである。
よく金が持つなあと俺は関心しきりであった。
そんな疑問はすぐに解決することになる。
どうも、タバコや本といった嗜好品の様なものは高いのだが、料理や生活必需品のような必要なものは異常に安い。
前の国ではそうでもなかったのだが、ここの国の特色なのだろうか。
刃物も、剣やらは異常に高いのだが、包丁といった戦闘用でないものは比較的安かった。
体験的に、もと居た世界の包丁よりもここの包丁は安い。
貿易が盛んである様相であったのだが、それに応えるように包丁ひとつでも様々な種類があり、品質も良かった。
一番酷い店では、包丁だけで数百種類置いていたので脱帽であった。
ホームセンターでもこれ程の品揃えは無いだろう。
俺は、比較的頑丈で壊れにくそうな包丁を購入した。
切れ味は最悪とは言わないが良いものでないことはわかったのだけれど、切る食材が野生動物というワイルド精神に則ったモノであるので別段問題ないか、と自身の食生活にため息ひとつついて感想とした。
当初の予定通り、調味料と刃物だけの購入であれば、限りなく無いに等しい俺の金は結果的に言うと無くなっていた。
四捨五入すれば0になる程度に無くなった。
この世界には料理はあまりされないらしいのだが、料理をする俺としては店頭に乱雑に置かれたフライパンとしか見れない物体は神に等しい神々しさが見えた。
いや、あの神を考えるならば、このフライパンの方が神々しいだろうか。
早速、うきうきしながら拠点である洞窟へと戻って昨日集めていた木屑などに火を灯しフライパンで調理を開始した。
調味料もあるので万全といえる。
いや、予想通り切れ味が宜しくない包丁を考えれば万全とは言えないけれど、俺個人としては満点を出したくなる設備である。
出来上がったそれは、昨日目撃した――というよりも、一口だけ食したあのカビ食パンと見間違えそうなアレなど最早ゴミとしか思えないほどに良い出来であった。
「うむうむ美味いなぁ」
俺は一心不乱に目の前のものを平らげた。
それから二日。
俺は何も変わらず氷のお陰で快適空間と化した洞窟内部で寝っ転がっていた。
いったい何十時間魔力流動の練習を行っていないのだろう。
俺が身体を預けているのは、岩場ではなく草と蔦で作成した擬似ハンモックであった。
ゆらゆらと揺れるそれに誘われて修行の二日目は寝てしまい修行の三日目の今日に至る。
今日も今日とて、朝からその揺らめきにかまけてうとうととして過ごしている。
「あ、やべえ。これ快適すぎるな」
このままだと食材じゃなくて俺が腐る。




