飛べないカゲロウと月
彼の背中にあったのは 翼なんて呼べるものじゃなく
玉ねぎの薄皮みたいに 柔くてちいさな
今にも 付け根からもげてポロリと落ちそうな
色すら もたない羽だった
それでも いつかあの月まで飛ぶんだ
願い続けて 憧れ続けて
夜の月を眺めていた 星に祈っていた
けれど 汗に泥に涙に塗れ
背に負うザックは日に日に重く
弱弱しい羽は 開くことなく荷の下に深く
埋もれて行った
瞳はいつしか空よりも 道の先よりも
足下のぬかるんだ地面ばかりを
見つめるようになっていた
疲れ果て 涙も枯れ果て
茫然と座り込んでいた ある寒い夜のこと
冷たい夜風吹きすさぶ空の
ひととき割れた雲間に 覗いた淡い月に
カゲロウは出逢った その優しい煌めきに
額と瞳から零れ落ちた雫で 黒く滲んだ土を
浄めるように 広く 白く
照らしてくれてることに 気が付いた
あたたかな その灯し火は
そっと 彼の疲れた身体を包み
存ることすら忘れていた もげそうな背の羽も
磨耗し潰れかけていた 心も
静かに撫でて 癒していった
彼は 少しずつ月に語った
飛べない羽と 下ろせぬ荷を背負ったまんま
歩んできた旅の ちいさな いくつもの物語を
飛べないカゲロウを 月は 優しく見守った
星明かりの晩に 花曇りの夕に
朝焼けの空に 晴れた青空に
いつも カゲロウの語る物語に耳を傾け
おどけた姿を 笑ってくれた
ただ1人きり 空に佇み
絶え間なく 世界に光を届ける月も また
小さな小さなカゲロウに 癒されていた
月に逢い 光に触れるたび
嫋やかな笑い声を 耳にする度
疲れた体に 力が戻っていった
脱皮したての蝉の如く くしゃくしゃだった
薄羽の翅脈には
点滴を受けるかのように ポタリ ポタリと
一滴ずつ 血が 巡りはじめていた
ある 欠けた月の夜 カゲロウは見た
優しく眩い光の奥に いつもは見えない
沢山の凹凸が 複雑な影を作っているのを
数えきれないほどの 傷跡があるのを
カゲロウは 知った
欠けて見えない 影の中に
人知れず 静かに流す
胸が潰れるような 大粒の涙があったことを
カゲロウは泣いた
そして誓った
月がまた 笑ってくれるのなら
いついつまでも 語り続けようと
その秘めた悲しみ 苦しみが 涙が
ほんの束の間でも 癒えるのなら
欠けた痛みが 和らぐのなら
この羽 千切れようとも
月の傍まで 飛んで行こう
不恰好なおどけた姿で ずっとずっと
空に 地に 舞い続けてみせるのだと
けれど飛び立つことは 容易じゃなかった
そもそも飛び方を 知らなかったから
勇気を奮い起こし 彼は 夜となく昼となく
おっかなびっくり
何度も何度も 羽を広げ 動かしてみた
月に照らされながら 羽は力を蓄え
開いて行った
少しずつ 吹く風を捉えられるように
なっていった
ある凪の日 思い切って 彼は地面を蹴ってみた
重い鎖で縛られていると思っていた足が
地面を離れた
ふうわりと 体が軽くなった気がした
つま先が少しだけ 浮き上がって
ほんの一瞬 空に近づいた
それからも 幾度となく
荷を背負ったまま 彼は飛ぼうと試みた
懸命に羽をばたつかせ 少し浮いては また落ちた
落ちるたびに 傷も増えた
膝からひじから額から 滴り落ちた血と涙が
緑の草を染めた
けれど彼は 諦めなかった
月に星に憧れた あの頃の心を
飛びたかった昔の願いを 思い出したから
誰より痛みを知る 美しい月
強く優しいその光に
顔を上げ 羽ばたく勇気と
生き抜くための 大きな力を 貰ったから
そんな彼を そっと見守り続ける月が
いつも そこにあったから
あの空に 舞っている 待っている
光が風が いつもそこに あったんだ
かわらない眩しさが 優しい声で
呼んでいたんだ
とうとう 彼は 飛んだ
涙の形に 月が輝く夜に
吹き付ける風に押され 煽られても
もう流されまい
薄い羽が 荷に擦れ もげ落ちそうになっても
嵐に巻かれ 身が粉々に散りそうになっても
まけるものか
ときに全力で 風に抗っても 飛ぼう
ときに地に伏せ 時を待ち
一歩一歩 踏みしめて進もう
森陰に 野の花影に 羽を休め
雨を日照りを避けながら
荷を負ったまま
どんな嵐も 瓦礫も 越えていくのだ
乗り切るとも
鋼とは違う 天然素材だ
木綿糸のように 絹糸のように
柔く 弱々しいけれど
世界でただ一対の 月の光を受けた翼を
信じるのだ
彼は誓う
この翼で 足で 空に満つる月の
清かな優しき光を 煌めく癒しの音を
笑顔を 必ず守り続けようと
その傍らを 笑い 泣き 迷い また笑い
寄り添い 歩き 飛ぶのだと
いつまでも
何処までも