1話 開かずの扉が開かれた
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──心地の良い春風が頬を撫でる。
俺にはわかる。新たな門出を祝ってくれているのだろう。
ハッピーバースデー、俺。宙にでも舞うような気分に思わず鼻歌がこぼれてしまったが、それも仕方のない話だ。
「……ご機嫌なところ申し訳ありませんが、どこか違和感などは?」
「あ、いえ、特に問題はなさそうです」
カッと熱くなった顔をごまかすためにできる限り淡々と言葉を返す。
イヤホン型端末の向こう側にいる人物――たしか城崎といっただろうか、彼女は感情の起伏があまり大きくないほうなのか、素知らぬ様子で俺の知らない横文字を独り言のように漏らしている。
あまりの気分の良さに忘れていたが、最終調整の最中だった。入学早々、変わり者、なんて印象を持たれていなければいいのだが……。
「そうですか。であれば、同意書にサインを。とはいってもそこまで堅苦しいものではありませんので。内容は時間があるときにでも適当に読んでいてください」
――と、何もない空間にピコっという電子音とともに“新規アバター作成に関する同意書”という見出しのポップアップが表示される。はえー、科学の力ってスゲー。
「……にしても、これどうなってるんです? それにこの空間もまるで近未来小説の世界と変わらないじゃないですか」
言いながら規約文を一気にスクロールしていくと、ページの一番下に承諾という表示が映し出されたので、特に何も考えず指でタッチする。
何かしらの返答を期待したが、どうやら淡々と仕事をこなすタイプの人間らしい。
「はい、こちらでも確認しました。……ふぅ、疲れたー。やっぱこういう堅苦しいのは苦手だなー」
「はは。俺もです」
「えっと、残りの細かい調整とかは学校側でやっておくから。新しい身体が馴染むまで多少時間がかかるかもしれないけど、まあ、そこはなんていうか、うまくやってね」
前言撤回。どうやら相当に適当な人間らしい。
「はぁ。わかりました」
「で、なんだっけ。そっちの空間っていうと、ミラー・ワールドのことかな。確かに初めて体験すると感動するよね。ま、最初だけだけど。時期に慣れるよ」
ここ国立鏡瀬学園は国内有数の先進学校であり、西暦2016年、いわゆるVR元年に政府が世界で戦える人材を育成するという方針をもとに設立した教育機関だ。
2045年現在。ミラー・ワールドと呼ばれる仮想空間に出入りできるようになるのは倫理観やリテラシーの問題から一般的には16歳からとされてる。ここでは入学とともに特例として解禁が認められている。
そして、今はそのオリエンテーションの最中だった。
「ところで私のほうからも……えっと、天草碧唯……くんでいいのかな。君に一つ聞きたいことがあるんだけど、構わないかな?」
「え? 俺に、ですか」
「ああ、君の天草っていう姓に少し聞き覚えがあってね。もしかして天草栞理って人にに心当たりがあったりしないかなー、なんて?」
城崎の声には恐る恐るこちらを探るような響きが込められているように思えた。
なるほど、この手の質問は物心がついたころから散々されてきたため、俺の返答はいつもとさして変わらない。
「同姓同名の別人とかじゃないなら、たぶんうちの母親ですね。でも、ここ数年は研究が忙しいとかでほとんど家に帰ってこないんで、俺に聞いても何も出ないですよ。で、俺の母親がどうかしました?」
「あー、うんうん。そっかそっか。いや、今のは全然気にしなくていいから。じゃあ、残りは自由行動ね。で、30分後に教室に集合だから、遅れないでねー」
言うが早く、嵐のごとく走り去っていく足音が聞こえる。別に物理的に逃げなくても接続を切ればいいだけのはずだが、もしかしなくても母の被害者なのかもしれない。あとで謝っておこう。
今日は自習ですとでも言わんがばかりに自由行動を与えられてしまった。しかし、詳しい説明は教室でされるらしいため、特にこれといってやることもない。
そういえば城崎とやり取りをしていたこともあってか、じっくりとこの世界を見て回る余裕がなかったのだ。
何の気なしにぐるりと周囲を見渡して、真っ先に気づいた。視点がいつもよりはるかに高い。
神様、なんてものが存在するなら、きっと俺のたゆまぬ努力を見ていてくれたのだろう。あんな理不尽な日々ともこれでお別れ、そうに違いない。
オリエンテーション用に仮設された空間はそれなりの広さだと感じる。
まわりには、俺と同様周囲をうかがっているやつ、コミュニケーションスキルが高いのか、すでに友人を作って談笑している連中、それを遠巻きにフッと不敵な笑みを浮かべているやつ、なぜかはわからないがアイドルさながら握手会を始めてるやつなど、想像以上に、というよりも後半の数人は明らかにおかしいのだが、多種多様な人材が集められているようだ。
そんな中、彼らは皆一様に俺のほうに意識が向いているように思える。
俺はどんなやつになろうかなーと思考を巡らせていると、視界の隅で一際大きな複数の人影が目に留まった。
遠目では詳しい様子は窺い知れなかったが、近づいていくと、身長180cmはあろう三人の大柄な男に誰かが取り囲まれている。どうやらただならぬ状況らしい。
「新入生なんだからさー、持ってんだろ、アレ? ちょっとでいいから俺たちに貸してくんねぇ」
「……」
「親御さんからたんまり持たせてもらってるだろぉ? ほらちょっとそこで跳んでみろよ」
「……持ってないです」
「ちょーっと怖い思いしたら、渡したくなるだろ。お前が悪いんだからな」
「いやっ」
普段であれば、進んで首を突っ込むシチュエーションではないのだが、周りの連中は見て見ぬふりを決め込むつもりらしい。
今の俺なら、そんな自信に背中を押されるようにダッシュで駆け寄り、気づけば声を掛けていた。
「おい、お前ら。天下の往来でなにやってんだ!」
「あぁん? なんだぁてめぇ」
男のうちの一人、汚物でも消毒しそうな世紀末スタイルに身を包んだやつが凄むようにしてこちらを見上げてくる。そう、見上げてくるのだ。
これはやりすぎたかもしれないな。彼らの背丈から逆算すると俺の身長は優に2メートルを超えている。今、彼らの目には想像を絶する大男が立っているはずだ。
「おめぇも俺たちにお小遣いくれるのかぁ? そりゃ大助かりだ」
「この状況でも余裕なんだな。悪いが、まだこの体は馴染んでないからな。手加減してやれる自信はないぞ」
「アニキ。こいつ珍妙な見た目でなんか言ってますよ。う、うける」
ほめられたことではない。しかし、相当に場慣れをしているのだろう。初日から暴力沙汰なんて考えたくもないんだが……。
瞬間——目の前のならずものたちは俺の視界から消え去った。代わりに見事なまでのドロップキックを披露する美男子が映し出される。
「すまない。ケガはないか?」
「あっ、はい」
いきなりのことにそう返すほかない。
「お前ら。次はないとあれほど言ってなかったか? 言ったよな。会長権限での退学も辞さないからな」
伸びてしまって返事のない男たちに怒声を浴びせると、再びこちらに向き直り、今度は深々と頭を下げる。
「穂波という生徒から連絡を受けてきてみたら、こんなことになっているとは。本当に申し訳ない。完全に僕の不徳の致すところだ」
「い、いや、頭を上げてください。それに俺のことはいいんで、できればそっちの人のことを」
探すように見回す俺の視線を彼も追っているが、先ほどの人物は見当たらない。隙を見て、逃げ出せたのであれば安心だ。
「ま、とにかく助かったよ。こんな状況で言うのもおかしな話だけど、君のような人材なら生徒会はいつでも大歓迎だ。今度は生徒会で会えるのを楽しみにしてるよ」
「えーっと、考えときます」
「……あ、あと、それは先生に直しておいてもらいなよ」
それ? なんのことだ。皆目見当もつかないが、聞き返す間もなく三人を引きずって行ってしまった。
「なんかどっと疲れたな」
無意識にそんな風に呟いていると、トントンと肩に刺激を感じる。
振り返ると、男たちに囲まれていた生徒——長めの前髪のせいで表情までは見えないが、恰好からして男だろう。俺のほうに鏡を持った手を必死に伸ばしていた。
「……あの、それ大丈夫なの?」
心配そうな声音でそう問いかけてくる。
(さっきからそれそれってなんなんだよ……)
意図せず不満が顔に出そうになるが、こちらに向けている鏡から察するに、見れば何かわかるのだろうか。
「うおっ」
膝を曲げて覗き込もうとした――その時、階段から滑り落ちたと錯覚するほどに、ガクッと視界が低くなる。
「あー、あー、碧唯くん、いや碧唯ちゃんだっけ。まぁ、どっちでもいいや、こっちで不具合は修正しておいたからよろしく~」
耳の奥で気の抜けた声が聞こえたが、それどころではなかった。
美少女がこちらを見つめていた。嘘偽りない美少女。
けれど……その美少女は俺だった。
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