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佳話でありますように  作者: クレオメ
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第四話「喉の蓋」

   ***




 これだから涙もろい人間は嫌いだ。おそらくおよそ十年という歳月を経てもなお、自分がなにひとつとして変わっていないことに呆れながら星空と言っていいのかも分からない、そぞろに光る霞んだ夜空を見上げた。




     ***




 その日もまたいつもの駐車場に車を停めていた。四台分しかないそこの駐車場はいつも争奪戦が繰り広げられ、満車のこともしばしばあった。だから空いている時は「ついている」日のはずで、実際に「今日はついていますね」と言いながらエンジンを切った。




 その日の車内で過ごした数時間を振り返ると、言葉を飲み込んで沈黙となる瞬間が多かった気がする。きっとその日がピリオドなのだと、ぼくたちは理解していたからかもしれない。自分の境遇のこと、そしてこれ以上会うことはできないことを、きちんと平静を装って告げようと決意していた。




 彼女と出会ってから一ヶ月弱。その期間が長いのか短いのか、ぼくには分からなかった。


 本来家庭を持つ身の人間に存在してはいけない時間なのだとしたら「ゼロ」でない時点で長いのだろうし、お互いのことをまだほとんど何も知らないことを考えると短いのだろう。




 ぼくが彼女について知っていたのは、年齢が三歳下で、先に誕生日を迎えていたからそのときは二歳下であったこと。美容関係の仕事をしていて通勤時にエコバッグを使っていること。普通のチョコレートよりもホワイトチョコレートが好きなこと。LINEでは句読点やスタンプをあまり使わないこと。少し前につらい出来事があってこの地に引っ越してきたこと。それくらいだった。




 それまでお互いに詮索はしなかったし、人にはひとつやふたつくらい秘密があるものなのだから必要のないことだと思っていた。それでもやはり一ヶ月という期間はその秘密から漂う真実のにおいを感じ取るには十分長い期間だったのだろう。




 その夜の中でもひときわ長い沈黙のあとに彼女が意を決したように尋ねた。




「あなたにはお付き合いしている方、それとも…奥様がいらっしゃいますか」




 今にも伝えようと思っていたことなのだから彼女の方から切り出してくれたことに本来なら感謝して冷静に返答するべきだったと思う。しかし自分のペースを乱されてしまったのか、言葉がのど元で詰まってしまった。




 それはおよそ十年前に大学の同級生に恋をして、その人に別れを告げたときの苦い記憶を呼び起こした。目には見えない感情が自分自身の身体で満杯となり、かろうじてのど元で蓋をしていて、ひとたび言葉を発してしまうと抑えていた感情が一緒に身体から溢れ出しそうになってしまう感覚だった。




 当時のぼくは迂闊にもその人の前で蓋を開けてしまい、その人の前で怖いくらいに泣いた。物心がついてから人前であんなに泣いたのははじめてで、ぼくにとって拭い去ってしまいたい過去のひとつだった。だからこそ今回は自分の感情が静まって、平静を装って告げられるようになるまで待つつもりだった。そして彼女もそうすることを待ってくれたのはありがたかった。




それからぼくは用意していた言葉たちを伝え始めた。自分の仕事について話をした。大切に思う家庭があることを伝えた。彼女を見つけた瞬間から心惹かれていたことを告白した。彼女が時折うなずきながらずっと優しい眼差しを向けてくれたおかげでどうにか冷静に過去と現在の話まで終えられたことに少し安堵した。しかしぼくたちがその日にその場でしなければならない話は未来のことだった。そしてその言葉はぼくから伝えなければならない気がしていた。




「ぼくはあなたのことがきっと心から好きです。




 そしてこれから、この思いは強くなっていく一方だって分かっています




 だから、だからというわけではないですが、あなたと会うのは今日で」




女々しくならないように、なによりのど元の蓋を外さないように必死に言葉を振り絞った。彼女の顔がピントの合っていないレンズのように少しずつぼやけていっていることには気付いていた。それでも伝えなければならなかった。




「今日で最後に」




もうだめだった。最後だという事実を言葉としてふたりの間で共有した瞬間に、ぼくの器量では抱えきれない思いが涙としてこぼれた。そうなると自分ではもうどうしようもないことも知っていた。




 最後にしたくなかった。他愛のないしりとりやゲームをずっとしていたかった。夏の終りに一緒に花火をやってみたかった。彼女の美しい黒髪に触れていたかった。彼女の繊細な手を握りしめていたかった。そして彼女の眩いほどに輝かしい笑顔を眺めていたかった。




 それらは全部もうかなわない。ぼくたちは出会うべくして出会った。ただ出会うべき時に出会えなかった。運が悪かった。そう思うととめどなくまた涙があふれてきたけど、もう気にしても仕方がなかった。既にぼくの目は彼女の輪郭をはっきりと捉えることはできなくなっていた。伝えるべきことは伝えた。あとは彼女の答えを聴く番だった。




「一度、外に出て風にあたってみましょうか」




 彼女はぼくの心を落ち着かせるためか、そんな提案をしてくれた。実際にそうしてみると不思議なことにほんの少しだけ冷静になれた。そしてその分ぼくが今まで彼女に見せていた姿に対する情けなさがこみ上げてきた。これだから涙もろい人間は嫌いなのだ。そう思いながらふと見上げた夜空には、ぼやけた星たちの中に明日には満月となろうとしているにじんだ月が浮かんでいた。

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