恋情フェルマータ
じっとりとした熱気が、体にまとわりつくようだ。僕は、走ったお陰で汗が吹き出すのを自覚しつつ時計に目をやった。
今年の梅雨は、いわゆる空梅雨らしい。けれど、太陽が顔を覗かせる日は少なく、今日も今日とて空はどんよりとしている。
「あっつ……」
思わずそう呟いたけど、そのせいで余計に体温が上がってしまったような気がする。
「あー……なんか飲み物買うか」
幸い、待ち合わせまでまだ時間がありそうだ。冷たいものを飲むくらいの余裕はあるだろう。僕はアスファルトにへばりついてしまいそうな足をなんとか動かす。空は分厚い雲に覆われていて、光が届きそうもなかった。
先ほど自動販売機で購入した缶コーヒーは、もう汗をかき始めている。水滴がポツリと地面に落ちた。僕は待ち合わせ場所の駅前ロータリーの花壇に腰かけている。
電車が到着した音がする。やがてざわざわと人が増える。そして。
とんとんと、肩が叩かれる感触。僕は跳ねる鼓動を何とかなだめつつ振り返る。そこには、
「おはよ」
「……この時間なら、こんにちはじゃない?」
「相変わらず細かいね」
向日葵のように笑う彼女がいた。
信号を待っていたら、生ぬるい風が吹いた。彼女の一纏めにした髪の毛が、タクトのように揺れる。
「今日、一曲目なんだと思う?」
「あえてのシングル曲」
「あー、やりそう」
青になる。
「あー、今回のアルバムの6曲目すごい楽しみ」
「やっぱそれお気に入りなんだ」
「わかる?」
「好きそうって思ってた」
良くわかるね、何て彼女は言う。
だって、いつも考えてる。僕は、好きだから。
けれど、これは言葉にできない。たった三文字を伝えようとするだけで、口の中に甘い何かが押し込まれたみたいになってしまう。まるで喉にチューイングガムが貼り付いたときみたいに。
「まあ、分かりやすいし」
「えー、そう?」
吐息が、聞こえる。
彼女の手の甲が、僕の手の甲にぶつかる。
どうして彼女がこの距離を許してくれるのかが、僕には分からないままだ。
◆
今夜のLIVEは最高だった。
光の集まるステージの上で、三人はどこまでも自由で。
「ステージから出ていったときは、笑っちゃった」
「あの動き、何なんだろうね」
祭りが終わってしまった気だるい熱気を抱えたまま、僕らはファミリーレストランに居た。
「いやー、にしても一曲目……」
「隣で見ている人が腰を抜かしたときの僕の気持ちを答えよ」
「選曲が悪い」
それはもう逆ギレなんだよ。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去る。それはLIVEの時間も、今のこの時間も平等だ。
お互いに、ぽつりぽつりと口数が減っていく。お開きの時間だ。
けれど。
今日はもう少し。
「あのさ」
「うん?」
「その、話があるんだけど」
心臓が、まるで指揮者の合図を受けた楽団の演奏のように、一斉に高鳴る。
固まりそうな口を何とか動かす。
例えば、出会った時の思い出。例えば、初めて一緒にLIVEに行った時の思い出。一瞬一瞬の記憶が、まるで音符のように流れて。
僕が、彼女に伝える、三文字の旋律を産み出す──。
こくりと、彼女がうなずいた。
その日の帰り、初めて繋いだその手は。少しひんやりしていて。熱かった。