第08話 その日常は漫然と(2)
「おい、こんなとこで寝てたら風邪ひくぞ」
お昼すぎの陽気はぽかぽかとして、たまに吹く東風も気持ちの良いものである。だからと言ってまだ初春のこの気温では、じっとしていたらすぐに身体が冷えてしまうだろう。だがいくら綱を揺らしても、フィアは目を開けそうにない様子である。ハンスは仕方なく、彼女の肩を軽くたたいた。
「おい、風邪ひくぞ!」
「んあ?」
ようやく薄く目を開けたフィアは、ハンモックにつかまったまま目をこしこしとこする。
「あれ、ハンス?」
「寝るならちゃんと部屋に戻って寝ろ」
「わかった」
素直にうなずいたフィアはハンモックの上で身を起こすと、うーんと大きく伸びをした。
「お腹いっぱいでそのまま眠っちゃうって……幸せすぎる~」
足をプラプラさせながら言う彼女の顔には、本当に幸せそうな笑みが広がっている。
――そういや軍の食堂で『人形』に遭遇したことはなかったな。てっきり俺らより良いもの食べてるんだと思っていたんだが。
「これまでどんだけ貧しいもん食ってたんだ」
思わずハンスがそう漏らすと、ハンモックの上に腰かけたままフィアは答えた。
「えーとね、こんな感じの完全栄養食!」
そう言ってフィアは両手の指で二つの直角を作ると、小さな長方形の板にして見せる。そうして、事も無げに言った。
「なんかね、『石の油』とかでできてるんだって!」
「なっ……燃料じゃないか! そんなので栄養なんて、とれるのか!?」
――まさか、ホムンクルスは人間よりも巨人兵に近いのか!?
このごろ普通の食事しか食べてないが、大丈夫なんだろうか。もしや彼女の異常な食欲は、栄養不足のせいなのでは……そんな考えに至って心配するハンスに、フィアが不思議そうに言った。
「大丈夫っぽい。お父さんもそればっか食べてたよ?」
「博士が!? なら、普通の人間の食事と変わらないってことなのか……」
ビタミンやミネラルなどの微量栄養素をサプリメントで摂取することに抵抗を感じる人は、それほどいないだろう。そしてそれらが何から作られているかなんて、どれだけの人が考えているだろうか。
だがそれが、炭水化物、脂質、タンパク質の三大栄養素の話となれば、どうだろう。実は石油から人が食べられる合成食糧を作るということは、理論上可能なのである。
石油の主成分は炭素(C)と水素(H)からなる炭化水素である。そして炭水化物は、文字通り炭素と水素の化合物だ。分子が巨大なデンプンを再現するのは非現実的だが、栄養として吸収するためには結局消化し低分子化する必要がある。ならば初めからその低分子の状態で作ってしまっても、実質は同じなのだ。
次に脂質は炭素と水素、そして酸素でできている。石油には炭化水素のほかに酸素(O)、窒素(N)、硫黄(S)なんかも含まれているから、酸素の要件もクリアーだ。さらにもともと油と脂は『あぶら』同士、構造がけっこう近い。そのためこちらも、理論上は合成可能と考えられるのである。
さて残るタンパク質、つまりアミノ酸は、前述のCHONSで構成されている。そもそも化石燃料はその名の通り化石となった生物の死骸から出来ているので、元素という意味での不足はないのである。
だが材料さえ揃っていれば作れるのかというと、そう簡単な話ではない。アミノ酸は種類が多すぎる上に構造が複雑で、完全再現は困難なのが実情だ。そんなわけで、化学合成で石油からタンパク質を作り出すことは、ほぼ不可能なことだろう。
しかしこれには、抜け道がある。実は石油から作られたタンパク質は、すでに七十年代の日本でも実用化されているのだ。それは石油の副産物であるノルマルパラフィンという物質を酵母菌に食べさせて、その増やした酵母をタンパク源とする方法である。
ところが家畜の飼料として実用化された途端、消費者団体の猛抗議にあい、石油タンパクは闇へと葬られた。その後……原油の価格高騰とも相まって、石油から食糧を作り出そうと考える研究者は姿を消したのである。
さて、そんな化学的アプローチと同じ道をたどったのかは、不明だが。ベルツ博士は錬金学的アプローチから、石油由来の完全栄養食の完成にたどり着いていたのだった。
「なんかねぇ、お腹いっぱいになっちゃったら頭の動きがにぶくなるから、少しの量でちゃんと栄養とれるのが理想なんだって。なんかフィアたちは普通の人よりいっぱい栄養が必要で、満腹のとき急な出撃になったら危ないから、それ食べなさいって言われてたの」
フィアはそう言うと、ハンモックからぴょんと飛び降りた。
「これさえ食べれば一瞬でごはん終わって時間の節約にもなるし、一食ぶんすっごく安く作れるのに、全軍での採用に反対するヤツらは非効率的なバカだってお父さんが言ってた!」
親の何気ない愚痴を他所で発表してしまう子どものように、フィアは無邪気に言い放つ。その様子を見て、ハンスは思わず苦笑した。
「悪いが、俺は反対するヤツらに同意だな。石油由来のメシとか、聞いただけでクソ不味そうだ」
「そうなの! くそまじーの!」
フィアはそうおどけるように同意して、ケラケラと笑って見せる。だが一転して、皮肉げな笑みを浮かべると……しみじみと言った。
「でもほんと、いくら効率がよくっても……ごはんの美味しさを知っちゃったら、もう、戻れないなぁ」
「フィア……」
「よし、ここでずーっとおかみさんのごはん食べていられるように、がんばろっと!」
そう言って再び屈託なく笑うフィアを前にして、ハンスは何も言うことができなかった。
『おい、どういうことだ』
あれは、フィアがここに現れた翌朝のことである。バルドル親方は彼女をひと目見るなり、ハンスだけを連れて室外へと出た。
『なぜ四番目の人形が、ここにいる! それも、お前と駆け落ちだと!?』
――親方は俺と違って、ちゃんと他人のこと見てんだな……。親方の在職当時まだ人形は複数いたはずなのに、同じ顔した彼女たちの識別番号まで一発で当てるなんて。
そんなことを考えながら、ハンスは無難な答えを探した。
『駆け落ちっていうのは、おかみさんの誤解から生まれた方便です。実のところ、フィアは軍が嫌になって逃げ出してきたようで』
『だからと言って、なぜここにいるのかと聞いてんだ!』
『それは……俺を訪ねて来たからです。どうも他に頼れる人間もいなかったみたいで』
『それで、ここに置いてやることにしたってぇのか!? ……あいつは、俺の娘一家を街ごと焼いた仇だってぇのによ!!』
激高する親方を前に、ハンスは努めて冷静に答えた。
『待って下さい。親方が軍を辞す前のことならば、まだ六番や九番もいたはずです。実行したのが四番とは限らない』
『ハッ、だが実行してないとも限らねぇ。違うか?』
『そ、それは……』
言いよどむハンスに、バルドルは畳み掛ける。
『それによ、人形どもは結局どいつだろうと同じ……ただの殺戮兵器だ。俺はあいつらが命令を拒否するところを見たことがねぇ。実際に手を下したのがどいつだったかなんてのは、問題じゃねぇんだよ』
だがそれを聞いた瞬間、ハンスは声を上げた。
『でも親方はここにいるのが四番だと、すぐに気付いたじゃないか! 人形たちにそれぞれ個性があるってことを、親方は俺なんかよりとっくの昔に分かってたんじゃないのか!? フィアは廃棄も覚悟で軍を脱走した。自分の意思で、変わろうとしてるんだ!』
『……』
苦々しい顔で沈黙するバルドルに、ハンスは深く頭を下げた。
『できるだけ早く手頃な住居を見付けて、フィアとここを出る予定です。どうかもう少しだけ、ここに置いてやってもらえませんか?』
『……駄目だ』
――やはり駄目、だったか。
ある程度予想はしていたことだったが、自分のように親方もすぐには気付かないかもしれないと、ハンスはわずかに期待していたのである。せめて部屋が見付かるまでここにいたいと考えていたのだが、親方にこう言われてしまった以上、その計画はおしまいだ。
――ひとまず目星を付けておいた宿にでも、フィアを泊まらせるしかないか。一人で街に置くのはまだ不安もあるが、仕方がな……
『出て行くことは許さん』
『え?』
だが想定外の言葉が続き、ハンスは驚いて顔を上げた。
『俺の手許に置いて、妙な動きをしないよう監視する』
『……っ、じゃあ!』
『監視役はお前だ、ハンス』
『ありがとうございます!』
『……勘違いするな。四番が軍に戻らねぇよう、近くで見張っておくだけだ。軍の奴らにとっちゃあ、人形の不在は大打撃だろうからな』
『はい!』
『ったく、いい返事しやがって。ただ、ひとつ忠告しとくけどよ……いくら見た目が同じでも、あいつらは人造人間だ。人間じゃねぇ』
そしてバルドルは、ハンスの目をじっと見据えながら、言った。
『……それだけは、忘れるんじゃねぇぞ』