第28話 その心配は漠然と
あの小さな侵入者騒ぎから、数日の後。格納庫の片隅に置かれたテーブルで、ハンスは今日もフィアに押し付けられた夜食のスープを口に運んでいた。
角切りにされた塩蔵のバラ肉からは程よいくらいの塩味と旨味がダシのように溶け出して、スパイスと共に煮込まれた野菜たちを味しみしみに仕上げてくれている。それをいつものように、ハンスは無心に胃の腑に流し込む……はずだったのだが。
スプーンを器にひたしたまま虚ろな目をして固まっているハンスをテーブルの向かい側から見つけて、フィアは彼の肩をそっと揺さぶった。
「……ス、ハンスってば!」
「あ、ああ、すまん! ちょっとぼんやりしてた……」
はっとして顔を上げたハンスの目元を、真顔のフィアがずいっと覗き込む。
「やっぱり、ここんとこおかしいよ。すっごいクマできてるし!」
その顔の近さに眠気がすっかり吹き飛んで、ハンスは慌てて避けるように身を反らした。
「そ、そうか?」
「うん。ねえ、最近全然寝られてないんでしょ!」
「いや、そんなことはないぞ。毎日三時間以上はちゃんと布団で寝るようにしてる」
「そんなの寝てるうちに入らないよ! ほんとに、大丈夫……?」
そうテーブル越しに乗り出しながら言って、フィアは心配そうに顔を歪めた。
オットー含む三体のキメラ兵をなんとか撃破した解放戦線だったが、当然、それで敵が打ち止めになるはずもなく……。哀れにも新たに作り出されたキメラ兵たちが、続々と戦線に投入されていたのである。
だが時間と共に強化されるのは、敵方だけではない。解放戦線側でも新たなパイロットたちが次々とエース級に育ちつつあって、カスパルとフィアに頼りがちな戦術から、脱却できつつあったのである。
しかしその急増した準エース級パイロットたちにとって、いくらハンスが調整を加えたとはいえ、汎用機パイロットの席では役不足だった。必然として彼らが存分に力を振るえる真の専用機の需要が高まり、ハンスの作業量が激増していたのである。
「ああすまん、心配かけたな。整備で不具合だけは出さないように十分気を付けてるから、安心しろよ」
ハンスは少しだけ迷ってから、だがパイロットを安心させるのは重要だと自分に言い訳しつつ、彼女の頭をポンポンと軽くたたいた。だが彼女の顔から憂いを完全に拭い去ることは、出来なかったようである。
「心配してるのは……整備不良なんかじゃ、ないのに……」
*****
「ただいまー!」
数日後。作戦を終えて帰還したフィアは、巨人兵から伸びるタラップを軽快に駆け降りて、最後の段をぴょんっと飛び降りた。そうしてキョロキョロと何かを探すように、せわしなく辺りを見回すと。点検のために近付いてきたハンスを見つけて、得意げな顔をして手を振った。
「今日も損傷なしでっす! すごい? ねえ、すごい?」
「ああ、すごいな」
「えへへー、ほめられた!」
今日もほぼ無傷、かつ内部も低負荷な状態で戦場を切り抜けたフィア機を見て……ハンスは表向きの表情を崩さぬまま、内心で眉をひそめた。もちろん戦果が落ちているというわけでもないし、これがフィアが危険な状況に陥らなかった結果ということならばハンスにも大歓迎なことである。
……だが。
『あのね、これって貴方に言ってもいいものか、かなり迷ったんだけど……。ここのところの彼女はね、どうやら機体の損耗をなるだけ避けるように戦っているようなの。そう聞くと当然のことのように思うだろうけど、不自然なまでにやるものだから、逆に危ない場面が多くなっているのが気になっちゃって。ちょっとだけ、気にかけておいてあげて?』
このところ忙しいハンスが戦場に同行することは、滅多にない。だからその情報がもたらされたのは、作戦中の味方の状況把握が仕事である通信師のレッテからだった。
――気にかけろ、と言われてもな。だからって俺にどうしろって言うんだよ……。
ハンスは困惑したが、操縦師のメンタル管理は機体の性能を最大限に引き出す上でも重要なことである。
――よくよく考えてみると、フィアが損傷を避けようとするのは……俺の作業工数を、出来るだけ減らそうとしてるからじゃないか?
考え続けた結果ようやくそこに思い当たって、ハンスはこっそりとため息をついた。
――だがそれでフィア自身が危険な目にあってるんじゃ、意味ないんだよな……。
「なあ、フィア」
「ん?」
ハンスは機体の点検を続けながら、すぐそばでしゃがんで作業の様子を眺めていたフィアに、話しかけた。
「……ここんとこ、無理してないか?」
「え? そんなことないよ!」
「以前に比べて、機体の損耗がなさすぎだ。あんま抑えた戦い方してると、逆に危ないぞ」
だが低く忠告するハンスに対して、フィアはもっともな抗議の声を上げる。
「ええー、フィアの戦い方がすっごく上手なだけだし! その証拠に、ちゃんと戦果は上げてるよ?」
「そうか、そうだな……。あんま無理、すんじゃねえぞ」
「わかった!」
どう聞いても何も分かってなさそうな軽さの「わかった!」に、ハンスは内心ため息をついた。自分にこれ以上に上手な説得方法が思い浮かぶなんて、とうてい思えなかったからである。
そうして何も状況を変えられないまま……いつしか今年の残暑は終わりを迎えたのだった。