第19話 その忠告に黙然と(2)
とりとめのないフィアの話を適度に聞き流しながら、ハンスは薄暗い遺跡の通路を慎重に歩いていった。ようやく到着した母屋の洗い場に鍋を置くと、次はフィアを部屋まで連れてゆく。
そうして彼女の部屋のドアを開けると、ハンスは中を指し示して、言った。
「ほら、入れ。じゃ、おやすみ」
「うん、おやすみー」
素直に中へと入ったフィアだったのだが。次の瞬間身をひるがえすと、ドアを閉めようとしているハンスの手を制す。
「こら、いいかげんに……」
出かけたハンスの言葉をさえぎる勢いで、フィアは言った。
「レッテに変なことしちゃダメだからね!」
「は、はあ!? 変なことって……おま、どこで習って来た!」
「べつにもともと知ってたし!」
「いいから、もう寝ろ!!」
ハンスは何とかフィアを部屋に押し込んでドアを閉めると、深くため息をついた。
――つ、疲れた。これだから女……いや、子供は面倒なんだ!
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ようやく工作室に戻ると、一人で作業を続けていたレッテが待っていたかのように口を開いた。
「ちょっと、こんなにたくさんあるなんて聞いてないんだけど!」
――いや、数量は初めに伝えておいたはずなんだが。
そう内心ハンスは思ったが、黙っておくことにした。このタイプの女にヘタに反論したところで、どうせ三倍になって返ってくるだけである。
「そもそも私、感応系が専門の術師なんだけど。専門外のルーンを刻むのって、とっても疲れるんだから!」
「他に頼める人いなかったもんで、すいません」
「仕方ないわね……でも、追加で報酬もらわなきゃ割に合わないわ」
レッテは急に不敵な笑みを浮かべると、ハンスに流し目を送る。
「お手柔らかに頼みたいんですが……」
冷や汗をかくハンスに、レッテは一転して、ころころと笑ってみせた。
「ダーメ、この借りは高くつくわよ。じゃあ、今から敬語厳禁ね!」
「は? そんなことが?」
「そうそう、その調子よ!」
満足そうに笑いながらうなずくレッテに、ハンスは困惑した。たまに本気で、女という生き物は別の次元で生きているのかと思う。敬えというならともかく、なぜタメ口が報酬になるのか。ハンスには、本当に理解不能だった。
*****
「ようやく終わったわー! じゃ、明日は約束通り午前は休みをもらうから」
レッテはその豊かな胸をそらしてぐっと大きく伸びをすると、ハンスの方を見た。だが背を向けて作業に集中しているらしいハンスは、無言のままである。
「ねぇハンス、聞いてる? ……ハーンス?」
背を丸めて一心に作業するハンスの背後へ、レッテはスタスタ近づくと。不意にその背骨を、つうっとまっすぐに指で辿った。
「ぬあっ!?」
ゾクリとした感触が背中を駆け抜けて、ハンスは思わず身をよじる。
「なっ、急に何すんだ! 手もとが狂うだろ!?」
「だってハンス、終わったわよって何度も声かけてるのに、ちっとも反応ないんだもの」
「それは……悪かった。協力してくれて助かったよ。でももう少し、声かけるにもやり方ってもんがあるだろ……」
苦々しい顔をするハンスに、レッテはさも面白そうに笑って言った。
「フフ、ごめんね。でもあなた、駆け落ちなんて大胆なことやらかした割には、なにかと反応が初心よねぇ」
「いや、それは……」
「フィアがあの『人形』だったとは驚いたけれど……軍を脱走した人造人間と愛の逃避行なんて、まるで恋愛小説みたいで素敵じゃない! 見直したわよ!!」
どういう基準なのか本気で絶賛しているらしいレッテに、だがハンスは否定するように頭を振った。
「いや、違う。駆け落ちってのはおかみさんの誤解から始まったただの方便だ。本当は、俺たちはそんな関係じゃない」
「じゃあどんな関係?」
「どんなも何も、たまたま軍で四番機の整備担当技師が俺だっただけの関係だ。そして軍をクビになった俺がまずここに来て、後から軍が嫌んなって飛び出したあいつが、他に知り合いもいねぇからって転がり込んできた。ただ、それだけの話だ」
つとめて事もなげに言うハンスに、だがレッテは疑いの目を向ける。
「……そうかしら? 彼女、完全にあなたに惚れてるわ。軍が嫌になったのは、あなたがいなくなったから。軍を飛び出したのは、あなたを追いかけたから……違う?」
「ああ、違う。あいつは……身体だけは大人だが、中身はまだ十やそこらの子供みたいなものだ。ただちょっとだけ、他にあてがなかったから、保護者代わりに俺を頼って来ただけだ。そういう男女のアレじゃない」
重ねて否定するハンスに、レッテはため息をついた。
「分かってないわね。男はいくつになっても子どもだと言うけれど、女はいくつであっても女なのよ。彼女があなたを見る目……あれは『女』のものだわ」
「やめてくれ……フィアは、そんなんじゃない」
「フフッ、ボクの純粋なフィアちゃんは、そんな汚い大人の女どもとは違うんですとでも言いたいの? もし本当に、心から彼女のことを子どもなのだと思っているのなら……あんな態度になるかしら?」
黙り込むハンスを前に、彼女は言葉を続けた。
「あなたは彼女の未熟さを言い訳に、結局は自分が傷つくことを恐れているだけじゃない。受け入れるにしても、拒むにしても……彼女のためにも、一度ちゃんと向き合いなさい。子どもなのは、あなたの方よ」
「……」
それでも黙然としたまま顔を反らすハンスを見て、レッテはため息をつく。
「ほんと、不器用な男」
彼女は諦めたように頭を左右にひと振りすると、工作室から出て行った。